メデューサの首 2 ― 2022年05月31日
(二)霊夢(れいむ)
併(しか)しペルセウスは、母の身の上に、こんな危険が迫っていようとは知らなかったので、何の懸念もなしに、船へ乗って、楽しい航海の旅にのぼった。或る日船はサモスの島へ着いて、荷を積み込んでいる間(あいだ)に、ペルセウスは林の中へ入って、涼しい木蔭に横になった。そのうちに、我知らず、うとうとと眠ったと思うと、蝶の翼にのって、花から花へと飛び移って行くような快(い)い気持になって、軽い、楽しい夢を追っていた。その時ペルセウスの前には、一人の気高い婦人が現われた。春の空のように光のある水色の長上着(ながうわぎ)を着て、右の手には一本の槍をさげ、左の手には鏡のように磨いた銀の楯を持っている。婦人は、夏の曙の海のような深い灰色の眼を、ペルセウスの顔へ注ぎながら、こう言った。
「わたしはパラス・アテーネです。わたしには男の心の底が瞭乎(はっきり)と分る。動物のような遅鈍な心を持った者も沢山ある。彼等は無事な日を送って、胸の裂けるような悲しみも知らなければ、魂の天外に飛ぶような非常な喜びも味わわない。併しそういう種類の人間は、わたしには有っても無くてもいい。無くてならないのは、血の涙を流し、人間以上の悦びを味わうような心です。この人々には、苦痛と悲しみと失望とがあるが、その眼は何時もオリムポスの山上を望んでいる。彼等は如何なる苦痛をも忍び、如何なる悲しみをもじっと辛抱して、如何なる場合にも、望みと信仰を失わない。永久に勇敢な戦いを続けて、地上でするだけの事をすました後(のち)には、眼に見えない翼に乗って、霧と喧騒(さわぎ)と闘争(あらそい)の巷(ちまた)を脱して、不死不滅の世界へ運ばれて行く。」
こう言って、女神はペルセウスの手を取って、返答を促(うなが)すように言った。
「ペルセウス、お前は安逸な日を送る遅鈍な心の持主になりたいか、それとも人間以上の悦びを味わいたいと思うかえ?」
こう言われてペルセウスは、夢の中でこう答えた。
「野の草を腹いっぱい食って、安逸の日を送る動物のように、非常な悦びも、血の出るような苦しみも知らずに死んでしまうよりも、いっそ死ぬまで戦い、死ぬまで苦しんで、生き甲斐のある命を送りたいと思います。」
この答えを聞くと、パラス・アテーネは嬉しそうに笑った。そして一つの恐ろしい画を見せて、次の話を語り出した。
暗い、冷たい、西の国に、三人の姉妹が棲(す)んでいる。その中(うち)の一人で、メデューサと云うのは、元はアテーネの使女(つかいめ)の中(なか)でも、一番美しい処女(おとめ)であったが、顔の美しいに似ず、心の曲った女だったので、アテーネはその罰として、メデューサが自慢の金髪を一つ一つ毒蛇(どくじゃ)に変じた。以前には愛の揺籃(ようらん)であった彼女の眼は、今では愛の墓と変じ、薔薇色の頬は、鉛のような死の色と変った。それ以来、メデューサの顔は、世界の恐怖の一つとなった。彼女(かれ)は罪と悲しみに心を責められて、その顔はいよいよ醜く、恐ろしく、冷たく、凄いものになって、その棲んでいる洞窟の周囲や、その近所(ちかく)の森の中は、彼女の氷のような眼に睨まれて、石になった人や獣で埋まっている。
パラス・アテーネは、この話をする間に、研ぎすました楯の面(おもて)へ映ったメデューサの顔を見せた。ペルセウスはそれを見ると思わず身が震えた。その時アテーネは声をひそめてこう尋ねた。
「ペルセウスよ、この憐れな女の悲しみを止めてやる気はないか?」
「やりましょう――神々が助けて下さるなら。」
するとパラス・アテーネは、満足したようににっこりと笑った。と思う中(うち)に、女神の姿は消えて、ペルセウスは夢から醒めた。彼は夢の中(なか)の事を考えて、何とも言えぬ不思議な心持ちになって、少時(しばらく)はぼんやり考え込んでいたが、その不思議を胸の底へ深く畳んで、船の方へ帰って行った。
妻を尋ねて幽界まで 1 ― 2022年05月31日
「妻を尋ねて幽界まで」(『ギリシャ神話』より) 中島孤島
(一)詩人の王
詩人の王と呼ばれたオルフェウスは、トラキヤの国で生れた。父は音楽の神アポロンで、母は九人のムウザの中に数えらるるカリオーペであった。彼が生れた時、アポロンは一個の竪琴を与えて、自分から手を取って、その弾き方を教えた。小児(こども)は父なる神の才を受け継いで、直(じき)に技術の妙境に達した。彼が竪琴をとって弾き出す時、あらゆる野獣は、森の茂みや岩の洞(ほら)を出て、我知らずその周囲(まわり)に引き寄せられた。友を呼び交す鳩の声も、冴えた雲雀の歌も、耳を裂くような鶇(つぐみ)の声も、流れるようなナイチンゲールの夜の歌も、彼の音楽の前には、ぴったりと音をひそめた。その美妙(びみょう)な音律には、風も囁きを止(と)め、林の木も自然にうなずいた。人でも、獣でも、木でも、岩でも、彼の音楽の魅力を感じないものはなかった。子守歌を弾くと、すべてのものはたわいもなく眠ってしまった。愛の曲を奏でる時には、諸々の花は一時に開いて、野も、山も、彼の奏でる歌の調子に共鳴するように見えた。また彼が開戦の曲を弾き出すと、多くの猛獣は忽ち眠りから醒めて、咆哮の声をあげ、トラキヤの勇士等(ゆうしら)は、武者振いしてその小屋を跳び出すのが例であった。
オルフェウスは、成長した後に、その威(い)と徳とを以て、多くの人民から崇められ、トラキヤの国中でも、最も有力な王となった。そのうちにエウリディケという美しい妻を得て、少時(しばし)は幸福な日を送っていた。けれども二人の結婚の日に、その祝宴に臨んだ婚姻の神ヒメンは、不吉な前兆を持って来た。ヒメンの手に取った炬火(たいまつ)は、いつものような金色(こんじき)の焔を立てずに、ただ真黒な煙を立てて燻(くすぶ)っていた。二人はその煙のために目から涙を流した。その時には、これが何の前兆になるのか知らなかったが、ほどなくそれが恐ろしい凶事の前兆であったと分った。
或る日エウリディケは、仲間の神女等(ニムフら)と連れ立って、森の中をさまよっていると、一人の牧羊者(ひつじかい)が遠くからエウリディケの姿を見て、その美しさに心を奪われ、夢中になって追いかけて来た。エウリディケは、男に追われたので、びっくりして、これも一生懸命に逃げ出したが、やがて人の丈(たけ)ほどにも茂った羊歯(しだ)の中を踏み分けて行くうちに、その葉蔭に潜んでいた毒蛇に足を噛まれて、恐ろしい苦悶のうちに息が絶えてしまった。
エウリディケを失ったオルフェウスの悲歎は、殆ど譬(たと)えを取るものがないほどであった。真黒な海の上を吹いて来る夜の風も、難船と溺死の消息を伝えて来る心細い疾風(はやて)も、闇の中で友を呼ぶ鳥の声も、かすかにわななくはこやなぎの葉の囁きも、オルフェウスが奏でる悲しみの曲の前に、ぱったりと鳴りをひそめた。
その悲しい歌は、天上の神々にも、地上の人間にも、この世界の一切のものに向って、心の悶えを訴えたけれども、オルフェウスの心には、何の慰めも来なかった。終(つい)に歌によって悲しみを消すことが出来ないと悟った時に、オルフェウスは竪琴を抱いて、オリムポスの山上へ辿って行った。そして大神(おおがみ)ゼウスの前に立って、その切なる胸の中を訴えて、冥府の国へ降(くだ)って、妻を索(もと)めることの許可(ゆるし)を願った。大神も彼の切なる心を汲んで、その願いを許したが、それにつけても其処へ行く道の危険なことをくれぐれも言い聞かした。併しオルフェウスの愛は、どんな危険をも恐れないほどの強さを持っていた。彼は大神の前を退(さが)るや否や、テナルスの岬をさして道を急いだ。其処には一つの洞があって、昔から冥府の入口だと言い伝えられていた。
オルフェウスは竪琴を抱いて、暗黒(あんこく)な洞の中へ進んで行った。彼は愛の力に引かれて、地上の光の通(かよ)わない闇の中を辿って行くうちに、終(つい)に冥府の門に達した。噂に聞いた地獄の番犬のケルベロスは、三個(みっつ)の頭を振り立てながら、この闖入者(ちんにゅうしゃ)に向って、恐ろしい吼声(ほえごえ)を立てた。その時オルフェウスは徐(しず)かにその手にした竪琴に指を触れると、猛獣は忽ち声を止めて、三個(みっつ)の頭を垂れながら、懐かしそうに彼の足元へ寄って来た。彼は徐(しず)かに門を入って、ハーデスの領土へ踏み込んで行った。
その時ハーデスの王国では、絶えて聞かれなかった美妙な音楽が、オルフェウスと共に流れて行った。その音楽は、優しい愛の思いを歌い、綿々として尽きない別離の情を歌い、また地上の美しいものや、世界にありとある悲しみや希望について歌った。竪琴の音色(ねいろ)は、譬えば黒い天鵞絨(ビロウド)の柩衣(ひつぎかけ)へ織り込まれた銀の糸のように、細く冴えた一節(ひとふし)の旋律を闇の領土へ拡げて行った。
細い糸の音(ね)が、むせぶように冥府の底へ透(とお)って行った時に、タンタロスは、その渇きをいやそうとして、流れをすくう果てしのない仕事をやめて、我知らずその妙音に耳をすました。イクシオンの車も、少時(しばし)は廻転を止めた。シシフォスも石を転がして行く手を止めて、岩へ腰かけて耳を傾けていた。ダナウスの娘等(むすめら)は、篩(ふるい)で水を汲みあげようとする仕事を休んで、この音楽に聴き惚れていた。復讐の女神エリニエスの頬にも、冷たい涙が流れた。その他風に吹きまくられる木(こ)の葉のように、この闇の世界を往来するすべての霊魂が、一々に立ち止まって聴いて行った。
・最近のパリに関するニューズを観た。
「グランド・キャバレー」→「オッフェンバック(Jacques Offenbach)」という連想。