河畔の悲劇 92022年05月20日

九、探しもの

 保安判事プランタさんの宅(たく)は、稍(やや)手狭(てぜま)ではあるが、瀟洒(しょうしゃ)として、いかにも哲人(てつじん)の住居(すまい)に適(ふさ)わしい家であった。
 階下(した)は広い室(へや)が三間(ま)、二階が四間(よま)、三階は屋根室(やねべや)で、そこは召使の部屋になっていた。
 どの室を見ても、主人公の世離(よばな)れた無頓着さが遺憾なく現われていた。窓布(カーテン)は陽に炎(や)けたままで、椅子は張りが破れ、置時計は止っているという有様だ。ただ書斎だけは極めて優雅に整頓されて、壁一面の大きな樫(かし)の書架には、背革(せがわ)に金文字入りの本がぎっしりと詰められ、手近な移動卓子(いどうテーブル)には、日頃の愛読書がいかにも親しげに積まれていた。
 これらの書籍は、プランタさんにとって、最もよき親友なのである。
 庭には広大な温室があって、好きな薔薇を百何十種と造っているが、これは彼の生活の中で一等贅沢なものだろう。
 召使は、プチという寡婦(ごけ)さんが料理女(コック)兼家政婦、それに下男(げなん)のルイと二人だけだが、この下男は主として庭師の仕事をやっているのである。
 プランタさんは今、二人の客と共に晩餐を終えると、料理女(コック)の持って来た、水の滴(したた)るような手造りの葡萄を摘(つま)みながら、
「おい、書斎の方に珈琲(コーヒー)の支度をしたら、退(さが)っていいよ。ルイにも寝ろといってくれ。」
 やがて彼は客を促(うなが)して、食堂から書斎の方へ行ったが、葉巻の函をあけて、
「さアどうぞ。寝る前の煙草はいいものですよ。」
 ルコックは、勧められるままにその香り高い葉巻に火をつけて、静かに喫(す)いながら、
「私は自分の書きものもあって、どうせ徹夜をしなければなりませんが、お寝(やす)みになる前に、プランタさんに伺っておきたいことがあります。」
「ええ、何なとお訊きなさい。」
「話はやはりこの事件のことですが、探れば探るほど複雑になって来て、ドミニ判事の考えているような単純なものではないと思います。ところがここに、重大なことで、私にはどうしても判然(はっきり)しないことが一つありますがね。」
「何ですか、それは?」プランタさんが問いかえした。
「外(ほか)でもありませんが、トレモレル伯爵は、何か大切(だいじ)な捜しものがあったんじゃないでしょうか。しかもそれは邸内に隠されてあったものです。例えば遺言状とか、手紙といったような、あまり嵩(かさ)ばらないものらしいです。」
「それは有りうることでしょう。」
「その点をはっきり知りたいんですがね。」
 するとプランタさんは一寸(ちょっと)考えてから、
「実は、伯爵には、確かにそうした捜しものがありました。それは或る書類で、夫人の手許に保存されていたから、夫人が急に亡くなったとすれば、伯爵は勿論血眼(ちまなこ)になってそれを捜したでしょう。」
「ははア、それで合点(がてん)が行(ゆ)きました。私は今朝(けさ)彼邸(あすこ)へ行って、各室の乱雑さを見たときは、賊が我々の目をくらますためにやったものと思ったが、あの手斧で手当りしだいに打破(ぶちこわ)した遣(や)り口を、よく考えると、何等(なんら)か他の目的があったらしい。しかもそれは、書類様(しょるいよう)のものを捜したに相違ないと睨んだのです。」
「それで?」
「それで――その捜しものが金(かね)ではなくて、書類にちがいないとすれば、夫人を殺した下手人は、伯爵その人であると判断しなければなりません。」
「賛成。それはそうにちがいない。」
 プランタさんも、ドクトルも、それが云いたくてむずむずしていたのに、今ルコックが思いきって云いだしたので、ぐっと溜飲(りゅういん)が下がったような気持がしたのであった。
「そこで、伯爵を下手人としてすべてを解釈すれば、どうなりますかね――」
 ドクトルは問いかけた。その時ドクトルは、窓の外にちらと人の動く気配を感じたので、
「庭に人が忍んでいる!」と突然(だしぬけ)に叫んだ。
 プランタさんとルコックは、びっくりして窓へ駈けて行った。よく晴れた夜空に星屑がきらきらしていたが、庭はひっそりと静まりかえって、怪しい人影などは見えなかった。
「誰もいやしません。気のせいですよ、ドクトル。」
 プランタさんはそう云いながら、肱掛椅子に戻った。
「さて、この事件を解釈するについて、第一に、伯爵が或る事情から、夫人を亡きものにしようという、容易ならぬ決心をしたと仮定します。」
とルコックは説明を続けて行った。
「そこで、彼は予(あらかじ)め種々(しゅじゅ)なる細目(さいもく)を考えて、どうしたら最も秘密に、最も有効にそれが実行出来るかを研究するということが、当然の順序です。勿論彼はその方法を綿密に研究しました。
 ところが召使達の話によれば、その日伯爵は大金を他から受取ったそうで、邸内の者は皆そのことを知っていたらしいです。一体そんな大金が手に入ったときは、人に隠そうとするのが普通なのに、伯爵は殊更(ことさら)その金を見せびらかすようにした。それが致命的なんです。
 なお、旧(もと)同邸の料理女(コック)をやっていたデニイという婦人の結婚披露が、昨晩即ち七月八日で、召使達が皆招待されて巴里へ行くということは、前々からわかっていたので、伯爵はその機会をねらったわけです。して見ると、その日特に取引銀行から大金を取寄せたのも、召使達に嫌疑をかけさせる手段であったのです。
 さて、兇行当夜の模様を想像してみると、次第に更けわたろうとする十時ごろ、外は往来が杜絶(とだ)え、召使達が出て行った後の邸内は、ひっそりとして寂しいくらいです。そのとき、伯爵夫妻は寝室へ入ったが、卓上にはお茶の支度が出来ていたので、夫人はその卓子(テーブル)の前の椅子にかけて、お茶を飲みはじめます。伯爵はその数日前から、夫人に対して取りわけ優しくしていたに相違ないので、夫人は勿論恐怖も不安もないから、伯爵が何か談(はな)しながら背(うし)ろへまわったときは、振向いて見る気もしない。むしろ不意に接吻で驚かされるのを期待したくらいでしょう。
 ところが伯爵は、短刀逆手に、十分狙いを定めて、つかも通れと打ちおろしたから堪(たま)りません。夫人はそのはずみに前へのめって、卓子(テーブル)の角にしたたか額を打附(うちつ)け、卓子(テーブル)は顛覆(ひっくりか)えって、夫人はそのまま縡切(ことき)れてしまいました。
 その瞬間、伯爵は仕済(しす)ましたりと思って、ほっとしたが、その後からすぐに、例の書類――ぜひ自分の手に入れねばならぬ書類のことが、頭にうかんで来ました。」
「その書類は、犯罪の動機の一つと見られるほど、重大なものです。」
とプランタさんが、一寸(ちょっと)口を入れた。
「ええ、しかし伯爵は最初、わけなく発見出来ると思ったでしょう。」ルコックが後をつづけた。「そこで彼は早速、夫人常用の箪笥(たんす)や戸棚をさがしたが、見つかりません。次に置き棚(だな)をあけてみたり、あらゆる器具を除(の)けたりして検(しら)べたけれど、やはり駄目です。ひょっとすると暖炉棚(だんろだな)ではないかと思って、その台をひっくりかえしたが、依然として見つかりません。その拍子に時計がころげ落ちて、止ったのです――そのときの実際の時刻は十時半でした。
 一体その書類は何処に隠されてあるだろう。どうして捜したらいいのか。そう思うと急に焦々(いらいら)して来て、すぐ傍(そば)の絨毯の上に鍵が落ちていたのも、眼に附かなかったのです。その鍵は、夫人が倒れるとたんに落したもので、私は検索のときに、茶器の破片(かけら)の間から拾い上げました。
 しかし一旦血に酔った彼は、静かに考えたり、見廻したりする余裕がありません。それに、一方(いっぽう)犇々(ひしひし)と恐怖が襲うて来ます。そのとき彼はふと、手斧で打破(ぶちこわ)したが近道と思いついたらしく、いきなり階段を飛ぶように駈け降りて、薪割用(まきわりよう)の手斧を取るが早いか、二階へ戻って来ました。
 それから、その斧を振り廻して、戸棚や抽斗(ひきだし)を手当りしだいに打破(ぶちこわ)して、内(なか)を捜して行ったが、抽斗や函は片っ端からひっくりかえしては、床へ投げ出したので、どの室(へや)も足の踏みどころがないような大乱脈です。甚だしいのは、自分の用箪笥(ようだんす)――それは夫人の先夫(せんぷ)のソオブルジイの持物(もちもの)だったが、ひょっとすると、自分の知らぬ間にそこへ隠しはせぬかという疑いから、やはり目茶苦茶に叩き破(こわ)しました。それから書斎へ行っては、本を一冊々々めくってみたり、表紙を剥がしたりして、どんどん床へ叩きつけました。
 それでも書類が見つからぬので、今度は短刀で、客間の椅子や長椅子の張布(はりぬの)へやたらに切りつけて、内味(なかみ)をつまみ出しました。
 彼は憤(いか)りと恐怖がごっちゃになっています。妻を殺害した――早く逃げなければならぬという意識がある。時が飛んでいて、一秒ごとに逃亡の機会が失われつつある。それに、今まで気づかなかった種々(いろいろ)な心配が、急に湧き起って来ます。これまでも度々あったように、遠方から泊りがけの友人が、こんな際にひょっこりやって来たらどうしよう。恐ろしいことです。
 そのとき、隣りの室(へや)でふと妙な物音がしたようです。はてナ、彼女は果して完全に死んだか知らん。ひょっと呼吸(いき)をふきかえして、窓へ這いだして、突然(だしぬけ)に救いを呼んだらどうしよう――彼はそう思うとぞっとして、直ぐに寝室へ引きかえして、夫人の体をやたらに突き刺しました。それらの傷を見ると、皆(みな)垂直に突かれているのは、そのとき夫人が既に死んで横たわっていたという証拠です。しかも伯爵はもうしどろもどろで、手許が狂っていたから、その傷はみな浅いのです。
 それから彼は、肱掛椅子にぐったりと身を投げかけて、長い間考えた形跡があります。あの椅子の張りが著(いちじる)しく凹(へこ)んでいたので、それがわかります。さてその時に何を考えたかというと、例の書類を発見せずに逃げるとすれば、自分も賊のために殺された体(てい)に装わなければならぬ。そうしておいて、自分は変装して逃げようと考えたが、変装について真先(まっさき)に思いついたのは、あの丹念に手入れをしていた顎鬚(あごひげ)を剃り落すことです。」
「成るほど、それで君は先刻(さっき)、伯爵の肖像をあんなに熱心に見詰めていたんですね。」
とプランタさんが感心した。
「ええ、しかしそんなことは詰らぬ細部なんですが、とにかく彼はそう決心すると、剃刀を取りだして、鬚を剃りはじめました。生々(なまなま)しい屍体のある室(へや)で、顔に石鹸を塗って、剃刀をはこぶということは、可成(かな)り勇気の要る仕事なのです。伯爵は遉(さすが)にひどく手がふるえて、殆ど剃刀が据(すわ)らないくらいでした。無論顔に二つ三つ疵(きず)が出来たでしょう。」
「そうした場合、鬚なんか剃っている余裕はなさそうですがね。」
 ドクトルが疑問を挿(はさ)むと、
「しかし剃ったことは事実です。」探偵はきっぱりと云いきった。「というのは、私が彼室(あすこ)で発見したタオルに、剃刀を拭いた痕がついていました。ですから、それはもう議論の余地がありません。何しろあの見事な顎鬚をそっくり剃り落したので、見違えるほど人相が変ってしまって、逃げる途中で出会(でっくわ)した者も、恐らく気づかなかったでしょう。」
「成るほどね、それはそうにちがいない。」
「伯爵は、すっかり変装を終えると、夫人の屍体を抱きあげて、階段を降りて行ったが、その歩いたとおり血が滴(したた)っています。階段の下に一度屍体をおいて、庭へ通ずる硝子戸(ガラスど)を開けるのに手間どったので、そこのところに夥(おびただ)しく血が附着しています。それから芝生へ降りると今度は屍体の肩をもって水際まで引きずって行って、そこへ倒れたような恰好に置いて、なお、激しい格闘が行われたらしく見せるために、砂地(すなじ)に爪先で縦横(じゅうおう)に人の足跡を踏みつけたが、それは我々の目を欺こうとして、却って偽計(トリック)を暴露したことは、先刻(さっき)彼処でプランタさんにお話(はなし)したとおりです。
 こんな風にして、彼は自分も殺されて引きずられて行ったように見せかけたのです。それから、ゲスパンを下手人と思わせるために、且つその証拠を確実にするために、自分のスリッパとハンケチと、ゲスパンのチョッキを血にひたして、そのチョッキからむしり取った切地(きれじ)を夫人の屍体の手に堅く握らせ、スリッパの片一方とハンケチを庭に落し、もう一方のスリッパとゲスパンのチョッキは河へ流しました。そして兇行に使った短刀も河へ捨てたのです。
 彼は追々(おいおい)大胆になって、種々(いろいろ)な小細工をやりました。賊が数人で押入ったように思わせる目的で、食堂の卓子(テーブル)に食べ物を出したり、酒杯(コップ)を五つ置いて酒――それは実は酢であったが――を注(つ)いだり、置き時計の止った針を三時二十分の所へ進めたり、一度寝床へ入った体裁をつくるために、寝台の上へころがったり、枕を取乱(とりみだ)したりしました。しかしこれらが皆(みな)後に彼を裏切る証拠になろうとは、夢にも思わなかったでしょう。」
「もう一つ、手斧が三階で発見されたことについて、君は大分(だいぶ)首をひねっておられたようだが、あれはどう解釈しますかね。」
 プランタさんが訊ねると、
「あの手斧の所在(ありか)は、非常に興味ある問題です。それは伯爵が血眼になって捜した書類の価値(ねうち)から考えてみなければわかりませんが、一体その書類は、普通の書きものとはちがって、恐らく生命(いのち)にも係(かかわ)るほど、重大な性質のものだろうと思います。だから夫人はどうしても手離そうとしなかったろうし、伯爵の方では飽(あ)くまでも奪い取らねば気が済まなかったでしょう。そして結局それが基(もと)で、あんな兇行まで演じたとすれば、伯爵としては、容易に断念(あきら)めるわけに行きません。
 そこで逃げる前にもう一度捜そうと思ったが、見残した場所は三階だけなので、彼は例の手斧を携(も)って三階へ駈けあがって、そこにあった箪笥に一撃を加えたとたんに、庭園の方から人声(ひとごえ)が聞えて来ました。伯爵はぎょっとして、窓から覗いてみると、ベルトオ父子(おやこ)が、水際においた夫人の屍体のそばに立って、何事か云い争っているではありませんか。
 そのときはもう東が白(しら)んで、人影も見分けられるのです。もう人に見附かった――刻々に明るくなって、ますます逃亡がむずかしくなろう――と、伯爵はあわてて手斧を床へほうりだしたまま、二階へ戻って、紙幣束(さつたば)を衣嚢(かくし)へねじこむが早いか、庭園(にわ)へ降りて、木蔭(こかげ)づたいに森のほうへ逃げだしました。
 ベルトオ爺(おやじ)が賊の一人を見たといったのは、多分そのときの伯爵の変装した姿を、遠くからちらと見かけたのでしょう。要するに伯爵は、ついにその書類を発見出来ないで、後(あと)に残したまま逃亡したのです。」