『巴里の憂鬱』より ボードレール 三好達治訳 ― 2022年05月08日
「異人さん」
――お前は誰が一番好きか? 云つてみ給へ、謎なる男よ、お前の父か、お前の母か、妹か、弟か?
――私には父も母も妹も弟もゐない。
――友人たちか?
――今君の口にしたその言葉は、私には、今日の日まで意味の解らない代ものだよ。
――お前の祖國か?
――どういふ緯度の下にそれが位置してゐるかをさへ、私は知つてゐない。
――美人か?
――そいつが父子の女神なら、欣んで愛しもしようが。
――金か?
――私はそれが大嫌ひ、諸君が神さまを嫌ふやうにさ。
――えへつ! ぢや、お前は何が好きなんだ、唐變木の異人さん?
――私は雲が好きなんだ、……あそこを、……ああして飛んでゆく雲、……あの素敵滅法界な雲が好きなんだよ!
シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire、1821年-1867年)
三好達治(1900年-1964年)。
ポウ→ガボリオと言うのが探偵小説史なら、ポウ→ボードレールと言うのが詩史(?)だろう。と言うかボードレールこそポウ紹介の立役者らしい。
ポウのフランス語訳は既にいくつかあったようだが、ボードレールによってフランスで広く知られるようになったとの由。彼の訳書のタイトル『Histoires extraordinaires』(1856年刊)は、そのままポウ作品のオムニバス映画のタイトルになっている(邦題は『世にも怪奇な物語』1968年)。
この邦訳の刊行は、1948(昭和23)年。前出の子供向け文学全集(昭和四十年代刊行)にも同じ詩が載っていたが、さすがにもう少し現代的な訳文だった。たぶん訳題は「異国の人」だったと思う。
・追記。
なお、ボードレールの原詩はネット上にパブリック・ドメインのテクストとして後悔されている。誰が翻訳してどこに発表するも自由の筈である。
河畔の悲劇 4 ― 2022年05月08日
四、庭師ゲスパン
しかし町長の思惑(おもわく)はちがっていた。その騒ぎは、伯爵の屍体が発見されたためではなかった。
やがて客間の戸が突然に開(あ)いて、一人の痩せ形(がた)の男が、憲兵と下男に左右の手を執(と)られ、懸命に争いながら閾際(しきいぎわ)まで押されて来た。
「彼奴(あいつ)だ! ゲスパンだ! 叩っ殺せ!」
口々に呶鳴(どな)っている野次馬の声が聞えた。
庭師のゲスパンが帰って来て、捕まったのであつた。
「私は何も知りません――放して下さい――」
ゲスパンは夢中になって抵抗した。
「早く此室(こっち)へ押込(おしこ)め此室へ押込め。」
町長が起(た)ちあがって、憲兵を励ましたけれど、相手が死力(しりょく)を出しているので、なかなか始末がつかない。
そのときドクトルが、もう一枚の戸を内側から開けると、ゲスパンは支えを失ってよろよろと、ドミニ判事の坐っていた卓子(テーブル)の脚(あし)もとへ転げこんだが、すぐに起(た)ちあがって逃げ場を探した。けれど、窓も戸口も人が固めているのを見ると、彼は観念して仆(たお)れるように椅子へ腰をおろした。
「此奴(こいつ)は一杯機嫌で、千鳥足(ちどりあし)で帰って来たのです。」と憲兵伍長が報告した。「門前へ来て、我々の姿を見ると、すたこら逃げだしたので、すぐに追(おっ)かけて捕まえました。身体検査をやると、衣嚢(かくし)からハンケチと、枝剪鋏(えだきりばさみ)と、小さな鍵が二本と、数字を沢山書きこんだ紙片(かみきれ)と、金物屋(かなものや)の名刺を一枚発見しました。」
と、それらの証拠品を卓子(テーブル)の上において、
「それから、玄関へ入ろうとするとき、此奴が植込(うえこみ)の草花の中へ密(そっ)と財布を投(ほう)りだしたので、私が拾ってみますと、その中に百法(フラン)紙幣(さつ)が一枚と、ナポレオン金貨が三枚と、小さな銀貨が七法(フラン)入っていました。此奴昨晩(ゆうべ)は文無しで出かけたそうですが――」
「ナニ、出かける時は金を所持していなかったというんだな?」
と判事が念をおした。
「はア、執事から二十五法(フラン)を借りて行ったそうです。」
「そんなら執事を呼べ。」
早速執事のフランソアが呼びだされた。
判事は彼に対して訊問をはじめた。
「このゲスパンは、昨日(きのう)は金を所持していなかったか?」
「はい、金がないっていうものですから、巴里(パリ)行きの割前(わりまえ)を二十五法(フラン)だけ、私が貸してやりました。」
「しかし彼は貯金があったのではないのか。例えば、百法(フラン)紙幣(さつ)はあるが、それをくずしたくないので、お前に細(こまか)い金を借りたのではないのか?」
すると執事は首をふって、
「ゲスパンは貯金をするような男ではありません。給金は大抵女と花牌(はな)に費(つか)ってしまいます。現に先週も『コンメルス』というカッフェの主人が掛取(かけと)りにやって来て、滞(とどこ)おりを払わなければ、伯爵に云附(いいつ)けるなんて威かしていたくらいです。」
そういったが、少し云い過ぎたとでも思ったのか。
「尤(もっと)も私は、今日(きょう)が日まで、ゲスパンを悪い男とは思いませんでした。ときどき人をかついだり、素性のいいことを自慢したりする癖(くせ)はありましたけれど――」
「もうよろしい」
とドミニ判事は、執事を別室へ退(さが)らせてから、
「どうだ、ゲスパン、気が静まったか。」
「はい。」
ゲスパンは少しよろけながら、卓子(テーブル)に身を支えるようにして、起(た)ちあがった。
「お前も昨晩(ゆうべ)の事件を聞いただろうが、伯爵御夫婦が何者かに殺されたのだ。ところでお前は、昨晩他の召使達と一緒に巴里(パリ)へ行って、向うの停車場(ていしゃば)で別れたっきり、顔を見せずに、今帰って来たというが、あれから今まで何処にいたのか。」
ゲスパンはうつむいたっきり、何の答えもない。
「そればかりでなく、昨晩出かけるときに無一文だったお前の財布から、百六十七法(フラン)という金が発見されたのが、不思議ではないか。一体その金はどうしたのじゃ。」
庭師は自暴(やけ)になったような身振りをして、
「私は潔白でございます!」
「いや、俺(わし)はまだ、お前に罪があるといったのではない。お前は昨日(きのう)伯爵の手許に大金が入ったことを、知っていただろうな。」
「私は運がわるいのでございます。」
それっきり黙りこんだ。寸時(しばし)深い沈黙があった。
判事は再び追窮(ついきゅう)をはじめた。
「第一に確かめねばならぬのは、お前が昨夜一晩(ひとばん)を何処で何(ど)う暮らしたかということと、お前の財布から発見された百六十七法(フラン)の金を何処から手に入れたかということだ。」
「私は駄目です。それを申し上げたって、とても信用される気づかいはありません。」
「注意しておくが、答えなければ、容疑者としてお前を捕縛する外(ほか)はないぞ。」
「私を救うて下さる人は、たった一人しかないのに、その人が殺されてしまって、下手人が出ないとすれば、私はもう駄目です。運がわるいのです。私は弁解はしませんから、どうぞ御存分になすって下さい。」
判事は直ちに憲兵に命じて、ゲスパンを捕縛させた。
「厳重に監視をつけて置け。」
判事はそういってから、次にベルトオ爺(おやじ)を呼びこんだ。
これがまた困った奴で、年中何か悪事をやっては、警察の厄介になっている爺(おやじ)であった。
「此奴(こいつ)は至って評判のわるい男です。」
町長が判事に囁いたが、爺はそれを聞いても平気な顔をして、にやにや笑っていた。そしてこんなことをいった。
「私は案外正直な男でございます。世間の人は、私なんかを悪者だなんて云われた義理じゃありません。嘘と思うなら、町へ出て御覧(ごろう)じろ。身分のある人が随分だらしのない真似をしていますからね。」
「余計なことを云っちゃ可(い)かん。」
「お前は、昨晩(ゆうべ)は何をやっていたか。」
判事に問われて、爺の答えたところによれば、彼は宵のうちは町の居酒屋に飲んでいたが、十時頃からモオプレボアールの森へ係蹄(わな)を仕掛けに行って、家へ帰って寝たのは夜半(よなか)の一時であった。
「今頃はきっとあの係蹄(わな)に、獲物がひっかかっていましょう。」
と附け加えた。
「お前は夜半(よなか)の一時に家へ帰ったことについて、証人があるのか。」
町長が訊ねた。町長は、二階の置時計が三時三十分のところで止っていたことを、ふと思いだしたのであった。
「証人とてはありません。私が帰って来たときは、倅(せがれ)もぐっすり眠(ね)こんでおりましたので。」
と爺(おやじ)はいったが、判事がむずかしい顔をしてじっと考えこんでいるのを見ると、何だか不気味になって来た。
「また、犯人が出るまで、私を牢屋へ打込(ぶちこ)むつもりなんでしょう。冬場(ふゆば)ならまだいいんですが、猟や川狩(かわが)りの忙しい今時分(いまじぶん)にやられては堪(たま)ったもんじゃありません。だから云わないこっちゃない――倅の野郎が余計なことをしくさって――」
「そんなことはどうでもいい。お前はゲスパンという者を知ってるだろうな?」
爺(おやじ)はこの問(とい)にぎっくりしたようであったが、
「はい、ゲスパンは、飲酒仲間(のみなかま)で――花牌(はな)もちょいちょいひいたことがございます。」
役人達がそれを聞いて急に緊張したのを見ると、爺(おやじ)はしめたといったような顔をして、
「こうなった上は、何もかも申し上げます。実はあの男が伯爵家の温室からくすねた葡萄や苺を私に売らせて、その金は二人で分けていました。」
爺(おやじ)はゲスパンを貶(おと)そうとして、且(か)つまた自分が助かろうとして、迂闊々々(うかうか)と口を辷(すべ)らせたが、失敗(しま)った、これを云えば自分も逮捕(あげ)られるな――と気づいた時はすでに遅かった。判事の命令で彼はすぐに捕縛された。
そして入替(いれかわ)りに、倅のフィリップが呼出(よびだ)された。
訊問に対して倅の答えたところによれば、その朝、草原(くさはら)から溝を越えて伯爵邸の庭園へ入ったことは事実だが、それは、爺(おやじ)と二人で船を出そうとすると、たまたま橈止(かいどめ)が破(こわ)れていたので、彼はそれを繕(つくろ)うために柳の枝を折るべく庭園の中へ入って行った。すると、その柳の木の下に伯爵夫人の屍体が横(よこた)わっているのを見て、胆(きも)をつぶして、爺(おやじ)に勧めて一緒に町長邸へ届けに行ったのだが、庭園内に入ったといえば係(かか)り合いになりそうなので、船から屍体を見たと申し立てたのであった。
漁に出るまではぐっすり眠(ね)こんでいたので、爺(おやじ)が夜半(よなか)の何時ごろに帰ったかは気づかなかったそうだ。それから爺(おやじ)が庭師ゲスパンと交際(つきあ)っていることは分っていたが、二人の間にどんな交渉と、どんな取引があるかは、些(すこ)しも知らないということであった。
判事はそれだけ聞いて、取敢えずこの倅を釈放した。というのは、疑いが晴れたためではなく、この男を一人放してひそかに監視すれば、早く他の共犯者を捕(つか)まえる便利が得られるからであった。
さて一方では、邸中(やしきじゅう)を残る隈(くま)なく捜したけれど、伯爵の屍体は発見されなかった。町長がその辺の漁師達を狩り集めて、河底(かわぞこ)を大々的に捜索させたが、やはり無駄であった。
ところが午後の三時頃になって、ドミニ判事と、町長と、プランタさんと、ドクトルの四人が、食堂へ入って、簡単な中食(ちゅうじき)を使いながら協議をしていると、一人の見知らぬ男が、突然(だしぬけ)にぬっとそこへ入って来た。
「君は何者(だれ)だい。誰の許可(ゆるし)で此室(ここ)へ来たんだ?」
町長がきびしく問いかけると、その男は丁寧に一礼して、
「私は探偵のルコックです。此方(こちら)からの電報によって、警視庁から派遣されて来たのです。」
皆が尠(すくな)からず面喰(めんくら)った。というのは、その男の風采が一向に探偵らしく見えないからであった。
いったい仏蘭西(フランス)では、人の服装は職業によって大体型(かた)がきまっていて、多くの場合一目で云いあてることが出来る。例えば、几帳面な黒服に真白(まっしろ)な襟布(クラバット)はお医者、便々(べんべん)たる腹を突きだして、チョッキに金鎖(きんぐさり)を光らせているのは銀行家、尖(さき)のとんがった帽子を阿弥陀(あみだ)にかぶって、だぶだぶな皺くちゃの服に天鵞絨(ビロード)のチョッキを着けたのは美術家、といった風に、大抵きまっているのだ。
警視庁の探偵はどうかというと、妙に底光りのする眼付をして、口髭を短く刈込んで、苦味ばしった顔に何処となく慓悍(ひょうかん)な相を漾(ただよ)わせ、糸目(いとめ)の綻(ほころ)びかけた黒っぽい服を着て、フェルト帽を眉深(まぶか)にかぶり、ネクタイピンには人造宝石が怪しく光っている、といったような型を思わせるのである。
ところが今ルコックの風態(ふうてい)を見ると、上衣(うわぎ)もズボンもごく平凡なもので、大型の銀側(ぎんがわ)懐中時計が、チョッキの衣嚢(かくし)から少し喰(は)みだして、組紐(くみひも)がぶら垂(さが)っている。そして赤ちゃけた長髪を横っちょで妙な恰好に分け、蒼白(あおじろ)い顔に顎鬚(あごひげ)の生えのびた容貌風采は、朴訥(ぼくとつ)な田舎爺(いなかおやじ)そっくりだ。
その髪は仮髪(かつら)で、鬚はつけ鬚に相違ないのだが、他人(ひと)から見ては絶対にそれがわからない。それだけ、この探偵の変装術が神(しん)に入(い)っているのだ。
彼は田舎廻りの組糸商人(くみいとしょうにん)に化けて来たのであった。
ドミニ判事は、そうしたルコックの様子を打(う)ち眺めていたが、案外つまらぬ男がやって来たとでも云いたげに、肩を一つゆすぶって、
「御苦労だったな。ところで、事件を一通(ひととお)り説明すると――」
「それはお聞きするまでもありません。」
「しかし、捜査上大切なことなんだから、まア聞きたまえ。」
「私も大体は心得ているつもりです。」と探偵は押(お)して答えた。「これまでお調べになったところでは、この殺人事件は、物盗(ものとり)が目的らしいということ、伯爵夫人の屍体は発見されたけれど、伯爵の屍体はまだ出ないこと、ベルトオという評判のわるい爺(おやじ)が捕縛されたこと、それから、庭師のゲスパンが酔(よっ)ぱらって帰って来たが、平生(へいぜい)の素行から押して、この男が主(しゅ)たる容疑者と見られています。第一、彼は口を噤(つぐ)んでいるので、不在証明(アリバイ)が成立(なりた)たないということが、一層疑いを深めているようです。」
「君は誰からそれだけのことを聞いたのか。」
「皆(み)んなに、少しずつ聞きました。」
「何処(どこ)で?」
「実は二時間前から此邸(ここ)へ来ておりますので。」
「冗談じゃない。俺(わし)は今まで君を待ちあぐんでいたのだ。」
「御免なさい。だが、こうした場合は、情況視察が第一の要件で、殊(こと)に私は一般の風評を攫(つか)みたかったのです――無論そんなものを当てにするわけではありませんが、参考のためにです。」
「それはしかし、君が我々を待たした理由にならんじゃないか。」
「けれど、私が此邸(ここ)へ来てすぐに名乗り出ると、探偵ということが知れわたりますから、何を訊いても、人が警戒して、思ったとおりを話してくれないでしょう。」
「成(な)るほど、有理(もっとも)だ、有理だ。」
とプランタさんが突然、ルコックに声援(せいえん)した。
ドミニ判事も、この探偵は少しは話せる男らしいと思った。しかしまだ、信頼する気持にはなれなかった。
「事件の説明が要らないとすれば、すぐに検索(けんさく)をはじめよう。」
判事は一同を促(うなが)して、食堂から、玄関の間(ま)の階段の方へ行った。
第九十七段 ― 2022年05月08日
・なぜ、某有名RPGのオープニングが「in F」から「in C」になったのか?
たぶん、金管楽器の負担が大きいから(作曲者自身によるシンセサイザー・ヴァージョン参照)。
・なぜ、某ギタリスト・ブギーは「in G」なのか?
たぶん、ハーモニクスが楽だから。
なお、某ハードロック・バンドの曲が「in G」ばかりなのは、手癖のせいかも知らない……真相は知らないし、そんな内部事情にも大して興味は無いが。