『吾輩は猫である』より2023年06月28日

『吾輩は猫である 一』より(再掲)。

(略)「いや時々冗談を言ふと人が真に受けるので大(おほい)に滑稽的美感を挑撥するのは面白い。先達(せんだつ)てある学生にニコラス、ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言つたら、其学生が又馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であつた。所が其時の傍聴者は約百名許(ばか)りであつたが、皆熱心にそれを傾聴して居(を)つた。夫(それ)からまだ面白い話がある。先達て或る文学者の居(ゐ)る席でハリソンの歴史小説セオファーノの話しが出たから僕はあれは歴史小説の中(うち)で白眉である。ことに女主人公か死ぬ所は鬼気人を襲ふ様だと評したら、僕の向ふに坐つて居(ゐ)る知らんと云つた事のない先生が、さうさうあすこは実に名文だといつた。それで僕は此男も矢張僕同様此小説を読んで居(を)らないといふ事を知つた」(略)

・註。無論、迷亭の台詞。

『同 二』より。

(略)気の毒ながらうちの主人抔(など)は到底之を反駁する程の頭脳も学問もないのである。然し自分が胃病で苦しんで居(ゐ)る際だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保たうと思つた者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だつたぜ」と恰(あたか)もカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云つた様な、見当違ひの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だつて、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極(き)め付けたので主人は黙然(もくねん)として居た。(略)

オリヴァー・ツウィスト 52023年06月28日

五、貧民窟

 葬儀屋の仕事場に一人取り残されたオリヴァーは、仕事台にランプを置いて、如何にも怖くつて堪らぬ心持で、四辺(あたり)を怖(お)づ怖づと見廻した。彼よりずつと年上のものでも、オリヴァーのさういふ心持を理解するのは難(かた)くなからう。部屋の真ん中に拵(こしら)へかけの棺が、棺台に載つて居(を)つたが、眼がその方へ向く度(たん)びに、何かその中から怖いものが、頭を持ち上げさうに思はれて怖かつた。壁には同じ形に切つた楡(にれ)の板がずつと並んで立て掛けてあつたが、それが又薄暗い中で見ると、手を半袴(はんズボン)に突つ込んで、肩を高くして蹲(しやが)んでゐる化物のやうに見えた。棺板[註:coffin-plate]や、楡の木片(きゞれ)や、頭の光つた釘や、黒い布の切れつ端(ぱし)が床に散らばつてゐた。帳場台の後の壁には、葬儀供人(さうぎともびと)が二人極(ご)く硬い襟を附けて、大きい側門(わきもん)の所に立つてゐると、遠くの方から四匹の黒馬に輓(ひ)かれた柩車(きうしや)やつて来る絵が、如何にも真物(ほんもの)のやうに描いてあつた。仕事場は、空気が籠つて暑く、棺桶の臭ひが籠つてゐた。オリヴァーが寝る毛屑(けくづ)入りの敷物の突つこんである帳場台の裏の隅は、まるで墓のやうな気がした。
 オリヴァーの気を滅入らしたのは、そんな凄い心持ばかりではなかつた。彼は一人で初めての馴れない場所にゐた。誰でもさういふ時には、如何にも淋しく思ふものである。しかも、この児は、自分のことを思つてくれる友もなければ、自分のはうから思つてやる友もない全く孤独の身であつた。親しい人に別れたといふ懐(なつか)しい心持もなく、愛する忘れられない人の顔が思ひ出されるといふのでもない。さういふ淋しい心持が彼の心に強く応えた。彼は如何にも淋しく心細かつた。で、狭い寝床に這ひ込みながら、彼はそれが棺桶であつて、自分がその中に入つて、丈の高い草が自分の頭の上でサラサラと戦(そよ)いでゐる寺の墓地の地面の下で、古い、深い音のする鐘の音で心持をよくされながら、静かないつまでもの眠りに入つてしまふのであつたら、さぞかしよからうと思つたのだ。
 オリヴァーは、朝になると、店の戸を外から蹴る音で眼が覚めた。
「開けろ、やい」
 戸を蹴つてゐる足の持ち主の声が怒鳴つた。
「へい、只今あけます」
 オリヴァーはさう答へて鎖を外し、鍵を廻した。
「手めえが今度の小僧だな、さうだらう?」
 鍵穴からその声が言つた。
「へえ、さうです」
「手めえ幾つだ」
「十歳(とを)です」
「ぢやア俺がへえつたらどやしつけてやるぞ」
 その声は言つて、
「どやさねえで置くもんけえ。覚えてろ、貧院小僧め」
 さういふ乱暴な言葉には馴れきつてゐたオリヴァーは、その声の持ち主は誰であつたにしろ、屹度(きつと)まことに正直にその言葉を実行するといふことに就いては、少しの疑ひも持たなかつたので、慄(ふる)へる手で閂(かんぬき)を抜いて、戸を開けた。
 オリヴァーは、鍵穴から声を掛けたその誰だか分らぬ男は、二三歩離れて日向(ひなた)で身体を暖めてゐるんだらうと思つたので、街路(まち)を上から下へと見廻した。が、そこには只家の正面の柱の上に登つて、パンの片(きれ)とバターを食つてゐる慈善学校の男の児が、懐中小刀(クラスプナイフ)で自分の口の大きさにパンを切つて、如何にも手早く口へ押し込んでゐるのがゐるばかりであつた。
 その男の児の他には誰も客が見えないので、軈(やが)てオリヴァーは言つた。
「失礼ですが、あなた、戸をお叩きでしたか」
「蹴つたよ」
 さう慈善学校出(で)の少年が答へた。
「棺がおいりなんですか」
 オリヴァーは何の気なしにさう尋ねた。
 それを聞くと、慈善学校出の少年は恐ろしく怒(おこ)つた。そんな風に年長者(めうへ)に向つてふざけたことを言ふやうなら、オリヴァー自身が直きに棺がいるやうになるぞと言つた。
「手めえは俺が誰だか知らねえだらう、なア、貧院小僧?」
 慈善学校出の少年は、如何にも勿体ぶつた風で、柱の頂辺(てつぺん)から降りて来て、さう言つた。
「えゝ、さうです」
「俺はミスタア・ノア・クレイポールといふんだ。手めえは俺の下に使はれるんだぞ。さア窓扉(シヤタア)を下ろせ、怠けものゝ悪党小僧め」
 さう言つてクレイポールはオリヴァーを一つ蹴飛ばし、如何にも威張つた風で仕事場へ入つて来た。
 窓扉(シヤタア)を取り下ろすのは、オリヴァーの小腕(こうで)には少し無理で、よろけて窓硝子(まどガラス)を一枚破つたが、それでも、流石にノアが手伝つてくれたので、どうにかその仕事を了(をは)り、その少年に蹤(つ)いて階下(した)へと朝飯(あさめし)を食ひに下りて行つた。
「さア、火の傍へお出(い)でよ、ノア」
 さうチャーロットは言つて、
「旦那の朝飯の中から、お前に豚肉のいゝ片(きれ)を取つて置いたよ、オリヴァー、お前ミスタア・ノアの後の戸を閉めておあげなさい。パンの鍋蓋へ入れて置いた細片(こまぎれ)をお前はお食べ。そこにお茶がある、あの箱の所へ持つて行つてお飲み、だが、急がなきやアいけないよ。お店に用があるんだからね、おい、分つたかい」
「これ、分つたか、貧院小僧」
 これは、ノア・クレイポールが言つた。
 ノアは、救貧院の孤児ではなく、慈善学校出の少年であつた。母親は洗濯女で、父親は義足の廃兵(はいへい)で、一日二片(ペンス)半位の恩給を貰つてゐる酒飲みの男であつて、直き近くに住んでゐた。近辺の店小僧(みせこぞう)たちは、街中(まちなか)で「ごろんぼ」とか「慈善学校」とかいふ綽名(あだな)でノアにからかうのであつたが、ノアは何にも言はずにそれを堪(こら)へてゐた。ところが、今運命の神が、名もない孤児のオリヴァーを、彼の所へと転(ころ)げ込ましてくれたので、彼のやうな賤しいものでさへ、指を指(さ)して嘲弄することができる者があることになつたので、彼は他人(ひと)から受けた嘲弄に、利息を附けて、それをオリヴァーの方へと向けたのであつた。これがなかなか面白い所である。これが、人間の天性は、どれ程美しいものにすることができるかといふことを、吾々に示す実例である。人に威張りたいといふ心持は、最も立派な貴人(きじん)にも、最も汚(きたな)い慈善学校出の少年にも、不公平なく発達してゐるのだ。
 オリヴァーは、葬儀屋の店に、三四週間か、一月(ひとつき)程ゐたが、或る晩、サワアベリイ夫婦が、店を閉めてから、店裏(みせうら)の小さい座敷で、夜食を食ひながら相談を始めた。亭主の考へでは、オリヴァーは、上品な、憂鬱な顔なので、葬儀供人(そうぎともびと)に出したらよからう、勿論大人の葬式の場合でなく、幼童(こども)の葬式の場合に持つて行けば、丁度死んだ小童(こども)との釣り合ひがよくつて、新規な方法として歓迎されるに違ひないといふのであつた。で、女房の方でもそれに賛成したので、オリヴァーにその職を仕込むことになり、先づ最初は、オリヴァーを使へる直ぐ次の機会が来たら、主人がその葬式へ伴(つ)れて行くといふことになつた。
 ところが、その機会が来たのは直(ぢ)きであつた。翌朝、朝飯(あさめし)の半時間後ぐらゐに、バンブル氏が店へ入つて来て、帳場台に杖を立て掛け、大きい柔皮(かは)の紙入(かみいれ)を出し、その中から紙片(しへん)を選(よ)り出して、サワアベリイに渡した。
 葬儀屋は、勢ひのいゝ顔になつて、その紙を一寸見て、
「あはア、棺の御註文ですな、えゝ?」
「先づ棺、それから区費の葬式ぢや」
 バンブル氏はさう言つて、自分と同様にひどく太つてゐる柔皮(かは)の紙入の帯を締めた。葬儀屋は、紙の片(きれ)からバンブル氏へと眼をやつて、
「へえゝ? ベートン? 聞いたことのない名だね」
「実に片意地(かたいぢ)な奴等ぢや、サワアベリイ、実に片意地ぢや。しかも、傲慢、ま、さういふてよいぢやらう」
 さうバンブル氏は、頭(つむり)を振つて言つて、
「吾々は昨宵(ゆふべ)聞いたばかりぢやよ、何(ど)ういふ奴等か一向に知らんぢやつたが、同じ家に暮らして居(を)る女が、余程病気が悪い女があるから、今晩、教区医をよこしてくれと役員会へ願ひ出たのぢや。教区医は食事に出て居(を)つたでな、弟子の男が(極(ご)く賢い若者ぢやがね)取り敢へず、靴墨壜(くつずみびん)へ薬を入れて持たせてやつたですわい」
「いや、何(ど)うも手早いことで」
 葬儀屋が言つた。
「いや、手早いともな。ぢやが、それで何(ど)うぢやといふとな、その謀叛人(はつつけ)共の恩知らずの行(おこな)ひといふのを聞いてくれさつしやい。何(ど)うぢや、亭主の奴めから、その薬は嬶(かゝあ)の病気には合はんから嬶は飲まんといふてよこした――嬶めが飲まんからといひ居(を)るのぢやよ。薬はな、たつた一週間前に、愛蘭(アイルランド)出の職人二人と、石炭運搬人(せきたんなかし)へやつて、えらいよく効いた、よい、強い確かな薬なんぢや――それをば無償(ただ)で壜へまで入れてやつたんぢや――それをば、嬶が飲まんと言ふと宿六(やどろく)め言ふて来をつたですわい」
「いやどうも、何ともはや、そりやア実に……」
「いや全く未聞(みもん)ぢや。いゝや、そんな奴は誰も無い。ところで、女め死に居(を)つた。吾々は埋めてやらにやアならん、それが命令ぢや。早くやつてしまふだけよろしい」
 さういふ風に、バンブル氏は憤激しきつて、船底帽(ふなぞこぼう)を最初はあべこべに冠(かぶ)りなどして、店からよたよたと出て行つてしまつた。
「いや、奴(やつこ)さん怒つたね。オリヴァー、おめえの事なんざア忘れて、何も聞かずに行つちまつたぜ」
 街路(まち)を大股に歩いて行く教区吏を見送りながら、葬儀屋が言つた。
「へえ、さうです」
と、オリヴァーは答へた。オリヴァーは、バンブル氏が来てからは、用心して、バンブル氏の眼にかゝらぬやうに引つ込んでゐて、バンブル氏の声を憶(おも)ひ出しただけで、頭の頂辺(てつぺん)から足の爪先まで慄(ふる)へてゐたのだ。だが、それはさう骨折つてバンブル氏から隠れるには及ばなかつた。今まで持て余しのオリヴァーを、試しに葬儀屋に託してある以上は、葬儀屋の方で、七年間年期に置くことを確かに約束して、教区吏の手へ戻される危険が全くなくなるまでは、バンブル氏の方からは、オリヴァーのことなどは、一切何とも言はずに置かうといふのであつたのだ。
「さア」
 サワアベリイは帽子を取り上げて、
「この仕事は早くやつちまふだけいゝ。ノア、店を気を附けな。オリヴァーおめえは帽子を冠つて一緒においで」
 二人は少時(しばらく)市(まち)の一番多く人の住まつてゐるところを歩いた。それから、今まで通つたよりは、尚一層汚い陰気な狭い街へ入つて行つて、目的の家を捜した。両側の家は高く大きかつたが、極く古くなつてゐて、極く極くの貧民に間借りされてゐた。さういふ家の、世話の行き届かぬ破れかゝつた様子にかてゝ加へて、腕組みをし、身体を二重に曲げて、時々こそこそと通る二三人の男や女の見すぼらしい様子を見ても、其処がひどい貧民窟であることは一目(ひとめ)に明らかであつた。貸間に仕切られてゐる家は大抵階下は店屋建(みせやだて)になつてゐたが、それは戸が閉まつて、腐れかゝつてゐて、階上(うへ)の部屋だけ人が住まつてゐた。古くなつて壊れかゝつて、危(あぶな)くなつた幾つかの家は、路へしつかりと打ち込んだ大きな材木を壁へ支柱(つつかいばう)にして、街へ倒れるのを防いであつた。が、さういふひどい家でも、戸や窓の代りに打ち附けた粗末な板が大抵その場所から剥(は)ぎのけられて、人間の身体が一つ出入(ではい)りすることのできるくらゐの隙間ができてゐるのから見ると、それが家の無い哀れな連中の夜の隠れ家(が)にされるのであつたに違ひなかつた。溝は詰まつて溢れてゐて、垢溜(ごみため)のやうになつてゐて汚なかつた。あちらこちらに、その腐つたものと一緒に腐れて行きつゝあつた鼠は、餓ゑきつて見るも恐ろしい形になつてゐた。
 オリヴァーと主(あるじ)とが止まつた家の開いた戸口には、叩金(たゝきがね)も鈴(かね)の把手(とつて)もなかつた。で、オリヴァーに、怖がらずに後へくつ附いて来いと吩咐(いひつ)けて、暗い通路をそろそろと捜(さぐ)り足で、葬儀屋は最初の階段を上りきつた。で、そこのとある部屋の戸へよろけ掛(かゝ)つて、彼は拳固の尖(さき)でそれを叩いた。
 開けたのは十三四の小娘であつた。葬儀屋は、一目(ひとめ)に部屋の中の物を見て、それが目ざして来た部屋であることを知つた。彼は入つた。オリヴァーもその後へ蹤(つ)いて行つた。
 部屋には火が無かつた。一人の男が、空(から)の煖炉(ストオブ)へおつ被(かぶ)さるやうに茫然(ぼんやり)蹲(しやが)んでゐた。年老(としと)つた女が、その冷たい炉へと低い腰掛台(こしかけだい)を引つ張つて来て、男の側に坐つてゐた。もう一つの隅には、襤褸(ぼろ)を着た幾人かの小童(こども)がゐた。それから、戸に向つた小さい引つ込んだ隅に、古い毛布を掛けた何物かが床に横(よこた)はつてゐた。オリヴァーは、そこへ眼をやると、慄へて、我知らず主(あるじ)の側(そば)へと引つ着いた。それは、さう隠されてゐたけれども、屍骸であることが、オリヴァーに直ぐ分つたからなのだ。
 男の顔は痩せて真つ蒼(さを)で、髪と鬚は白髪交りで、眼は血走つてゐた。老女の顔は、皺だらけで、二本残つてゐるきりの歯が、下脣(したくちびる)から突き出して、眼は鋭く光つてゐた。オリヴァーは老女も男も見るのが怖かつた。二人とも戸外(そと)で見た鼠に似てゐた。
「誰も傍(そば)へ行くこたアならねえぞ」
 葬儀屋が、屍骸のある隅へと寄つて行くと、男は、はつと気が附いて、恐ろしい権幕(けんまく)になつて、
「さがつてろ。畜生、生命が惜しけりやアさがつてろ」
「馬鹿なことを言ひなさんな、おまいさん」
 悲しみのどんな形にもよく馴れてゐた葬儀屋はさう言つて、
「馬鹿なことを言ひなさんな」
「何(ど)うしたつて」
 男は両手を握り固め、烈しく床で地団駄(ぢだんだ)踏んだ。
「何(ど)うしたつて、俺は此女(これ)を地の中へ入れさせねえ。此女(これ)はそこで静かに寝(やす)むことはできねえ。かう痩せてゐるんだから、虫が食はずに、苦しませるだけだらう」
 葬儀屋は男の狂乱の言葉を耳にもかけず、衣嚢(かくし)から紐尺(ひもじやく)を出して、少時(しばらく)の間屍骸の側(そば)に跪(ひざまづ)いた。
「あゝ」
 泣き出して、死んだ女の足の所に跪いた男は、
「跪け、跪け、誰も彼もこの女の側(そば)に跪いて、俺の言葉を聞け、この女は飢ゑ死(じに)をしたんだぞ。俺は熱が来るまで、この女がどれ程疾(はや)かつたのか、ちつとも知らなかつた。さうすると骨が皮から突き出す程痩せて来た。火もねえ、蝋燭もねえんだ、此女(これ)は暗闇で死んだ――暗闇で死んだんだぞ。苦しい息で児童(こども)たちの名を呼ぶ声が聞えたけれども、児童の顔さへ見ることができなかつたんだ。俺は此女のために、街路(まち)で乞食をした。それで奴等は俺を牢へ入れやがつた。俺が出て来た時は、此女はもう助からなくなつてゐた。此女は奴等のために飢ゑ死をさせられたんだから、俺の胸の血はみんな乾いてしまつた。俺はそれを見たことを、神様の前に誓ふんだ。此女は奴等のために飢ゑ死させられたんだぞ」
 男は髪の毛の中で両手を捩(ね)じ合せ、高い叫び声を立てゝ、床を転がり廻つた。眼は据わつて、泡が脣へ一杯出てゐた。
「彼女(あれ)はわたしの娘だつた」
 葬儀屋の方へとよろけ寄つた老女は、屍骸の方へと頭(つむり)を頷(うなづ)かせて、そんな場所で屍骸のあることよりはもつと物凄い、白痴(ばか)のやうな嘲弄の声で、
「あゝ、あゝ。彼女(あれ)を産んだ、その時は若い女だつたわたしが、かうやつて生きて笑つてゐるのに、彼女(あれ)の方があんなに冷たく硬くなつて、あすこに倒れてゐるなんて、ほんとに不思議だ。あゝ、あゝ、何(ど)うしても不思議だ、まるで芝居のやうだ――まるで芝居のやうだ」
 哀れな老女が、物凄い声で呟いたり、笑つたりしてゐる間に、葬儀屋は帰らうと振り向いた。
「待つておくれ、待つておくれ」
 老女は高い囁き声で言つて、
「葬式は明日かね、次の日かね、今夜かね。彼女(あれ)の屍骸を寝かしたのはわたしだよ。だから、わたしはついて行かなきやアならないだらう、ねえ。大きい外套、いゝ暖(あつ)たかい外套をよこしておくれよ。出て行く前に菓子と葡萄酒がなきやアならない。いゝえ、構はないよ、パンを少しおくれ――パン一斤と水一ぱいだけでいゝんだよ。パンが貰へるかしら、おまへさん」
 葬儀屋がもう一度戸口の方へと動かうとすると、葬儀屋の上衣(うはぎ)を捉(つかま)へて、老女はさう一生懸命に言つた。
「宜しい、宜しい。そりやア勿論だ、おまへさんの欲しいつてもなア何でもあげるよ」
 さう言つて、葬儀屋は老女の縋(すが)り附く手を捥(も)ぎ放して、オリヴァーを引つ張つて急いで外へ出た。
 翌日オリヴァーと親方とは、又その哀れな家へ行つたが、棺を舁(か)くために、救貧院から四人の男を伴(つ)れて、バンブル氏がやつて来てゐた。老女と男のボロの上へ、古い黒い外套が着せられた。そして何の飾りもない棺が、蓋を閉められて、棺舁(か)きの肩に載せられて、街路(まち)へと担(かつ)ぎ出された。
 教会区持ちの墓を作るところなので、墓地の極く隅の方で蕁麻(いらくさ)の生えてゐるやうな場所であつたが、人々がそこへ着いた時には、未(ま)だ牧師は来てゐなかつた。で、棺は墓の縁に置かれ、二人の施主は、冷たい雨がしとしとと降り注いでゐる湿つた土の上で凝(ぢ)つと待つてゐると、その葬式を見にと集まつた襤褸(ぼろ)を着た子供たちが、騒がしい声を立てゝ、石塔の間で隠れん坊をし、それに飽きると、今度は棺の上を飛び越し、飛び越しして遊んだ。サワアベリイと、バンブル氏は、教会書記と親しい友達であつたので、法衣所(はふいじよ)へ入つて行つて、煖炉の側(そば)に坐つて、新聞を読んだ。
 一時間と少し経つて、牧師は白法衣(サアプリス)を引つ懸けながら出て来た。バンブル氏はそこでたゞホンの体裁だけに騒がしい子供を一人二人殴りつけた。で、牧師は、葬式の経(きやう)その他をば出来るだけ詰めて、たつた四分で読み終り、白法衣(サアプリス)を脱いで書記へ持たせ、そして、帰つて行つてしまつた。
「さア、ビル。土をかけろ」
 サワアベリイが、墓穴掘(あなほ)りに声をかけた。
 墓地のその辺は、下の方に棺が殆どいつぱいに埋められてゐたので、一番上へ入れたその棺は、地面から一二尺下になつてゐたきりなので、それに土をかけるなどは何でもなかつた。墓穴掘(あなほ)りは、土をかけこんで、足でいゝ加減にそれを踏みつけて、鍬(くは)を担いで帰つて行つた。小童等(こどもら)はあんまり早く済んで面白くなかつたことを、声高く喚(わめ)きながら、墓穴掘りの後に蹤(つ)いて行つてしまつた。
「さア、さア、お前」
 バンブルは男の背中を叩いて、
「墓地の門が閉まるぢやから」
 男はこの時まで、墓の側(そば)へ立つたきりで少しも動かなかつたのだが、はつと気が附いて、頭(あたま)を上げ、自分へ声をかけた人を凝(ぢ)つと凝視(みつ)め、そして、二三歩前へ歩いて気絶した。老女は、葬儀屋が、外套を脱がせてしまつたので、その外套のなくなつたことを悲しみ喚いてゐて、男の倒れたことなどは眼に入らなかつた。それで人々は気絶した男に冷たい水を掛けて、気が附くと、墓地から伴(つ)れ出し、門を閉めて、各自(めいめい)の方向へと帰つて行つた。
「おい、オリヴァー」
 サワアベリイは家へと帰つて行く途(みち)で、さう言つて、
「何うだ、好きか」
「えゝ少し、有難う、親方」
 オリヴァーは余程躊躇しながらさう答へて、
「でも、あんまり……」
「あゝ成程、直きに馴れちまはア、オリヴァー。馴れちまはア、何でもねえぜ、なア、おめえ」
 オリヴァーは、サワアベリイ氏が、それに馴れるには随分かゝつたのではないかと思つた。けれども、そんなことは聞かないのがいゝと思つたので、黙つて、自分が見たり聞いたりしたことがらに就いていろいろと考へながら、店へと帰つた。

第二百十四段2023年06月28日

日本語の敬称は難しい。

「~さん」と「~容疑者」の中間は特にそうらしい。

――以前、「~メンバー」と言う妙な「肩書き(?)」を耳にした事もあった。