オリヴァー・ツウィスト 62023年07月03日

六、義憤

 一(ひ)と月の目見(めみ)えが終つて、オリヴァーは、本式の年期小僧になつた。丁度病気の多い時候になつてゐて、葬儀屋に取つては商売繁昌であつたので、一二週間の間に、オリヴァーは沢山の経験を得た。百日咳(ひやくにちぜき)が流行(はや)つて、子供の亡くなるのが多かつたので、オリヴァーを葬儀供人(さうぎともびと)に使ふといふサワアベリイの名案は、全く予期以上に成功した。オリヴァーが、膝へ届くやうな長いバンドの附いた帽子を被(かぶ)つて、悲しい行列の先頭を歩いて行く姿は、市(まち)の母親たちの間で評判がよかつた。立派な一人前の葬儀屋になるには、どんな場合でも落ち着き払つて平気でゐるといふ習慣にならなければならぬといふので、その修業にとオリヴァーは、親方に伴(つ)れられて、大人の葬式へも大抵何時も行つたのであるが、彼はそこで強い心の人々が、美しい諦めと勇気で、それぞれの悲しみや苦しみをこらへる有様を度々見ることができた。
 例へば、こゝに一人の年老(としと)つた金持の婦人か、紳士が亡くなつたとすると、多勢(おほぜい)の甥や姪たちは、その病中は非常に心配し、亡くなつてからは、人前では如何にも悲しみ嘆いてゐるのだが、自分たちばかりになると、全く陽気になつて、悲しいことなどは、何も起つたのではないかのやうに、面白さうに、自由に話し合つて居(ゐ)る。妻を失つた良人(をつと)も、如何にも勇気のある落ち着きでその悲しみを堪(こら)へる、良人を失つた妻はといふと、喪服を着るには着るが、それを悲しみの衣として着るのではなくて、それを出来るだけ自分に似合ふ、人眼を引くものとしようとする。一体に、女でも男でも、棺を埋める時には、如何にも嘆き悲しんでゐるのだが、家へ帰ると殆ど同時にその悲しみから恢復して、茶の時間が来ないうちに、悲しいことなどはケロリと忘れたやうな平気な風になつて終(しま)ふ。人々が、さういふ風に悲しみを堪へてしまふ勇気は驚くべきものであつて、傍(はた)から見ると、如何にも愉快な教訓になることであつたので、オリヴァーは非常に感心してそれを見た。
 ノア・クレイポールは、年長(としうへ)の自分のはうが、丸帽子を冠(かぶ)り、柔皮(かは)の前掛けをして店に引つ込んでゐるのに、新前(しんまへ)の小僧のオリヴァーのはうが、黒い杖と、喪章(もしやう)を附けた帽子を冠つて、葬式へ出て行くので、ノアはオリヴァーを憎んで、いやが上にオリヴァーを圧(お)しつけて虐(いぢ)めた。ノアがさうするので、チャーロットもオリヴァーを虐めたし、ミセス・サワアベリイも、亭主のサワアベリイが、オリヴァーに眼をかけるので、それが癪に触つて、オリヴァーにひどく当りちらした。で、一方にさう三人の敵を控へ、又一方には、飽きる程葬式へと出されるので、オリヴァーの位置は、決して愉快なものではなかつた。
 或る日、いつもの通り、晩飯(ばんめし)にと台所へ下りて行つたが、チャーロットが用で呼ばれてゐなかつたので、食事までに少時(ちよつと)間があつた。そこで腹が減つて、意地が悪くなつてゐたノア・クレイポールは、オリヴァーにからかつて虐めるのに、又とない機会(をり)だと思つた。
 さういふ無邪気な悪戯(いたづら)の積りで、ノアは卓子(テーブル)掛けの上へ足を載せて、オリヴァーの髪を引つ張つたり、耳を抓(つね)つたり、その他意地の悪い卑しい慈善学校出の少年のよくいふやうな、いろいろの悪態をつきだした。さういふ風に、いくら嘲弄しても、オリヴァーを泣かせることができないので、ノアは、一層意地の悪いことを言ひ出した。
「おい、孤児院、手めえのおふくろは何(ど)うした」
「亡くなつたんだ。お母(つか)さんのことなんぞ言はないでください」
 オリヴァーの顔色が赤くなり、息が忙(せは)しくなり、口と鼻の穴が変に動き出したので、クレイポールは、それがオリヴァーの烈しく泣き出す前触れだと見て取つた。さう思つたので、ノアは、悪態を続けた。
「何で死んだんだ、孤児院」
「悲しみで死んでしまつた。看護婦のお婆さんが、あたしに話してくれた」
 ノアに答へるといふよりは、独り言をいふかのやうに、オリヴァーは、
「あたしは、きつとさうだと思ふんだ」
 オリヴァーの頬を涙が流れるのを見て、
「ホイ、ホイ、ホイ、ベラ棒に立派なおふくろだな、孤児院、何で手めえは、めそめそ泣くんだよ」
 オリヴァーは急いで涙を払つて、
「いゝえ、もう沢山だ、お母(つか)さんのことは何(なん)にも言はないでおくれ、言はない方がいゝ」
 オリヴァーは強い声でさう答へた。
「何、言はない方がいゝ? へえ? 言はない方がいゝ? おい、孤児院、生意気言ふねえ。手めえのおふくろはな、面白(おもしれ)え女だつたんだ、確かにさうだぜ。やア、あゝら」
 こゝでノアは、意味あり気(げ)に頭を頷(うなづ)かせ、筋肉の運動ででき得(う)るかぎり小さい赤い鼻を上へ向けてヒコヒコさせた。
 オリヴァーが黙つてゐるので、一層勢ひづいたノアは、如何にも哀れんでゐるやうに装(よそ)ほつた如何にも意地の悪い嘲弄の声で、
「なア、孤児院、もう何(ど)うも仕方がねえ、勿論、手めえにやア、その時分にも仕方がなかつたんだけどもな。何(ど)うも気の毒なことだな。誰でもさう思つて、ほんとに手めえを気の毒に思ふだらうよ。だが、おい、孤児院、手めえのおふくろは、ほんとにとてつもねえ悪い女だつたんだぜ」
「えゝツ?」
 急に顔を上げて、オリヴァーが訊いた。
「とてつもねえ悪いやつだツてんだい、孤児院」
 さうノアは落ち着き払つて答へて、
「死んぢやつた方が、余つ程(ぽど)よかつたんだぜ、なア、孤児院、さもなきやア今頃はブライドウェルの牢屋で、苦役(くえき)をやつてるか、流されてゐるか、それともお仕置きになつてるか、どつちかにちげえねえんだ、いや、多分お仕置きになつてるだらうなア、さうだらう」
 憤激で真つ赤になつたオリヴァーは、ぱつと立ち上がつて、椅子と卓子(テーブル)を突き倒し、ノアの喉(のど)を掴(つか)んで、烈しい憤怒(いかり)で彼を振つて、力いつぱい、ノアを床へと殴り倒した。
 直ぐその前までは、虐待のためにいぢけた、静かな温順(おとな)しい小童(こども)であつたが、死んだ母親のことを、残酷に侮辱されたので、オリヴァーの元気は呼び覚(さま)され、血は湧き立つた。胸で大息(おほいき)を吐(つ)きながら、真つ直ぐに立つて、眼を生き生きと光らして、彼の足もとに蹲(しやが)んでゐる卑怯な意地悪の少年を睨みつけてゐる有様(ありさま)は、オリヴァーの人となりが、まるで、変つてしまつたかのやうであつた。
「人殺し」
 ノアは喚(わめ)いて、
「チャーロット。主婦(おかみ)さん、小僧が私を殺す、助けてくれ。助けてくれ。助けてくれ。オリヴァーが気が狂(ちが)つた。チャー……ロット」
 ノアの喚き声に続いて、チャーロットの高い叫び声が聞え、ミセス・サワアベリイのもう一層高い叫び声が聞えた。チャーロットは側戸(わきど)から台所へと飛び込んで行つたが、ミセス・サワアベリイは、階下(した)へ下りて行つても、生命に別状がないかどうかが、はつきりわかるまでは、階段の上にとゞまつてゐた。
「こら、こん畜生」
 チャーロットが叫んで、力いつぱいオリヴァーを掴(つかま)へた。その力は、殊(こと)によく力を出しつけてゐる並々(なみなみ)の強い男の力と殆ど同じ強さであつた。
「こら、恩知らずの、人殺しの、恐ろしい悪党小僧」
 チャーロットは、一言(ひとこと)言つては、一つづゝ力いつぱいオリヴァーを殴りつけた。
 チャーロットの拳固(げんこ)は、なかなか軽くはなかつた。けれども、それだけでは、オリヴァーの怒りを取り静めることができなからうと思つたので、ミセス・サワアベリイは、台所へ飛び込んで行つて、片手でチャーロットに手伝つてオリヴァーを押へ、片手でオリヴァーの顔を引つ掻いた。さういふ都合のいゝ位置になつて来たので、ノアも床から立ち上がつて、後(うしろ)からオリヴァーを殴つた。
 かういふ運動は長く続くものではない。三人ともすつかり疲れ切つて、もう引つ掻きも打(ぶ)ちも出来なくなると、彼等は、もがき叫んでゐるが、それでも少しも勇気を落してゐないオリヴァーをば、埃溜(ごみため)の穴倉へと引つ張つて行つて、そこへ閉ぢ籠めてしまつた。それが終ると、ミセス・サワアベリイは、椅子へぐたりと掛けて、わつと泣きだした。
「あらツ、大変だ、主婦(おかみ)さんが気が遠くなつちまふ。水を一ぱい、さ、ノア、お前さん。さ、早く、さ、早く、さ」
「おゝツ。チャーロット」
 ノアが、頭と肩へ、冷たい水を十分にかけたので、息の苦しい中から、ミセス・サワアベリイはさう言つて、
「おゝツ、おゝツ。チャーロット、わたしたちがみんな寝てゐるうちに殺されなかつたのは、ほんとに神様のお蔭だわね」
「えゝ、ほんとに神様のお蔭ですとも、主婦(おかみ)さん、旦那もこれにこりて、赤ん坊の時から人殺しや、泥坊に生れついて来るやうな、あんな恐ろしい奴らを、家で使はないやうになるでせう。ノアは可愛さうですよ。あたしが来た時には、主婦(おかみ)さん、もう半殺しにされてゐたんですよ」
「可哀さうにね」
 その慈善学校出の少年の方をば、如何にも可愛さうがつてゐるやうに見て、ミセス・サワアベリイが言つた。
 一番上の直衣釦(キヨツキボタン)から上ぐらゐ、オリヴァーの頭の頂辺(てつぺん)より身長(せい)の高かつたノアが、さういふ哀れみの言葉をかけられるといふと、手首の内側の方で眼をこすつて、啜泣(べそ)を掻くらしい風をした。
「ほんとに、何(ど)うしたらよからうね」
 ミセス・サワアベリイは、大声で言つて、
「旦那は家にゐないし、家の中に男つてもなア一人もゐないんだよ、彼奴(あいつ)は十分(じつぷん)と経たないうちに、あの戸を蹴破るんだよ」
 戸といつたところで、ホンの材木の片(きれ)なのだから、オリヴァーが強く打(ぶ)つつかる音を聞いては、ミセス・サワアベリイが、さう思つたのは無理もなかつた。
「あらまア、あらまア、何(ど)うしたらいゝんでせう、主婦(おかみ)さん、警察へさう言ひませうか」
 チャーロットがさういふと、
「軍隊がいゝでせう」
 クレイポールが意見を持ち出した。
「いゝえ、いゝえ」
 ミセス・サワアベリイは、オリヴァーの古くからの知り合ひのことを思ひ出して、
「ノア、お前、バンブルさんのとこへ駈けて行つて、直ぐ、どうしても直ぐ来てくださいと頼んでおいで、いゝえ、帽子なんざア何(ど)うでもいゝよ。さ、大急ぎで行つといで。その眼の縁の脹(は)れたとこへは、小刀(ナイフ)をつけるやうにして行つといで、脹(はれ)が引くお禁厭(まじなひ)なんだから」
 ノアは返事もせずに、全速力で駈けだした。外をあるいてゐた人々は、帽子も冠らず、眼の近くへ懐中小刀(クラスプナイフ)をかざして、街路(まち)を暗雲(やみくも)に駈けだして行く、慈善学校出の少年を見て、一体何事だらうと驚いた。

第二百十六段2023年07月03日

気温が高くなると、自制心が働きにくくなるようだ。

それに関して、幾つかの短篇小説がある。

W・F・ハーヴィー「炎天(August Heat)」(1910年)
R・ブラッドベリ「熱気のうちで(Touched with Fire)」(1954年)

後者に依ると、華氏92度が臨界点(?)らしいが。

……そう言えば、最近「不快指数」と言う言葉を耳にしないような気がする。

・註。
「華氏92度が臨界点」とは、無論作中の設定である、念の為。