第六十一段の続き2022年01月27日

松尾芭蕉(1644年-1694年)に、

「蚤虱馬の尿(しと)する枕もと」

という句がある(『奥の細道』)。初稿(?)は現地の言葉を用いて「馬のばりこく」だったそうだ。このユーモラスな感覚は、何となく漱石の趣味に合いそうな気もする。なにしろ時の首相が主催した園遊会(?)の招待に対し、

「時鳥厠半ばに出かねたり」

と、トイレに喩えて出席を断った男である。
「筋金入りのへそまがり」という印象を受ける。

第六十二段2022年01月28日

『わん』

或冬の日の暮、保吉(やすきち)は薄汚いレストランの二階に脂臭(あぶらくさ)い燒パンを齧(かじ)つてゐた。彼のテエブルの前にあるのは龜裂(ひび)の入つた白壁だつた。其處には又斜(はす)かひに、「ホツト〔あたたかい〕サンドウヰツチもあります」と書いた、細長い紙が貼りつけてあつた。(これを彼の同僚の一人は「ほつと暖いサンドウヰツチ」と讀み、眞面目に不思議がつたものである。)それから左は下へ降りる階段、右は直(すぐ)に硝子窓だつた。彼は燒パンを齧りながら、時々ぼんやり窓の外を眺めた。窓の外には往來の向うに亞鉛(トタン)屋根の古着屋が一軒、職工用の青服だのカアキ色のマントだのをぶら下げてゐた。
その夜學校には六時半から、英語會が開かれる筈になつてゐた。それへ出席する義務のあつた彼はこの町に住んでゐない關係上、厭でも放課後六時半迄はこんなところにゐるより仕かたはなかつた。確か土岐哀果(ときあいくわ)氏の歌に、――間違つたならば御免なさい。――「遠く來てこの糞のよなビフテキをかじらねばならず妻よ妻よ戀し」と云ふのがある。彼は此處へ來る度に、必ずこの歌を思ひ出した。尤も戀しがる筈の妻はまだ貰つてはゐなかつた。しかし古着屋の店を眺め、脂臭い燒パンをかじり、「ホツト〔あたたかい〕サンドウヰツチ」を見ると、「妻よ妻よ戀し」と云ふ言葉はおのづから脣に上つて來るのだつた。
保吉はこの間も彼の後ろに、若い海軍の武官が二人、麥酒(ビイル)を飮んでゐるのに氣がついてゐた。その中の一人は見覺えのある同じ學校の主計官だつた。武官に馴染みの薄い彼はこの人の名前を知らなかつた。いや、名前ばかりではない。少尉級か中尉級かも知らなかつた。唯彼の知つてゐるのは月々の給金を貰ふ時に、この人の手を經ると云ふことだけだつた。もう一人は全然知らなかつた。二人は麥酒の代りをする度に、「こら」とか「おい」とか云ふ言葉を使つた。女中はそれでも厭な顏をせずに、兩手にコツプを持ちながら、まめに階段を上り下りした。その癖保吉のテエブルへは紅茶を一杯賴んでも容易に持つて來てはくれなかつた。これは此處に限つたことではない。この町のカフエやレストランは何處へ行つても同じことだつた。
二人は麥酒を飮みながら、何か大聲に話してゐた。保吉は勿論その話に耳を貸してゐた訣(わけ)ではなかつた。が、ふと彼を驚かしたのは「わんと云へ」と云ふ言葉だつた。彼は犬を好まなかつた。犬を好まない文學者にゲエテとストリンドベルグとを數へることを愉快に思つてゐる一人だつた。だからこの言葉を耳にした時、彼はこんなところに飼つてゐ勝ちな、大きい西洋犬を想像した。同時にそれが彼の後ろにうろついてゐさうな無氣味さを感じた。
彼はそつと後ろを見た。が、其處には仕合せと犬らしいものは見えなかつた。唯あの主計官が窓の外を見ながら、にやにや笑つてゐるばかりだつた。保吉は多分犬のゐるのは窓の下だらうと推察した。しかし何だか變な氣がした。すると主計官はもう一度、「わんと云へ。おい、わんと云へ」と云つた。保吉は少し體をねぢ曲げ、向うの窓の下を覗いて見た。まづ彼の目にはひつたのは何とか正宗の廣告を兼ねた、まだ火のともらない軒燈だつた。それから卷いてある日除けだつた。それから麥酒樽の天水桶の上に乾し忘れた儘の爪革(つまかは)だつた。それから、往來の水たまりだつた。それから、――あとは何だつたにせよ、何處にも犬の影は見なかつた。その代りに十二三の乞食が一人、三階の窓を見上げながら、寒さうに立つてゐる姿が見えた。
「わんと云へ。わんと云はんか!」
主計官は又かう呼びかけた。その言葉には何か乞食の心を支配する力があるらしかつた。乞食は殆ど夢遊病者のやうに、目はやはり上を見た儘、一二歩窓の下へ歩み寄つた。保吉はやつと人の惡い主計官の惡戲(あくぎ)を發見した。惡戲?――或は惡戲ではなかつたかも知れない。なかつたとすれば實驗である。人間は何處迄口腹(こうふく)の爲に、自己の尊嚴を犧牲にするか?――と云ふことに關する實驗である。保吉自身の考へによると、これは何も今更のやうに實驗などすべき問題ではない。エサウは燒肉の爲に長子權(ちやうしけん)を抛(なげう)ち、保吉はパンの爲に教師になつた。かう云ふ事實を見れば足りることである。が、あの實驗心理學者は中々こんなこと位では研究心の滿足を感ぜぬのであらう。それならば今日生徒に教へた、De gustibus non est disputandum である。蓼食(たでく)ふ蟲も好き好きである。實驗したければして見るが好い。――保吉はさう思ひながら、窓の下の乞食を眺めてゐた。
主計官は少時(しばらく)默つてゐた。すると乞食は落着かなさうに、往來の前後を見まはし始めた。犬の眞似をすることには格別異存はないにしても、さすがにあたりの人目だけは憚つてゐるのに違ひなかつた。が、その目の定まらない内に、主計官は窓の外へ赤い顏を出しながら、今度は何か振つて見せた。
「わんと云へ。わんと云へばこれをやるぞ。」
乞食の顏は一瞬間、物欲しさに燃え立つたやうだつた。保吉は時々乞食と云ふものにロマンテイツクな興味を感じてゐた。が、憐憫とか同情とかは一度も感じたことはなかつた。もし感じたと云ふものがあれば、莫迦(ばか)かうそつきかだとも信じてゐた。しかし今その子供の乞食が頸(くび)を少し反らせた儘、目を輝かせてゐるのを見ると、ちよいといぢらしい心もちがした。但しこの「ちよいと」と云ふのは懸け値のないちよいとである。保吉はいぢらしいと思ふよりも、寧ろさう云ふ乞食の姿にレムブラント風の效果を愛してゐた。
「云はんか? おい、わんと云ふんだ。」
乞食は顏をしかめるやうにした。
「わん。」
聲は如何にもかすかだつた。
「もつと大きく。」
「わん。わん。」
乞食はとうとう二聲鳴いた。と思ふと窓の外へネエベル・オレンヂが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好い。乞食は勿論オレンヂに飛びつき、主計官は勿論笑つたのである。
それから一週間ばかりたつた後、保吉は又月給日に主計部へ月給を貰ひに行つた。あの主計官は忙しさうにあちらの帳簿を開いたり、こちらの書類を擴げたりしてゐた。それが彼の顏を見ると、「俸給ですね」と一言云つた。彼も「さうです」と一言答へた。が、主計官は用が多いのか、容易に月給を渡さなかつた。のみならずしまひには彼の前へ軍服の尻を向けた儘、何時までも算盤(そろばん)を彈いてゐた。
「主計官。」
保吉は少時(しばらく)待たされた後、懇願するやうにかう云つた。主計官は肩越しにこちらを向いた。その脣には明らかに「直(すぐ)です」と云ふ言葉が出かかつてゐた。しかし彼はそれよりも先に、ちやんと仕上げをした言葉を繼いだ。
「主計官。わんと云ひませうか? え、主計官。」
保吉の信ずるところによれば、さう云つた時の彼の聲は天使よりも優しい位だつた。


芥川龍之介『保吉の手帳から』より。

「皮肉屋」芥川の真面目といった感がある。
……べつに昨今の「補助金」「助成金」「給付金」「生活保護」などの事情を意識したわけでは無い。為念。

続・第五十四段2022年01月29日

「『傳説の時代』序」夏目漱石。

私はあなたが家事の暇を偸んで『傳説の時代』をとうとう仕舞迄譯し上げた忍耐と努力に少からず感服して居ります。書物になつて出ると餘程の頁數になるさうですが嘸骨の折れた事でせう。原書は私の手元にもあるから承知してゐますが、一寸見ると四六版の小形の册子に過ぎませんけれども、活字は細かし、上下は詰つてゐるし、讀むのにさへ隨分の時間は懸ります。況して一行毎に譯して行くとなつたら、それを専業にする男の手でもさう容易くは出來ません。況して夫の世話をしたり子供の面倒を見たり弟の出入に氣を配つたりする間に遣る家庭的な婦人の仕業としては全くの重荷に相違ありません。あなたは前後八ケ月の日子を費やして思ひ立つた飜譯を成就したと云つて寧ろ其長きに驚ろかれるやうだが、私は却つて其迅速なのに感服したいのです。
出版に就て私の序文が御入用だとの仰は謹んで承りましたが、私はあらゆるミスに就て何事もいふ權利を有たない無學者なのだから少からず困却します。私は希臘の神話に就て、あそこを少し、こゝを少し、と云つた風にうろ覺えに覺えてはゐますが、系統的には研究もせず、批判もせず、漫然と今日迄經過して來た事を、今日あなたの前に自白しなければならなくなりました。あなたの御譯しになつた原書は、今でもちやんと私の書架の中に飾つてあります。それを買つたのは何時の頃の事か覺えてゐない位ですから定めし古い昔だらうと思ひます。けれども其昔に買つた本を、今日迄まだ一度も眼を通した記憶がないのも慥かな事實ですから、私は希臘の神話にかけては、あなたよりも遙かに無知識なのです。立派な序文の書けやう筈がありません。
御存じの通り私は英文學出身のものですから、高等學校にゐる頃同級生に松本亦太郎(今の文學博士)といふ人がゐました。此人は其頃熱心な基督信者でしたが、ある時私に、聖書を日に何頁づゝとか讀むと、丁度三年目に新舊兩約全書を通讀する事になるといつて、それを日課として毎日怠らず繰返してゐるやうでした。私は其話を聞いた時、たとひ私が耶蘇教徒でないにせよ、バイブルは文學上必要の書物だから、さういふ課程をこしらへて、永い間に通讀したら嘸有益だらうと思つて、既に遣り始めようと迄決心した事があります。然し好きな事にばかり夢中になり易い、又厭な事に始終追ひ懸けられてゐた其頃の私には、ついに夫すら果さずじまひに終りました。夫だから、私のバイブルに於ける知識は非常に貧弱なものです。さうして私の希臘神話に於る知識も亦これに劣らぬ程憐れなものなのに過ぎません。
それがため學校を出て教師をしてゐる時分には、よく雙方の故事辞典で惱まされました。仕方なしにバイブルのコンコーダンスを左右に置いたりクラシカル字彙といふやうなものを机上に具へたりして、何うか斯うか御茶を濁して通りました。甚だ切ない事でした。切ない許ならまだしも、時によると、馬鹿々々しくて腹の立つ事さへありました。
あなたが何んな動機から神話を譯して御覽になつたかはまだ解らないが、恐らく文學を研究する人の手引草として許ではないでせう。今の人の手にする文學書にはヰ゛ーナスとかバツカスとかいふ呑氣な名前は餘り出て來ないやうです。希臘のミソロジーを知らなくても、イプセンを讀むには殆んど差支へないでせう。もつと皮肉にいふと、人生に切實な文學には遠い昔しの故事や故典は何うでも構はないといふ所に詰りは落ちて來さうです。あなたもそれは御承知でせう。それでゐてこんな夢のやうなものを八ケ月もかゝつて譯したのは、恐らく餘りに切實な人生に堪へられないで、古い昔の、有つたやうな又無いやうな物語に、疲れ過ぎた現代的の心を遊ばせる積りではなかつたでせうか、もし左右ならば私も全く御同感です。其意味を面倒に述べ立てるのは大袈裟だから止しますが、私は自分で小説を書くと其あとが心持ちが惡い。それで呑氣な支那の詩などを讀んで埋め合せを付けてゐます。夫から大病中徒然を慰めるため繪(繪といふ名はちと分に過ぎるから、繪のやうなものと云つた方が適切ですが)其繪を描いて遊んでゐると、矢張り仙人だの坊主だの山水だのが天然自然題目になります。是もある意味に於てあなたの神話に丹精を盡したと同じ動機になるのではありますまいか。弱い神経衰弱症の人間が無暗に他の心を忖度して好い加減な事を申して濟みません。もし間違つたら御勘辨を願ひます。
最後に神樣の名前の發音に就いて一寸申上げます。あなたの發音法は大部分大陸讀方(コンチネンタル・メソツド)を用ゐられた樣ですが、日本で云ひ慣らされたバツカスとかヰ゛ーナスとか云ふのは英吉利讀にされたと見えますから其邊は一寸讀者に注意して置いて遣らないと惡いだらうと思ひます。夫から又羅甸讀にしてもクオンチチイを付けて發音しないで、のべつに羅馬字綴りの讀み方見たやうに遣つたのがあるなら、夫も序に斷つて置いて御遣んなさい。
序を書きたいのは山々ですが序らしい序が書けないので此手紙を書きました。若し序の代りにでも御用ひが出來るなら何うぞ御使ひ下さいまし。以上。

  六月十日

        夏目金之助

    野上八重子樣


・注 前出のブルフィンチの書である。「八重子」は「彌生子」の誤記。現行本は「野上弥生子」名儀で『ギリシア・ローマ神話 付インド・北欧神話』と改題されている。

・訂正。
「誤記」と言うのは適切では無かった。野上彌生子の本名(戸籍名?)は「ヤヱ」だそうだ。夏目鏡子の本名が「キヨ」であるのと同じく。

新・第五十四段2022年01月30日

ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne、1804年-1864年)『ワンダー・ブック(A Wonder-Book for Girls and Boys、)』(1851年刊)より。三宅幾三郎(1897年-1941年)訳(昭和12年刊)。挿画はウォルター・クレイン(Walter Crane、1845年-1915年)。

『子供の樂園』


この古い世界が、まだ出來たばかりの、遠い遠い昔のこと、エピミーシウスといふ子がゐました。その子は、はじめからお父さんもお母さんも無しでした。それではあんまり淋しからうといふので、やつぱりお母さんもない今一人の子供が、エピミーシウスと一しよに暮らして、彼の遊び友達ともなり、相談相手にもなるやうにと、遠い國から遣はされて來ました。彼女の名はパンドーラといひました。
パンドーラがエピミーシウスの住んでゐる小さな家へはいつて來た時、第一に目についたのは、一つの大きな箱でした。そして、彼女が閾をまたいでから、ほとんど最初に彼に尋ねたことは、かうでした。
「エピミーシウス、あの箱には何がはいつてゐるの?」
「僕の大好きな小さなパンドーラ、」とエピミーシウスは答へました。「それは祕密なんだ。後生だから、あの箱のことはなんにも訊かないでおくれよ。あの箱は大切に取つておくやうにと言つて、此處に置いて行かれたんで、僕も何がはいつてゐるか知らないんだ。」
「でも、誰があんたにそれをくれたの?」パンドーラは尋ねました。「そして何處から來たもんなの?」
「それもやつぱり祕密なんだ、」エピミーシウスは答へました。
「なんてじれつたいんでせう!」パンドーラは唇を尖がらして叫びました。「あたしあんな大きな、いやな箱はどつかへ持つて行つてしまつてほしいわ!」
「さあ、もう箱のことなんか考へないで、」とエピミーシウスは叫びました。「そとへ飛び出して行つて、ほかの子供達と何か面白いことをして遊ばうよ。」
エピミーシウスとパンドーラとが生きてゐた時からは、もう幾千年にもなります。そして今日(こんにち)では、世の中もその頃とは大變違つたものになりました。その頃には、誰もみんな子供でした。その子供達の面倒を見るお父さんやお母さんは要りませんでした。何故かといふと、あぶないなんてことはないし、心配なことなんかもなんにもないし、又、着物をつくろふこともいらないし、それから、食べ物や飮み物は何時(いつ)でもどつさりあつたからです。御馳走がたべたくなれば、いつでも木を見ればそれがなつてゐました。朝、木を見ると、その日の晩御飯の花が咲いてゐました。また、夕方には、明日の朝御飯の新しいつぼみが目につきました。本當にとても愉快な生活でした。する仕事もなければ、調べる學課もなく、たゞ長い一日を朝から晩まで、子供達が遊んだり踊つたり、可愛らしい聲でしやべつたり、鳥のやうに樂しく歌つたり、わあつと面白さうに笑つたりしてゐるだけでした。
とりわけ驚くべきことは、子供達がお互にちつとも喧嘩をしないし、まるで泣くといふことがないし、又、世の始まりからこの方、子供達が一人も、仲間を離れて隅つこの方でふくれてゐたりしたことがないといふことでした。あゝ、そんな時代に生きてゐたらどんなにいゝでせう! 實際、今では夏の蚊みたいに澤山ゐる「わざはひ」といふ、いやな、小さな、翼(はね)の生えた怪物は、まだ地上にあらはれてゐなかつたのです。子供がその時までに經驗した一番大きな苦勞といへば、おそらく、あの不思議な箱の祕密が分らないからといつて、パンドーラが氣を揉んでゐたこと位のものだつたでせう。
これもはじめのうちは、たゞ「わざはひ」のかすかな影みたいなものでしたが、日がたつにつれて、だんだん本物になつて來て、そのうちには、とうとうエピミーシウスとパンドーラの家が、ほかの子供達の家にくらべて何だか陰氣になつて來ました。
「一體あの箱は何處から來たんでせう?」と、始終パンドーラは獨りごとにも言ひ、またエピミーシウスにも訊くのでした。「そしてまた、一體あの中には何がはいつてゐるんでせう?」
「いつもこの箱のことばかり言つてゐるんだねえ!」とエピミーシウスは、とうとう言ひました。といふのは、彼はもうこの話には、すつかりあきあきしてゐたからでした。「何かほかの話をしてほしいなあ、パンドーラ。さあ、熟した無花果(いちじゆく)のことばかり言つてるわ!」と、パンドーラはすねたやうに叫びました。
「それぢや、いゝよ、」と、その時分のたいていの子供達と同じやうに、大變氣立てのいゝ子だつたエピミーシウスは言ひました。「そとへ出て、お友達と面白く遊ばうよ。」
「あたし、もう面白いことなんか厭きちやつた。そしてもしも、この上面白いことがちつともなくなつてもかまはないわ!」と、だだつ兒のパンドーラは答へました。「それにあたし、面白いことなんか、ちつともないんだもの。このいやな箱がいけないんだわ! その中に何がはいつてるか、どうしても聞きたいわ。」


「もう、五十遍も言つた通り、僕知らないんだよ!」と、エピミーシウスも、少し腹を立てて答へました。「知らないのに、中に何があるか、言へるわけはないぢやないか?」
「あけたらいゝでせう、」パンドーラはエピミーシウスを横目で見ながら言ひました。「そしたら、あたし達で觀るられるぢやないの。」
「パンドーラ、君はなんてことを考へてるんだ?」エピミーシウスは叫びました。
そして彼が、決して開けないといふことにして彼に預けられた箱をのぞいて見るなんて、如何にもおそろしいといつたやうな顏をしたので、パンドーラも、もうこの上そんなことは言ひ出さない方がいゝと思ひました。しかし、それでもやはり、彼女はその箱のことを考へたり、言つたりせずにはゐられませんでした。
「でも、それがどうして此處へ來たか位なことは言へるでせう、」と彼女は言ひました。
「丁度君が來る前に、大變にこにこした、利口さうな人が、それを戸口の傍に置いて行つたんだ、」とエピミーシウスは答へました。「それを置きながら、その人は何だか笑ひ出したくてたまらないといつたやうな風だつたぜ。その人はをかしな外套を着て、半分羽毛(はね)で出來たやうな帽子をかぶつてね、だからその帽子にはまるで翼が生えてゐるやうに見えたよ。」
「その人はどんな杖を持つてゐて?」とパンドーラは尋ねました。
「あゝ、とてもをかしな、見たこともないやうな杖だつたねえ!」とエピミーシウスは叫びました。「二匹の蛇が杖に卷きついたやうになつてゐて、その蛇があんまり本物みたいに彫つてあるんで、僕はちよつと見た時、生きてゐるのかと思つたよ。」
「あたしその人を知つてるわ、」とパンドーラは、考へ込んだやうに言ひました。「ほかにそんな杖を持つてる人はないんですもの。それはクヰックシルヴァ(ギリシア神話のヘルメス、ローマ神話のメルクリウス=マーキュリー=水星)だわ。箱だけぢやなしに、あたしを此處へ連れて來たのもその人よ。きつと彼はその箱をあたしにくれるつもりなのよ。そして多分、その中には、あたしの着る着物か、あんたとあたしとが持つて遊ぶ玩具か。それとも二人でたべる何か大變おいしいものかがはいつてゐるんだわ!」
「さうかも知れない、」エピミーシウスは横を向いて答へました。「しかし、クヰックシルヴァが歸つて來て、あけてもいゝと言ふまでは、僕達どちらにも、この箱の蓋をあける權利はないんだ。」
「なんて煮え切らない子だらう!」エピミーシウスが家を出て行く時、パンドーラはさうつぶやきました。「もう少し勇氣があればいゝのに!」
パンドーラが來てから、エピミーシウスが彼女を誘はないで出て行つたのは、これが初めてでした。彼は一人で無花果(いちじゆく)やぶどうをもぐか、それともパンドーラ以外の誰かと一しよに、何か面白い遊びをしようと思つて出たのでした。彼はその箱のことを聞くのが、すつかりいやになつてしまつて、その使ひに來た人の名はクヰックシルヴァだか何だか知らないが、その箱をパンドーラの目につかないやうな、誰かほかの子供の家の戸口に置いて行つてくれゝばよかつたのにと心(しん)から思ひました。パンドーラがその一つ事を、くどくどしく言つてゐる根氣のよさと來たら! 箱、箱、たゞ箱のことばかりでした! まるでその箱に魔法がかゝつてゐて、それがこの家にはあまり大きすぎて、それがあるとパンドーラが始終それにつまづき、エピミーシウスも同じやうにそれにつまづいて、ころんでばかりゐて、二人とも向脛に生疵が絶えないとでもいつたやうな氣持がしました。
とにかく、エピミーシウスは、可哀さうに、朝から晩まで、箱のことばかり聞かされるなんて、本當につらい氣がしました。殊に、そんな樂しい時代には、地上の子供達も、屈託といふものにまるで慣れてゐなかつたので、それをどうしていゝか分らなかつたのです。そんなわけで、その頃には、ちよつとした屈託でも、今日の大きな心配事と同じ位に人の心を亂したのでした。
エピミーシウスがゐなくなつたあとで、パンドーラはじつとその箱を見つめて立つてゐました。彼女はその箱のことを、百遍以上も、醜いやうに言ひました。しかし、さんざんけなしつけはしたものの、それはたしかに家具としては大變美事なもので、どんな部屋に置いても立派な裝飾になつたでせう。それは黒ずんだ、ゆたかな木理(もくめ)がおもて一杯にひろがつた、美しい木で出來てゐました。そのおもてがまた、小さなパンドーラの顏が映つて見えるほど、よく磨かれてゐました。彼女には、ほかに鏡とてはなかつたのですから、このことだけからでも、彼女がこの箱を大切に思はないのは、をかしいわけでした。
その箱の縁や角には、實に驚くべき腕前で彫物がしてありました。ふちには、ぐるつと、美しい姿の男や女や、見たこともないやうな可愛らしい子供達があらはしてあつて、それらが一面の花や葉の中に、凭(よ)りかゝつたり、遊んだりしてゐるのでした。これらのいろんなものが、とてもよく出來てゐて、しつくりとまとまつてゐるので、花と葉と人とがつながり合つて、複雜な美しさを持つた一つの花環とも見えました。しかしパンドーラは、一二度、その刻まれた葉のかげから、あまり美しくない顏だか何だか、いやなものが、ひよいひよいと覗いたやうな氣がして、それがために、すべてほかのものの美しさが臺なしになりました。しかし、なほよく見て、何か覗いたやうな氣のした邊を指でさはつて見ても、何もそんなものはありませんでした。本當は美しい、どの顏かが、横目でちらつと見ると、醜いやうに見えたのでせうか。
顏のうちで一番美しいのは、蓋のまん中に、高浮彫といふ彫り方で出來てゐる顏でした。蓋の板は、磨きをかけて、黒つぽい、なめらかな、ゆたかな美しさを出し、そのまん中に、額に花の冠を卷いたその顏があるだけで、ほかに細工はしてありませんでした。パンドーラはこの顏を幾度も幾度も眺めて、その口もとは、生きた口と同じやうに、笑はうと思へば笑へもし、眞面目な顏つきにならうと思へば、またさうもなれさうな氣がしました。實際、その顏つき全體が、大變いきいきとした、そしてどちらかといへば、いたづららしい表情をしてゐて、それがきつとその木彫(きぼり)の唇から、言葉になつて飛び出して來さうに思はれるくらゐでした。
もしもその口が物を言つたとしたら、大抵、次のやうなことででもあつたでせう。
「こはがるんぢやないよ、パンドーラ! この箱をあけたつて何事があるものかね? あの可哀さうな、馬鹿正直のエピミーシウスのことなんか氣にすることはないよ! お前さんはあの子より賢いし、十倍も勇氣がおありだ。この箱をあけなさい、そして、何か大變きれいなものがありはしないか、見てごらん!」
僕はも少しで言ふのを忘れてしまふところだつたが、その箱は締めてありました。錠前とか、何かほかのさういつたやうなものでなしに、金の紐を大變込み入つた結び方にして留めてあつたのです。この結び目には、終りもなければ、始めもないやうに見えました。大變むづかしくひねくり廻して、とても澤山の出入りがあつて、それがどんな手先の器用な人でも、ほどけるならほどいて見よと、憎らしくも威張つてゐるやうに思へるのですが、こんな結び目もないものでした。しかし、それをほどくのが大變むづかしさうなので、よけいにパンドーラはその結び目をしらべて、それがどんな風に出來てゐるか、ちよつと見たくなつて來ました。彼女はもう、二三度はその箱の上にかゞんで、その結び目を親指と人差指との間につまんで見たことはありましたが、それをいよいよほどいて見ようとまではしなかつたのでした。
「あたし本當に、それがどんな風に出來てゐるか、分つて來た氣がするわ、」と彼女は一人で言ひました。「いや、あたしはそれをほどいてから、また結び直すことさへ出來さうだわ。ほんとに、それ位なことをしたつて、何でもありはしないわ。いくらエピミーシウスだつて、それ位なことを怒りはしないでせう。あたしその箱をあけなくともいゝんですもの。そして、もしも結び目がほどけたにしても、あのお馬鹿さんにきかないで、開けたりなんぞしちや惡いわ。」
こんな風に始終この一つ事ばかりを考へなくともすむやうに、彼女に一寸する仕事でもあるとか、何か考へることでもあるとかした方がよかつたのでせう。しかし、世の中に「わざはひ」といふものが出て來るまでは、子供達は大變氣樂に暮してゐたので、ほんとにあまり暇がありすぎたのです。彼等だつて、何時(いつ)も何時も、
花の咲いた灌木の中でかくれんぼをしたり、花環で目かくしをして鬼ごつこをしたり、そのほか地球がまだ新しかつたその頃に、もう出來てゐたいろんな遊びばかりもしてゐられませんでした。毎日遊んで暮らしてゐると、働くことが却つて本當の遊びとなります。その頃には、まるですることはなんにもありませんでした。まあ、家の中をちよつと掃いたり、拭いたりする、それから新しい花を切る(それも至るところ、いやになつてしまふほど澤山咲いてゐるんです)、そしてそれを花瓶に生ける、――それでもう、可哀さうに、小さなパンドーラの一日の仕事はおしまひです。それからあとは、寢るまで、箱のことが氣になるばかりでした。
しかしよく考へて見ると、この箱はまたこの箱なりに、彼女にとつての一つのめぐみでなかつたと言ひ切るわけにも行かないと思ひます。それは彼女がいろいろと想像をめぐらして考へる材料ともなり、また誰か聞いてくれる人がある時には、いつでも話の種ともなつたでせう! 彼女が機嫌のいゝ時には、その胴のぴかぴかとした艷や、まはりの美しい顏や葉を彫つた立派な縁などを見て感心することも出來ました。又、何かのはずみで氣がむしやくしやした時には、それに一撃をくはせたり、小さな足でじやけんに蹴飛ばしたりすることも出來ました。そしてこの箱は、幾度も幾度も足蹴にされたのでした(でも、あとで分る通り、この箱は惡い箱でしたから、さうして足蹴にされたりするのが當り前だつたのです)。それにしても、もしこの箱がなかつたら、何か始終考へてゐずにはゐられない小さなパンドーラは、今みたいに、箱のことで思はず時間がたつてしまふといふわけにはとても行かず、退屈で困つたことでせう。


といふのは、箱に何がはいつてゐるかと想像して見ることは、實際きりのない仕事でしたから。本當に、何がはいつてゐるんでせう? 假に、家の中に大きな箱があつたとして、そんな氣がするのも、無理はないことだが、クリスマスかお正月にいたゞく何か新しい、きれいな物がはいつてゐるらしいとなると、どんなに君達は夢中になつていろいろと頭の中で考へて見るか、まあ君達、想像してごらんなさい。君達はパンドーラみたいにそれを知りたがりはしないと思ひますか? もしその箱と一しよに、一人きりでおいておかれたら、ちよつと蓋をあけて見たくなつたりしないでせうか? しかし君達はそんなことはしないでせうね。おう、馬鹿な。とんでもないことだ! たゞ、もしも君達がその中におもちやがはいつてゐると思つたら、ちよつと一目のぞいて見る機會をのがすのは大變つらいことでせう! 僕はパンドーラが、おもちやなんかをあてにしてゐたかどうかは知りません。といふのは、子供達が住んでゐた世界そのものが、一つの大きな遊び道具だつたその頃には、まだおもちやなどは一つも出來てゐなかつたでせうから。しかしパンドーラは、その箱の中に何か大變美しい、値打のあるものがはいつてゐるにちがひないと思ひました。一寸のぞいて見たくてならない氣がしました。いや、どうかすると、もちつとよけいにそんな氣がしたかも知れません。しかし、きつとさうだとは僕も言ひ切れないが。
それにしても、僕達がかうして長いことお話をして來た、この日はまた特別に、彼女の好奇心がいつもより強くなつて來て、とうとうその箱に近づいて行きました。彼女は、もし出來たら、その箱をあけてみようと、大方決心してゐました。どうも、しやうのないパンドーラですね!
しかし、最初に、彼女はその箱を持ち上げてみました。それは重かつた、パンドーラのやうな弱い力の子にとつては、まるで重すぎました。彼女はその片端を床から何インチか持ち上げましたが、可なり大きな、どしんといふ音をたてて、またそれをおろしました。すぐそのあとで、彼女は何だか箱の中でごそごそと動く音がしたやうに思ひました。彼女は出來るだけぴつたりと耳をあてて、聽きました。たしかに、中で、何だかぼそぼそとつぶやいてゐるやうな氣がします! それとも、たゞ彼女の耳が鳴つてるのでせうか? 或はまた、彼女の心臟の打つ音でせうか? パンドーラは本當に何か聞えたのかどうか、自分でもはつきりときめてしまふことが出來ませんでした。しかし、いづれにしても、彼女の好奇心は、いよいよ強くなつて來ました。
彼女は頭をもとへ戻した時、彼女の目は、金の紐の結び目にとまりました。
「これを結んだ人は、大變器用な人にちがひないわ、」とパンドーラは一人で言ひました。「それでもあたし、それをほどけさうな氣がするわ。あたし、せめて、その紐の兩はしくらゐは見つけなくちや。」
そこで彼女はその金の結び目を指につまんで、出來るだけはつきりと、その込み入つたところを調べて見ました。殆どそんなつもりもなく、また何をしようとしてゐるかもはつきりとわきまへないで、彼女はやがて一生けんめいに、それをほどきにかゝつてゐました。そのうちに、明るい日の光が、あけ放した窓から射し込んで來ました。また、遠くで遊んでゐる子供達の樂しさうな聲も、それと一しよに、聞えて來ました。そして多分その中にはエピミーシウスの聲もまじつてゐたのでせう。パンドーラは手を休めて、それに聞き入りました。なんといふいゝお天氣でせう! もしも彼女が、そんな面倒くさい結び目なんぞうつちやつておいて、その箱のことなんかもう考へないことにして、彼女の小さな遊び友達のところへ飛んで行つて、仲間になつて面白く遊んでゐたら、その方が利口ぢやなかつたでせうか?
しかし、その間もずうつと、彼女の指は半分無意識に、しきりとその結び目をいぢつてゐました。そしてふと、この不思議な箱の蓋についた、花の冠をかぶつた顏が目についた時、彼女はそれがずるさうに、彼女にむかつて齒をむき出して笑つてゐるのを見たやうな氣がしました。
「あの顏はいぢわるさうだこと、」と彼女は思ひました。「もしかあたしが惡いことをしてるから笑つてるんぢやないかしら! あたしほんとにもう、逃げ出したくなつちやつた!」
しかし丁度その時、ほんの一寸したはずみで、彼女はその結び目をひねるやうにしましたが、それが思ひもかけぬ結果になりました。金の紐は、まるで魔法をかけたやうに、ひとりでほどけてしまつて、箱は締物(しめもの)なしになつてしまひました。
「こんな變なことつて知らないわ!」パンドーラは言ひました。「エピミーシウスは何といふでせう? そしてあたし、一體どうしてこれを、もと通りに結べるでせう?」
彼女は一二度、その結び目をもと通りにしようと、やつてみましたが、すぐにそれは彼女の手に合はないといふことが分りました。それがあんまり、だしぬけにほどけてしまつたので、彼女はその紐がお互にどういふ風にからみ合せてあつたか、少しも思ひ出すことが出來ませんでした。それからまた、彼女がその結び目の形や樣子を思ひ浮かべようとしても、それがすつかり頭から消えてしまつたやうに思はれるのでした。だから、エピミーシウスが歸つて來るまで、その箱をそのまゝにしておくよりほかには、どうにもしやうがありませんでした。
「でも、」とパンドーラは言ひました、「この紐がほどけてゐるのを彼が見れば、あたしがやつたといふことが分つてしまふわ。でも箱の中は見なかつたといふことを、彼にどういふ風にして信じさせたらいゝんでせう?」
それから、彼女の横着(わうちやく)な小さな胸に、どうせ箱の中を見たと疑はれるなら、今すぐ見ておいたつて同じことだといふ考へが浮かびました。おう、ほんとにいけない、ほんとに馬鹿なパンドーラよ! お前は、正しい事はする、間違つた事はしないといふことだけを考へて、お前の遊び仲間のエピミーシウスが言つたり、信じたりすることを氣にとめるべきではなかつたのだ。そして彼女とて、もしもその箱の蓋についた不思議な顏が、そんなに誘惑するやうに彼女を見なかつたら、そして又、箱の中の小さなつぶやき聲が、前よりも一層はつきりと聞えるやうな氣がしなかつたら、多分さうしたことでせう。それが彼女の氣のせゐかどうかは、彼女にはよく分りませんでした。しかし、彼女の耳には、小さな聲でひどく騷いでゐるやうに聞えるのです――それともまた、さゝやくのは彼女の好奇心なのでせうか。
「出して下さい、パンドーラさん――私達をそとへ出して下さい! 私達はあなたにとつて、とてもいゝ、可愛い遊び相手なんですよ! ちよつと私達を出して下さい!」
「あれは何だらう?」とパンドーラは考へました。「箱の中に何か生きたものがゐるのかしら? えゝ、まゝよ! あたしちよつと一ぺんのぞいてやりませう! ほんの一度だけ、それから蓋をいつもの通り、ちやんとしめておけばいゝんだわ! ちよつと一ぺんのぞいて見るくらゐで、別になんの事もある筈がないわ!」
しかしもうそろそろこの邊で、僕達はエピミーシウスがどうしてゐたかを見ることにしませう。
パンドーラが來て、彼と一しよに暮らすやうになつてから、彼女を入れないで彼が何か面白いことをしようとしたのは、この時がはじめてでした。しかし何をしても、うまく生きませんでした。そしてまた、いつものやうに樂しくもありませんでした。甘い葡萄も、熟した無花果(いちじゆく)も見つかりませんでした(エピミーシウスに一つ惡いところがあるとすれば、それは無花果があんまり好きだといふ點でした)。また、折角熟してゐたと思へば、今度はあまり出來すぎてゐて、甘つたるくて食べられないのでした。いつもならば、ひとりでに聲が飛び出して來て、一しよに遊んでゐる仲間までが一層陽氣になる位なんだが、今日はちつともさうした愉快な氣持になれませんでした。結局、彼はとても落着かない、不滿な氣持になるばかりで、ほかの子供達は、一體エピミーシウスはどうしたのか、わけが分りませんでした。彼は自分でも、ほかの子供達と同樣に、どこがどういけないのか分らないのです。それといふのは、僕達が今話してゐる時代には、幸福に日を送るといふことが、みんなの性質であり、いつも變らぬ習慣だつたからだといふことを忘れないで下さい。世間は、まだ不幸なんていふことを知らなかつたのです。これらの子供達が、樂しく暮らすために地上に送られて來てから、誰一人として、病氣をしたり、調子が惡かつたりしたことはなかつたのです。
とうとう、どうしたものか、何の遊びをはじめても、彼のせゐでそれが止(や)めになつてしまふといふことが分つたので、エピミーシウスは、今の彼の氣持には却つてよく合つてゐるパンドーラのところへ歸るのが、一番いゝと思ひました。それにしても、彼女を喜ばせたいといふ氣持はあつたので、彼は花をつんで、花環につくり、それを彼女の頭につけてやらうと思ひました。花は薔薇や、百合や、オレンヂの花や、そのほかもつと澤山あつて、とても美しく、エピミーシウスがそれを持つて歩いたあとには、いゝ匂ひが殘りました。そしてその花環は、男の子としては、これ以上を望む方が無理だと思はれるくらゐうまく出來てゐました。僕はいつも、花環を編むには、女の子の指の方が向いてゐると思つてゐました。しかし男の子も、その頃には、今の男の子よりも大分上手だつたのです。
こゝで僕は、大きな黒雲が少し前から空にわきおこつてゐたことを言はなければなりません。尤もそれは、まだお日樣を蔽(おほ)ひかくすまでにはなつてゐませんでした。しかし、エピミーシウスが家の戸口に着いた丁度その時、それが日光をさへぎりはじめました。さうして、急に、うら悲しいやうな薄暗がりになりました。
彼はそうつとはいつて行きました。といふのは、彼は出來ることなら、パンドーラのうしろにしのび寄つて、彼が傍へ來たことを彼女がさとらないうちに、花環を彼女の頭に投げかけてやらうと思つたからでした。しかし丁度その時には、彼は何もそんなに、拔足差足で行く必要はなかつたのです。彼が好きなだけ大きな足音を立てても――大人のやうに――いや、象のやうにと僕は言ひたい位だが――どしんどしんと歩いても――それでもたいていは、パンドーラの耳にはいりさうもありませんでした。彼女は自分の考へにすつかり氣をとられてゐたのです。彼が家へはいつて行つた時、丁度その仕方のない子は、蓋に手をかけて、祕密の箱をあけようとするところでした。エピミーシウスは彼女のすることを見てゐました。もしも彼が聲を立ててゐたら、パンドーラは多分手をひつ込めて、その箱のおそろしい祕密も分らずにしまつたことでせう。
しかしエピミーシウスは、あまり箱のことを口に出しては言はなかつたが、自分でもやはり、その中に何がはいつてゐるか知りたい氣持はあつたのでした。パンドーラがいよいよその祕密を知らうと決心したことが分ると、彼の方でも、この家の中でそれを知つてゐるのがパンドーラだけであつてなるものかと思ひました。それに、もしも園はこの中に何かきれいなものか、値打のあるものかがはいつてゐたら、彼もその半分は自分がもらふつもりでした。こんなわけで、パンドーラにむかつて、好奇心など起してはいけないと、眞面目くさつてお説教をしておきながら、エピミーシウスは彼女とまるで同じやうに馬鹿になり、このあやまちについて責任があるといふ點で彼女とあまり變りはないことになつてしまひました。だからわれわれは、この出來事について、パンドーラを責める時にはいつでも、エピミーシウスにむかつても、やはり同じやうに不滿の意をあらはすことを忘れてはならないのです。
パンドーラが蓋を持ち上げた時に、家は大變暗く、陰氣になつて來ました。といふのは、黒雲がもうすつかりお日樣をかくしてしまつて、まるでそれを生埋めにしたやうに見えたからです。少し前から、低いうなりみたいな、つぶやきみたいなものが聞えてゐましたが、俄かにそれが大きな雷鳴となつてとゞろき渡りました。しかしパンドーラは、そんなことには一向おかまひなく、蓋を大方まつすぐに上げて、中を見ました。何だか急に、翼の生えたものが一杯彼女の傍をかすめて箱から飛び出したやうな氣がしたと思ふのと一しよに、エピミーシウスが、悲しさうな調子で、何だか痛さうに叫ぶのが聞えました。


「おう、僕刺されつちやつた!」と彼は叫びました。「僕刺されつちやつた! 意地惡のパンドーラ! どうして君はこのおそろしい箱をあけたんだ?」
パンドーラは蓋をおろして、びつくりして立上り、エピミーシウスの上に何事が起つたのかと、あたりを見廻しました。夕立雲のために、部屋が大變暗くなつてゐたので、彼女は中のものがあまりはつきりと見えませんでした。しかし何だかとても澤山の大きな蠅か、大きな蚊か、又はわれわれがかぶと虫とかはさみ虫とかいつてゐる虫みたいなものが飛び廻つてゐるやうな、ぶうんといふ、いやなうなりが聞えました。そして、彼女の眼が薄暗がりに慣れて來ると、蝙蝠のやうな翼をして、とても意地が惡さうで、お尻におそろしく長い螫(はり)を持つた、いやな小さなものが一杯ゐることが分りました。エピミーシウスを刺したのは、そのうちの一匹なのでした。まもなくパンドーラもまた、エピミーシウスに負けないくらゐ痛がつたり、こはがつたりして、悲鳴をあげ始めましたが、その騷ぎ方はずつとひどいものでした。一匹の小さな怪物が彼女の額にとまつてゐましたが、もしもエピミーシウスが飛んで行つて、それを拂ひのけなかつたら、彼女はどんなに深く刺されてゐたか知れません。
さて、その箱から逃げ出したこれらのいやなものは一體何かといふことを君達が聞きたがるなら、それはこの世の「わざはひ」の全一族だつたと、僕は答へなければなりません。その中には、惡い「情慾の虫」もゐました。とてもいろんな種類の「心配の虫」もゐました。百五十以上の「悲しみの虫」もゐました。みじめな、いたましい恰好をした、とても澤山の「病氣の虫」もゐました。それから、「いたづらの虫」の類に至つては、お話にもなんにもならないほどゐました。つまり、その時から今日まで、人間の心やからだを苦しめて來たものは、すつかりその祕密の箱の中に閉ぢ込められてゐたもので、大切に取つておくやうにといつて、エピミーシウスとパンドーラとに渡されたのも、世の中の子供達がそんなものに苦しめられることのないやうにしたかつたからでした。もしも彼等が頼まれた通りにしてゐたならば、萬事都合よく行つたことでせう。その時から今に至るまで、悲しい思ひをする大人もなかつたでせうし、子供達にしたつて、涙一滴こぼすわけもなかつた筈なんです。
しかし――これで見ても、誰か一人でも間違つたことをすると、世間全體が迷惑するといふわけが君達にも分るでせうが――パンドーラがそのとんでもない箱の蓋をあけたことと、それからまた、エピミーシウスがそれをとめなかつたといふ『をちど』とによつて、これらの「わざはひ」がわれわれの間に足がかりを得て、急には追つぱらへさうにもなくなつたのです。といふのは、君達にもたやすく分る通り、この二人の子供は、そのいやなものの群を、彼等の小さな家から出さないでおくといふわけには行かなかつたからです。それどころか、彼等はそんなものは早く出て行つてほしかつたので、何よりも先に、戸口と窓とをあけ放しました。すると、果して、その翼の生えた「わざはひ」達はみんな外へ飛び出して行つて、そこいら中の子供達をひどく苦しめ惱ましたので、その後幾日もの間、彼等の誰もが、にこりともしなかつたほどでした。それから、大變不思議なことには、これまでどれ一つ凋(しぼ)んだことのなかつた草花や露を帶びた花までが、今度は一日二日たつと、だらりとなつて、花びらが散りはじめました。その上、今までは、いつまでも小さいまゝでゐさうに思はれた子供達が、今度は一日々々と年を取つて、まもなく青年や年頃の娘になり、やがては大人になり、そんなことは夢にも思はないうちに、ぢいさん、ばあさんになつてしまひました。
さて、仕方のないパンドーラと、それに負けないくらゐのエピミーシウスとは、家の中にじつとしてゐました。彼等は二人ともひどく刺されて、大變痛かつたのですが、それが世界始まつて以來感じられた最初の痛さであつただけに、彼等には一層耐(た)へ難く思はれました。いふまでもなく、彼等は苦痛にはまるで慣れてゐなかつたので、それが何のことやら、わけが分りませんでした。そこへもつて來て、彼等は二人とも、自分自身に對して、それからお互同志に對しても、ひどく不機嫌になつてゐました。思ひきりその不機嫌に耽るために、エピミーシウスはパンドーラに身を投げ出して、頭をあの恐しい、いやな箱に乘せてゐました。彼女はひどく泣いて、胸も張り裂けさうにすゝり上げてゐました。
不意に、箱の蓋を、中から静かに、低くたゝく音がしました。
「あれは一體何でせう?」とパンドーラは叫んで、頭を上げました。
しかしエピミーシウスは、そのとんとんといふ音が聞えなかつたか、それともあんまり腹を立ててゐたので、それに氣がつかなかつたのでせう。とにかく、彼は何とも答へませんでした。
「あんたひどいわ、あたしに口を利かないなんて!」とパンドーラは言つて、また啜(すゝ)り上げました。
またとんとんと音がします! それは妖精の手の小さな拳骨のやうな音で、輕く冗談半分みたいに、箱の内側をたゝくのでした。
「お前は誰だい?」とパンドーラは、少しまた、前の好奇心を出して尋ねました。「だあれ、このいけない箱の中にゐるのは?」
小さな、いゝ聲が中から言ひました、――
「蓋をあけてさへ下されば、分りますよ。」
「いあ、いや、」とパンドーラは、また啜り上げはじめながら答へました、「あたし蓋をあけることは、もう澤山だわ! お前は箱の中にゐるんでしよ、意地惡さん、いつまでもそこに入れといてやるから! お前のいやな兄弟や姉妹は、もう、一杯世の中を飛び廻つてゐるよ。お前を出してやるほど、あたしが馬鹿だと思つてもらつちや困るわ!」
彼女はさう言ひながら、多分エピミーシウスが彼女の分別をほめてくれるだらうと思つて、彼の方を見ました。しかし起つてゐるエピミーシウスは、彼女が今から分別を出したつて、少し手おくれだ、とつぶやいただけでした。
「あゝ、」とその小さな、いゝ聲はまた言ひました、「あなたはわたしを出して下さつた方が、ずつといゝんですよ。わたしは、あんなお尻に螫(はり)のくつついたやうな惡い者とは違ふんです。彼等はわたしの兄弟や姉妹ぢやありません。それはあなたがわたしを一目(ひとめ)ごらんになりさへすれば分ります。さあ、さあ、可愛らしいパンドーラさん! きつとわたしを出して下さるでせうね!」
そして、實際この小さな聲で頼まれると、どんなことでも何だかことわりにくくなつてしまふやうな、一種の愉快な魅力が、その調子の中に含まれてゐました。パンドーラの心は、その箱の中から聞えて來る一語々々に、知らず識らず輕くなつてゐました。エピミーシウスもまた、まだ隅の方にはゐましたが、半分こつちを向いて、前よりもいくらか機嫌がよくなつてゐる樣子でした。
「ねえエピミーシウス、」とパンドーラは叫びました、「あんたこの小さな聲を聞いて?」
「うん、たしかに聞いたよ、」と彼は答へましたが、まだあまりいゝ機嫌ではありませんでした。「で、それがどうしたんだい?」
「あたしもう一度、蓋をあけたもんでせうか?」とパンドーラは訊きました。
「そりや君の好きなやうにするさ、」とエピミーシウスは言ひました。「君はもう大變な惡いことをしちやつたんだから、その上もうちよつぴり惡いことをしたつていゝだらうよ。君が世間にまき散らしたやうな『わざはひ』の大群の中へ、もう一匹ほかのやつが出て來たところで、別に大したことはありつこないさ。」
「あんた、もう少し親切に口を利いてくれたつていゝでせう!」とパンドーラは、目を拭きながら言ひました。
「あゝ、しやうのない兒だねえ!」と箱の中の小さな聲は、ずるさうな、笑ひ出しさうな調子で言ひました。「あの兒は自分でも、わたしを見たくてならないのは分つてゐるんですよ。さあ、パンドーラさん、蓋をあけて下さい。わたしはあなたを慰めてあげようと思つて、大變氣が急(せ)いてゐるんです。ほんの一寸わたしにいゝ空氣を吸はせて下さい。さうすれば、あなたが考へてゐるほど、さうひどく悲觀したものでもないといふことが分るでせう。」
「エピミーシウス、」とパンドーラは叫びました、「何だつてかまはないから、あたし箱をあけて見るわ!」
「ぢや、蓋が大變重さうだから、僕が手傳つて上げよう!」とエピミーシウスは叫んで、部屋の向ふから驅けて來ました。
かうして、双方承知で、二人の子供はまた蓋をあけました。すると、明るい、にこにこした小さな人が飛び出して來て、部屋の中を舞つて歩きましたが、彼女の行くところは何處でも明るく見えました。君達は鏡のかけらで日光を反射させて、暗いところでちらちらさせて見たことはありませんか? とにかく、この妖精のやうな見知らぬ人が、薄暗い家の中を愉快さうに飛び廻る有樣は、そんな風に見えました。彼女がエピミーシウスのところへ飛んで來て、「わざはひ」に刺されて赤くなつたところを、ちよつと指でおさへると、すぐにその痛みは消えてしまひました。それから、彼女がパンドーラの額(ひたひ)に接吻すると、彼女の傷もまた、同じやうになほつてしまひました。
かうした新競るとつくしてくれたあとで、その光を帶びた見知らぬ人は、愉快さうに子供達の頭の上を飛び廻つて、大變やさしく彼等を見たので、彼等は二人とも、箱をあけたことはさう大して惡くもなかつたといふ氣がして來ました。といふのは、もしもあけてゐなかつたら、このうれしい訪問者までが、あのお尻に螫(はり)を持つた小惡魔達にまじつて、箱の中に閉ぢ込められてゐなければならなかつたでせうから。
「美しい方、一體、あなたは誰なの?」とパンドーラは尋ねました。
「わたしを『希望(ホウプ)』を呼んでいたゞきませう!」とその明るい人は答へました。「そしてわたしはこんな陽氣な者ですから、人達に對して、あの大勢のいやな『わざはひ』の埋合(うめあは)せをつけるために箱の中に入れられたんです。どうせ『わざはひ』は人達の間にまき散らされることになつてゐたんですからね。決して恐れることはありませんよ! 『わざはひ』がいくらゐたつて、わたし達は可なり面白くやつて行けますよ。」
「あなたの翼は、虹のやうな色をしてるわねえ!」とパンドーラは叫びました。「まあ、なんて美しいんでせう!」
「えゝ、虹みたいでせう、」ホウプは言ひました、「何故かといへば、わたし陽氣なたちなんですけど、にこにこしてゐるだけぢやなくて、少しは涙をこぼすこともあるんですから。」
「そしてあなたは、いつまでもいつまでも、あたし達のところにゐて下さる?」とエピミーシウスは尋ねました。
「あなた方がわたしに用がある間はいつまでも、」とホウプは、氣持のいゝ笑顏をして言ひました、――「つまり、あなた方がこの世に生きてゐるかぎりといふことになるでせうね、――わたしは決してあなた方を見捨てて行かないことを約束しますよ。時により、季節によつては、時々わたしが全然逃げてしまつたのかと思ふやうなことがあるかも知れません。しかし、多分あなたが思ひもかけないやうな時に、ひよつこり、ひよこりと、わたしの翼の光があなた方の家の天井に見えて來るでせう。本當ですよ、わたしの大好きな子達、そしてわたしはこれから先あなた方がいたゞくことになつてゐる大變いゝ、美しいものを知つてゐるんですよ!」
「おう、聞かして下さい、それが何だか聞かして下さい!」と彼等は叫びました。
「訊いてはいけません、」とホウプは、薔薇色の口に指をあてて言ひました。「しかし、萬一あなた方がこの世にゐるうちにそんなことがなくても、氣を落してはいけません。わたしの約束を信じて下さい、それは本當なんですから。」
「私達はあなたを信じます!」とエピミーシウスとパンドーラとは、二人一しよに叫びました。
そして彼等は本當にホウプを信じました。いや、彼等ばかりでなく、その後この世に生れ出た人は、誰でもその通りホウプを信じました。そして、實際のことをいふと――(たしかに彼女がそんなことをしたのは、とても惡かつたには違ひないにしても)――僕は馬鹿なパンドーラが箱の中をのぞいて見たといふことを喜ばずにはゐられないのです。そりやもう――たしかに――「わざはひ」が今もなほ世の中を飛び廻つてゐて、減るどころか、却つて數もふえて、それが大變いやな小惡魔達で、お尻にとても毒のある螫(はり)を持つてゐることも知つてゐます。僕は今までにも彼等に苦しめられたし、これからも年を取つて行くにつれて、もつと苦しめられることは覺悟してゐます。しかしその代りに、この美しい、明るい、ホウプの可愛らしい姿があるぢやありませんか! われわれは一體「希望(ホウプ)」なしで、どうすることが出來ませう? ホウプは世の中を高尚にしてくれます、ホウプは世の中を常に新しくしてくれます。たとへ世の中が、どんなに明るく見えた時でも、それがたゞ、もつと後にやつて來る限りない幸福の影にすぎないといふことを、ホウプは教へてくれます!


第六十三段2022年01月31日

後七日(ごしちにち)の阿闍梨(あじやり)、武者を集むる事、いつとかや、盜人にあひにけるより、宿直人(とのゐびと)とて、かくことごとしくなりにけり。一年(ひととせ)の相は、此の修中のありさまにこそ見ゆなれば、兵(つはもの)を用ゐん事、穩やかならぬことなり。

  『徒然草』同段。

「後七日」とは正月八日からの七日間との由。無論旧暦である。正月早々何ともキナ臭い話であることよ。