メデューサの首 8 ― 2022年06月26日
(八)宿命の円盤
暫くしてペルセウスとアンドロメダは、フォエニキヤから来た船大工に一隻の船を作らせ、船首を朱(しゅ)で色どり、船体を黒く塗って、高価な宝石や、立派な衣類を積んで、エチオピヤの港を出発し、西へ西へと進んで、エーゲ海の緑の波を分けて、なつかしいセリフォスの島へ着いた。
ペルセウスは島へ上陸して、母の安否を尋ねると、母のダナエはペルセウスが島を去った後(のち)、アテーネの神殿へ籠(こも)って、この女神に仕える巫女(みこ)の保護の下(もと)に、無事に七年の月日を送っていたことが分ったので、ペルセウスは母に会って、互いの無事を喜んだ後、メデューサの首を抱えて、ポリデクテスの王宮へ入って行った。その時王は広間の中で、島の貴族等(ら)を集めて酒宴を開いていたが、今大跨(おおまた)に王宮の門を入って、広間の入口に突立(つった)ったペルセウスの姿を見ると、杯を下へ置いて、軽蔑(さげす)むような調子で、こう言った。
「やあ、捨子が帰って来た! お前は偉そうなことを言って出て行ったが、どうだ、口でいうような訳にはゆくまいが?」
併しペルセウスは、それには答えず、黙って山羊の皮に包んだメデューサの首を一同の前へ差し出した。
「王よ」とペルセウスは力の籠った声で言った。「さあ神の贈物を持って来た。そらメデューサの首を見せてやろう。」
こう言って、山羊の皮をまくった時に、王を始め客人の顔には、綻(ほころ)びかかった笑顔が、急に凍り付いて、そのまま怖(おび)えたような眼を首の方へ向けたが、その瞳は見る見る動かなくなって、卓子(テーブル)の周囲(まわり)へ輪を作ったままで、灰色の石になってしまった。
ペルセウスは直ぐに王宮を出て、アテーネの神殿へ帰り、ゴルゴンの首を神前へ供えるや否や、母のダナエと妻のアンドロメダを連れて、セリフォスの島を出帆し、噂にのみ聞いていた故郷のアルゴスへ向った。
船はその昔ダナエ親子を運んで来たエーゲ海の波を西に進んで、やがてアルゴリスの入江に入り、アルゴスの港へ着いた。けれども市(まち)へ入って尋ねると、祖父のアクリシウスは、敵の為に王位を奪われて、今ではペラスギー(Pelasgi)族の国へ落ち延びて、ラリッサの市(まち)にいるということが分ったので、ペルセウスは即座にアルゴスの城を攻めて、祖父の仇(あだ)を返し、再び船に乗ってラリッサの市へ向った。
やがてギリシャの島々を過ぎ、数知れぬ入江を越えて、ペラスゴイ(Pelasgoi)族の都ラリッサへ着くと、折しもペラスゴイ族の王は、アルゴス王アクリシウスの旅情を慰さめる為に、盛んな酒宴を開き、余興には様々の競技の催しがあった。
ペルセウスはその有様を見ると、名乗りもかけずに、競技の仲間へ加わろうとした。「一つ賞品を横取りして、ラリッサの奴等を驚かしてやろう。そしてその賞品を祖父の前へ捧げて、骨肉(こつにく)の名乗りをしよう。」と彼は心の中で思ったのである。
で、ペルセウスは手早く兜を取り、胸甲(よろい)を脱いで、ラリッサの勇士の中へ入って行った。ラリッサの人々は、見知らぬ異国人が競技の列に入って来たのを見て、互いに囁き合った。
「あれは何処から来た者だろう?」
「御覧、あの立派な身体(からだ)を!」
「オリムポスから来たに相違ない!」
「そうだ、神の子だ!」
こんな会話が彼方此方(あちらこちら)で取り交わされているうちに、競技の時刻が来た。競技が始まると、ラリッサの人々の驚きはいよいよ加わるばかりであった。競走でも、高跳びでも、角力(すもう)でも、槍投げでも、ペルセウスに及ぶ者は一人もなかった。彼はもう四つの月桂冠を取って、いよいよ最後の競技にかかった。此度(こんど)の競技は円盤投げである。ペルセウスは円盤を取って、仁王(におう)のように競技場の砂の上へ立った。やがて円盤は風を切って飛んだが、その距離は遙かにレコードを抜いた。これを見た群衆は、狂うばかりに喝采した。
「もう一度! もう一度!」と群衆は口々に叫んだ。「もっと高く! もっと遠く!」
ペルセウスは又円盤を取り上げて、全身の力を籠めて、前よりも強く、前よりも高く投げ出した。円盤は唸りを立てて、ゼウス神の雷電のように飛んで行った。群衆は息を殺して円盤の後(あと)を見送っていたが、その時一陣の風が海の方から吹いて来て、円盤を吹き反らしたと見る間(ま)に、円盤は競技場を越えて、アクリシウスの足元へ飛んで行った。群衆はあッと言って、一度に驚きの声を立てた。ペルセウスもはッと思って、いきなり祖父の方へ駈けよったが、アクリシウスはもう地に倒れて、気絶していた。老王は円盤に足を打たれると共に、洞(うろ)の入った枯木(かれき)のように、ばったりと地に倒れたのであった。
ペルセウスは駈け寄って、抱き起して見たが、老王の息はもう絶えていた。彼はその亡骸(なきがら)に対して熱い涙を流したが、やがてその悲愴な顔をあげて、群衆に向ってこう言った。
「私はこの老人の孫のペルセウスです! 私は神々の助けによって、ゴルゴンを退治して帰って来ました。併(しか)し誰が神の命令を拒むことが出来ましょう? この老人は以前私の手で命を失うという神託を受けて、私を海へ流しました。けれどもこの通り私の手にかかって死にました。神々に詐(いつわ)りはない! 誰が神の定めに勝つことが出来ましょう!」
これを聞いて、ラリッサの人々はこの勇士の心中を思い、又老王の最後を悼(いた)んで、先ず老王のために立派な葬式を営んだ後(のち)、ペルセウスを神殿へ導いて、その知らずして犯した罪の汚れを掃(はら)って、本国へ送り帰した。
その後(ご)ペルセウスは、アルゴスの王位に上って、永い間国を治め、アンドロメダとの間に四人の王子と三人の王女を設けて、幸福にこの世を終った。その死後神々は二人の霊魂をオリムポスの山上へ迎え取って、天上の星と変えた。今でも晴れ渡った星の空に、彼等は夜な夜な燦然(さんぜん)たる光を放って、海を越える水夫等(ら)の篝火(かがりび)ともなり、目標ともなっている。ペルセウスはゴルゴンの頭を両手に抱え、アンドロメダは、あの海の怪物の犠牲に供えられて、岩に繋がれた時の姿をそのままに、白い腕を空へ上げて、夫の側(そば)に立っている。又二人の近くには、アンドロメダの父のケフェウスが黄金の冠を頂き、母のカッシオペーヤが象牙の椅子に腰をかけて、共に星となって、夜の空を照らしているのが見える。