河畔の悲劇 10 ― 2022年05月23日
一〇、無免許医
「では、捕縛されたゲスパンという男は、この犯罪に関係がないんですね。」
問いかけたのは、ドクトルであった。
「ええ、私も明らかに左様(そう)思っています。」とルコックが答えた。「尤(もっと)も、今の私の話だけでは、伯爵がほんとうに逃亡したかどうか、危(あぶな)っかしく思われる点もありましょうが……」
といいかけた時、ルコックは庭の方に何か物音でも聞いたのか、聞耳(ききみみ)を欹(た)てるような風で、ちょっと言葉を杜切(とぎ)らしたが、やがて後をつづけた。
「実は一つ確かなことを突止めているのです。それは外(ほか)でもないが、先刻(さっき)私が伯爵邸を検(しら)べている間に、彼邸(あすこ)の執事のフランソアと二人っきりで話してみましたが、そのとき執事に、伯爵の靴の数が判るかと訊いたら、それははっきり判っているというので、早速(さっそく)靴棚を調べさせたところが、露西亜革(ロシアがわ)の長靴が一足紛失しているのです。なお執事の話によれば、前日伯爵がつけていた青縞(あおじま)の襟布(クラバット)が見えないといっていました。」
「そんなら、もう疑う余地がないね!」とプランタさんが叫んだ。
「ですから、その見込で猛進(もうしん)して差支えないわけです。そこで今度は、伯爵がこんな兇行を演ずるに至った事情を精査(あら)って見ることが、必要になって来ましたがね――」
いいかけて、ルコックはまた物音に耳を欹てている風だったが、突然、身を躍らして、窓から庭へ跳びだした。
と、庭の方で罵る声、息塞(いきづま)るような叫び、どたばたする跫音(あしおと)――たしかに格闘が始まったらしい。
窓から覗いてみると、恰度(ちょうど)暁(あ)け方(がた)で、物の形が仄(ほの)かに見えていたが、芝生に罩(こ)めた白い靄(もや)の中に、二つの人影が組(く)んづ解(ほぐ)れつ、倒れつ起きつして、激しい格闘をやっているらしかった。
「さア取詰(とっつ)めたぞ。灯(あかり)を見せて下さい。」
という声に、ドクトルが灯(あかり)を携(も)って、戸をあけると、ルコックが一人の男の利腕(ききうで)を捩(ね)じ上げながら、帰って来た。
「御紹介します。此奴(こいつ)はロベロオという無免許(もぐり)医者で、薬草商(やくそうしょう)というのは世を偽る表看板、実は毒薬の密売をやっている男です。」
と探偵は落ち着いたものだ。
捕まった男は、ルコックが云ったように、この町の無免許医(むめんきょい)で、旧(もと)ドクトル・ゼンドロンの助手だったが、不都合があって解雇されてからは、碌(ろく)でもないことばかりやっているのであった。
彼は、旧師(きゅうし)のドクトルがそこにいるのを見ると、遉(さすが)に顔を背けたが、大して悪びれた風もなく、昂然(こうぜん)と脣を囓(か)みしめていた。
「やっ、ルコック君、怪我をしたね。シャツに血が滲んでいますよ。」
プランタさんが驚いて注意すると、
「此奴(こいつ)の短刀で擦(かす)られただけです。何ともないんです。」ルコックは平気で、「おいロベロオ、お前は何のために此邸(ここ)へ忍んで来たんだ?」
ロベロオは答えがなくて、凄(すご)い目を伏せているばかりだ。
「こら、何故答えをしないか。何か目的があっただろう。」
旧師のドクトルが厳しく問い詰めると、
「盗みに来ました。」
「ナニ、盗みに? 一体何を盗むのだ?」
「何ということもありませんが――」
「冗談いっちゃ可(い)けない。塀を越えて他人の邸へ忍びこむからには、何(なん)ぞ確(かく)とした目的がなければなるまい。」
「実は温室の花が欲しかったので――」
「ふむ、短刀を持って、花を盗(と)りに来たというのか。」
ルコックは忌々(いまいま)しそうに呶鳴ってから、
「此奴はドミニ判事へいいお土産ですね。尤も判事は撰(え)り好みがあるから、こんな奴は嫌だなんて云うかも知れませんが――」
とプランタさんに云った。
「だがルコック君、此奴をどうしたらいいでしょう。」
「何処(どこ)ぞへ叩(たた)っ込んでおきたいが、いい場所がありませんか。」
「じゃ、物置にしよう。彼処(あすこ)なら壁が厚くて、扉が頑丈だから、逃げようたって逃げられやしない。」
とプランタさんが先に立って、物置の扉をあけたが、そこは真暗(まっくら)な小部屋で、古い本や書類のようなものが積み重ねてあった。
「さア、お前は此室(ここ)の王様だ。」
ルコックが冗談を云いながら、ロベロオを投(ほう)りこむと、彼は水を一杯と、灯(あかり)を貸して下さいと願ったが、コップに一杯の水を与えたっきり、
「灯(あかり)はお断りだ。何をやるか知れないからな。」
ぴしゃり扉をしめきって、鍵をかけた。
やがて書斎に戻って来ると、プランタさんはルコックと堅く握手をして、
「彼奴(あいつ)は私を殺しに来たにちがいないんだが、君のお蔭で、私は危(あぶな)いところを助かりました。有難う。この御恩は他日(たじつ)必ずお返しします。」
「飛んでもない。ただ、この事件で私が昇進したら、喜んで下さればいいんです。」
探偵は謙遜な口調でそう云ってから、
「今の騒ぎで、すっかり話の邪魔をされてしまいましたが、私がお訊きしたいと思ったのは、伯爵がどういう事情から、夫人を殺そうとまで決心をしたかです。」
「それは、他に可愛い女が出来て、夫人に厭気(いやけ)がさしたのでしょう。」
と、ドクトルが説を立てた。すると探偵は首をふって、
「男子(だんし)は、それだけのことでは、自分の妻を殺しはしません。その場合は単に離別して、恋女(こいびと)と一緒になったらいいじゃありませんか。この頃ざらにあることで、世間だってそう厳しく批難もしませんからね。」
「けれど、財産が夫人のものなら、それに目を呉れるでしょう。」
「ところが伯爵の場合は、それとも異(ちが)います。私の査(しら)べたところでは、伯爵が夫人の先夫(せんぷ)ソオブルジイの尽力で、借財を整理した上に、残した金が三十万法(フラン)、結婚契約によって自分の所有(もの)になった金が五十万法(フラン)です。八十万法(フラン)もあれば、何処へ行ったって贅沢な生活が出来ます。その上、所有地の権利は自分の名義になっているから、それを金に替えようと思えば、幾らでも出来るわけです。」
ドクトルが黙りこんでしまったので、ルコックはなお自分の意見をつづけた。
「それ故、伯爵がああした決心をするについては、他に延引(のっぴき)ならぬ事情がなければならん筈です。この事件は金銭以外に、何か旧(ふる)い犯罪に関係があると、私は睨んでいます。それに、今ロベロオがプランタさんを殺しに来たところを見ると、あの無免許(もぐり)医者もひょっとすると、その犯罪に関係したのではないかと思いますがね。」
そのときドクトルは、ふと或る連想から、
「事によると、ソオブルジイが原因(もと)になってるんじゃないかナ。」と云ってみた。
「そのソオブルジイですよ。」ルコックは声に一段と力を入れて、「伯爵が逃亡(にげ)る瞬間まで、危険を冒して探し廻った書類は、きっとそのソオブルジイに絡んだ犯罪について、有力な証拠となるものにちがいないのです。」
プランタさんは、何故か深く沈黙してしまった。魂は遠いところへ彷徨(さまよ)いだして、過去の霧の中に忘(わす)られた挿話を探し求めるかのごとく、きょとんとした眼付で、空間を見つめているのであった。
「実に不思議じゃありませんか。」ルコックはわざと誇張して、「トレモレル伯爵のような、若くて、金持ちで、幸福な人が、夫人を殺害(せつがい)して、地位も名誉も抛(なげう)つとは、なんて因業(いんごう)な過去をもったのでしょう。その上たった二十歳(はたち)の娘さんが、それがために自殺をするという騒ぎなんです――」
「そ、それは酷(ひど)い!」プランタさんは慌てて叫んだ。「ロオランス嬢は、その犯罪とは全然関係がないんです。」
探偵はそれを聞いて、にやりと口許(くちもと)を歪(ゆが)めたようであった。が、興奮しかけたプランタさんは、すぐ冷静に立ちかえって、
「ルコック君、この事件をかくまで見極めた君の天才には、驚きましたよ。こうなった上は、君の知らない部分を、何もかも私がお話(はなし)しよう。好んで口外するのではないが、もう口を噤(つぐ)んでいる必要がなくなりましたからね。」
と云いながら、鍵のかかった抽斗から厚ぼったい書類を取りだして、
「実はこれなんです。私は過去四年間、殆(ほとん)ど二六時中(にろくじちゅう)、この経緯(いきさつ)に注意していたが、ついにああした悲惨なことに終ってしまいました。最初私は一種の好奇心から、これに眼をつけはじめたけれど、後(のち)には私の可愛く思っている者の生命(いのち)にも係(かかわ)るような形勢が見えて来たので、急に真剣になったのです。それでは、なぜ早く適当な処置をとらなかったかと云うと、何分(なにぶん)にも確たる証拠が攫(つか)めないので、私としては結局、知って知らぬ振りをしているより外(ほか)はなかったのです。」
もう夜が明けたらしく、庭の方で早起きな小鳥がちちと鳴き交(か)わし、程近(ほどちか)い街道を野良へ行くらしい百姓の木履(サボ)の音がして、それにときどき、物置の方からロベロオの微(かす)かに呻(うめ)く声が聞えた。
プランタさんは、大切(だいじ)そうにその書類の頁(ページ)をくっていたが、
「しかし、諸君はお疲れでしょうな?」」
ルコックも、ドクトルも、疲れを感ずるどころではなかった。むしろ好奇心ではち切れるような気持だった。
「いや、疲れなんか何処かへ飛んで行ってしまいました。是非その話を聞かして下さい。」
「そんなら、お話(はなし)しよう。」