ヘラクレスの十二の課役 112022年05月16日

(一五)ヘスペリデスの林檎

 ヘラクレスは約束の十個(とお)の仕事を完了(しおお)せたが、エウリステウスはまだ彼を解放しようとはしなかった。ヒドラ退治には、甥の援(たす)けを借りたし、アウゲアスの牛舎(うしごや)の掃除には、報酬を受ける約束をしたから、この二個(ふたつ)は十個(とお)の数に入れることは出来ないと言うのであった。こうして卑劣な王は、更に二個(ふたつ)の難題を持出(もちだ)して、ヘラクレスを苦しめようとした。

 世界の西の際(はて)に一個(ひとつ)の花園(はなぞの)がある。この花園の中央(まんなか)には、金色(こんじき)の枝を拡げた一本の林檎の樹(き)があって、金色(こんじき)の果実(このみ)が、金色の葉影(はかげ)に累々(るいるい)と実っている。この花園は地の母ガイヤが、ゼウスとヘラの結婚の贈物(おくりもの)に献(ささ)げたもので、「夜」の女(むすめ)のヘスペリデスという四人の神女(ニムフ)に預けて守護させてある。神女(ニムフ)らはいつも樹の周囲(まわり)を旋(めぐ)って、小鳥のように歌いながら踊っている。又(また)樹の根には、ラドンという百頭(ひゃくとう)の竜が、昼夜眠らずに番をしていて、人を見ると、百の咽(のど)から百種(ひゃくいろ)の声を出して叫び立てる、と伝えられている。けれどもこの花園は世界の際(はて)にあるというばかりで、誰も其処へ行く道を知った者はなかった。只むかしから一個(ひとつ)の予言が伝わっていた。それはいつかゼウスの子がこの花園へ来て、金色(こんじき)の果実(このみ)を取って行くというのである。
 ヘラクレスが新たに課せられた難題の一つは、このヘスペリデスの園(その)へ行って、金色の林檎を持って来いということであった。
 ヘラクレスは甥のイオラスに従(したが)われて、先ずテッサリヤから北へ進んで、イリリヤの地へ入り、エリダノス河の岸へ来ると、二個(ふたり)の神女(ニムフ)に会った。彼は神女(ニムフ)らに向ってヘスペリデスの園へ行く道を尋ねると、
「海の老爺(おじいさん)のネレウスに尋ねてごらん。」と神女(ニムフ)は答えた。「あの人なら何でも知っているから。だが寝ている所をしっかりと押えて、逃がさないようになさい。うっかりすると直ぐにすり抜けて、何にでも変って逃げてしまうから。」
 ヘラクレスは教えられた通りに、ネレウスの寝ている所へ来て、その被(かぶ)った海草の上から、しっかりと縛って、滑り出さないように包んでしまったので、流石(さすが)に変幻自在の海神も、手段(てだて)が尽きて、問われるままに、ヘスペリデスの島へ行く道を教えて、ようように解放された。
 これで先ずヘスペリデスの島へ行く道筋だけは分ったが、さてその林檎を手に入れるには、コーカサス山の絶頂に繋がれている巨神(チタン)プロメトイスの力を借りなければならなかった。ヘラクレスは其処から道を転じて、東の方コーカサスの雪峰(せっぽう)を望んで進んで行った。
 彼がイオラウスと共にコーカサスの絶頂に分け登って、巨神(チタン)プロメトイスの前に立ったのは、この時であった。
 ヘラクレスは過去の有(あ)らゆる辛酸を胸に浮べて、窶(やつ)れ果てた巨神(チタン)の顔を見詰めながら、黙然(もくねん)としてその前に跪(ひざまず)いていた。やがて巨神(チタン)は重い唇を開いて語を続けた。
「お前は直ぐにアトラスの所へ行かなくてはならぬ。あの巨神(チタン)に頼んで、ヘスペリデスの林檎を取って来て貰いなさい。自分で取りに行かない方がいい。只その間(あいだ)お前はあの巨神(チタン)の代りに、暫時(しばらく)の間、天を担っていなくてはなるまい。」
 ヘラクレスは喜んで巨神の教えを聴いた。そして別れる時に、堅く巨神の手を握って言った。
「是非聴き入れて頂きたいことが一つあります。他(ほか)でもありませんが、今日からあのカイロンの代りに、不死不滅の生命(いのち)を引請(ひきう)けて、あの半人半馬(ケンタウル)の苦悶を除いてやって頂きたいのです。」
 プロメトイスは喜んでその願いを聴いた。
「宜しい、わしがその不死不滅の生命を引請けよう。そして再び人間のために尽そう。」
 聡明な半人半馬(ケンタウル)カイロンの苦悶の生(せい)は、巨神(チタン)プロメトイスの好意によって、この時初めて断滅(だんめつ)して、ヘラクレスはその師に対する約束を果すことが出来たと伝えられる。
 そこでヘラクレスはプロメトイスに別れて山を下ると、南を指して道を急ぎ程なくエジプトの国へ入った。その頃エジプトの王をプシリスと言って、海神ポサイドンの子であったが、数年前この国に飢饉(ききん)が続いた折(おり)、キプロス島から一人の予言者が来て、神託を伝えた。それは「毎年一人の異国人を殺して犠牲に供えよ」と言うのであった。王はこの神託を聞くと、先ず手始めにその予言者を殺して、犠牲に供え、以来はこの国の境を越えた異国人を悉(ことごと)く捕(とら)えて犠牲に供えることにした。ヘラクレスもエジプトに足を入れると、直ぐに捕縛されて、祭壇へ引かれたが、彼は祭壇の前へ進むや否や、縄を断(き)っていきなり暴王(ぼうおう)を投げ殺し、エジプトを後(あと)にして西へ西へと進んで行った。
 この時亜弗利加(アフリカ)にアンテウスという巨人があって、旅人を悩ましていた。この巨人は、海神ポサイドンと地の母ガイヤの間に生れた子で、その力は母の地から湧いて来るので、この巨人に敵する人間はこの世界にない、と言われていた。で、亜弗利加(アフリカ)を通る旅人は、屹度(きっと)この巨人に角力(すもう)の勝負を挑まれて、負けた者はその場を去らず殺されてしまうのが例であった。ヘラクレスもこの巨人と立合(たちあ)って、強力(ごうりき)を揮(ふる)って幾度(いくたび)か投げ出したが、その体が地に触れるや否や、新しい力が出て、直ぐに立上(たちあが)って向って来るので、到底(とうてい)地の上では倒すことが出来ないと見て取った彼は、今度は手を更(か)えて、その巨大な体躯(からだ)を目よりも高く差上(さしあ)げて置いて、とうとう空中で息の根を止めてしまった。
 この勝負が終ってから、ヘラクレスは砂の上へ横になって、一睡(ひとねむ)りしていると、この辺(へん)に住む矮人(こびと)が沢山集まって来て、砂を運んでヘラクレスを生埋めにしようとした。暫(しばら)くして眼を醒ました彼は、この有様を見て、思わず失笑(ふきだ)して、少時(しばし)はじっと矮人(こびと)らのするさまを眺めていたが、やがて起き上って体の砂を払うと、獅子の皮を拡げて、幾人かの矮人(こびと)を中へ包んで、歩き出した。
 其処からリビヤの砂漠を越えて、巨神(チタン)アトラスが天を担(にな)って立っている所へ来た。ヘラクレスはこの巨神(チタン)に向ってヘスペリデスの林檎の事を話すと、アトラスは内心この重荷に倦(あ)き倦きしている所だったので、大喜びで、
「わしの代りに天を担っていられるなら、わしが行って取って来て進ぜよう。」
と言って、その支えている天をヘラクレスの肩の上へ載せるや否(いな)や、手足を伸ばして出掛けて行った。少時(しばらく)してアトラスは帰って来たが、三個(みっつ)の金色(こんじき)の林檎を掌(て)の上へ載せて、ヘラクレスの前へ差し出しながら、
「序(ついで)にこの林檎を届けて来て上げよう。」
という。アトラスは一度重荷を卸(おろ)して、思うままに手足を伸ばして見たらもう二度と天を担(にな)う気にはどうしてもなれなかった。ヘラクレスは又ヘラクレスで、刻々に天の重みが加わって来て、今ではもう圧潰(おしつぶ)されるばかりになったので、心の中では「飛んだ仕事に引っかかった」と後悔している所であった。で、アトラスの言葉を聞くと、「この上担わされては堪(たま)らない」と思ったが、早速(さっそく)の頓智(とんち)で、そんな風(ふう)は少しも見せずに、
「宜(よろ)しい。そうして貰えば結構だが、何しろ慣れない仕事で、頭が痛くてたまらない。一つ鉢巻(はちまき)をして、本気に掛かって見るから、一寸(ちょっと)の間(ま)、肩を貸して貰おう。」
と言って、うまうま知恵の循(めぐ)りの鈍い巨神(チタン)を欺(だま)して、重荷をアトラスの肩へ渡すや否や、金色(こんじき)の林檎を拾って、すたすたとその場を立去った。
 こうしてヘスペリデスの林檎は、エウリステウスの前に置かれて、一個(ひとつ)の難題は果された。けれどもエウリステウスは固(もと)より林檎が目的ではなかったので、この林檎はそのままヘラクレスに与えて、更に第二の難題を出した。
 ヘラクレスはこの林檎を女神アテーネの神殿に供えたが、女神は大神(おおがみ)の意(こころ)を忖度(おしはか)って、再び元の花園へ戻したと伝えられる。