「武蔵野」(抜萃) 国木田独歩2022年07月26日

「武蔵野 五」より  國木田獨歩

(前略)
 武蔵野に散歩する人は、道に迷ふことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はたゞ其縦横に通ずる数千条の路を当(あて)もなく歩くことに由て初めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、たゞ此路をぶらぶら歩て思ひつき次第に右し左すれば随処に吾等を満足さするものがある。
(略)
 されば君若し、一の小径を往き、忽(たちま)ち三条に分るゝ処に出たなら困るに及ばない、君の杖を立てゝ其倒れた方に往き玉へ。或は其路が君を小さな林に導く。林の中ごろに到て又た二つに分れたら、其小なる路を撰んで見玉へ。或は其路が君を妙な処に導く。これは林の奥の古い墓地で苔むす墓が四つ五つ並で其前に少し計りの空地があつて、其横の方に女郎花など咲て居ることもあらう。頭の上の梢で小鳥が鳴て居たら君の幸福である。すぐ引きかへして左の路を進んで見玉へ。忽ち林が尽て君の前に見わたしの広い野が開ける。
(略)
 若し君、何かの必要で道を尋ねたく思はゞ、畑の真中に居る農夫にきゝ玉へ。農夫が四十以上の人であつたら、大声をあげて尋ねて見玉へ、驚(おどろい)て此方を向き、大声で教へて呉れるだらう。若し少女(をとめ)であつたら近づいて小声できゝ玉へ。若し若者であつたら、帽を取て慇懃(いんぎん)に問ひ玉へ。鷹揚(おうやう)に教へて呉れるだらう。怒つてはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。
 教へられた道をゆくと、道が又た二つに分れる。教へて呉れた方の道は余りに小さくて少し変だと思つても其通りにゆき玉へ、突然農家の庭先に出るだらう。果して変だと驚てはいけぬ。其時農家で尋ねて見玉へ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答へるだらう。農家の門を外に出て見ると果して見覚えある往来、なる程これが近路だなと君は思はず微笑をもらす、其時初て教へて呉れた道の有難さが解るだらう。
(後略)



・手塚治虫『鉄腕アトム』「赤いネコの巻」より。『ジャングル大帝』→『幻談』という連想からの連想。
「国木田独歩」という作家名および『武蔵野』という作品名を知ったのは、この漫画の冒頭にある引用文から。この回のゲスト主人公(?)の名は「Y良太郎」(講談社全集版。初版は1979年だが手許にあるのは1997年刊)。

妙な名である。

手許には他に、光文社のカッパ・コミクス版(1964年刊)と、朝日ソノラマのサン・コミックス版(1976年刊)の2種あるが、ともに別名で登場している。
改名の事情は知らないが「beyond ALL conjecture」という訳でもない。まあ、当事者同士が納得しているのなら無関係な第三者が兎や角言う筋合いでは無かろう。
……しかしながら、一読して「妙な名だ」と思う読者は少なくないと推察される。

・追記(8月6日)。
そう言えば最近、島崎藤村の『破戒』が、また映画化されたそうだ。
……何が「そう言えば」なのか、筆者自身にもよく判らないが。

コメント

トラックバック