『文學評論』序 夏目漱石2022年07月01日

    序

 此講義は余が大學在職中に作つた儘、長く放つてあつたのを、春陽堂の乞に應じて今度公けにすることにした。はじめ出版の承諾をしたのは一昨年の夏の頃と記憶して居るが、原稿を淨書して呉れる人に色々の故障があつたのと、余の多忙なのとで、つい延び延びになつてとうとう豫定の期日を後らして仕舞つた。去年の暮書肆の催促を受けて、漸く訂正に從事し出してから約一ケ月の間は專心此講義にばかり掛つてゐた。それで全部の訂正を終つた上に約半分程は書き直したが夫でも余の意に滿たぬ所は澤山ある。
 大學で講義をやる當時は、此式で十八世紀の末浪漫的反動の起る所迄行く積りであつたが、半途で辭職したため、思ひ通りに歩を進める事が出來なかつた。此講義の中に評論した作者は、皆當代の大家であるけれども、或は其一人一人に費やした頁の數があまり多過ぎはせぬかとの難もあるだらうと思ふ。然し自分の主意は單に是等の諸家を論ずるのでなくて、是等の諸家を通じて、余の文學上の卑見を述べる積なのだから其邊は讀者に斷つて置きたい。
 此講義にはアヂソン、スヰフト、ポープ、デフオーの四家を評論してあるが、其評論の式は四家ともに各態度を易へて多少の變化を試みて見た。其成功と不成功とは固より余の云々すべき點ではない。
 此講義を公けにするに就て、森田草平、瀧田樗陰兩氏の補助を受けたのは余の感謝する所である。

    明治四十二年二月
                   夏目漱石

コメント

トラックバック