人は何で生きるか 122022年09月01日

    一二

 すると、天使のからだがあらわれて、全身に光の衣をまとったので、まともに見ることもできないほどでした。そのとき天使は大きな声で話しだしました。それはじぶんでいっているのでなく、天から声がひびいてくるようでした。天使はこういったのでした。
「私はこういうことを悟った。すべての人はじぶんのことを思う心でなく、愛によって生きているのだ。
「母親は、じぶんの子供らの生命のために何が必要なのか、知ることをゆるされていなかった。また金持ちは、じぶん自身に何が必要なのか、知ることをゆるされていなかった。夕方までに、何が必要なのか、生きた者のはく長靴か、死んだ者にはかせるスリッパかということは、いかなる人にも知ることをゆるされていない。
「私が人間になってから、無事に生き残ったのは、じぶんでじぶんのことをいろいろ心配したからではなく、通りかかった人間とその妻に愛があって、私をかわいそうに思い、私を愛してくれたからだ。身なし子が生き残ったのは、みんなが二人のことを心配してやったからでなく、縁もゆかりもない女の心に愛があって、あの二人をかわいそうに思い、愛してやったからだ。すべての人間が生きているのも、みんながじぶんのことを心配しているからではなく、彼らのなかに愛があるからだ。
「私は以前、神様が人間に生命をあたえて、みんなが生きるように、と望んでいらっしゃるのを知っていたが、今度はもう一つべつのことを悟った。
「私が悟ったのはほかでもない、神様は人間がべつべつに暮らすのをお望みでない。それがために、人間めいめいに何が必要かということを啓示なさらなかったのだ。人間が一つになって暮らすことをお望みになればこそ、すべての人間はじぶんのために、また万人のために、何が必要であるかを啓示なすったのだ。
「今こそ私は悟った。人はじぶんでじぶんのことを心配しているから、それでみんな生きていけるのだと思っているのは、ただ人間にそう思われるだけで、ほんとうは愛によって生きているのだ。愛のなかに住むものは神のなかに住んでいるのだ。神様はその人のなかにいらっしゃる。なぜなら、神は愛であるから」
 そういって、天使は神様に賛美歌をとなえました。すると、その声のために家もふるえんばかりでした。と、天井がさっと二つに割れて、地面から大空まで火の柱が立ちのぼりました。セミョーン夫婦も子供らも、床にひれふしてしまいました。ミハイルの背中には二つの翼がさっとひろがって、天使は昇天しました。セミョーンがやっと気がついたときには、家はもとのとおりで、もう部屋の中には家族のほかだれもいませんでした。

第百三十八段2022年09月01日

すべて正解クイズ。

小説『The Invisible Man』の作者は?

1)H・G・ウェルズ(Herbert George Wells、1866年-1946年)。
2)G・K・チェスタートン(Gilbert Keith Chesterton、1874年-1936年)。
3)ラルフ・エリスン(Ralph Waldo Ellison、1914年-1994年)。

厳密には、エリスンの作は定冠詞が無いようだ。
強いて言えば、

1)物理的。
2)心理的。
3)社会的。

と言った感じか。

ルルージュ事件 1 E・ガボリオ2022年09月01日

    一 寡婦の家

 千八百六十二年の春まだ浅い三月六日、恰度(ちょうど)四旬斎の懺悔火曜の翌々日――木曜日のことであった。
 パリから程近いブウジバールという町の警察へ、近所のジョンシェール村の女たちが五人も揃って、只ならぬ様子で駆けこんで来た。
「大変です、人殺しがありましたから、早く調べて下さい」
という訴えだ。
 署長がすぐに面会して聞いてみると、そのジョンシェール村の一軒家に住まっている独り者のルルージュという寡婦(ごけ)さんの家は、戸が開かなくなってから今日で三日になるが、窓には鎧戸をおろし、戸口は鍵をかけたまま厳重に閉めきってあって、誰が叩いても返事がないし、それ以来村で寡婦さんの姿を見かけた者がない。彼女はてっきり家の中で殺されているにちがいないというのだ。
 警察では、この訴えを聞いて俄かに緊張した。
 一体このブウジバール界隈は、セエヌ河に沿うた、ごく閑静な船著場(ふなつきば)で、住民は大てい船乗が多いから、平生(ふだん)酔払いとか、喧嘩というような小さな警察事故はちょいちょいあるが、強盗だの殺人だのという大犯罪は滅多にないのであった。
「とにかく打捨(うっちゃ)ってはおけない。直ぐに俺が行こう」と、署長は早速部下の巡査部長と、二人の警官と、附近の鍵屋とを従え、訴えに来た女たちを案内者として、そのルルージュ寡婦の家へ出かけて行った。
 それは恰度ブウジバールとマルメエゾンとの中間に位する丘の中腹に建った、小じんまりとした一軒家で、そこから広々としたセエヌ河の景色が一目に見晴らされた。パリのある商人の所有(もっ)ている家作で、小別荘(カテイヂ)まがいの、ごく質素ながら気持よく出来た家だ。
 周囲に荒れた庭があって、その外側は、高さ四尺ぐらいの石塀で囲まれ、門のところには、板扉が蝶つがいの代りに針金で無雑作に止めてあった。
「この家でございます」
 女たちが署長にいった。
 途中から次第に殖えた野次馬が、その時はもう四五十人の群衆となって、うようよ尾いて来ていた。
「モシモシモシモシ」
 署長はしばらくその閉まっている戸口や鎧戸を叩きながら、声をかけたが、森閑として返事がないので、
「こりや可かん、早く開けろ!」
 そこで鍵屋は、道具函から鍵束を取りだして、穴に合う鍵を発見するためにがちゃがちゃ試(や)っていると、
「やあ、鍵がありました鍵がありました」
 野次馬が口々に叫んだ。
 一人の少年が、ふと路ばたの溝に投りこんであった大きな鍵を拾って、大威張で持って来たのが、此家の鍵に相違なかった。
 鍵屋は早速それを使って、わけなく戸口を開けた。
 署長は、巡査部長と鍵屋だけをつれて、屋内(なか)へ踏込んで行った。
 警官に遮断された野次馬連は、足踏をやったり、石塀に取りついたりして、屋内の様子を覗こうと犇めいていた。
 犯罪があったらしいという予感は果して誤たず、それは署長たちが突っかけの部屋へ足を踏入れた瞬間からわかったのだが、その部屋では、用箪笥と二つの大トランクの錠前がこじ開けられていたし、更に奥の部屋へ行くと、一層ひどい乱雑さで、ルルージユ寡婦は、この奥の部屋の炉ばたに、屍体となって横たわっていたのである。
 彼女は俯伏せに灰の中へのめり込んだまま、顔の半面が黒焦げになって、髪も少しばかり焼けていた。その火が著衣(きもの)に燃えうつらなかったのは、全く奇蹟だった。
「酷いことをやりましたな。こんな頼りない女を殺さんでもよさそうなもんですがね」
と巡査部長がいった。
「だが致命傷はどこだい」署長は眉をひそめた。「血が見えんようだが」
「ここです、背中を二突きやられていますが、これじゃアッという暇もなかったでしょう」
と巡査部長は屈みこんで、屍体に触りながらいった。
「すっかり冷くなって、硬直しています。死んでから、少くも三十六時間は経過しているようですな」
 そこで署長は、手早く簡単な報告書を認(したた)めてから、
「さア、愚図々々しちゃいられない。ブウジバールの町長と保安判事へ、この事を大至急知らせてくれ。それからこの報告書をパリの裁判所へとどけさせてくれ。そうすると予審判事が二時間と経たぬうちに臨検にやって来るだろう。俺はその間に、所轄署長として取調べをはじめなければならん」
と巡査部長に命じて、その後ですぐに正式の審問に取りかかった。
 一体この被害者のルルージユ寡婦というのは、どういう素性の女か。何処からこの土地へやって来て、何によって生活していたのか。日常の習慣や、行状や、それから交遊関係はどうか。敵をもたなかったか。内福という評判でもあったか。それらの点を、署長はまず突止めようとするのだった。
 そこで、門前に騒いでいた近所の者達を、片ッぱしから証人として呼出したが、彼等はもともと証言を述べるために来たわけではなく、単に好奇心から集まって来た野次馬に過ぎないので、申し立はどれもこれも断片的で、不完全だった。尤もこのルルージユ寡婦は、この土地に生れた女ではなくて、代所者(よそもの)だから、村人が彼女のことを詳しく知らぬのも無理がなかった。
 それでも、約二時間審問をつづけて、多くの証人から聞出したところを綜合してみると、このルルージュという女は、今から十二年前にこの家作を借りると自費で修繕を加えて、それ以来ずっとここに住まっているのだ。齢は五十四五だが、極めて壮健で、元気よく立働いていた。何処からどうして、この知らぬ土地へ来て暮らすことになったのか、その間の事情は誰も知らないがときどき白モスリンの頭巾をかぶっている習慣から察して、多分ノルマンディの方から移って来たらしく思われる。しかしその頭巾をかぶるのは夜間だけで、昼間は齢にも似合わずひどく色っぽい衣物を著(き)ている女であった。
 いつも小綺麗な服装(みなり)をして、帽子に華美(はで)なリボンを捲いて、ジプシイのように沢山の宝石を身につけている女だったが、ここへ来る以前にも何処かの船著場に住まっていたらしく、船乗とか、海に関係した話は、彼女の会話の中に絶えず出て来る題目であった。
 良人(おっと)は船乗だったが、船が難破したために死んでしまったということを、ちょいちょい他に洩したけれど、不思議なことに、その良人について詳しい話をしたことがない。兎角良人の噂をすることを避けたがる風が見えた。
 或る時、彼女は牛乳配達やその他二三の村人と世間話をした序(ついで)に「わたしほど夫婦仲の不幸な女は、たんとありはしない」と歎(こぼ)したこともあり、また或る時は、「何もかも新規捲き直しで、さばさばした気持です。船乗りの亭主は、たった一年間わたしを可愛がったきりよ」
 そんなことも云ったそうだ。
 そのくせ彼女はこの界隈では、よほど小金を持っていると思われていた。とにかく工面がよさそうで、決して吝(けち)ではなかった。食べ物なんかも可成り贅沢な方で、好きな葡萄酒はいつも豊富に買込んでいた。近所の友達にもときどきすばらしい御馳走をすることがあった。
「あなたは御裕福で結構ですわねえ」
と友達がお世辞をいうと、
「わたしはね、地所も家屋も自分の所有じゃないけれど、何一つ不自由がありません。もっと金持ちになろうと思えば、幾らでもなれたのよ」
 そんなことを誇らしげにいうこともあった。
 だが、可成り饒舌で、自慢好きなくせに、何処か用心ぶかいところがあって、殊に自分の前身については絶対に語らなかった。しかし何しろ広く世の中を見て来た女で、世態人情の表裏を知りぬいていたことは確かだった。
 村の者以外に、他処から彼女を訪ねて来る客というものは滅多になかった。只、一人の上品な婦人が若者をつれて二三度来たことがあり、それから二人の紳士――その一人は年老った堂々たる風采の紳士で、もう一人は眉目秀麗の青年紳士だった――が一緒に立派な馬車に乗って訪れたのを、村人が一二回見かけたということだ。
 なおこの外に、訪問客という程度ではないが、ときどきやって来る男が二人あった。一人は鉄道にでも働いているかと思われる若い労働者風の男、もう一人は四十以上の年輩で、作業服を著て、顔が陽に炎けて赤ちゃけた頤髭のある、一見人相の悪い男であった。
 近所の観察によれば、この二人がどうも彼女の情夫だろうと想像された。
 多くの証人を調べた結果、大体、これだけのことがわかったのである。
 そこで署長は、これらの供述の要点を自分でせっせと記述しはじめたが、恰度最後の一枚を書き終ってペンを擱いたとき、予審判事の一行が到著した。即ちパリ裁判所の予審判事ダブロン氏が、警視庁の有名な探偵長ゼブロール警部と、その部下のルコック刑事とを従えて、臨検にやって来たのである。
 このダブロン判事は、齢は三十八という働き盛り、非常な精勤家で、頭もよく、どんな複雑した事件でもてきぱきと片附けて行く、恰度代数の難問題を解いて既知数から未知数を得るように多くの些細な事実や証拠を取捨銓衡して、推理によって事件の中から真犯人を摘出することに於ては、非凡な頭脳をもっている。だから部内では評判がいい。而も冷厳な中にも一脈の人情味があって、涼しく澄んだ、人好きのする容貌ながら、何処かに寂しそうな哀愁を湛えている人だ。
 ゼブロール探偵長は、警視庁でも蛮勇をもって聞えた人物で、七面倒な推理よりも、経験と度胸で押して行こうという、所謂力の探偵、見込捜査の名人である。
 この探偵長に従うルコック刑事に至っては、後に一代の名探偵と謳われ、フランス切っての名物男となっただけに、その鋭鋒は包もうとしても自ずから顕われるのだが、何をいうにも、この時分は駆けだしの若手刑事で、まだまだ重くは用いられず、ひそかに脾肉の嘆を発していた時代なのである。
 今この一行がやって来たので、署長はほっとして、何だか肩の重荷が軽くなったのを感じた。そして直ちに、たった今作製した調書に基いて、事の大略をダブロン判事に報告した。
 判事は熱心にその報告に耳を傾けていたが、全部聞き終ると、
「御苦労々々々、それでよく解りました。ところで、もう一つ確めるべきことがありますね」
「といいますと?」
「この被害者を村の者が最後に見かけたのは、何日の何時頃でしたかね」
「私も今それを申し上げようと思ったところです。最後に彼女に会った者の申し立によると、それは懺悔火曜日――つまり一昨日の夕方で、五時二十分過ぎ頃だったそうです。彼女はそのときブウジバールへ買物に出かけた帰りがけで、何か食糧品を入れた籠を手に提(さ)げていたそうです」
「その時刻は正確でしょうな?」とゼブロール探偵長が傍から念をおした。
「間違いはありません。これには二人の証人があります。村のテリエという女と、もう一人は近所の桶屋ですが、この二人が一昨日の夕方乗合馬車から降りるとすぐ、四つ角でルルージュ寡婦と出っ会(くわ)したので、何か世間話をしながら一緒に歩いて来て、此家の戸口の前で別れたということです」
「被害者が提げていたその籠には、何が入っていたかね」と判事が訊いた。
「その点は証人等もはっきり判らなかったが、ただ葡萄酒の壜が二本とブランデーの壜が一本ちらと見えたそうです。ルルージュ寡婦はそのとき頭痛がするといって『今晩は懺悔火曜日で、人が面白可笑くお祝いでもしようというのに、わたしはこれから帰って、寝なければならない。ほんとうにつまらないわ』そんなことをいって歎(こぼ)していたそうです」
「ははア、そんなことを云いましたか?」と探偵長が勇み立った。「そりゃ来客を避ける口実にすぎないので、実は情夫と楽しもうという算段なんですね。そんならもう犯人の目星がつきましたよ」
「えっ、誰だね?」判事が訊いた。
「先刻署長も云われたように、作業服を著た陽に炎けた男が時々此家へ訪ねて来るそうですな。其男が怪しいと思います。そのブランデーや葡萄酒もその情夫のために寡婦が仕入れて来たもので、多分両人差向いでゆっくり食事をしようという寸法だったでしょう。彼奴はその晩やって来たにちがいない」
「さあ、それはどうですかな。彼女はもういい加減な婆さんで、見っともない女ですよ」
と巡査部長が不平らしくいった。その情夫のことは自分達所轄署の者だって迅(と)うに気づいて、一応は考えてみた問題なのに、探偵長が如何にもれいれいしく云いだしたので、少し侮辱を感じたらしかった。
 するとゼブロールは、憫れむ眼附でこの率直な巡査部長を見かえした。
「部長、それは君、金持の女というものは、しようと思えば何時だって若々しく化粧(ばけ)られるもんだよ」
「それも左様(そう)だが」と判事が口を挿んだ。「第一に、その陽に炎けた男が果して情夫だったかどうか。私は疑わしいと思う。それよりも『もっと金持になろうと思えば、幾らでもなれた』とかいったルルージュ寡婦の言葉に意味がありそうだがね。そこに何か秘密がないかな」
「私も実はその言葉に何かありそうに思いますがね」
と署長も判事に同意した。
 けれど、ゼブロールはそれには耳を貸さずに、飽くまでも自説を固執した。そして早速自分で部屋の中を検べはじめたが、やがて突然に署長に向って問いかけた。
「今思いだしたが、最近に雨が降ったのは、たしかこの兇行のあった火曜の晩でしたね。殆ど二週間振りの珍しい雨だったが、ここでは何時頃でしたか、あの雨が降りだしたのは?」
「九時半頃です」巡査部長が引取って答えた。「私が晩餐を終えてからダンスホールを見廻りに出かけると間もなく、恐ろしい土砂降りで、往来の舗石(しきいし)の上半インチも水が流れたくらいでした」
「じゃ、犯人が九時半過ぎに此家(ここ)へやって来たとすれば、靴が濡れていた筈だ。もし濡れていなければ、九時半前に来たわけです。第一にこの点を確めるべきだと思うが、どうです署長殿、床にそれらしい足跡がありましたか?」
「いや、実はそこまで気がつかなかったので」
「うむ、それは手ぬかりでしたな」と探偵長は頗る不機嫌だ。
「しかしゼブロール君、それを調べようと思えば、まだ遅くはない。奥の方へ入ったのは、私と巡査部長だけだから、犯人の足跡が残っておれば見分けが出来るわけです」
 署長がそういって奥の部屋の戸をあけようとすると、ゼブロールは慌てて遮った。
「ま、お待ちなさい――人が入らぬうちに、先ず私が単独で検べたいんですがね、判事殿?」
「それがよかろう」ダブロン氏が同意した。
 そこで探偵長は、独りでつかつかと奥の部屋へ入って行ったので、他の人々は、遠慮して閾際に立っていた。



・前述した通り、ガボリオのルコック物第1作。とは言えルコックは傍役。
「史上初の長篇探偵小説」と言う歴史的意義に関しては概ね衆目(作家・評論家)の一致する所のようだが、作品としては第2作『書類第113(Le dossier No. 113)』や、第5作『ルコック探偵(Monsieur Lecoq)』の方が評価が高いようだ。いずれにせよ、現代から見れば「old fashioned」の感は否めないと思われるが。

第百三十九段2022年09月02日

現在「A=440Hz」を遵守しているオケやバンドは世界中にどれくらいあるんだろう?

ソロ専門のギター・プレイヤーなら兎も角。

ルルージュ事件 22022年09月02日

    二 犯人は情夫か

 探偵長は現場に一瞥をくれたが、その室内の様子は、まるで狂漢が好き放題に暴れ廻った跡のように、乱雑を極めていた。
 まず部屋の中央に、真白な卓布をかけた食卓があって、その上にはすばらしい酒盃や、特製のナイフや、上等の皿など、一人分の食器が並べられ、なお、口を抜いたばかりの葡萄酒の壜が一本と、小杯で五六杯飲んだかと思われるブランデーの壜が一本載っていた。
 右方の壁側には、飾り錠と真鍮の蝶番のついた戸棚が二つ、どちらもがら空きで、内の品物は床の上に散乱していた。衣類や、反物、絹切などは矢鱈にひろげだされ、その他のさまざまな品物は雑然ところがり、或いは微塵に砕けていた。
 背(うし)ろの方は、炉のそばの壁によった食器棚も、戸がこじ開けられ、大理石のトップのついた箱台は叩き壊され、奥底までも捜した形跡がある。書卓(デスク)の上蓋は押し除けられて、危く一つの蝶番でぶら垂(さが)り、その抽斗(ひきだし)はひき抜いて床へ投(ほう)り出されていた。
 更に左の方を見ると、寝台は完全に荒らされていて、寝具はひっくりかえり、敷布団は切り裂かれて、内に詰めた藁が喰(は)み出していた。
「足跡は一つもない」探偵長はがっかりして呟いた。「して見ると、犯人は九時半前にやって来たんだな。さア皆さん、お入りなさい」
と声をかけながら、屍体のそばにしゃがんで創口(きずぐち)を一見すると、
「うむ、確(しっ)かりした手際だ。こりゃ青二才の仕事じゃない」
 それから左右を見廻して、
「おお、この女は可哀そうに、料理をやっている最中に殺(や)られたんだね。御覧なさい、焼鍋(フライパン)の中にハムと鶏卵が入っています。犯人は自分に出される御馳走の出来上るのを待ちきれずに殺(やっ)つけたらしい。しかもこんなに確(たしか)な打撃を加えた点から見ても、こりゃ酔っぱらって痴話喧嘩の上に殺したのとわけが違う」
「物盗りが目的ですな、確に」と署長がいった。
「どうも左様(そう)らしいです。その証拠には、食卓の上に銀器が一つも残っていない」
「ところが、抽斗の中に金貨がありますよ。三百二十フランほど入っています」
とルコック刑事が、このとき初めて口をきいた。彼はそれまで独り離れて、要所々々を丹念に検べていたのである。
「ナニ、金貨が?」
 ゼブロールはひどく狼狽して叫んだが、直きに冷静になって、
「そりゃ犯人が忘れたんだよ。よくあるやつで、それが目的で人殺をやったくせに、慌てて肝腎の獲物を忘れて逃出すんだ。この犯人も兇行の後で狼狽したのか、否ひょっとすると、そのとたんに外から戸を叩いた者でもあったので、慌てたかもしれない。そうだ、多分左様と思われるわけは、犯人が燭台をつけっ放しにして帰ったのではなく、消して逃げたんだ」
「それは何でもないことです」とルコックがいった。「犯人が平素(ふだん)倹約な、或いは注意ぶかい男であることを証明しているんですよ」
「ふむ、何方(どっち)にしろ左様(そん)なことは大した問題でない」
 さてこの両人の探偵は、それから家中の隅々にわたって綿密な検索を行った。が、彼等が当惑したことには、何等新しい発見がなかった。実際の手がかりは無論のこと、犯人の何者であるかを推定すべき材料が何も見当らない。また殺された女の大切な書類――彼女は無論そういうものを所持していただろう――は、きれいに紛失していて、手紙一本、紙片一枚も眼に触れない。
「実に手際のいい仕事をやったものだ。鮮かな手口だ」
 探偵長はときどき立ち止っては、こんなことをぶつぶつ呟いていた。
「どうだい、何か見込がついたかね」
 判事が待ちかねて訊いた。
「難しくなって来ました。今のところ、奴に一杯喰わされた形です。実に用心ぶかくやったもんですが、しかし夕方までには大捜索をやって、きっと捕まえてお目にかけます。何しろ銀器と宝石類を持ち出したんですからな。これが彼奴(きゃつ)の致命傷ですよ」
「それにしても、有力な手がかりは一つも見附からんじゃないか」
「それは仕方ありません。探偵だって人間で、能力に限りがありますからな」
 ゼブロールは苦しそうに弁解した。
「ああ、惜しいことだ」とルコックは低声(こごえ)で、しかしわざと聞えよがしに呟いた。「こんなときにチロオクレールさんが来てくれるといいんだがなア」
「馬鹿をいえ。あの人が来たって、我々以上の働きが出来るものか」
とゼブロールは憤然として部下を睨みつけた。
 するとルコックは黙って視線を外(そ)らした。が、今自分が口走った名前一つで、この蛮勇探偵長が忽ち自尊心を傷けられたように憤りだしたのを見ると、頗る痛快だったのである。
「チロオクレールっていうのは誰だね、何だか聞いたような名前だが」
と判事が訊ねた。
 成るほど判事ならこの名を聞いたことがあるかも知れない。チロオクレールといえば世間には絶対に知られていないけれど、警視庁の隠れたる顧問で、難しい事件があるごとに、担任刑事等は暮夜ひそかにこの人を訪(おとな)うて意見を叩く。時によっては特に出動を求めることもある。そして彼が一度(ひとた)び乗り出して来ると、どんな難事件でも大抵解決をつけるのだ。そのくせ彼は名誉だの報酬だのを貰うことは大嫌いで、飽くまでも隠れたる黒幕探偵として、全く道楽にこの仕事をやっているという、当代の一畸人なのである。
「なアに、チロオクレールというのは仮の名で、本名はタバレという老人ですがね」探偵長はわざと軽く答えた。「彼はもと公設質店の書記をやっていたが、金も出来たので、今は楽隠居です。何しろ探偵が唯一の道楽で、普通の人が音楽や絵を嗜むように、彼は探偵を楽しんでやっているという変り者ですよ]
「それを内職にして報酬を稼ごうというんでしょう」
 署長が訊くと、
「タバレさんが? そんなことはありません」とルコックはむきになっていった。「あの人は報酬を取らぬばかりでなく、時によっては身銭(みぜに)を切っても仕事をやります。犯罪捜査ということが道楽で、自分の探偵術の成功するのが何よりも嬉しいのです。だからこれまでだって、随分沢山の難事件を解決していますが、それは鮮かなもんです」
「じゃ、君が行ってそのタバレ氏を呼んで来たまえ。こうして愚図々々しちゃいられないからね。私からも頼んで、この事件を手伝って貰いたいと思う」
 判事がルコックにいうと、
「はい、承知しました」
 彼はそれを待ちかまえていたように、早くも駆けだした。
 するとゼブロールはひどく屈辱を感じたらしく、判事に向って、
「誰をお呼びになろうと御随意ですが、一つ御注意しておきたいのは、タバレ氏をあまり御信用なさらん方がいいでしょう」
「何故だね?」
「なぜって、あの老人は熱心すぎて直きに天狗になり、孔雀のように虚栄心が強くて、評判を取ろうとして大袈裟にやり過ぎる癖があります。例えば今日のこの事件にしても、彼がやって来ると即座に有理(もっとも)らしい話を発明して、兇行の現場を見てでもいたように滔々と述立てます。恰度生物学者が一本の骨から前世紀の動物の形態をでっち上げるような筆法で、法螺を吹くんです」
「そうかね、じゃ私もそのつもりで話を聞くことにしよう」
と判事はあっさりと答えた。
「ところで署長さん、ルルージュ寡婦の身元も判明せんようだから、それらの事も知りたいし、兎に角私も一度審問をやってみよう」
 それから判事は数名の証人を呼びこんで、自分でもう一度取調べをやったが、やはり署長の取調べたのと同様で、それ以上の新しい証言は得られなかった。
 犯人については、証人等の見るところもゼブロールと同じで、十人が十人まで、被害者の情夫と想像されている作業服を著(き)た陽に炎(や)けた男が怪しいといった。
 証人等は、その男の獰猛な顔附を思いだした。その男が村へ来たときに或る女を威嚇したり、村の子供を殴ったりしたことがあったそうで、兎に角評判がわるい。けれど害をうけたのはどの女、どの子供とはっきり判明しているわけではなかった。
 判事はこの審問から何等の光明を見出せないのに業(ごう)を煮(に)やしていると、そこへ誰かがルルージュ寡婦がいつも買物をするブウジバールの食料品店の主婦(かみ)さんと、村の十二三歳の少年とをつれて来た。この二人が寡婦について何か知っているということであった。
 最初に食料品店の主婦(かみ)さんが調べられた。彼女の語るところによれば、ルルージュ寡婦は多年の顧客(とくい)で、可成り親しくしていたそうで、寡婦は買物の後で、一時間も話しこんで行くこともあったが、或るとき死んだ良人の話をして、「良人は船に乗込んで遠い外国へ出かけるときは、二年も帰って来ないことがあった。そんなときは、ココナットを土産にもって来てくれたものだ」といい、また「わたしは倅が一人あってやはり船乗職業だが、今は海軍の水兵をやっている」と、そんなこともいったそうだ。
「で、その倅の名前をいわなかったか」
 判事が訊いた。
「その日はいいませんでしたが、その後で、あの女が少し酔っぱらって店へ寄ったときの話では、息子さんはジャックという名前だそうですが、久しく逢わないということでございました」
「彼女は良人の悪口をいっていはしなかったか」
「御亭主は乱暴で、嫉妬ぶかくて、根も葉もないのに自分でいろいろ拵えごとをするので、それが喧嘩の種になったそうですが、元来は気のいい、親切な人であったといっていました」
「その倅が母親を訪ねて来たことはないかね」
「息子さんが来たっていうことは、一度も聞いたことございません」
 なお主婦さんの話では、ルルージュ寡婦は彼女の店で毎月六十フランぐらい、月によってはそれ以上の買物をすることもあった。ときどき上等のブランデーを買ったが金払いはきれいな方であったということだ。
 次に少年が呼出された。相当楽に生活している家庭の子供らしく、齢の割合に大きく、智慧もませた少年だった。
「この事件について、お前の知っていることを話して御覧」
と判事から問われて、
「四五日前の日曜に、僕はルルージュ小母さんの家の門のところに、知らない男の人が立っているのを見ました」
と少年が答えた。
「それは日曜の何時頃か」
「朝です。僕が教会堂へ行く途中だったんです」
「で、お前が見かけたのは、顔が陽に炎けて、作業服を著た、丈の高い男だろう」
「ちがいます。丈は低くて、肥(でぶ)さんで、年老った人です」
「大丈夫かい。間違いじゃないだろうな」
「間違いじゃありません。僕は傍でよく見たんです。そして話もしたんです」
「じゃ詳しく云って御覧」
「それはね、僕が此家の前を通りかかると、その肥さんは、門のところに立っていたんですが、何だか、ひどく困っていたようです。頭の頂天(てっぺん)まで赤黒い顔をしていました。禿げ頭で帽子をかぶっていなかったから、僕はよく記憶(おぼ)えています」
「その男がお前に何か話しかけたんだな」
「ええ、僕の顔を見ると、頼みたいことがあるっていうもんですから、傍へ行くと、ちょっと僕の耳をひっぱって、『いい子だから河岸まで一っ走り使いに行ってくれないか。荷揚場に大きな一本マストの船が繋泊(かか)っている。その船へ上って行ってゼルベエという船長に、俺が今すぐ帰るから、船を出す準備をしておくようにいってくれ』そういって、僕に使い賃を二十スーくれました。僕はすぐに駆けだしました」
「それからお前はどうした」
「その船へ行って船長に会って、頼まれたとおりにいいました。それっきりです」
 この取調べを熱心に聞いていたゼブロール探偵長は、
「私にも一言問わせて下さい」
と判事に囁いてから、少年に向って、
「お前はその使いを頼んだ男を見覚えているだろうね。今逢っても分るかね?」
「ええ、覚えていますとも」
「じゃ、何かその男に特別な点があっただろう」
「ええ、顔が煉瓦色なんで」
「作業服を著ていただろう?」
「いいえ、普通の背広です。大きなポケットから青絞りのハンケチが喰み出ていました」
「ズボンやチョッキはどうだい?」
「それははっきり記憶(おぼ)えていません。チョッキは著ていなかったようです。襟には長いクラバットを巻いていました」
「そうかい、お前はなかなか記憶(きおく)がいいな。もっと考えたらきっとまだ特別な点があるだろう。ようく考えて、思いだして御覧」
 少年は首を垂れてじっと沈思した。子供らしい顔を顰めて、記憶を喚出(よびだ)そうと頻りに考えていたが、
「あっ、思いだしました」
「何だい?」
「その人は耳に大きな環をかけていました」
「偉い!」ゼブロールが叫んだ。「それがわかればもう間違いっこなし。その耳環の男を捜せばいいのだ」
 そのとき判事は思いついたように再び訊いた。
「お前が使いに行った船には、どんな荷物が積んであったかね」
「荷物には蓋被(おおい)がかかっていて見えませんでした」
「じゃ、その船は河を上るところだったか、下るところだったか?」
「じっと碇泊(とま)っていました」
「いや、その船は何方(どっち)向きになっていたか。判事さんはそれをお訊きになるんだよ」とゼブロールが問いを引取った。「ようく考えて御覧。船首はどっちへ向いていたんだ? パリの方か、それともマーリーの方か?」
「どっちの端も同じようで、僕にはよくわかりません」
 探偵長はそれを聞いて落胆したが、
「だが船の名前は思い出せるだろう。お前は文字が読めるね? その船に何か名前が書いてありはしなかったか」
「名前なんか一つも見附からなかったんです」
「そうかい。でも、お前はそのゼルベエという船長に会ったんだな?」
「ええ」
「船長はどんな男だったんだい」
「ここいらを歩いている船乗の小父さんと同じような恰好をしていました」
 少年の知っていることは、それだけだった。