河畔の悲劇 232022年07月22日

二三、その夜の女

 ゲスパンの来るのを待っている間に、ルコックは低声(こごえ)でプランタさんに話しかけた。
「私は、彼に口を開かせる急所を三つも握っていますがね、その中の一つは、実に延引(のっぴき)ならぬ急所ですよ。ところで、貴方にお訊きしますが、伯爵は其後(そのご)――あのゼンニイという女に逢ったでしょうな。」
「ゼンニイ?」
 プランタさんは突然(だしぬけ)に問われて、ちょっと面喰(めんくら)っていると、
「ええ、ときどき巴里(パリ)からやって来て、コルベイユのベル・イマーヂ旅館で、伯爵と媾曳(あいびき)をしたという女です。」
「ああ、あの女ですか。伯爵はソオブルジイが死んでからも、可成(かな)り度々(たびたび)逢ったようです。彼女は伯爵に捨てられてから、自暴(やけ)を起したのか、それとも、自分があの手紙を見せたがために、ソオブルジイが気の毒な死を遂げたことを知ったのか。或(あるい)は伯爵の罪悪に感づいたか。それはわからないが、兎に角、やたらに酒を暴飲(あお)るようになって、ぐんぐん堕落して行ったのです。」
「それでも、伯爵は逢っていたんですか?」
「威かされると、会わないわけに行かなかったらしい。彼女は金がなくなると、強請(ゆすり)に来たものです。何しろ弱点を握られているので、伯爵も手古摺(てこず)っていたようです。」
「最近に会ったのは、何時頃(いつごろ)でしょうか。」
「多分あの時ではないかな。」とドクトルが口を挿んだ。「今から三週間前に、私がミランへ往診に出かけた時、あの両人(ふたり)がホテルの窓から外を眺めていたのを、ちらと見かけたが、伯爵は私を見ると、慌てて顔を引込(ひっこ)めました。」
「成るほど――いよいよ確かだ――」
 ルコックがそう云ったとき、ゲスパンが、二人の憲兵に護られながら入って来た。哀れな庭師は、たった一日で二十も老けたように、げっそりと憔悴(やつ)れて見えた。
「お前も考えただろうから、今度は答えるだろうな。」
 判事は問いかけたが、ゲスパンは相変らず黙りこくっていた。
 と、ルコック探偵は、彼の傍(そば)へ行って、軽く肩を叩きながら、
「おいおい、詰らぬ意地を張るものじゃない。我々は一生懸命に、あの殺人事件の犯人を探しているのだ。お前は潔白なら、その者の行方が早く知れるように、我々を助けてくれないか――ところで、お前はあの水曜の晩から木曜の朝にかけて、何をやっていたんだね?」
「そのことなら、皆(み)んな申しあげました。」
といって、また黙りこむ。
 ルコックは調子をかえて、
「お前は答える義務があるのだよ。お前がいくら秘(かく)したって、警察は何もかも知ってるんだ。あの晩に、お前は伯爵から千法紙幣(フランさつ)を受取っただろう?」
「それは違います。五百法紙幣(フランさつ)です。」
 ルコックはしめたと思った。
「序(ついで)に、あの女の名前もいってしまえ。」
「それは知りません。」
「ははあ、知らなければ知らんでもいいが、確か小造(こづく)りな女で、眼の大きな、素的(すてき)な美人だったな。」
「えっ、貴方は彼女を御存知なんですか。」
「そうさ、お前は彼女の名を知るまいが、ゼンニイっていう女だよ。そこでお前に訊くが、伯爵はどうしてお前に五百法紙幣(フランさつ)なんかを渡したのだ。」
「恰度(ちょうど)私が出る間際で、細かくする暇もなかったし、それに旦那様は、町で両替をしないで、巴里(パリ)へ行ってその紙幣(さつ)で買い物をして、剰銭(つりせん)をもって来いということでした。」
「それはいいが、お前はあの晩、肝腎の宴会に顔も出さないで、何をしていたんだ?」
 答えがない。
「伯爵からどんな用事を云い付かったのか。」
 ゲスパンはもじもじして、人々を一順(いちじゅん)見廻したが、役人達の顔が妙に意地わるく見えて、皆(み)んなで自分を戯弄(からか)っているとしか思えなかった。それが又むらむらっと癪にさわった。
「失敗(しま)った。云うんじゃなかった――貴方がたは、私を罠にかけようとするんですね。」
 それっきり、何を訊いても、知らぬ覚えぬの一点張りだ。ルコックもこれには手古摺ったが、やがて声を励まして、
「お前は案外馬鹿者だな。此方(こっち)が何も知らぬと思っているのか。伯爵はお前に五百法紙幣(フランさつ)を預けた時、巴里(パリ)へ着いたら、停車場で皆と別れて、金物店へ行って、短刀と、鉄槌(ハンマー)と、鑿(のみ)と、鑢(やすり)を買って、それを或る女に渡せと言い付けたではないか。そして、剰銭(つりせん)は明日もって来いと云っただろう。」
 図星をさされて、ゲスパンははっとしたらしいが、
「はっきり記憶(おぼ)えていません。」と尚(な)おも頑張った。
「ところが、お前はその晩飲んだくれて、その剰銭(つりせん)の一部分を遣(つか)いこんでしまったんだ。翌(あ)くる日邸へ帰って来て、門前に憲兵が張りこんでいるのを見ると、何も云われぬ先に、すたこら逃げだしたのは、そのためなんだ。昨晩(ゆうべ)の不(ふ)しだらが知れて、逮捕(つか)まると思ったんだな。ところが聞いてみると、主人夫婦は夜中(やちゅう)何者かに殺害されたというので、専(もっぱ)らお前に嫌疑がかかっていたんだ。そこでお前は益々恐ろしくなった。生憎夜前(やぜん)に金物店で、兇器や泥坊道具を買いこんだ弱味がある。それに衣嚢(かくし)にもっていた金は、剰銭(つりせん)だといったって、誰も信じてくれない。云訳(いいわけ)をすればするほど、嫌疑が深くなるばかりだ。それでお前は、飽くまでも口を噤(つぐ)むが安全だと肚(はら)をきめたのだ。な、そうだろう?」
 ゲスパンは、口にはいわねど、心中で直ちにそれを承認したらしかった。が、「御存分になすって下さい。」とばかりで、何も答えようとはしなかった。
「実に馬鹿な男だな。みな云ってしまえば、却(かえ)って早く釈放(ゆる)されるのになア。どうだ、正直に答える気はないか。」
 けれど、ゲスパンはますます鯱(しゃち)こばって首をかたくなに振るばかりであった。
「それほど牢屋が好きなら、勝手にするがいい。」
 ルコックはそういって、判事の方へ目配せをしてから、
「憲兵、此奴(こいつ)を監獄へつれて行け。」
と突離(つっぱな)した。ゲスパンは、頑固に黙りこんだまま、引かれて行った。
 ドミニ判事は、今の審(しら)べを聞いているうちに、恰度朝霧が晴れてゆくように、従来(これまで)の自分の誤りがわかって来た。と同時に、これほど偉い探偵を軽蔑していたことが、何だか恐ろしいような気持がするのであった。
「ルコック君、君は案外偉い人だったね。物事を見透す力は、殆ど千里眼だ。いずれ恩賞があるだろうが、君の御尽力については、俺(わし)からも警視庁へ十分感謝するつもりです。」
 こう手離(てばな)しで讃(ほ)められると、ルコックもさすがに恐縮して、処女のようにぽっと顔を赧(あか)らめた。
「この手柄は、私一人のものではありません。半分はプランタ氏から助けられたのです。」
「そんなことはない。」プランタさんは慎ましやかにそれを打ち消した。「私は少しばかり情報をお知らせしたけれど、君が一人でも、無論これだけの成績はあげられたでしょう。」
「ところが、私も細かいことはまだ判然(はっきり)しない点があります。」とルコックは真面目に考えこんで、「ゼンニイは共犯者であるのか。それとも、知らずに犯行を助けたのか。彼女はあの晩、ゲスパンを酔っぱらわせて、宴会の席へ出るのを妨(さまた)げたにはちがいないが、それは、伯爵の差しがねでやったんでしょうかね?」
「伯爵はとにかく、あの二人に何か仕事を云いつけたらしい。」
「或(あるい)は、ゼンニイが伯爵から頼まれて、ゲスパンの不在証明(アリバイ)を打破(うちこわ)したとも思えるのです。」
「それは、ゼンニイという女を審(しら)べると、判明するわけだね。」
とドミニ判事がいった。
「ええ、是非そうしなければなりません。私は、二日と経たぬうちにその女を探しだして、この裁判所へつれてまいります。」
 ルコック探偵は、そういいながら起(た)ちあがると、忙(せわ)しげに帽子とステッキを取って、
「序(ついで)に、もう一つお願いがありますが――」
「ああ、わかったよ。トレモレル伯爵の逮捕命令を書けというんだろう。」
「実はそうです。では、伯爵が生きていることを認めて下さるでしょうな。」
「今となっては、君と同意見さ。」
 判事は卓子(テーブル)に向って、さらさらと逮捕命令をしたためた。

  刑法第九十一条及び同九十四条に依り、エクトル・ド・トレモレルを逮捕すべきことを、全国の警察官に要請す。
        予審判事  アントアーヌ・ドミニ

「これでよかろう。一日も早くこの真犯人を捕まえてくれたまえ。」
「承知しました。早速手筈をつけます。」
 ルコックは、プランタさんと一緒に、裁判所を退出した。ドクトルは後に残って、ソオブルジイの屍体発掘について、判事と打合(うちあわ)せをしていた。
 外へ出ると、プランタさんは、ルコックに誘いをかけた。
「もう一度拙宅へ寄りませんか。碌にお構いも出来ないが、一緒に晩餐をやって、そして今晩もお泊りなさい。」
「折角ですが、今夜はどうしても巴里(パリ)へ帰らなければなりません。」
「残念ですね。実は君に折入(おりい)ってお話したいことがあるんだが――」
「多分ロオランス嬢のことでしょう?」
「ええ、実は彼女について私が考えていることもあるし、それについて、是非君の御尽力を願いたいんですがね。」
「仰しゃるまでもなく、出来るだけのお力添えはする考えです。貴方とは昨日(きのう)お目にかかったばかりですが、何だか十年の知己のような気持がするので。」
「一度巴里(パリ)へ行って、お訊ねしたいが、何日(いつ)お目にかかれましょうか。」
「明日の午前九時に、私の住室(へや)へおいで下さい。モンマートル街……番地です。」
「有難う。では、きっと伺います。」
 二人はベル・イマーヂ旅館の前で立ち別れた。

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