金毛の羊皮 11 ― 2022年08月01日
(一一) 王女メデアの助言
アルゴー艦の勇士等(ら)は、ヤソンから王の返事を聞いた時、その難題に胸を突かれて、只黙って悲しげに考え込んでいた。如何(いか)に死を恐れない勇士にしても、神ならぬ人間の身で、火焔の息を吐く銅牛(どうぎゅう)を馴らして、怖ろしい竜の歯を蒔(ま)くというようなことが出来るものではない。といって決死の誓いを立てて、此処まで遙々辿って来ながら、その目的をも遂げずに、何の面目あって再び故郷へ帰れよう? 死は固(もと)より覚悟の上である。併(しか)し死ぬにしても、勇士らしく死にたい! ――勇士らの胸の中には、こんな考えが往来していた。中でもヤソンはこの冒険の首唱者である関係上、最初から一命を擲(なげう)って、王の難題を試みようと決心していたので、進んで一行の代表者になろうと申出(もうしだ)した。
「ヘラの女神の保護に縋(すが)って、私の最後の運命を試みよう。」とヤソンは思い詰めたような顔色をして言った。「勿論、出立(しゅったつ)の日から命は投げ出している。私が第一の犠牲になろう。後の事は諸君に頼む。」
こんな相談のうちにその日は暮れて、その夜ヤソンは、思案に暮れて、ひとり堤の上を逍遥(さまよ)っていると、市(まち)の方から此方(こちら)を指して下(くだ)って来る人の足音が耳に入った。星の光に透(すか)して見ると、被衣(かつぎ)を被った女の姿であったが、やがて近づいて、ヤソンの側(そば)まで来ると、女は立停(たちど)まって声をかけた。
「私は王女のメデアです。今日父の申上げました事について、ちとお話したいことがあって、窃(そっ)と此処までまいりました。」と言って女は凝乎(じっ)と男の様子を窺(うかが)っていたが、「あなた、どうぞ命を棄てずに帰って下さい!」
「折角此処まで来て、目的も遂げずに、おめおめと国へ帰るというのは、死ぬにも増した恥辱です。」とヤソンは女の様子に目をつけながら答えた。
「ですが、あなたはまだ御存じないのです。」と女は聊(いささ)か声を震わして、熱心に言った。「あのヘファイストスの牛を馴らして、アレスの野を耕したり、竜の歯を蒔いて、その収穫を刈取るというようなことは、人間の身で出来ることではありません。又仮にこの難題を遂行(しおお)せたとしましても、あの羊皮に近づくには、三重(さんじゅう)の黄銅の門で堅めた堅固な城壁を越えなければなりません。城壁の上には怖ろしい魔女のブリモが、獰猛な猟犬を連れ、手に松火(たいまつ)を持って、番をしております。又うまく行ってこの門が通れたとしましても、羊皮の掛かった山毛欅(ぶな)の木の周囲(まわり)には、毒気を吐く竜が昼夜眠らずに守護しておりますから、容易に近づけるものではありません。どうぞこんな無謀なことはふっつりと諦めて、無事にお帰りになって下さい。」
「今になってそんなことは出来ません。」とヤソンは断乎(きっぱり)と答えた。「生命が惜しい位なら、此処(ここ)までは来ないのです。」
この決心を聞くと、メデアは急に身を進めて、ヤソンの手を握った。
「私を信じて下さい!」と女は握り締めた手を顫(ふる)わせながら言った。「その御決心を伺う上は、何であなたを死なせましょう? これからはこのメデアがあなたの身方(みかた)です。此処に薬草の汁から取った霊膏(れいこう)があります。これを身体(からだ)と楯へ塗って置けば、火でも、剣(けん)でも、あなたの身を傷つけることは出来ません。そしてこれを兜へ塗って置いて、竜の歯を蒔いた後で、地から生えた大勢の武者の中へその兜を投げてやれば、お互いに刈り取って、ひとりでに滅びてしまうでしょう。」
こう言って握った手を離すと、メデアは懐中から一つの壺を出して、ヤソンに渡すや否や、逃げるように元来た道を引返して行った。
日本国憲法第一一条 他 ― 2022年08月01日
第三章 国民の権利及び義務
第一一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第一三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第一四条 ① すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第一五条 ① 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
② すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
(略)
第一六条 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
第一七条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
第百三十段 ― 2022年08月01日
・ミャンマーの軍事独裁政権に日本人ジャーナリストが拘束されたようだ。
苟も「政府側の正規軍」だから、かつてのイラクでの事件やアフガニスタンでの事件のようにはならないと思うが一寸先は闇である。
ちなみに、映画『相棒 劇場版』を観た人の多くは、モティーフとなった事件を記憶されていると思う。
・第2次大戦以降ロシアが実効支配している「北方領土」周辺が騒がしいようだ。まあ、常識的に考えて、海軍の太平洋側拠点にするのは理の当然である。米太平洋艦隊も、オホーツク海から南支那海までカヴァーするのは、ちょっと大変だろう。
河畔の悲劇 27 ― 2022年08月02日
二七、報酬一万法
シャルマン夫人の店は、ノオトル・ダーム・ド・ロレット街百三十六番地の建物の二階にある。
それは風変りな商売で、金を借りたい時や、最新流行の衣類を揃えたい時、そのほか宝石貴金属から、絵額(えがく)、食器、切地(きれじ)、あらゆる装飾品に至るまで、何でも欲しいときは、このシャルマン夫人の許(ところ)へ行けば、すぐに貸してくれる。
顧客は相当の担保を入れなければならないが、若くて美しい「それ女(しゃ)」なら、たいてい無担保で融通してもらえる代り、二十割の利息を払わされることになっている。そんなわけで、女将(おかみ)のシャルマン夫人は、そうした社会の消息を手に取るように知っている。つまりその方面の活字引(いきじびき)なのである。
この女将は、手腕(うで)の凄そうな、活溌な女で、相当儲かりもするが、貸し倒れも多いから、結局金は蓄(たま)らないそうで、夏も冬も、真黒な絹地の一張羅(いっちょうら)でぶっ通しているという変り女(もの)だ。
彼女は商売柄、ルコックから可成(かな)り庇護(たす)けられているらしいが、同時にルコックを火事よりも恐ろしい人だといって、畏敬もしているのだ。それゆえ、今、ルコックとプランタさんが入って来ると、彼女は愛想よく出迎えて、早速客間へ案内して、飲みものなどをすすめた。
「女将さん、手紙はとどいただろうね。」
ルコックの方から話を切りだした。
「はい、今朝早く拝見しました。」
「まだ判らないかね、ゼンニイの居所(いどころ)は?」
「判りました。それについては、随分苦心をして、巴里中(パリじゅう)を探し廻って漸(やっ)とのことで発見(みつか)りました――とでも申しあげて、馬車賃をたんまり戴きたいところですがね。」
「冗談は抜きにして、早く聞かしてくれ。」
「御免なさい。実は、一昨日(おととい)、ゼンニイが此店(ここ)へまいりましたの。」
「え、それは真実(ほんとう)か?」
「真実(ほんとう)ですとも、あの娘(こ)はあれで正直なところがあります。二年越し四百八十法(フラン)ばかり立替えになっていたのを忘れないで、一昨日突然(だしぬけ)にやって来て、きれいに払って行きました。誰かに遺産を貰ったとかいって、財布がお紙幣(さつ)で充満(いっぱい)でした。運がいいんですね。彼女(あれ)はほんとうに好い娘(こ)でございますよ。」
女将はゼンニイが遺産を貰ったという話を信じているらしかった。
ルコックはプランタさんと、ちらと顔を見合った。
「女将さん、ゼンニイはその運を捉(つか)む前は、景気がよくなかったのか。」
とルコックが問いかけた。
「それはもう、ひどい有様でした。伯爵に捨てられてからというものは、自棄(やけ)になったんでしょうね。ぐんぐん堕落して、莫連女(あばずれ)の仲間に入って、家財道具から着物の果(はて)まで売り飛ばしては、飲んだくれていたそうでございます。」
「今は何処に住まっているんだね?」
「すぐ近所の、バンチミイル街におります。」
「そんなら、此家(ここ)へ呼んでおいて貰いたかったね。」
「今朝呼びにやったときは留守でございましたが、帰りしだいに此店(ここ)来ることになっています。もう来てもいい時刻でございますがね――」
「それでは待っていよう。」
と、腰を据えたが、それから物の二十分と経たないうちに、廊下にそれらしい跫音(あしおと)がした。
女将は起(た)ちあがって、
「あ、まいりました。」
「我々は偶然ここへ来たことにしてね、感づかれないように頼むよ。」
とルコックは低声(こごえ)で注意した。
やがて衣ずれの音とともに、ゼンニイが素晴らしくしゃれた服装(みなり)で入って来た。
丹念に化粧をした顔は、男を惹(ひ)きつけるには十分だが、伯爵の寵女(おもいもの)であった時分の、生々(いきいき)した美しさはすでに失われて、頬はこけ、口許(くちもと)は皮肉にゆがんで、荒(すさ)んだ窶(やつ)れが著しく見えていた。僅か一年間にこうも衰えるものかと驚かされた。
彼女は憤(おこ)ったような調子で、
「どうしたのさ、女将さん? 人が忙(せわ)しいのに、煩(うる)さく来い来いって――一体何の御用なの?」
「そう憤(おこ)るもんじゃないよ。実はね、今度来た素晴らしい天鵞絨(ビロード)を、お前さんにお見せしたいと思って――何しろ飛びきりの上等で、一ヤードがたった三十法(フラン)よ――こんな掘り出し物は滅多にありはしない――」
「御冗談でしょう。夏もお小袖(こそで)っていうけれど、七月に天鵞絨(ビロード)は早過ぎるわ。」
「そう云わずに、見るだけでも見て下さい。」
「もう沢山。わたしはこれから、アスニエールの晩餐に出かけますからね。また来るわ――」
遽(あわただ)しく帰ろうとする気配なので、ルコックは堪らなくなって前へ出た。
「やあ、ゼンニイさんじゃありませんか。」
ゼンニイはびっくりしたふうで、
「わたしはゼンニイですが、貴方は誰方(どなた)?」
「もう忘れましたか。ときどきあなたの許(ところ)へお邪魔をした者さ。そら、伯爵の何だった時分にね。」
そういいながら、女将に目配せをすると、女将は用ありげに、そそくさと店の方へ出て行った。
「僕はあの時分、エクトルと懇意にしていた者だが――あなたは、この頃、あの人の噂を聞きましたか?」
「伯爵とは一週間前にお会いしました。」
「それでは、あの恐ろしい事件を知りませんか。」
「知りません。何かございましたの?」
「これは驚いた。あなたは新聞を読まないんだね。この二日間というものは、大変な評判ですよ、伯爵が短刀で夫人を突き殺したというのでね。」
すると、ゼンニイは見ているうちに、顔が真蒼になって、「そ、それは真実(ほんとう)ですか?」
「真実(ほんとう)だとも。今頃は無論逮捕(あげ)られている筈だが、やがて裁判がきまると、死刑(おしおき)だろう。」
プランタさんは、傍(そば)からじっとゼンニイの様子に眼をつけた。多分落胆(がっかり)して気絶をするか、泣き崩れるか、いずれにしても無事には済むまいと思ったが、それは間違いであった。
ゼンニイは極端に伯爵を憎んでいた。会えば莞爾々々(にこにこ)して、出来るだけ金を捲きあげたくせに、内心では絶えずその無情冷酷を呪っているのであった。それゆえ彼女は、涙に咽(むせ)ぶどころか、からからと笑いだした。
「恰度(ちょうど)いいじゃありませんか。あの奥さんだって、いい気味よ。」
「どうして?」
「あの女は、どうせ碌な女ではありません。先夫の眼を竊(ぬす)んで、伯爵と道ならぬ恋を遂げたのです。金の威光でわたしの手から伯爵を横奪(よこど)りしたのです。それに、伯爵だってとても狡(ずる)い人ですわ。」
「それは、僕もそう思っている。彼があなたを捨てたように女をふり捨てる男は、たいてい悪党にきまってるんだが、それにしても、夫人を殺した罪を他人になすりつけるなんて、遣(や)り方がいかにも卑劣だ。」
「伯爵のやりそうなことですわ。」
「けれど、まったく潔白な者を罪に陥(おと)そうとするのは酷(ひど)い。その男は、水曜の晩の行く先を証明することが出来ないので、死刑(しけい)にされるところだった。まだ嫌疑が晴れないで、牢屋につながれているがね。」
「その無実の罪に陥された人って、誰でしょう?」
ゼンニイの声はふるえていた。
「新聞によれば、伯爵邸の庭師だっていうことだが――可憫(かわい)そうに。」
「小造りで、痩せ形で、頭髪(かみ)の黒い人でしょう――名前は、ゲスパンとかいいましたね。」
「そうだ。あなたはその男を知ってるんだね?」
ゼンニイはもじもじした。彼女は迂(うっ)かり口を辷らせたのを後悔したらしかったが、
「隠したって仕様がありません。わたしは正直な女です。あの庭師が罪を被(き)せられたら、可憫そうですわ。」
「あなたはそれについて、何か知ってるんだな。」
「ええ、何もかも知っておりますの。一週間ほど前に、伯爵からメランで会いたいっていう手紙がまいりましたので、すぐに行ってみましたが、そのとき伯爵の話では、料理女(コック)が近々に結婚をすることになっているけれど、下男の一人がその女に惚(のぼ)せているので、婚礼の晩に暴れこみそうだが、そんな間違いがあっては困るといって、大変心配なふうでした。」
「えっ、伯爵は婚礼のことをいいましたか、一週間も前に?」
「まアお待ちなさい。伯爵があまり心配そうなので、わたしも気の毒になって、そんなら婚礼の晩に、その男を外(はぐ)らかしたらいいでしょうと申しますと、伯爵はそれに越したことはないといって、暫く考えてから、実はそれについてお前に頼みがあるんだが、その晩お前は何家(どこ)かの奥女中のようなふうに化けて、九時半から十時までの間に、シャトレ広小路の或るカッフェの、入口に近い右手の卓子(テーブル)に席をとって、目印に花束をもって、待っていてくれ。そうすると、下男がそこへ入って行って、お前に包み物を渡すだろうから、お前はそれを受取って、彼に酒を飲まして、出来るだけ酔っぱらわせてくれ。彼は梯子酒だから、その後は一晩巴里中を引っぱり廻してくれっていうんです。」
「あなたは、その通りにやったのか。」
「ええ、やりましたの。」
彼女の話によれば、すべてが伯爵の目論んだとおりに進行した。その晩恰度十時に、ゲスパンはそのカッフェに入って来ると、花束ですぐに彼女を認めて、包み物をわたした。彼女はそれを受取ると、お礼のつもりで麦酒(ビール)を振舞った。ゲスパンは一息に飲み乾してから、返礼だといってお代りを取った。そうしてだんだん酒杯を重ねているうちに、酔いが廻って来た。種々(いろいろ)なことを知っていて、気前のいい男で、話が馬鹿に面白かった。
彼は財布に金をどっさりもっていた故(せい)か、やたらに気が大きくなって、麦酒(ビール)から葡萄酒、それからパンチと、止め度なく酒を飲んだ。
やがてゼンニイは、シャンゼリゼイの端(はず)れまで送って行ってくれといって、一緒にそこを出たが、途中でも方々(ほうぼう)のカッフェに寄っては、種々(いろいろ)な酒を飲んだので、二時頃になって彼はついにぐでんぐでんに酔っぱらって、凱旋門の近所のベンチに打倒(ぶったお)れると、そのまま前後不覚に眠ってしまった。
ゼンニイはそれを見済まして、そっと家へ帰ったというのである。
「その包み物は、どうしたんだね。」
「伯爵から云い付かったように、セエヌ河へ投げこむつもりでしたが、迂(うっ)かり忘れて家まで持って来てしまいました。まだわたしの室においてあります。」
「一体それは何の包みかね。」
「鉄槌(ハンマー)や鑢(やすり)のような道具と、短刀が一本入っていました。」
これで、ゲスパンの無罪は、いよいよ明白になったのである。
と、ルコックは今までの優しさから、急に厳格な態度になって、
「有難う。お前さんのお蔭で、無実の罪を被(き)せられた男が一人救われるのだ。お前さんは、これからコルベイユの予審判事の前へ行って、もう一度この話をしなければならん。途中で迷児にならないように、案内者をつけてあげよう。」
と手早く窓をあけて、往来に見張りをしていたグラアル刑事に声をかけた。
「おいグラアル君、此方(こっち)へ昇って来たまえ。」
それから、度胆(どぎも)をぬかれてまごまごしているゼンニイに向って、隙(すか)さず問いかけた。
「伯爵はその報酬として、お前さんに幾らか与(く)れただろう。」
「一万法(フラン)貰いました。けれど、それはずっと前から約束したお金で、当然わたしに与(く)れなければならないものでございました。」
「大丈夫、それはお前さんの所有(もの)だから、安心しなさい。」
そういっているところへ、グラアル刑事が昇って来たので、
「さあこの人と一緒に、一度お前さんの室に帰って、ゲスパンから受取った包み物をもって、コルベイユへ行くがいい。それが大切(だいじ)な証拠品になるんだからな。しかし途中でずらかったりすると、このルコックが承知しないぞ。」
ゼンニイがグラアル刑事に護られながら出て行った後で、女将は怪訝そうな顔をして入って来た。
「一体どうしたんですか。」
「何でもないんだよ、女将さん。」とルコックはさりげなくいった。「私達は今日は忙しいから、また来るよ。ではさようなら。」
金毛の羊皮 12 ― 2022年08月03日
(一二) 約束の日
翌日(あくるひ)夜の白(しら)むのを待って、ヤソンは海水で身を清めた後、全身に霊膏(れいこう)を塗り、又楯と兜と武器にも塗って、約束の仕事にかかる準備を終ったので、先ずこの霊膏の魔力を試すために、人々に頼んで、四方から武器を投げつけて貰ったが、槍も、剣も、ヤソンの楯に当るや否や、まるで鉛のように切尖(きっさき)が曲ってしまうばかりか、ヤソンの体は地から生えたように、何が触ってもびくともしなかった。其処(そこ)で、日が昇ると、王宮へ使いを送って、支度(したく)の出来たことを通じさせると、勇士らがあの難題に胆を潰して、昨夜のうちに逃げ帰ることと信じていた王は、意外な顔をして、その使者の口上を聞き取った。
「後悔するようなことはあるまいな!」と王は皮肉らしく念を押した。「異国から来た人々に、悲惨(みじめ)な最期を遂げさせるのは、わしの本意でない。どうだ、もう一度考え直しては?」
「日が昇りました。あなたの約束を履行して下さい。」と使者が答えた。「我々に竜の歯を渡して、火焔を吐く牡牛(おうし)を解放して下さい!」
王はこの返事を聞くと、直ぐに竜の歯を使者に渡して、アレスの野へ一同を案内させた。
程なくアレスの野は人を以て埋(うず)まった。その一方には王の玉座を囲んで、コルキスの勇士が、半円を描(えが)き、一方にはミニヤ族の勇士が、兜の星を朝日に輝かしつつ整列した。
その時ヤソンは今日の選手として、野の中央に進み、剣(けん)と槍を取って地に突き刺し、兜を脱いで槍に掛け、上衣(うわぎ)を脱ぎ棄て、楯を執って突立(つった)ち上がった。其処にはもう黄銅の軛(くびき)と、鉄の犂(すき)が用意してあった。王は臣下に命じて、牛舎(うしごや)の門を開かせると、二頭の牡牛は、恐ろしい吼え声を先立(さきだ)てて、黄銅の蹄を地に踏み鳴らしながら、鼻の孔から焔を吐いて、疾風のようにヤソンを目がけて跳びかかって来た。見る間に、ヤソンの身は、二頭の牡牛の吐く火焔の中に包まれたが、その髪の毛の一筋も焦がされずに、楯を控えて突立(つった)っていた。群衆は野を包む砂烟(すなけむり)を透(とお)して、ヤソンが楯をかざして、突きかけて来る四つの角を受留(うけと)めたと見たが、次の瞬間には、二頭の牛は、もう脚を折って、地へ這っていた。
これを見て、敵も身方(みかた)も、一斉に歓呼の声を挙げた。けれども誰一人、王の側(そば)に立った王女メデアが、すっぽりと被ったヴェールの中で、熱心に呪文を唱えていたのに、気がつかなかった。
ヤソンはやがて牡牛の頸に黄銅の軛(くびき)を掛け、重い鉄の犂(すき)へ縛り付けて、後から槍で突きながら、暴風(あらし)のように猛り立たせて、見る間にアレスの野を犂(す)き返した。それから牡牛を犂(すき)から離して、元の牛舎(うしごや)へ追い返した後、竜の歯を出して、畝(うね)の間へ蒔いて行った。暫くすると、畝は一本一本に膨れ上がって、土の塊が一つ一つに人間になり、頭の先から足の爪先まで鋼鉄で包まれた武士の姿になって立上がると、手に手に武器を揮(ふる)って、ヤソンを目がけて突進して来た。
之(これ)を見てミニヤ族は覚えず手に汗を握ったが、ヤソンは少しも騒がず、いきなり槍の先にかけた兜を取って、武士の群がった中へ投げてやった。すると沢山の武士は、忽ち狂気のようになって、同士討ちを始め、暫くの間は入乱れて戦っていたが、終(つい)には一人残らず地に倒れて、再び畝の中へ吸い込まれてしまった。
ヤソンはミニヤ族の歓呼に送られながら、アイエテスの前へ進んで、約束の羊皮を請求した。その時王は眉を曇らして、腹立たしげにヤソンの顔を眺めた。
「それは明日にして貰いたい、今日はもう遅い!」
こう言うや否や、つと玉座から立上がって、直ぐに王宮へ帰って行った。