オリヴァー・ツウィスト 42023年06月23日

四、葬儀屋

 名家では、その家の若者が財産があるとか、財産が相続できたとか、若しくは、将来財産相続ができるとかいふやうな利益な位置が得られない場合には、その者を航海へ出してしまふのが、極く有りがちの習慣である。救貧院の役員会は、この賢い都合のいゝ実例に則(のつと)つて、オリヴァー・ツウィストをば、成るべく不健康な港通(みなとがよ)ひの商船へ乗せてしまつたらよからうと相談した。さうすれば、船員などといふものは、随分乱暴な慰みをするさうだから、船長が或る日食事の後で、冗談半分に小童(こども)を杖で殴り殺すとか、鉄の棒で頭を打ち砕いてしまふとかいふやうなこともあるに違ひない。さういふことにでもなれば、至極結構だといふのであつた。考へれば考へる程、役員会の考へでは、さういふ方法の利益は限りもないやうに見えた。そこで、オリヴァーの処分は猶予なく海へ出してしまふに限るといふことになつた。
 そこで、バンブル氏が、孤児の船室ボーイを傭つたといふ船長か何かを見つけるための問ひ合せをしにとやられて、その結果を報告するために、救貧院へと帰つて来たところで、丁度門口(もんぐち)で出会つたのは、誰あらう教区葬式の請負(うけおひ)の葬儀屋サワアベリイ氏であつた。
 サワアベリイ氏は、背の高い痩せた骨節(ほねぶし)の大きい男で、糸めの出てゐるやうな古い黒い服を着、同じ色の木綿の手編みの靴下で、それに釣り合つた靴を履いてゐた。顔付きは、笑ひ顔を見せるやうには産みつけられてはゐなかつたが、それでも。職業柄、よく陽気な笑ひ声を立てる男であつた。職業柄バンブル氏の方へと歩み寄つて来たサワアベリイ氏の足は、如何にも軽々と上り、顔には何か陽気な心持があることが現はれてゐて、軈(やが)てバンブル氏に親し気(げ)に握手した。
「昨宵(ゆふべ)死んだ二人の女の寸法を計つて来ましたよ、バンブルさん」
「君は今に長者になるぢやらう、サワアベリイさん」
 教区吏はさう言つて、葬儀屋が差し出した嗅煙草(かぎたばこ)箱へ、親指と人指し指とを突つ込んだ。その嗅煙草箱は、専売特許の棺の巧みな小さい模型になつてゐた。
「確かに君は百万長者になる」
 バンブル氏は又さう言つて、杖で以つて親しさうに葬儀屋の肩を軽く叩いた。
「さうですかなア?」
 葬儀屋はさういふことになるかどうか、半(なか)ば承認し半ば疑つてゐるやうな声付きで言つて、
「何しろ、役員会でお定(き)めの代価は余(あんま)り安いですからなア、バンブルさん」
「その代り棺桶も小さいからな」
 教区吏はさう答へて、偉い役人が笑ふべき丁度さういふ声にできるだけ近い声で笑つた。
 サワアベリイ氏にもこれはくすぐつたかつた。それは、道理(もつとも)であつた。で、彼は少時(しばらく)は止めどなく笑つた。
「いや、そりやア、バンブルさん」
と、軈て言つて、
「食事の新規則が出てからてえもなア棺が前(まへ)かたよりやア幾らか狭く浅くなつたけれどもね、さればと言つて、わしどもの方ぢやア幾らか儲けも見ねえぢやアゐられねえ訳さね、バンブルさん。よく乾いた材木が、なかなか安くねえですよ、旦那。それに、鉄の把手(とつて)なんざア、みんな運河(ほりわり)で、バアミンガムから来るんですからなア」
「うん、うん、どんな商売でも引け目はあるものぢや。正当の儲けは勿論許さるべきぢや」
「勿論さね、そりや勿論さね。若しこの品(しな)か彼(あ)の品かで儲けねえとしても、何、そりやア、長い間にやア何(ど)つかで埋め合せをするてえものだね、ねえ――ヒヽヽヽヽ」
「その通り」
「だがねえ、バンブルさん。わしの方ぢやア又一つ不利益なことがあるですよ、何しろ、肥つた奴(やつ)程早く参つてしまふですからなア。これまでいゝ暮らしをしてえて、何年も税(救貧費)を払つてゐた連中程、院へ来るてえと、真つ先に参つちまふんでさア、それでね、バンブルさん、寸法が三吋(インチ)なり四吋(インチ)なり伸びるてえと、儲けにやア大穴が開(あ)くてえものだね。それに、わしなんざア、旦那、家の奴等を食はせなけりやアならねえと来てゐるんですからなア」
 バンブル氏は、そこで、その時一番心に懸(かゝ)つてゐた問題を持ち出した。
「時に、あんたは誰か、小僧が欲しいといふ人を知らんかね。院では持ち扱つてゐる形の年季に出したい男童(こども)ぢやがね。条件は至極よろしい、サワアベリイさん。条件は至極よろしい」
 バンブル氏はさう言ひながら、頭の上の掲示板へと杖を上げて、大きな形のローマ字の華文字(はなもじ)で刷つてある「五磅(ポンド)」の二字の上を三度叩いた。
「いや成程、だが、ねえ、バンブルさん。わしは救貧費も大分出したですよ」
「ふうん、それで?」
「そこでね、まア、それ位は出したんですから、又出来るだけの利益を得る権利があると思ふんでさア、で、それでね、わしがその男童(こども)を引き受けませうかね」
 バンブル氏は葬儀屋の腕を掴んで院内へと伴(つ)れ込んだ。サワアベリイ氏は、役員室へ入つて五分間ゐたきりだが、それで話が定(きま)つてしまつた。
 小さいオリヴァーが、その晩役員室へ呼び出されて、その晩から棺桶屋の雑用小僧に行くのであつて、その仕事が嫌だといふとか、又救貧院へ帰つて来るとかするならば、今度は船に乗せて海へ出されて、海へ落ちて死ぬるか、頭を砕かれて死ぬるとかいふやうなことになるんだぞと、言ひ聞かされた時に、オリヴァーは別に悲しいとか、怖いとかいふやうな感情を現はさなかつた。で、役員たちは一同同じ考へで、オリヴァーはよくよく心の頑なゝ腹黒い小童(こども)だと定(き)めてしまつて、直ぐに院を伴(つ)れて出てしまふやうにと、バンブル氏に命じた。
 何故、オリヴァーが、さう無感情でゐたのかといへば、それはオリヴァーが、感情の少い小童ではなくつて、感情のあり余る程ある小童であつたがためであつた。かういふ小童は、烈しい虐待を受けるといふと、生涯野鄙(やひ)に魯鈍で、何時も渋(しぶ)つ面(つら)をして居(を)るやうな人間にされてしまふものなのだが、オリヴァーも余程さういふ所が出来てゐたのであつた。オリヴァーは全く黙つて自分の行き先の話を聞いた。そして、荷物といつては、五六寸四角で、三四寸の厚みの鳶色紙(とびいろがみ)の包みにすることのできる程度のものであつたので、持ち運ぶのには何でもないのであつたが、さういふ荷物を提げさせられて、帽子を眼深(まぶか)に冠(かぶ)り、又再びバンブル氏の上衣(うはぎ)の袖口(カフ)に取り縋(すが)つて、その役員によつて苦しみの新たな場所へと伴(つ)れて行かれた。
 少時(しばらく)は、バンブル氏は何にも言はずにオリヴァーを引つ張つて行つた。バンブル氏は、教区吏がすべき通りに頭(つむり)を極く真つ直ぐにして歩いてゐたのだから、オリヴァーに話しかけることはできなかつたのだ。風の強い日であつたので、バンブル氏の上着(うはぎ)の裾は吹き上げられ、はためく直衣(チヨツキ)や、薄鳶色(うすとびいろ)の絹綿天鵞絨(フラシテン)の半袴(はんズボン)の立派さを見事露出させたのであつたが、小さいオリヴァーは、吹き上げられるバンブル氏の上衣(うはぎ)の裾に、すつかり包まれるのであつた。だが、行き先が近くなるといふと、バンブル氏は、オリヴァーが新たな親方に見られる時に、何も彼(か)もちやんとしてゐるかどうかを、見て置くのが、宜しいと思つたので、オリヴァーを見下ろして、如何にも親切に世話するらしい風で、
「オリヴァーや」
「へえ」
 オリヴァーは低い顫(ふる)へ声(ごゑ)で返辞した。
「帽子を上へあげて、顔を出して、頭(あたま)を真つ直ぐにしなさい」
 オリヴァーは言はれた通りにし、空(あ)いてゐる方の手の背で眼をこすつたが、バンブル氏を見上げた時に、未(ま)だ涙が一滴(いつてき)眼に残つてゐた。バンブル氏が難しい顔で凝視(みつ)めたので、その涙がオリヴァーの頬を流れ落ちた。後(あと)一粒(ひとつぶ)又一粒と続いた。オリヴァーは涙を止めようと非常な努力をしたが、駄目であつた。バンブル氏の手から、もう一つの手を離して、両手で顔を隠して泣いたが、涙はドンドン流れて、痩せた骨張つた指の間を抜けて落ちた。
「これ」
 バンブル氏はパツタリ足を止めて、如何にも意地の悪い顔付きで見下ろした。
「これ。恩知らずの腹黒い小童(こども)も随分あつたが、オリヴァー、貴様は……」
「いゝえ、いゝえ、あなた」
 何時もの恐ろしい杖を持つてゐるバンブル氏の手に縋(すが)りついて、オリヴァーは啜り泣いて、
「いゝえ、いゝえ、あなた、あたしはよく言ふことを聞きます。ほんたうに、ほんたうにあたしは聞きます。あたしはホンの小さい幼童(こども)です、あなた。ほんたうに――ほんたうに……」
「ほんたうになんぢやといふのぢや?」
 バンブル氏はひどく驚いて尋ねた。
「ほんたうに、ほんたうに淋しいんです。ほんたうに淋しくつて堪らないんです。誰もがあたしを憎みます。おゝ、あなた、何(ど)うぞ、何(ど)うぞ怒(おこ)らないでください」
 オリヴァーは手で胸を打つて、真(しん)の苦痛の涙に濡れた顔で同伴(つれ)の顔を見上げた。
 バンブル氏はホンの寸時(しばらく)の間少し驚いた風で、オリヴァーの愍然(みじめ)な途方に暮れた顔付きを眺め、皺嗄(しわが)れた声で二三度フンフン言ひ、「五月蠅(うるさ)い咳」だといふやうなことを呟いてから、オリヴァーに、涙を拭いて温順(おとな)しくしろと吩咐(いひつ)けた。それからもう一度オリヴァーの手を捉(つかま)へて、黙つて歩き出した。
 葬儀屋は丁度店の窓扉(シヤタア)を閉めた所で、葬儀屋には如何にも似つかはしいうす暗い蝋燭の灯(ひ)で、帳面へ何か記入をしてゐたが、その時バンブル氏が入つて行つた。
「あ、あゝ」
 葬儀屋はさう言つて、帳面から顔を上げて、言葉の真ん中で止まつて、
「あなたですか、バンブルさん」
「誰でもない、わしぢや、サワアベリイさん」
 教区吏はさう答へて、
「さア。小童を伴(つ)れて来ましたぢや」
 オリヴァーはお辞儀をした。
「あゝ。小童はそれですかい、えゝ?」
 葬儀屋はオリヴァーをよく見ようと、頭の上へ蝋燭を上げた。
「ミセス・サワアベリイ、何(ど)うか一寸此処へ来てくれないかね、ねえお前」
 ミセス・サワアベリイが、店の裏の小さい部屋から出て来て、背の低い痩せた押し固めたやうな女の姿を現はした。如何にも亭主を尻に敷きさうな勝気な顔付きの女である。
「ねえ、お前」
 サワアベリイ氏は如何にも丁寧にさう言つて、
「これがお前に話した救貧院の小童なんだがね」
 オリヴァーは又お辞儀をした。
「まア――」
 葬儀屋の女房はさう言つて、
「余(あんま)り小さいぢやないの」
「いや、少し小さいですよ」
 バンブル氏は、オリヴァーがそれより大きくないのが、オリヴァー自身の咎(とが)でありでもするかのやうに、オリヴァーを見ながら、答へて、
「何(ど)うも小さいですわい。それはさうに相違はござらん。ぢやが、直きに大きくなりますわい、ミセス・サワアベリイ、直きに大きくなりますわい」
「そりやアさうでせうよ、あたしどもの食べ物と飲み物とではね」
 女房は怫然(むつ)とした風で言つて、
「救貧院の児童(こども)つてものは、世話ばかしやけて、その割に、何の役にも立たないんだから、とくぢやアないものなのよ。だが、男ツてものは、何時も自分たちの考へばかしいゝんだと思つてるんだから、しかたがないわ。さア、お前、骨皮小僧(ほねかはこぞう)さんや、階下(した)へ下りておいでよ」
 さう言つて、葬儀屋の女房は側戸(わきど)を開けて、オリヴァーをば後(うしろ)から押しやるやうにして、険しい階段を下つて、湿つた暗い穴蔵へと伴(つ)れて行つた。それは、石炭庫(せきたんぐら)への前の部屋で、その家では「台所」と称(とな)へられてゐたが、其所(そこ)には、ひどく破けた毛糸の靴下に、踵(かゝと)の減りきつた靴を履(は)いた服装(なり)のだらしのない娘が坐つてゐた。
「これ、チャーロット」
 オリヴァーの後(あと)から蹤(つ)いて来たミセス・サワアベリイは言つて、
「ツリップに取つてあつた細片(こまぎれ)をこの児にやつておくれ。あれは今朝から帰つて来ないから、やらないでもいゝんだから。この児はあれを食はない程贅沢ぢやアないだらうね――ねえ、お前?」
 オリヴァーは肉と聞いて眼を光らせ、それを食ひたい念(おもひ)に一生懸命になつて、身慄(みぶる)ひしながら、自分は何でも食ふと返事をしたので、一皿(ひとさら)の硬い片々(きれぎれ)の肉が彼の前へ置かれた。
 肉にも酒にも飽き、血が氷の如く、心が鉄の如くなつてゐる美食の哲学者に、犬さへ見向かないやうな細片(こまぎれ)に囓(かぶ)り附いたオリヴァー・ツウィストの様子を見せてやりたいと思ふ。オリヴァー・ツウィストが飢(う)ゑきつた猛烈な勢ひでその細片を食ひ裂いた慄然(ぞつ)とする程のガツガツした様子を、さういふ人に眼(ま)のあたり見せてやりたいと思ふ。尚(なほ)それよりもやりたいと思ふことがたつた一つある。それは、その哲学者をして、その時のオリヴァーと同じやうな食事をさせ、それを旨く味(あぢは)ふことができるか何(ど)うか見てやりたいと思ふのだ。
 黙つて慄然(ぞつ)とした風で、オリヴァーの食事の様子を見て、それからあとあとのオリヴァーの食慾の程度を思ひやりながら立つてゐた葬儀屋の女房は、オリヴァーが夜食を了(をは)つてしまふと、
「さア、もういゝの?」
 もうそこらに食へるものは何も無かつたので、オリヴァーは、然(さ)うだと答へた。
「ぢやア、此方(こつち)へおいで」
 ミセス・サワアベリイはさう言つて、薄暗いランプを取り上げ、階上(うへ)へと案内しながら、
「お前の寝床は帳場台(ちやうばだい)の下なんだよ。お前、棺と一緒に寝たつて構はないだらう、ねえお前? でもお前が嫌だらうが、何(ど)うだらうが仕方がない、他にお前の寝る所(とこ)と言つてないんだから。さア、早くおいで、あたしは一(ひ)と晩ぢゆう待つてゝ上げる訳にやアいかないからね」
 オリヴァーはもう少しも躊(ためら)はずに温順(おとな)しく、この新たな主婦(かみさん)に随(つ)いて行つた。