第八十段の訳 1900年2022年03月08日

手がさはると黄金(上)

昔、或國に、黄金(オーゴン)ずきの王がありました。黄金でこしらへた器物類を、多く集めて、倉にをさめ、折々、それを見るのをば、第一の樂みとなされました。
此の王に、ことし五つになる王女がありました。王は、王女をちょーあいの餘り、どうか、黄金を、山程に集めて、此の子に殘したい、というて居られました。
或日、王は、例の通り、倉にはいって、黄金の器物を見て居られますと、金光りの神樣が、ふいと、王の前に現れて、「いかに、國王、わたしは、黄金の神ぢゃ。金がほしくば、幾らでもやりませうが、一たい、どれ程ほしいぞ。」と云はれました。
王は驚き喜んで、「どうか、あの向うの山程ほしうございます。」とおっしゃると、神樣は笑って、「たったそればかりでよいか。」と言はれます。さう言はれると、よくが出て、「そんならば、どうか、此の手のさはる物、何でもかでも、皆、金になるよーな術をさづけて下さい。」とおっしやる。「それは易いこと、そんなら、明日からは、お前の手がさはる物、皆、金にならうぞ。」といって、神樣の姿は、いつか、きえて無くなりました。

手がさはると黄金(下)

明くる朝、王は目をさまして、おき上り、着物を着かへようとせられると、ねまきがすぐ、金になった。「これはふしぎ。」と、そばの椅子(イス)に、手を掛けられると、椅子もすぐ、金になった。「何でも、此の通りか知らぬ。」と、机に、手をかけられると、机が金、書物に、手を掛けられると、書物が金、柱でも、窓掛でも、手のさはる限りの物が、殘らず、金に變りました。
王は驚き喜んで、氣ちがひのよーになって、庭じゅーをかけ歩いて、草だの、花だの、燈ろーだの、手水鉢(テウヅバチ)だの、ほとんど庭中を、金だらけになされました。
さて、奥殿にもどり、朝飯をたべようとなされますと、王女が、しくしくなきながら來られました。「なぜなくぞ。」と、王が問はれますと、「今、ばらをつみに、庭へ出たら、ばらが、皆、此のよーにかたうなって、金色になって、香ひが無くなってしまうた。」と云うて、ないて居られます。王は、少々案外ながら、いろいろになぐさめ、「まー、御飯でもおたべ。」といって、膳の上のはしを取られますと、其のはしが金、椀を持たれますと、其の椀が金、どうもしよーがありませぬ。
王女は、もーこらへかねて、聲をあげてなき出されました。王は困って、「なくななくな。」というて、だきよせられますと、や、大變、王女は、忽ち、なき顔のまゝ、金の像(ゾー)になってしまひました。
王は驚きかなしんで狂氣(キョーキ)のよーになり、「醫者を呼べ醫者を呼べ。」とさわぎ、さまざま手をつくされても、もとの王女にはなりませぬ。そこで、王は、始めて、目のさめたよーに、心得ちがひをくい、それから、すぐに、神樣に、願ひさげをなされました。其のおかげで、王女もいきかへり、金になったいろいろの草木、器物も、もとの通りになりました。めでたしめでたし。

『國語讀本 尋常小學校用』坪内雄藏(逍遥)著(1900年)より。


既出『高等小學校用』の姉妹篇。
ブルフィンチともオウィディウスとも異なる、他の原書からの訳と思われる。
やはり、「仮名遣い」「長音記号」「小書き」などの表記が統一されていないようだ。いろいろと試行錯誤(trial and error)していたのかも知れない。まあ、教育現場では教師が実際に指導するわけだから、少なくとも音読の教材としては問題が無いだろう。
ひょっとしたら、音読のトレーニングのために故意に表記を混在させているのかも知れないが。

・余談。
せっかくなので(?)、TV番組『オーケストラがやって来た』のテーマ曲を。
こういうタイプの曲はメロディ・ラインだけ取り出してもあんまり面白くない。
実際には、これをアレンジして演奏していた。