マクベス ラム姉弟2022年05月29日

Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.

清美(きれい)は醜穢(きたない)、醜穢(きたない)は清美(きれい)。
狭霧(さぎり)や穢い空気ン中を翔(と)ばう。

第1幕第1場 W・シェイクスピア 坪内逍遙訳


「マクベス」 ラム姉弟(してい) 平田禿木訳

 温厚なダンカン王が蘇格蘭(スコツトランド)を統治(しろしめ)してゐられた頃、マクベスといふ一人の偉い郷士(がうし)が住んでゐた。このマクベスといふのは、王の近親であつて、戦争(たゝかひ)に臨んで勇気に長(た)け、戦術に優れてゐたので、宮廷では非常に尊(たふと)まれてゐたが、現(げん)に先頃(さきごろ)も、雲霞(うんか)の如く推し寄せて来たノルウエイの軍兵(ぐんぴやう)と合(がつ)して、叛旗を飜(ひるがへ)した賊軍共をうち平らげ、その武勇の程を示したのであつた。
 マクベス、バンコオなる蘇国(そこく)の二将軍(にしやうぐん)がこの大戦から凱旋の途中、恰度(ちやうど)風吹き荒(すさ)む草原(くさはら)へさしかゝると、いきなり其処へ不思議な三人の姿が現はれたので、はたと二将軍(ふたり)の足は止つて仕舞つた。その三人の姿といつたら、髯さへなければまるで女のやうで、しなびきつたその肌といひ、刈菰(かりごも)を被つたやうなその扮装(いでたち)といひ、到底(とても)この世のものとは思へないのであつた。マクベスが先づ何か云ひかけたが、すると三人はちよつと気に障つたといふ体(てい)で、黙つてゐろとでもいふのか、銘々皺くちやだらけの指を皮ばかりな唇にあてがつた、して、その最初(はじめ)の者がグラミスの郷士殿といつて、マクベスに挨拶するのである。斯(か)うした輩にまで知られてゐるのかと、将軍は少からず驚いたが、矢継(やつ)ぎ早(ば)やにまた次の者が、自分に更にその資格のない、コオダアの郷士といふ称号を与へたのには、実に驚いたの何(なん)のといつたらない。するとまた、第三の者が、「何ともお目出度(めでた)う! 将来(すゑ)には王にならうといふ御方!」と、またも彼を呼びかけるのであつた。斯うした予言めいた挨拶に、彼が驚くのも尤もなことである、王子達の生きてゐるうちは、自分は到底(とても)王位になど登れやう筈がないのであるから。そこでまたバンコオに向つて、「マクベス程には偉くはないが、また偉くもある! マクベス程に幸福ではないが、また遙かに幸福でもある!」と、謎のやうな言葉で宣言し、さてまた、其方(そなた)がこの国を統治(しろしめ)すといふことは決してないが、後(あと)に続く子息達は必ず蘇国(そこく)の王になると予言するのであつた。それを云つたかと思ふと、三人は忽ち掻き消すやうに空に消えて仕舞つたので、こりや何でもあの妖婆(ウイツチ)といふ、妖術を使ふ女達と両将軍(ふたり)は気づいたのであつた。
 如何にも不思議の変事(へんじ)よと、両将軍(ふたり)が考へながら立つてゐるうちに、そこへダンカン王のお使者がやつて来て、王からの御委任で、マクベスにコオダアの郷士の位を授けたのである。不思議にも妖婆(ウイツチ)共の予言と符節を合はすやうなこの出来事に、マクベスは少からず驚いて、ろくろくお使者のものに返答も出来ず満身(まんしん)驚愕(おどろき)に包まれて、そこへ立ち竦(すく)んで仕舞つた、して、その刹那(せつな)に、第三の妖婆(ウイツチ)の云つた言(こと)も同じやうにまた成就して、何日(いつ)か自分が王としてこの蘇国(そこく)を統治(をさ)めるやうにならうも知れぬとの希望は、忽ちむらむらとその胸に起つて来たのでした。
 さて、バンコオに向つて彼は云ふに、「あの妖婆(ウイツチ)共が拙者に約(やく)せし事の、斯くも不思議に事実となるからには、其方(そなた)も亦(また)、己(おの)が子孫の王となる日を、楽しみに待たれたがよいではないか!」「それが事実となつたに力を得て、」将軍は答へた、「其方(そなた)はひよつと王位に望みをかけやうも知れぬが、気をつけぬといかぬよ、兎角(とかく)あゝした冥府(よみ)の使(つかひ)といふものは、少時(せうじ)にかけては事実を語り、それを機会(しほ)に取返(とりかへ)しもつかぬ大事に我等を誘(いざな)ふものぢやから。」
 が、それとなき妖婆共の誘惑(そゝのかし)は深くもマクベスの胸に喰ひ入(い)つて、温厚なバンコオの忠言など、到底(とても)耳にもかけようとしない。その時からといふもの、何(ど)うぞして蘇国(そこく)の王位を手に入れたいものと、あらゆる思ひを傾(かたむ)けたのでした。
 マクベスには一人の妻があつたが、その者に彼はあの妖婆(ウイツチ)の女達の予言と、その一半(いつぱん)が既に立派に成就されたことを打ち明けた。この夫人といふのがまた野心深き悪婆(あくば)であつて、夫婦の者が高き位に登れるといふことなら、その手段の如きは殆(ほとん)どこれを撰ばぬといふ女であつた。血を流すことを思つて、そゞろにその事の怖ろしくなり、兎角は鈍り勝ちなマクベスの意志に鞭(むちう)ち、心地好(こゝちよ)きかの予言を成就せうといふには、王を手にかくるこそ、是が非でも決行せにやならぬ一手段として、片時(かたとき)もこれを勧めないといふ時はなかつたのでした。
 恰度(ちやうど)この時、高貴の御身分をも意とせられず、屡々(しばしば)重立(おもだ)ちたる貴族の邸に御駕(おんが)を枉(ま)げ給ひし王が、マルカム、ドナルベインの二王子、郷士、従者の数多(あまた)扈従(こじう)を引き具(ぐ)して、続きての戦陣の偉勲(いさをし)に対し、弥(いや)が上にもマクベスに光栄を添(そ)へん為、特にその邸に臨まれたのでした。
 マクベスのお城といつたら、実に景勝の位地(ゐち)を占めてゐた、して、四辺(あたり)の空気が稀に見る清新のものであることは、建物から張り出てゐる彫刻帯(フリイヅ)なり、堡塁(ほうるい)なり、これはと思ふところへは、残らず燕が来て巣をくつてゐるのでもよく分る。この鳥の住居(すまひ)となり、雛を孵(かへ)す処とあれば、空気はもう此上(このうへ)なし清いといふことになつてゐるので。そこへ這入(はひ)られるなり、王は少からずこの邸を御満足に思召(おぼしめ)され、当夜の光栄ある主人(あるじ)役なるマクベス夫人の歓待振りにも亦(また)等しく御満悦であつたのでした。微笑(わらひ)をもて悪逆の計を包む手管(てくだ)を有(も)つてゐるのがこの女(ひと)で、下に潜む怖ろしき蛇でありながら、平気で無邪気な花の顔(かんばせ)をしてゐられやうといふのである。
 臨幸(みゆき)の旅に疲れられ、王は早く寝所(しんじよ)へ退(しりぞ)かれた、して、その御殿には、当時の慣習で、二人の侍従がお側(そば)に寝(やす)んでゐた。いつになく当夜の歓待(もてなし)がお気に召したので、御寝(ぎよし)なる前(まへ)、重立つた大官達へ被(かづ)け物があり、別(わ)けても彼(か)のマクベス夫人へは、きらびやかな金剛石(こんがうせき)をお贈りになり、最(い)と行(ゆ)き届きたる我が女主人(あるじ)よとお言葉を賜(たま)はつたのでした。
 今は夜(よ)も真夜中である、あたりの世間一体に自然はまるで眠つたやう、悪夢は眠れる人の心を悩まし、狼か虐殺者(ひとごろし)でもなければ戸外(おもて)には誰も出てゐない。マクベス夫人が王の虐殺(ぎやくさつ)を企(たくら)まんと眼を覚(さま)したのがこの時である。女の身にあられもない、自(みづか)ら斯(か)く怖(おそ)ろしき業(わざ)を思ひ立ちもしなかつたであらうが、余りに慈悲の甘露(かんろ)に充ちてゐて、予(かね)て計画の手を下すことが出来なくてはと、良人(をつと)の性質(ひとゝなり)を気遣(きづか)つたばかりに、我知(われし)らず斯(か)うした振舞(ふるまひ)に出たのでした。高い望みを懐(いだ)いてゐることもよく承知してゐる、が、同時にまた随分と用心深く、非望(ひばう)の果(はて)なる大罪(たいざい)を犯すまでには、まだまだ覚悟のついてゐないことも知つてゐた。何(ど)うなり王を亡きものにしようといふには納得さした、が、その決心の程を疑つてゐた、(自分よりはずつと慈悲心のある)その気象(きしやう)の生れつきやさしいところから、つひそれが仲へ入(はひ)つて、折角の目論見を打ち破つて仕舞ひはせぬかと心配してゐた。斯くて、我(われ)と我(わ)が手に剣(つるぎ)を提(ひつさ)げて、王の寝床(ふしど)に夫人は近づいていつた、二人の侍従には予(かね)てしたゝか酒を強(し)ひ、警護の役目など打ち忘れ、前後もわきまへず熟眠(ねむ)つて仕舞ふやうにしなしておいたので、そこにはダンカンが、旅の疲れでぐつすりと眠入(ねい)つてゐる、ぢつとその寝顔に見入ると、何やら自分の父に似た面影の見えるので、流石に夫人も手を下す勇気がなかつた。
 良人(をつと)と相談しようと戻つて来た。彼の決心も、そろそろもう逡巡(たぢろ)ぎ出してゐた。この業(わざ)を止(とゞ)むる屈強の理由があるやうに彼は思つた。第一、王に対して自分は唯(たゞ)臣下であるばかりでなく、その近親なのである、而(し)かも、当日(そのひ)は肝心の主人(あるじ)役であつて、人を歓待(もてな)す道としても、物騒な刺客(しかく)など、これを戸外(おもて)に閉め出すこそ身の当然の義務(つとめ)であり、自ら刃(やいば)を提(ひつさ)ぐるなどは到底(とても)なし得(う)べき筋(すぢ)ではない。次に彼はまた、このダンカンが実に正しく、慈悲ある王であること、臣下の気を損じるといふことなど露(つゆ)程もなく、貴族、特に自分に対して実によく目をかけられること、斯(か)かる王こそ神の秘蔵の御方(おんかた)であり、その身に一大事ある際は、臣下として、二重(にぢゆう)にも三重(さんぢゆう)にもその仕返しをなすべき義務(ぎむ)のあることを思つた。のみならず、王のお蔭を以て、マクベスは今(いま)貴賤上下の差別なく万人の崇むるところとなつてゐる。左様(さう)した誉れを今更に、さる忌はしき虐殺の取沙汰もて汚されるものぢやない!
 斯うした心の煩悶に、良人は稍(やゝ)善心に立ち返り、この上進んで手を出すまいと決心してゐるのを、マクベス夫人は見たのでした。が、容易にその悪計を飜すやうな女でないので、己(おの)が気象の一部をば良人の胸に注ぎ込むやう、いろいろの言葉をその耳の辺(あたり)に囁くのでした。一旦お思ひ立ちの事を何も今更尻込みするには及びませぬ。手を下せば何のわけもないこと、見る間に事は片づいて仕舞ひまする、短い一夜(ひとよ)の働きで、末始終(すゑしじゆう)夜も昼も、夫妻(ふたり)は尊(たふと)き御位(みくらゐ)にあつて、至上の権(けん)を揮(ふる)へるではありませぬかと、理屈に理屈をたゝみかけて、頻りと口説き立てるのでした。今度はまたその気変りを嘲笑(わら)つて、移り気ぢや、弱虫ぢやときめつけ、自分も子供に乳房を含ませたことがある。我が乳を吸つたその嬰児(みどりご)を撫でさすり、可愛ゆがるこそ如何ばかりいぢらしきかも、自分はよくよく承知してをりまする、が、貴方(あなた)が此度(このたび)の殺害を思ひ立つたやうに、一旦左様(さう)と誓つた以上、たとへば此方の顔に見入つて、にこやかにその児が微笑(わら)つてをりませうとも、いきなりそれをば自分の懐から引き離し、大地へ打ちつけ、脳漿(なうみそ)でも何でも出してお目にかけますと云ひ放つた。それにはまた、その殺害の罪を、酔ひ潰れて眠つてゐる侍従の者に被(かづ)けるのもわけないことゝ云ひ添へ、鋭いその舌鋒にまかせて散々にその決心の鈍(にぶ)きを責め立てたので、良人はまたぞろ勇気を呼び起し、何(ど)うなり残忍のその業(わざ)を決行しようといふ気になつて仕舞つた。
 斯くて、剣(つるぎ)をその手におつ取り、暗がりのなかをば彼は、窃(そ)つとダンカンの寝てゐる部屋へ忍び込んだが、這入つていくうち、また別の一つの剣(つるぎ)がその柄(え)を自分の方へと向け、身にも剣先(さき)にもいつぱいに血をつけて、空(くう)に浮んでゐるのを彼は眼にした。が、いきなりそれを捉(つかま)へようとすると、忽ちそれは掻き消えて仕舞つた。悶(もだ)えに熱(ねつ)しきつた我が頭脳(つむり)、将(まさ)に決行しようといふ怖ろしきその業(わざ)から湧いて出た、まつたくの幻影(まぼろし)に過ぎなかつたのである。
 漸(やうや)くこの恐怖(おそれ)を脱して、づかづか王の寝間(ねま)に進み、一刀で美事(みごと)にしすまして仕舞つた。恰度その時、同じ間に寝てゐた侍従の一人がねぼけて笑ひ出すと、も一人は『人殺し』と叫ぶ、それで二人とも眼を覚したが、短い祈祷を唱へ、一人が『神よ、我等を恵み給へ!』と叫ぶと、一人はまたそれに応じて『心願如是(アーメン)』と唱へ、何(ど)うやらまた二人は眠つて仕舞つた。二人の云ふ言(こと)を聴きながら立つてゐたマクベスは、先方(さき)の男が『神よ、我等を恵み給へ!』と云つた時、自分も傍(そば)で『心願如是(アーメン)』と唱へようとしたが、この際最もそのお恵みを願ふ必要がありながら、『心願如是(アーメン)』が妙に咽喉へ粘(へば)りついて、何(ど)うしてもそれが口へ出ないのであつた。
 また何やら声がするやうであつたが、それは斯(か)う叫ぶのでした、『もう眠るな。マクベスは睡眠(ねむり)を殺す、生(せい)の滋養(やしなひ)となる安き睡眠(ねむり)を殺す。』まだまだその声は叫んでゐる、家中に向つて、『もう眠るな』と叫んでゐる。『グラミスは睡眠(ねむり)を殺した、されば、コオダアはもう眠らせぬ、もうマクベスは眠らせぬ。』
 斯(か)うした怖ろしい妄想に責められながら、マクベスは、聴き耳立てゝ待つてゐた妻の許へと戻つていつたが、余りに遅いので、妻はもう良人が手を下し兼ね、何(ど)うやら仕損じでもしたやうに思ひ出したとこであつた。まるでもう喪心(さうしん)の体(てい)で這入つて来ると、妻はいきなり、そんな確(し)つかりしないことで何(ど)うなさる、早くその血だらけな手をお洗ひめされと叱りつけ、自分はその血刀(ちがたな)を受取つて、二人のした悪事(こと)に見えるやう、侍従の頬へ血を塗りつけに行つたのでした。
 朝が来た、それと共に、何(ど)うにも秘(ひ)せやう筈のない殺害が露見に及んだ。マクベスと夫人とは仰山(ぎやうさん)に愁傷(しうしやう)の体(てい)を見せ、侍従共(じじうども)に対する証拠も(刀は眼前(めのまへ)へ突きつけられる、顔は血まみれになつてゐるといふので)、十分有力ではあつたが、嫌疑は悉(ことごと)くマクベスの上へかゝつて来た。斯(か)うした所業に及ばうといふ誘因は、下らぬあの侍従共に比して、遙かに多いといふところから、して、ダンカンの二王子は忽ち跡を晦まして仕舞つた。長子マルカムは英吉利(イギリス)の宮廷に保護を求め、末子のトナルベインは愛蘭(アイルランド)へ逃走した。
 後嗣(あとめ)に立つべき二王子が斯く引き払つて仕舞つたので、次位(つぎ)の世嗣(よつぎ)としてマクベスは位に即き、斯くて彼(か)の妖婆(ウイツチ)の予言は、こゝに文字通りに成就されたのであつた。
 斯く高位(たかき)に登りしとはいへ、マクベスとその女王とは、たとへ彼(かれ)王たるもその子孫は王たらず、バンコオの子孫の却つてその後(のち)を継ぐべしとの妖婆等(ウイツチら)の予言を忘れることは出来なかつた。この考へと、血をもてその手を汚(けが)し、斯くまでの罪を犯せしも、結句(けつく)唯バンコオの子孫を王位に即(つ)くるに過ぎじとの思ひは常にその心を痛めて、二人は遂にこのバンコオ父子(ふし)を亡きものにし、自分達の場合では不思議な位に実現した妖婆達(ウイツチたち)の予言を反古(ほご)にしようと決心した。
 この目的で夫妻は特に大饗宴の催しをし、重立(おもだ)つた郷士といふ郷士は皆これを招待し、なかにも別(わ)けて鄭重(ていちよう)の礼儀を尽して、バンコオとその息(むすこ)フリアンスが招かれたのでした。当夜バンコオが御殿へ進む途中へは、マクベスの旨(むね)を含んだ刺客がいつぱいに配置され、その手で到頭バンコオを刺し殺して仕舞つた。が、その立ち廻り中、フリアンスは何処(いづく)ともなく逃走して仕舞つた。後(のち)続いて蘇国(そこく)の王位を占め、蘇国では六世、英国では一世と称(とな)へられて、その下(もと)に両国(りやうごく)相(あひ)併合されるに至つた彼のジエムス王に及ぶ、一統の王家こそ、実にこのフリアンスの後裔(のち)なのである。
 饗宴の席では、身のこなしの此上(このうへ)もなく愛想好(あいそよ)く、気高かつた女王は、何とも実に優渥(いうあく)な、行き届いた歓待(もてなし)振りをされたので、並居(なみゐ)る一同皆(みな)悉く懐(なつ)いて仕舞ひ、マクベスもまた懸け隔てなく郷士、貴族と語つて、これで親しき友の、あのバンコオさへこゝに列なつてくれたら、国中の高貴の士は皆我が家に集まつたわけ、今に顔見せぬは不審なれど、途中何かの椿事(まちがひ)があつたわけではあるまい、何(ど)うぞして後(あと)でその怠慢を責められるやうであつてくれゝばよいと云ふ。恰度これを云ひ終るなり、自分の指金で手にかけさしたバンコオの亡霊がその部屋へ這入つて来て、マクベスがこれから懸けようといふ椅子へ、どつかと腰を下したのであつた。もともと大胆な男であり、眼前(まのあたり)悪鬼に出会つても、なかなか顫へるやうな人物ではなかつたが、この怖ろしい光景(さま)を見て、頬は忽ち蒼白(まつさを)になり、凝(ぢ)つとその眼を亡霊の方に注いで、まるで気の抜けた人のやうに立ち竦んで仕舞つた。女王にも貴族にも一向何にも見えず、が、人もゐぬ椅子へ向つて凝(ぢ)つと彼が見入つてゐるのに気づいて、こりやてつきり一時喪心したものと思つて仕舞つた。して女王は、先にダンカンを手にかけようといふ際に、虚空に剣が下(さが)つてゐるやうに想はせた、同じその妄想に過ぎないのだと耳うちして、窃かに彼を叱責(たしな)めた。が、マクベスの眼には続いて今の亡霊が見え、傍(はた)の者の云ふ言(こと)には少しも耳を仮(か)さず、唯それに向つてのみ、何やら分らぬ、が、妙に意味のある言を云ひ放つて已(や)まぬので、こりやあの怖ろしい秘密が曝(ば)れては大変と、女王は大急ぎで宴(えん)を徹(てつ)して仕舞つた、斯(か)うして気(け)うとくなるのは、マクベスが此頃(このごろ)度々悩まされる疾患(やまひ)なのですと言訳(いひわけ)して。
 斯うした怖ろしい妄想に、マクベスは始終冒されてゐた。女王と彼とは夜毎(よごと)に怖ろしい悪夢に襲はれ、而(しか)もそのバンコオを無残に手にかけたことよりも、一層また夫妻(ふたり)の心に懸(かゝ)るのは、運悪(うんあ)しくフリアンスが逃走したことであつた。自分達の子孫を斥(しりぞ)け、常に蘇国の王位に即く連綿たる一統の祖先となるは、必定(ひつぢやう)このフリアンスなりと見てゐたので、その落胆の余り、夫妻(ふたり)は更に心の平和とてなく、もう一度あの妖婆(ウイツチ)達を探し出して、此上何(ど)のやうな禍(わざはひ)の来るものか、是非これを確(たしか)めようとマクベスは決心した。
 草原(くさはら)のなかの、とある岩屋にこれを探し当てたが、彼等は予(かね)てその先見の力に依つて彼の来るのを知つてをり、未来を自分達に黙示するやう、魔界の霊を呼び起すべき怖ろしい魔薬(くすり)を調製(とゝの)へてゐるとこであつた。怖ろしいその調合物といふのは、蟾蜍(ひき)と蝙蝠と蛇、蠑螈(ゐもり)の眼と犬の舌、蜥蜴(とかげ)の脚に梟の羽、龍の鱗、狼の歯、悪食(あくじき)な海の鱶の胃袋、妖婆(ウイツチ)の木乃伊(ミイラ)、毒人蔘の根(これも効能(きゝめ)のあるやうにするには、暗やみで掘り取らねばいけぬ)、山羊の胆に猶太人の肝臓、これに墓地(はか)へ生える水松(いちゐ)の木の片々(かけ)に死んだ幼児(こども)の指を混ぜ、これをば皆大きな大釜で沸(に)え立つやうにし、少し熱くなり過ぎると直ぐ、狒々の血を注(さ)して冷(さま)すやうにし、それへ幼豚(こども)を食つた牝豚(めぶた)の血を注(つ)ぎ込み、虐殺者(ひとごろし)の絞首台(くびしめだい)から垂れた脂汗(あぶらあせ)をば、燃え立つ焔のなかへ投じて、下の火を消して仕舞ふ。斯うした魔法の霊薬(くすり)で、彼等は冥府(よみ)の霊を縛(ばく)し、無理やり自分達の質問(とひ)に答へさせるのである。
 自分達で疑惑(うたがひ)を決して上げた方がよいか、それとも自分達が事(つか)へてゐる魔に決して貰つたがよいか、何(いづ)れとも切り出してくれとマクベスは云はれた。今見た怖ろしい儀式にも聊(いさゝ)か萎(ひる)まず、大胆に彼は答へた、「何処(どこ)にをるかな? 会はしてくれぬか。」
 して、妖婆(ウイツチ)達は魔を呼び出したが、それは三人である。その第一の者は武装した頭(つむり)の姿で起(た)ち現はれ、マクベスの名を呼んで、フアイフの郷士に気をつけろと云ふ。この注意に対してマクベスは謝(しや)した。フアイフの郷士のマクダフには、予(かね)て自分も嫉妬の念を懐いてゐたのであつたから。
 して、第二の魔は血だらけな幼児(こども)の姿で起ち現はれ、マクベスの名を呼んで、聊か恐るゝに及ばぬ、人間(ひと)の力など、天から嘲笑(わら)つてかゝるがよい、女の腹から生れた者など決して其方(そなた)を害することはないからと云ひ、更にまた、思ひきつて残忍に、大胆に、断乎とした決心を有(も)つがよいと忠告した。「さらば、生き長らへたがよい、マクダフ!」王は叫んだ。「汝(なんぢ)故に、なでう恐怖の念など懐(いだ)くべき。なれど、念には念を入れて、大盤石(だいばんじやく)と我が地を固めたく思ふ。されば、汝も生かしてはおかれぬ、偽り云ふなと心弱き『恐怖』の神に告げ、たとへば雷霆(らいてい)のうちになりとも、枕を高うして予の眠り得ん為に。」
 その魔が退散して仕舞ふと、今度は第三の者が、手に一本の樹を持ち、頭(かしら)に王冠を戴いてゐる幼児(こども)の姿をして起(た)ち現はれた。彼はマクベスの名を呼んで、バアナムの森がダンシネインの丘に打ち寄せて来るまでは、其方(そなた)は決して打ち敗(やぶ)られることはない、反逆に対しては聊か心配に及ばぬと慰めた。「しめた、こりや何とも幸先(さいさき)よい話!」マクベスは叫んだ、「誰に森を引き抜いて、土へ縛られたその根を移せるものぢやない。これで分つた、自分も何(ど)うやら人間の定命(ぢやうみやう)だけは生き長らへて、急激な死の風に吹き折られることもあるまい。が、こゝに最一(もひと)つ知りたうてならぬことがある。云うてくれ、其方にこれだけの事が分るか何(ど)うか、ひよつとあの、バンコオの子孫がこの王国を統(すべ)るやうなことがないか何うか。」すると、いきなりその大釜が地へ滅(め)り込んで、音楽の響きが聞え、王のやうな姿をした八つの亡霊がマクベスの傍(そば)を通り、一番最後にバンコオが来たが、まだまだ大勢の姿が映つてゐる鏡を手に持つて、血だらけになつた風をしてマクベスに微笑(わら)ひかけ、向ふの七人の王の方を指(ゆびさ)すのでした。その素振りからマクベスは、あれこそバンコオの死後に蘇国(そこく)を治める彼の子孫であると知つたが、妖婆(ウイツチ)達は静かな音楽の音(ね)と共に、舞踏をしながらマクベスに敬意を表し、何処(いづく)ともなく消え失せて仕舞つた。して、この時からといふもの、マクベスの考へは、すつかり兇暴な、怖ろしいものになつて仕舞つた。
 妖婆(ウイツチ)の岩屋から出て、第一に彼が耳にしたのは、フアイフの郷士マクダフが英吉利(イギリス)へ出奔した、して、それがマクベスを廃して、正当の王統なる先王の長子マルカムを王位に即(つ)けんとの計画で、その旗下(もと)に集(あつま)つてゐる反軍に投(とう)ぜんが為とのことであつた。マクベスは、忽(たちま)ちくわつと激怒(いか)つてマクダフの城に推し寄せ、郷士が後へ残していつた妻子の者を刃(やいば)にかけ、聊かたりともマクダフに関係ある者としいへば、その一人残らずへ殺戮の手を延ばしたのでした。
 斯うした手荒い所業から、重立つた貴族といふ貴族の心は皆彼から離反(はな)れて仕舞つた。何(ど)うなり左様(さう)出来る者は、英吉利(イギリス)で募つた大軍を率(ひき)ゐて、今此方へ攻め入つて来るマルカム、マクダフに加担しようと、皆逃走して仕舞つた、して、余(よ)の者はマクベスに対する遠慮から、表立つて叛旗を飜へすわけにこそいかね、心(こゝろ)窃かにその戦(いくさ)に成功あれと祈つてゐた。マクベスの方の募兵(ぼへい)は一向に捗々(はかばか)しくいかない。誰も皆この暴君を憎んでゐた、一人として彼を愛し、崇める者はない、皆彼を疑(うたぐ)つてゐた、して、彼はそろそろあの、先に自分が手にかけたダンカンの境涯が羨(うらやま)しくなつて来た、叛逆の手に此上(このうへ)なしといふ酷(ひど)い目にあつた彼は、今静かにその墓に熟睡(ねむ)つてゐて、刃(やいば)も毒も、国内の内訌(ないこう)も、国外の募兵も、更にもう害を加へやうがないのである。
 斯うした事柄が進行してゐるうちに、悪逆に於ける唯一の相手であり、その胸にこそ、夜毎に夫妻(ふたり)を悩ます彼(か)の悪夢を逃れて、時には瞬時(しばらく)の安静(やすみ)も求め得られた女王その人が、罪の悔恨と世間一体の憎悪(にくしみ)に堪(た)へ得られず、我と我が手に(といふことであるが)斃(たふ)れて仕舞つたのである。その為彼は今全くの孤立無援(ひとりぼつち)、彼を愛し、彼を思ふ人とては一人もなく、また、その悪計を打ち明ける一人の味方とてないのであつた。
 もう世の中は何(ど)うでもよい、早く死にたいと彼は思つた、が、マルカムの軍勢が推し寄せて来たので、せめて往昔(むかし)の勇気のありつたけを奮ひ起し、その言ひ草ではないが、「甲冑を枕に」潔く討死(うちじに)しようと彼は決心した。のみならず、妖婆共(ウイツチども)の空(くう)な約束から妙に似非自信(えせじしん)が出来て来て、女の腹から生れた者は一人として自分を害(そこな)ふ者はない、バアナムの森がダンシネインへ移つて来るまでは、決して打ち敗られることはないとの、あの魔の言葉を憶(おも)ひ出して、其様(そん)なことの決して有り得ない以上、自分も必ず大丈夫と思ひ込んで仕舞つたのでした。斯くて金城鉄壁(きんじやうてつぺき)といふその城に立て籠(こも)つて、しぶしぶマルコムの推し寄せて来るのを待つてゐた。すると、そこへ或る日のこと、一人の使者が、蒼白(まつさを)になつて、がたがた震へながら、自分が見て来たことの報告も難しいといふ体(てい)でやつて来て、小山の上から物見(ものみ)をしてゐて、ふとバアナムの方(かた)を見ると、なにやら森が動き出したやうに思へますと、途方もないことを云ふのである。「この嘘吐(うそつ)きめが!」マクベスは叫んだ。「偽り云ふなら、生きながら手近の樹へ吊し上げて、日乾しにしてくれるから。汝の云ふこと真実(まこと)とならば、予(よ)に対してそれだけの事を仕向(しむ)くるも、更に苦しうないぞ。」といふは、マクベスもそろそろその決心が揺るぎ出し、何(いづ)れとも取れる、曖昧な魔の言葉が疑はしくなつて来たのである。バアナムの森がダンシネインへ来るまでは恐るゝには及ばぬとのことである。それを今森が動き出したといふ!
「ぢやが、」彼は云つた、「かたがた彼(あ)の者の云ふこと真実(まこと)とあらば、いざ身仕度(みじたく)して立ち出(い)でん。こゝを逃るゝこともならず、こゝに籠城するわけにもいかぬ。もう日の目を見るも飽いて来た、いつそ早うこの生命を終へたいものぢや。」斯うした絶望の言葉を口にしながら、早(は)や城近く推し寄せて来た、包囲(かこみ)の敵軍めがけて彼は出て行つた。
 使者の者に森が動くといふ考へを懐(いだ)かせた不思議な現象は、何もわけなく説明のつくことなのである。包囲軍がバアナムの林中を進軍して来た際、マルカムは流石熟練の名将で、兵卒に命じて、銘々一本の枝を切り落し、それをば頭(つむり)の前に翳して、軍兵(ぐんびやう)の実数を秘すやうにさせたので、この兵卒が枝を翳して進軍するとこが、遠くから見ると、まるであの使者を驚かしたやうな、途方もない光景(さま)に見えたのである。斯くて、あの魔の言葉はマクベスがそれを解(かい)したとは、まるで異(ちが)つた意味で実現するやうになり、その自信の念の大きな一つの拠(よ)り処(どころ)が、美事(みんごと)こゝに外(はづ)れて仕舞つたのである。
 今や激しい小戦(こぜりあひ)は起つた。自らその味方と号し、実はこの暴君を憎むこと甚(はなはだ)しく、窃かに心をマルカム、マクダフの方へ寄せてゐる者共に依つて、覚束なき加勢を得ながらも、何の小癪とマクベスは有らん限りの勇気を出して奮戦し、自分に歯向ふ者一人残らず斬り倒し、やがてマクダフが戦つてゐるとこへ来た。その顔を見るなり、何人よりもマクダフを避けよと進言した、魔の注意を憶ひ出し、彼は忽ち踵(きびす)を回(めぐ)らさうとした、が、マクダフは戦(いくさ)の初めから始終(しじう)当(たう)のこの敵(かたき)を探してゐたので、やらじと彼を喰ひ留(と)めて、こゝにまた激しい闘戦(あたりあひ)が起つた、我が妻子を手にかけた不届者(ふとゞきもの)めがけて、マクダフはいろいろと口汚い悪口(あくこう)を浴びせかけるといふ有様で。今まで既にその一族の血で胸一杯になつてゐるマクベスは、この場になつてもまだ仕合(しあひ)を辞したかつたのである、が、マクダフは、暴君め、虐殺者(ひとごろし)め、兇悪人め、悪党めと彼を呼んで、愈々(いよいよ)迫つて已まないのである。
 そこでマクベスは、女の腹から生れた者は一人として自分を害するなしとの、魔の言葉を憶ひ出し、自若として微笑を見せ、マクダフに向つて云つたのである、「マクダフ、折角の骨折りも無駄になりますぞ、予に傷を負はせんとするは、剣(つるぎ)を以て虚空を突かるゝも同じこと。予の一命には呪(まじな)ひの加護があるので、それがおめおめ女の腹から出た者などに渡るものぢやない。」
「その加護諦められい、」マクダフは云つた、「汝の事(つか)へし偽りのその魔に云はせたがいゝ、マクダフは決して世の常の男の生るゝやうに、女の腹より出(いで)しものにあらず、時ならず母の胎内より取り出(いだ)されしものなるぞと。」
「然(し)か告ぐる舌こそ禍(わざわひ)の極みなれ、」我が自信の最後の足掛りまで、まざまざ退(ず)れ落ちていくやうに思ひ、マクベスは顫へながら云つた、「して、この後(のち)とも人間(ひと)の決してあの妖婆や、手品師のやうな魔の、曖昧至極な偽りの言葉を信ぜぬやうにしたいものぢや、二重(にぢゆう)の意味を有(も)つた言葉をもて我等を欺き、文字通り約束を守りながらも、異(ちが)つた意味をもて我等の希望を裏切るのが彼等ぢや。予に其方(そなた)と戦ふ心はない。」
「さらば、生き長らへたがいゝ!」鼻の先でマクダフは云つた、「怪獣珍魚を観覧物(みせもの)するやうに、其方を一つの曝(さら)し物にしてくりやう、して、その傍(わき)へ高札(かうさつ)を建てゝ、それへ斯(か)う書き記してくりやうわい――これこそ世にいふ暴君の手本ぢやと。」
「たとへば天地が覆へらうとも、」絶望と共に急に勇気の回復して来たマクベスは云つた、「予は決して生き長らへて、若きマルカム如きの足下(そくか)に平伏(ひれふ)し、大地を接吻(くちづ)けし、有象無象の悪罵(あくば)に悩まさるゝやうなことはせぬ。バアナムの森がダンシネインまで推し寄せ、女の腹から生れたことなき其方が眼前(まのあたり)予に歯向(はむか)はうとも、予は飽くまで最後の勝敗を試みる積りなるぞ。」斯うした狂気の言葉を口にし、いきなり彼はマクダフに襲ひかゝつた。激しい格闘の後、マクダフは到頭彼を打ち据ゑ、その首を刎ねて、正統の幼君(えうくん)なるマルカムの許へ進物としたのであるが、そのマルカムは、これまで久しく簒奪者(さんだつしや)の奸計故に、自分の手を離れてゐた治政の業(わざ)をば身に収め、上下挙(しやうかこぞ)つての歓呼のうちに、温良(をんりやう)を以て知られてゐた父ダンカン王の王位を襲つたのであつた。


・1927(昭和2)年刊。訳文文末の不統一が少々気になる所。厳密に言えば徒然草の原文もそうだが、あちらは文字通り「随筆」である。