「漱石先生と松山」鶴本丑之介 ― 2023年07月11日
「漱石先生と松山」 鶴本丑之介
『坊つちやん』といへば、すぐ松山中学を連想する。『坊つちやん』が松山中学を背景として書かれたものであることは、あまりにも有名である。そこで、作中の人物についても誰は何先生、彼は某先生とそのモデル詮索が今に至るまで繰り返されてゐる。殊に「山嵐」の「堀田先生」は、松山中学の柱石といはれた故渡部政和先生であるといふ伝説が専らである。私は渡部先生には数学を教はつたが、その剛直な性格が「山嵐」によく似てゐると思つただけである。だが、私達は蔭で、先生のことを「山嵐」とか「政和さん」とか呼んだものである。後年、渡部先生から『坊つちやん』時代の追憶を聞く機会を得たが、その時先生はこんな風な話をされた――。
『夏目さんが松山中学に在任されたのは、一ケ年ばかりに過ぎなかつた。英語教師として来られたのだが、学校の俗務などには関係されず、常に毅然としてゐた様だ。教員室などでも黙々として居られた様に記憶する。自分は生徒監をしてゐて大抵別室にゐたから、先生との交渉はあまりなかつた。先生が松山中学に居られた時代に『坊つちやん』に出てゐた様な事があつたかといふと、あのまゝの出来事があつたとは思はれない。あれを読んで、多少モデルにされたかと思はれる節はあるが、あのまゝの事実があつたわけではない。先生の鋭敏な観察眼によつて、当時の職員達の性向を観破し、巧みにこれを作中に躍らされたといふ感はある。自分もその一人の様に思はれるが、もし自分だつたら、小説の結末にあるやうなことはやらなかつたと思ふ。新しく松山中学に赴任して来る先生は、何れも『坊つちやん』に書かれてゐる様な学校だと思ひ込むらしいが、来てみるとさほどでもないので面喰ふ様だ。兎に角『坊つちやん』のお蔭で松山中学は随分広く天下に名を知られるに至つた。それから寄宿舎の生徒たちが、バツタを放つていたづらをやつたことが書かれてゐるが、自分には全然記憶がない』
小説では「坊つちやん」と「山嵐」は肝胆相照らす仲になつてゐるが、渡部政和先生の追憶によると、個人的には余り交渉がなかつた様である。剛直、磊落の性格は「山嵐」そつくりであつたが、結末にある如く辞表を叩きつけて、松山を去るどころか、爾来二十数年教鞭をとられ、昭和九年七月、七十七歳で永眠されたのである。
野球で天下に名を知られる中等学校は珍らしくないが、小説で名を知られた中学校といふのはあまり例がない。松山の書店では『坊つちやん』はいつも売切れ続きであつた程、愛読されたものである。勿論現在でも若い人達の間に読まれてゐる事はいふ迄もない。
前陸相川島義之氏も、夏目先生に英語を教はつたことがある。
『随分古いことで、それに自分は平凡な生徒に過ぎなかつたから、先生に特に目をかけられたといふ記憶もない、たゞ非常に明快な教授振りで、これは普通の先生ではないと感じ入つたことを覚えてゐる。自分はどちらかといへば、英語よりも数学に力を入れてゐたので、先生の憶ひ出は眞鍋君や松根君の様に持つてゐない』と語つてゐたが、川島氏は士官学校志望だつたので、在学中から数学に特に力を入れたらしく、「山嵐」の渡部先生に私淑してゐて、自宅へまで赴いて教へを乞うたものである。川島氏の述懐にもある様に、漱石先生の明快な教授振りには、当時腕白盛りの中学生一同が舌を捲き、心から敬服した様子である。
その当時の数学の先生弘中又一氏は、いま京都で悠々自適の生活を送つて居られるが、川島氏は陸相就任の直後、京都でこの弘中先生に会はれ、一夕昔話に花を咲かせられたことがある。その弘中先生の『坊つちやん』の想ひ出――。
『『坊つちやん』の部分々々には根拠がある、事実がある、モデルがある、何度読んでも可笑しくてならぬが、其では何の役は誰かと問はれると少し困る。数人一役、一人数役、分解綜合取捨構成してあるからだ。主人公「坊つちやん」にしても漱石の事もあり僕の事もある。僕と漱石との間には、毎日の出来事や失策等を互に語り合うて、笑ひ興ずる事が多かつたので、自然二つが一緒になつて一人の「坊つちやん」を作り上たものだらう。僕が小唐人町と湊町一丁目の角のウドン屋でしつぽく四杯喰つたら、シツポク四杯也と黒板に書かれた。小説では漱石が自分の好きな天麩羅蕎麦に改めてゐる。漱石は道後遊郭の門の右で湯洒し団子二皿喰つて五銭払つてやはり黒板に書かれて、遊郭の団子ウマイウマイと御丁寧にポンチ絵まで添へられたが、小説では団子を七銭に値上げしてゐる。反対に城戸屋(きどや)(山城屋)では茶代十円を払つて江戸ツ子の気前を見せたものだが、小説では五円にまけてゐる。生徒は漱石が道後温泉で泳ぐことや手拭が赤くなつたことなどを次から次へ問題にした。それでは漱石を侮辱するつもりかといふとさうではない、内心その実力には敬服してゐた。殊に月給八十円は現在その数倍にも当り、いたづら盛りの生徒達も度胆を抜かれて神様のやうに思つてゐた。総じて松山人は利巧で頭がよい、茶目もやるが罪がない、騒いでゐても授業を始めればおとなしく傾聴する、だから本当に腹も立てられないので、どうも始末にをへないと漱石も困つてゐた様だ。――』
また生徒達は、先生を綽名で呼んでゐた、数へ唄といふのも流行つて「七ツ夏目の鬼瓦」などと唄つたものである。それは漱石先生の鼻のあたりに痘痕があつたからだ。
漱石先生は明治二十八年四月上旬松山に赴任されたのであるが、船着場から松山までは『坊つちやん』の所謂「マツチ箱」の軽便鉄道に乗つたのだ。当時この伊予鉄道はマツチ箱式の軽便に過ぎなかつたが、今は電化してスマートな電車が走つてゐる。
それから第一夜を三番町の城戸屋旅館に投じた。此旅館は現存して「坊つちやんの間」といふのが残つてゐるが、経営者は変つてをり当時の主人は十数年前に物故した。漱石先生が第一夜を明かしたのは「竹の間」といふ部屋で、その頃城戸屋の試験室といはれてゐた。試験室といふのは素性のよく解らない客を泊めておいて、よくその人柄が解つてのちに他の適当な部屋へ変へるといふ意味であつたのだ。だから漱石先生も一先づ試験室たる竹の間に案内されたのだが、翌日新聞の辞令欄で、月俸八十円の先生といふ事が解つたので、是は偉い先生だといふところから、十五畳の新館一番に転室したのであつた。
そんな調子だつたから、宿屋に長くゐては第一不経済だとあつて、骨董屋いか銀に下宿することになつた。いか銀といふのは一番町の津田安五郎氏宅だが、いまは久松伯爵邸の一部となつてをり、全く跡形もない、主人公も夙くに物故してゐて、偲ぶよすががちつともない。たゞ下宿料一ケ月十円だつたと伝へられてゐる。
このいか銀宅に三ケ月あまり下宿してゐて、六月の末か七月初めに二番町の上野氏宅へ転宿した。上野氏は松山の豪商米九の番頭をしてゐたが、そこの離れを借りたわけである。この家はいま寺井津次郎氏の所有となつてをり、当時のまゝ現存してゐて、松山に於ける漱石先生の遺跡としては唯一のものだ。保存会の手で永久に残す方法が講ぜられてゐる。また漱石先生はこの仮寓を愚陀仏庵と名づけ、自ら愚陀仏と号してゐた。
愚陀仏は主人の名なり冬籠
といふ句でそれが窺はれる。当時書き残された短冊などを見ても愚陀仏と署名をしてあるものが多い。
日清役従軍から病を得て帰省した正岡子規居士は、二十八年八月二十六日から十月十九日まで約二ケ月たらず上野宅に漱石先生と同宿してゐたのである。階上に漱石、階下に子規と明治二大文豪が同居してゐた訳で、此意味で頗る歴史的な遺跡といふべきであらう。
子規帰る――といふので地方俳人たちが連日その寓居を訪れ句論を闘はせ、或は徹宵して句作に耽つたこともあつた。漱石先生も学校から帰ると大抵この一座に加はつたもので、漱石先生が本格的に俳句に入つたのはかうした機縁からであると断言しても差支へない。勿論子規が選者で、秀句は毎日の如く海南新聞の俳句欄に掲げられたものである。私は古い海南新聞を渉猟して先生の句を沢山見出すことが出来たが、他の俳人たちの句に比して一種の風格が偲ばれるのである。子規も『漱石の句は次第に光りを帯びて来る。やはり素養のあるものは物を見る眼なり、感じがそれだけ違ふのだ、月並俳人の及ぶところではない』と他の人達に語つたものだといふ。
(後略)
昭和十一年四月
・補足。
『坊っちやん』の主人公のモデルとされた弘中又一氏に関しては、既出の通り半藤一利氏の『漱石先生ぞな、もし』に詳述されている。漱石の月給に関しても、松山中学に赴任した時点で当時の校長より高給だったそうだ。
なお、作中の主人公の設定は「月給40円」――読者がご存じの通り。
つまり現実の漱石の半額と言う設定である。