「寝床」2023年05月30日

寝床    今村信雄編

 素人義太夫(しろうとぎだゆう)は何処へ行っても流行いたして居りますが、俗に旦那芸(だんなげい)と申しまして、中には随分不結構(ふけっこう)なものがございます。お師匠さんの方でも亦(また)銭取り主義で教えます。節廻(ふしまわ)しなどはどうでも構わない、段数(だんかず)さえ上げればそれで宜(い)い、甚だしいのになると一段の浄瑠璃(じょうるり)を三日で上げるなどというのがあります。
 さて覚え込んで見ると誰かに聞かして見たいという、不了簡(ふりょうけん)を起すのは人情、けれどもまさかに目上の者を呼びつけて、強制的に聞かせる訳にもいかないという、人間としてその位の常識はありますから、目下の者を呼びつけて、強制的に聞かせるというのがございます。つまり資本家の圧制、今ならば出入(でいり)の職人だろうが、店借(たなが)りだろうが、そんな事にはなかなか応じませんが、まだ明治時代までは斯(こ)ういう人が幅を利かせて居りました。もちろん客をするのだから料理人を呼んで酒肴(さけさかな)の用意をする、下戸(げこ)には甘い物をそれぞれ馳走をして待遇(もてなし)をしますが、それでも下手な浄瑠璃を聞くのが辛(つら)いから何とかいって、のがれる算段をする者が多い。
主「アヽ繁蔵(しげぞう)大きに御苦労だった、スッカリ廻って来たかえ」
繁「ヘエ行って参りました」
主「今日は漏れなく廻ったろうね。この前太兵衛(たへえ)に廻らしたら、提灯屋の吊右衛門(ぶらえもん)の処へ知らせるのを忘れたんで、其の後吊右衛門が俺の顔さえ見ると愚痴をこぼして困った。先達(せんだっ)てはお浄瑠璃をお語りなさったそうで、何で私共へはお知らせ下さいませんでしたかと怨みをいわれて弱ったよ。今日はお前のこったから洩れなく廻って来たろうね」
繁「ヘエ残らず廻りました。ところが旦那様あいにく今晩は、みんな差合(さしあい)がありまして、提灯屋はお祭りを前に控えて大忙しで、豆腐屋へ参りましたら、どこからか雁擬(がんもど)きの注文を受けて今晩徹夜(よあかし)をするような訳で伺われないと申します。頭(かしら)は明朝一番の汽車で小田原の道了(どうりょう)様へ参りますので、今夜講中(こうちゅう)の者と打合せの寄合(よりあい)をいたしますのだそうで……」
主「アヽ解った解った、モウ宜(い)い。それじゃァ誰も来ないのだね。つまり私の義太夫が拙(まず)いから聞くのがつらいというので、長屋の者は無い用をいい触らして断るのだろう、モウ止(よ)しますよ。ナニ浄瑠璃さえ語らなければ宜いんだ、師匠も断ってしまいなさい。料理人なんぞ追い帰してしまえ、繁蔵モウ一遍長屋を廻ってな、少々都合がございますから、明日正午(ひる)までに店(たな)を全部引払(ひっぱら)って下さいといい渡して来てくれ……ナニ乱暴な事はない、店を貸す時に、いつ何時(なんどき)でも御入用の時にはお明け申しますという証文が入ってるんだ、義太夫の情合(じょうあい)が分らないような者には、店を貸して置かれない。それから店(みせ)の者もそうだ。私の家(うち)に奉公していれば、偶(たま)には下手な義太夫も聞かなければならず、定めし辛かろうから、今日限り一同へ暇を上げる、どうか今夜の中(うち)にみんな出て行って貰いましょう」
と旦那がスッカリ怒って了(しま)った。何しろ店子(たなこ)には店立(たなだ)て、奉公人には暇が出るというのだから穏やかでない。モウ一遍長屋を触れ歩くと、店立てを食うより義太夫を聞いた方が宜いだろうというので、渋々ながら皆やって参りました。
繁「エー旦那様」
主「モウ寝ますよ」
繁「只今アノお長屋の衆が参りました」
主「長屋の者が来る訳がない、みんな用があるんだ」
繁「それが只今揃ってやって参りました」
主「揃って来たって、モウ私は義太夫を語らないといったら語りませんよ。帰しておしまい」
繁「アヽ左様(さよう)で、それではそう申しましょう」
主「オイ幾ら物は正直が宜いったって、正直過ぎるよ。帰しておしまいって、ヘエそうですかとは何だ、こっちもモウ一度位すすめるだろうと思うから、懸引(かけひき)でいったんだ、折角来たものを語らないと、又後日私が何とかいわれるんだ、あの旦那もいいけれども、芸惜(げいおし)みをするのが悪いとか何とかいうだろう。仕方がない語ろう」
繁「アヽ左様で、それではこちらへ通しましょう」
主「早く通すが宜い……、オイオイ師匠にそういってな、どうか少し調子を……ナニ師匠は帰してしまった。いけないな、早く迎えに行って来な。支度はいいかい、料理の方の……ナニ断ってしまった。いけないよ、早く読んでお出で、湯は沸いているだろうな、……何だ、モウ皆(みん)な空けて洗濯物をつけてしまった。早いな、こんな事はいい出してから二時間位猶予するもんだよ。早く湯を沸かしておくれ……」
○「ヘエ今晩は」
△「ヘエ今晩は有難うさまで」
○「ヘエ今晩は」
主「サアサアどうぞこっちへ、オヤオヤ大層お揃いで、オヤ豆腐屋さん今晩は、お前さんは今夜徹夜(てつや)で仕事をなさるという事じゃァないか」
○「ヘエ、どうもお使いを有難う存じました。先程申上げました通り、今晩は徹夜で仕事をするつもりでしたが、何がさてすきな道でございますから、今頃は旦那様が何をお語りになっておいでなさるかと思うと、ウカウカとして仕事が手につかず、三角の雁擬きをこしらえたり何かいたしますものですから、家内のいいますには、それ程までにお前さんが聞きたいのなら、代りを入れて行ったら宜(い)いだろうと申しますので、今しがた代りを入れまして伺いに出ましたような訳でございます」
主「アッハッハ、そうかいイヤ恐れ入ったね、代りを入れてまで聞きに来てくれるとは、イエその手間位の事は、後日にどうにでも御相談に乗りますよ、どうぞこちらへ……オヤオヤ頭(かしら)、お前さん明日の朝一番で小田原へ行くといったじゃァないか」
頭「ナーニ小田原へ行くなんといったなァ嘘っぱちという訳でもねえんですけれども、さっき繁蔵さんが来て、今夜義太夫をやるから来いというから、しまった、ナニそいつァ有難ぇたとえ腐った半纏(はんてん)の一枚でも……イエナニ腐るほど下さるんだから、偶(たま)にはヘッポコ義太夫、じゃァねえ結構な義太夫を聞かして下さるんだ、平常(ふだん)長屋の者もそういってるんで、アノ旦那も好い旦那だが義太夫さえやらなけりゃァ……義太夫をやるから結構だが、どうせ旦那様の事だから、お上手な事だってんで、マア何しろ御目出とうごぜえます」
主「何だかサッパリ分らないな、どうぞ皆さんあっちへ行って……、それから飲み手(て)の方は左側、下戸の方は右側へおすわんなすって……」
○「どうも恐れ入ります、モウお構い下さいませんように」
主「それでは今直きに始めますから……」
○「イヤ今晩は御苦労様で……、どうも驚きましたな、店立てには驚きましたよ。全体ここの旦那は何の因果で、こんなに義太夫を語りたがるのだろう」
△「それは幾ら語ったって、先方(むこう)の勝手だが聞かせられる方こそ好い面の皮だ、悪い声というのは世間に幾らもあるが、当家の主人公みたような妙な声を出す人は類(るい)がありませんね、夜半(よなか)に動物園の裏手を通るとアヽいう声が聞えますがね、何しろ不思議ですよ、こないだは横町の袋物屋の隠居が、この旦那の義太夫を聞いて家へ帰るとドッと熱が出まして早速医者に診て貰うと何だかサッパリ分らない。段々調べて見た所が、義太夫を聞いてから熱が出た、義太夫熱といって、これは幾ら医者でも薬の剤(も)りようがないそうだ」
○「大変な義太夫ですね」
△「だから私は気付け薬の用意をして来ました」
×「お話が出たからいいますが、私も実は石炭酸の強いのを少しばかり持って来ました」
△「成程それは良い思い付きだ、石炭酸なら大概の黴菌(ばいきん)は死んでしまう、……何ですそこでメソメソ泣いてらっしゃるのは、気が早いね、義太夫を聞かないうちから泣いてるのは……オヤ鈴木さんの若旦那じゃァありませんか」
若「左様でございます」
○「マアこっちへお出でなさい、どうなさいました」
若「ヘエ、今晩はどうも飛んだ親不孝をいたしました」
○「ヘエ、それは怪しからん、あなたは町内で若い者のかがみにされてるんですよ、そのあなたが義太夫の為に、親不孝をしたというのはどういう訳で……」
若「マアお聞き下さい。今朝私が横浜へ用達(ようた)しに参りましたのは、本当の話なんで、いい塩梅に用が早く片付きましたから、急いで帰って参りますと、何だか胸騒ぎがして堪りません、宅へ戻って格子を開けますと、患って居る阿母(おふくろ)が床(とこ)から這い出して来ました。下駄を出して呉れと申しますから阿母(おっか)さんどこへお出でなさると聞くと、旦那の所から義太夫を聞かしてやるから来いというお使いがあった、一度はお断りをしたが、最前のお使いで、聞きに来なければ店立てを食わせると仰しゃるから、私はこれから行くのだとこう申します。それは阿母さん飛んでもない事を仰しゃる。身体の達者の者が聞いてさえ二三日熱が出るという義太夫、況(ま)してや御病人のあなたなどがお聞きになれば、立ち所に命を取られます、私が代りに行って参りますというと、イヤイヤお前はまだ生先(おいさ)きの長い身体、万が一の事でもあった暁は、私が親類の者に聞かれても面目ない、私はどうせモウ生先きのない身体ゆえ、命を落した所で惜しくはないから、何でも行くとモウします。それは阿母さんいけません。親の掛替(かけがえ)はないというじゃァありませんか。子の私が見す見すあなたが殺されにいらっしゃるものを、何で見ていられましょう、私が代りに行って参りますとおふくろをつき飛ばして出て参りましたが、後でどうなすったかと思って苦労で苦労で堪りません。近頃警視庁でも悪疫流行の折柄(おりから)衛生上についていろいろ注意をして下さるのは有難いが、なぜこの義太夫のような人間に害を与えるものを差止めないのでしょうか、私は警視庁を怨みます」
○「冗談いっちゃァいけない。マアマア少し御辛抱なさいよ、今にどうにかしてズラかして上げますから、時に今夜は旦那はどの位語るんでしょう」
△「サア、どの位語りますかな。大体の見当が付いてると又そのように覚悟もしますがね」
○「一ツ聞いて見ましょう……エー旦那、今晩はどういうお浄瑠璃が出ましょうか」
主「えらい、どうも恐れ入ったね、あなた方は。この義太夫というものは、出し物を聞いてさえもいうものだ。それ程にあなた方の方(ほう)で力を入れて下さると、私の方でも張合いがある。沢山語りますよ」
○「藪蛇々々。沢山と申してどの位……」
主「先ず最初は咽喉調べの為、簾内(みすうち)を語ります、橋弁慶(はしべんけい)」
○「成程。お勇ましいお浄瑠璃でございますな」
主「その次が、伽羅千代萩(めいぼくせんだいはぎ)、御殿政岡忠義(ごてんまさおかちゅうぎ)の段、その次が艶容女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)、三勝半七(さんかつはんしち)酒屋の段、その後が卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)、平太郎住家(へいたろうすみか)から木遣(きやり)。これは私の専売物だから、これを聞いて貰いたいね、その次が菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)、松王丸(まつおうまる)屋敷から手習小屋(てならいごや)まで、次が関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)、猪名川(いながわ)の家から櫓太鼓(やぐらだいこ)の曲弾きで、お三味線に儲けさせる」
○「アヽ三味線に儲けさしておしまいというので」
主「イエまだ肝腎のものが出ません。玉藻前旭袂(たまものまえあさひのたもと)三段目、道春館(みちはるやかた)の段、本朝二十四孝三段目、勘助住家(かんすけすみか)の段。彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)毛谷村六助家(けやむらろくすけうち)の段、恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)、城木屋店(しろきやみせ)から鈴ヶ森まで、近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)お俊(しゅん)伝兵衛(でんべえ)堀川猿廻しで、又一寸三味線に儲けさせる」
○「それでおしまいで」
主「イヤイヤ、まだ私の御得意物が出ません。伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)、沼津の段。碁盤太平記、白石噺新吉原揚屋(しらいしばなししんよしわらあげや)の段。釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)、継子苛(ままこいじ)めの段。その後は一谷熊谷陣屋(いちのたにくまがいじんや)、仮名手本忠臣蔵、大序(だいじょ)より十二段まで打通(ぶっとお)し、後に紀州返しまで語る」
○「大変お語りになりますな。およそ何段位で……」
主「二百八十六段」
○「ホウ……今晩中に語り切れましょうか」
主「とても今夜中には片がつきませんよ。先ず明後日の夜の白々明(しらじらあ)けですね」
○「矢張(やっぱ)り提灯引(ちょうちんび)けで」
主「葬式(とむらい)じゃァないか、今直ぐに始めます」
 その内にデヽンと始まりました。
○「サアサア皆さん御注意なさいよ、なるべく頭を下げていらっしゃい、頭を下げて居ると幾らか声が上を通過してしまいます。油断をして頭を持上げた所を、胸へ一発ズドンと来ると致命傷ですよ、義太夫は拙(まず)いがこの通り御馳走が宜(よ)うがすからね。アヽ一つ献(けん)じましょう」
△「これはどうも恐れ入ります、……イヤなかなか良い酒です。この旨煮(うまに)を一つやって御覧なさい」
○「ダガこうやって黙って飲んだり食ったりばかりして居ても悪い。少しは賞めなけりゃァいけますまい」
△「ほめる所なんぞありゃァしない」
○「なくっても賞めなけりゃァ義理が悪い」
△「それじゃァ賞めますよ……、うまいうまい三味線が」
○「アレ、三味線を賞めちゃァ何にもなりません。旦那を賞めるんだ」
△「うまいうまい口取(くちとり)が」
○「誰だい、口取を賞めるのは」
 勝手な事を云いながら、飲んだり食ったり、義太夫を聞いてる者なんか一人もない。その内に腹の皮が張って来るに従って目の皮が段々弛(ゆる)んで来る。最初はコックリコックリ居眠りをしていたが、しまいにはグウグウ高鼾(たかいびき)、魚河岸へ鮪船(まぐろぶね)が着いたようだ。旦那も夢中になって居たが、余り前が静かなので、さてはミッシリ聞いて居るのかと、簾(みす)をソッと持上げて見るとこの体裁(ていたらく)だから、
主「師匠一寸待って下さい。どうも呆れた人達だ、人に義太夫を語らして置いて寝てしまうとは何事です、どうか皆さん起きて下さい、けしからん人達だ。散々ぱら飲んだり食ったりした上句(あげく)に、寝てしまうとは何事だ、お帰り下さい、又番頭の与兵衛もそうだ、禿頭(はげあたま)をしやァがって、鼻から提灯を出して寝て居やがる、番頭起きろ起きろ」
与「ヨウヨウ、うまいうまい」
主「何がうまいんだ、モウ義太夫はおしまいだ」
与「惜しい――」
主「嘘をつけ、呆れたねえ――、誰だいそこで泣いてるのは、アヽ定吉かいこっちへ来な」
定「ヘエ」
主「どうした」
定「悲しゅうございます」
主「悲しゅうございます。えらい、アヽやって大人が皆(みんな)だらしなく寝てしまう中(うち)に、貴様だけが、おれの浄瑠璃を聞いて悲しゅうございますといって、泣いて居るのは天晴(あっぱれ)見込みのある奴だ。サアこっちへ来な。褒美に何かやるぞ、シテどこが悲しかった。待ちなよ、子供のお前が身につまされる物というと、千代萩の千松だな、お腹が空いても飢(ひも)じゅうない、あの辺かな」
定「そんな所じゃァありません」
主「ハヽア、それじゃァ宗五郎の子別れか」
定「そんな所でもないんで」
主「釜淵双級巴の継子苛め」
定「そんな所じゃァありません」
主「そうでもねえとすると、どこが悲しかった」
定「あすこでござんす」
主「あすこは今、俺が義太夫を語った床だ」
定「あすこが私の寝床でございます」