金毛の羊皮 92022年07月28日

(九) 神秘の海

 盲王(もうおう)フィネウスは、約束の通り、一行の航海の前途に横たわる危険と、その難場(なんば)を突破する方法とを語り出した。その難場というのは、ボスポロスの海峡からその頃エウクシネと呼ばれていた今の黒海へ出る辺(ほとり)を指したもので、其処(そこ)には俗にシムプレガデス(ぶつかり島(じま))と呼ばれる二個(ふたつ)の島があって、全部が岩石から成り、真青(まっさお)な苔で包まれて、二個(ふたつ)の塔のように空中に聳え立っている。しかもこの二個(ふたつ)の大岩は絶えず波の上を浮び廻って、波のうねりに乗って、上下に揺れ動きながら、時としては天地も震動するような響きを立てて、互いに衝突する。その時には翼のある鳥でさえも、往々その間へ挟まれて、生命を失うと言い伝えられている。
 一行はフィネウスの話で、黒海の入口を堅めるこの怖ろしい浮島(うきしま)の様子を確かめた上、東に向って船を進めた。そして愈々(いよいよ)噂に聞いた浮岩の側(そば)へ来ると、もう北方の神秘の海から吹いて来る氷のような風が、勇士らの心をも凍らせるばかりであった。その時舵取りのチフィスは、フィネウスの教えに従って、試みに一羽の鳩を放すと、鳩は、今丁度衝突しようとして互いに揺れ合っている二個(ふたつ)の岩の前で、少時(しばらく)躊躇(ためら)った後、隙を覘(ねら)って、疾風のように、岩の間を飛んで行った。その時岩は怖ろしい勢いで衝突して、真白な泡を一面に撒き散らしたけれども、鳩は僅かに尾羽(おばね)の先を挟まれたばかりで、無事に岩の間を通り過ぎた。
 この壮絶な光景を目(ま)のあたりに見た勇士らは、その時チフィスの指揮に従い、手に握った橈(かい)を取り直すと、目を瞑(つぶ)って、口の中にヘラの女神の加護を念じながら、今丁度衝突した勢いで互いに反撥(はねかえ)った岩と岩との間へ、船を突込んで行った。五十本の橈は、柳の枝のように撓(しな)って、矢のように岩の間を突進(つきすす)んだ船は、離れた岩の再び衝突(かちあ)わない先に、無事にその間を通り抜けた。その瞬間に、岩は再び激しい勢いで衝突したが、只舵(かじ)の先を掠(かす)めたばかりであった。この時から、二個(ふたつ)の岩は互いに密着(くっつ)いて一つになり、最早(もはや)通行の船舶を圧潰(おしつぶ)す危険はなくなったけれども、ボスポロス海峡から黒海へ出る水路は、今でも有名な難場の一つに数えられている。
 アルゴー艦の一行は、怖ろしいシムプレガデスの難所を無事に通過して、昔から一人のギリシャ人も足を入れた事がないと言われるエウクシネの神秘の海へ入った。其の頃のギリシャ人は、此の海を世界の北の極(きょく)まで拡がっていると考えていた。到る所に暗礁や洲(す)があって、黒い霧が水面を立籠(たてこ)め、いつも氷のような風が吹き荒(すさ)む怖ろしい海で、其の先には夜ばかりの国があるとか、或いは冥土まで続いているとか、其の他尚(な)お様々の奇怪な物語が伝えられていた。一行は今前人未到のこの海へ入って、目の前に拡がった際涯(はて)もない黒い海を眺めた時、その記憶に刻まれた是等(これら)の怖しい伝説を思い出して、身を顫(ふる)わせずにはいられなかった。

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