『吾輩は猫である 二』より2023年01月11日

(略)
「いや黒君御目出度(おめでた)う。不相変(あひかはらず)元気がいゝね」と尻尾を立てゝ左へくるりと廻はす。黒は尻尾を立てたぎり挨拶もしない。「何(なに)御目出度(おめでて)え? 正月で御目出たけりや、御めへなんざあ年が年中御目出てえ方だらう。気をつけろい、此(この)吹い子の向ふ面め」吹い子の向ふづらといふ句は罵詈の言語である様だが、吾輩には了解が出来なかつた。「一寸伺うが吹い子の向ふづらと云ふのはどう云ふ意味かね」「へん手めえが悪体をつかれてる癖に、其訳を聞きや世話あねえ、だから正月野郎だつて事よ」正月野郎は詩的であるが、其意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。参考の為め一寸聞いて置きたいが、聞いたつて明瞭な答弁は得られぬに極まつてゐるから、面と対(むか)つた儘(まゝ)無言で立つて居つた。聊か手持無沙汰の体(てい)である。すると突然黒のうちの神さんが大きな声を張り揚げて「おや棚へ上げて置いた鮭がない。大変だ。又あの黒の畜生が取つたんだよ。ほんとに憎らしい猫だつちあありあしない。今に帰つて来たら、どうするか見て居やがれ」と怒鳴る。初春の長閑(のどか)な空気を無遠慮に震動させて、枝を鳴らさぬ君が御代を大(おほい)に俗了して仕舞う。黒は怒鳴るなら、怒鳴りたい丈怒鳴つて居ろと云はぬ許りに横着な顔をして、四角な顋(あご)を前へ出しながら、あれを聞いたかと合図をする。今迄は黒との応対で気がつかなつたが、見ると彼の足の下には一切れ二銭三厘に相当する鮭の骨が泥だらけになつて転がつて居る。「君不相変(あひかはらず)やつてるな」と今迄の行き掛りは忘れて、つい感投詞を奉呈した。黒は其位な事では中々機嫌を直さない「何がやつてるでえ、此野郎。しやけの一切や二切で相変らずたあ何だ。人を見縊(みく)びつた事をいふねえ。憚りながら車屋の黒だあ」と腕まくりの代りに右の前足を逆(さ)かに肩の辺迄掻き上げた。「君が黒君だと云ふ事は、始めから知つてるさ」「知つてるのに、相変らずやつてるたあ何だ。何だてえ事よ」と熱いのを頻りに吹き懸ける。人間なら胸倉をとられて小突き廻される所である。少々辟易して内心困つた事になつたなと思つて居ると、再び例の神さんの大声が聞える。「ちよいと西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよ此人あ。牛肉を一斤すぐ持つて来るんだよ。いゝかい、分つたかい、牛肉の堅くない所を一斤だよ」と牛肉注文の声が四隣の寂寞を破る。「へん年に一遍牛肉を誂へると思つて、いやに大きな声を出しやあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終へねえ阿魔だ」と黒は嘲りながら四つ足を踏張る。吾輩は挨拶の仕様もないから黙つて見て居る。「一斤位ぢやあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いゝから取つときや、今に食つてやらあ」と自分の為に誂へたものゝ如くいふ。「今度は本当の御馳走だ。結構々々」と吾輩は可成(なるべく)彼を帰さうとする。「御めつちの知つた事ぢやねえ。黙つてゐろ。うるせえや」と云ひ乍ら突然後足で霜柱の崩れた奴を吾輩の頭へばさりと浴びせ掛る。吾輩が驚ろいて、からだの泥を払つて居る間に黒は垣根を潜つて、どこかへ姿を隠した。大方西川の牛(ぎう)を覘(ねらひ)に行つたものであらう。
(後略)


・「正月野郎」と言う言葉は、これ以外に読んだ記憶も実際に聞いた記憶も無い。個人的には漱石のオリジナルだと思うが、寄席などで,耳にしたフレーズの借用かも知れない。
「松の内」の具体的期間は時代や地方に依って異なるようだ。「あなた待つのも、松のう~ち~」なんて歌もあった。
それにしても、演芸番組からコミック・バンド(所謂「ぼういず物」など)を滅多に見なくなった。せめて初席くらい音曲物が多くてもと思うのだが。
筆者の場合、「灘康次とモダンカンカン」「玉川カルテット」の2組が小学生の頃から好きだった。

・追記。
そう言えば「バラクーダ」と言う2人組もあった。役割は「Vo.」と「Gt.」。
……と、「リズム・ボックス」。

最近のリズム・ボックスはだいぶ進化しているようだ。おかげで人間は馬鹿なままでS済む。

『猫』の言葉遊び2023年01月14日

『吾輩は猫である』から、漱石の言葉遊びについて。

・三章。
「七代目樽金」。
迷亭の台詞にある通り、「タークヰン、ゼ、プラウド(Tarquin the Proud)」=「Tarquinius Sperbus」の宛字ギャグ。


尤も、前述のように明治期の翻訳では西洋人の名に漢字を宛てる事が多かったので、特にギャグと言う程の積りは無かったかも知れない。黒岩涙香『鉄假面』に関しては触れたので別例を。

森田思軒『十五少年』より。
 「ブリアン」→「武安」
 「ドノバン」→「杜番」
原作は無論ジュール・ヴェルヌ。

・五章。
「オタンチン・パレオロガス」。
「コンスタンチン・パレオロガス(Constantinus Palaeolegus)」の「コンスタンチン」と言う人名を「おたんちん」と言う罵倒語に置き換えた洒落(地口)。
私事だが、筆者は子供の頃この語を「おんたんちん」と言っていた。或る時、友人から「それ『おたんちん』だろ」と注意され誤りに気付いた。どうやら「あんぽんたん」と混同していたようだ。

・十一章。
「づうづうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か。(以下略)」

前者は八木独仙、後者は例によって迷亭の台詞。いかにも漱石らしい地口である。

なお、画像はいずれもウィキペディアより。

・追記(25日)。
こう言う場合、「洒落」は問題ないが「地口」はビミョーとの由。
「掛詞」或いは「懸詞」(読みはいずれも「かけことば)と言う語が無難らしい。
如何なるジャンルにせよ、「ギョーカイ・ヨーゴ」と言う奴はややこしい物である。

第百五十九段2023年01月14日

そう言えば、『オーケストラがやって来た』にも「1分間指揮者コーナー」と言うのがあった。
『題名のない音楽会』と、どちらが先だったかは覚えていない。
こちらは「音楽に無縁そうな有名人が指揮をする」と言うコンセプトだったような気がする。記憶違いかも知れないが。
個人的に覚えているのは、先代(五代目)三遊亭圓楽。「こっちは勝手にやるので、皆さんは勝手に演奏して下さい」と笑いを取った後、いきなり下半身を相撲の四股のように拡げ上半身を大きく振り廻した。つまりラジオ体操のような動きである。

ちなみに、曲目はベートーヴェン『交響曲第五番ハ短調作品67第一楽章』。

食料自給率に関して2023年01月15日

そう言えば、「金額ベイス」「カロリー・ベイス」と言う用語があった。
いづれも「組織の縦割り用語」である。

……で、現在の日本に「餓死者」をカウントする公機関はあるのかな?

そう言えば、「光合成」と「炭酸同化作用」の違いがいまだに良く判らない。
……地元の市立中学校で教わったと言う事は記憶しているが。

第百六十段2023年01月18日

何にせよ、わざわざ「異次元」でやらずに、我々の存在する「三次元」で実行して戴きたいものである。
……アシモフの小説、『神々自身(The Gods Themselves)』(1972年)じゃあるまいし。

・追記。
E・A・アボット『Flatland: A Romance of Many Dimensions』(1884年)の方が適切だったかも知れない。現在は新訳が出ているそうだ。

旧邦訳書名は、『二次元の世界』。