「クレイグ先生」 夏目漱石 ― 2022年07月16日
クレイグ先生(『永日小品』より) 夏目漱石
クレイグ先生は燕の様に四階の上に巣をくつてゐる。鋪石(しきいし)の端に立つて見上げたつて、窓さへ見えない。下から段々と昇つて行くと、股(もゝ)の所が少し痛くなる時分に、漸(やうや)く先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に真鍮の敲子(ノツカー)がぶら下がつてゐる丈(だけ)である。しばらく門前で休息して、此の敲子(ノツカー)の下端(かたん)をこつこつと戸板へぶつけると、内から開けて呉れる。
開けて呉れるものは、何時(いつ)でも女である。近眼(ちかめ)の所為(せゐ)か眼鏡を掛けて、絶えず驚いてゐる。年は五十位だから、随分久しい間世の中を見て暮した筈だが、矢(や)つ張(ぱ)りまだ驚いてゐる。戸を敲(たゝ)くのが気の毒な位大きな眼をして入(い)らつしやいと云ふ。
這入(はい)ると女はすぐ消えて仕舞ふ。さうして取附(とつつき)の客間――始めは客間とも思はなかつた。別段装飾も何もない。窓が二つあつて、書物が沢山並んでゐる丈である。クレイグ先生は大抵(たいてい)其処に陣取つてゐる。自分の這入つて来るのを見ると、やあと云つて手を出す。握手をしろといふ相図(あひづ)だから、手を握る事は握るが、向(むかふ)ではかつて握り返した事がない。此方(こつち)もあまり握り心地が好い訳でもないから、一層(いつそ)廃(よ)したら可(よ)からうと思ふのに、矢つ張りやあと云つて毛だらけな皺だらけな、さうして例によつて消極的な手を出す。習慣は不思議なものである。
この手の所有者は自分の質問を受けて呉れる先生である。始めて逢つた時報酬はと聞いたら、左(さ)うさな、と一寸窓の外を見て、一回七志(シルリング)ぢやどうだらう。多過ぎればもつと負けても好いと云はれた。それで自分は一回七志(シルリング)の割で月末に全額を払ふ事にしてゐたが、時によると不意に先生から催促を受ける事があつた。君、少し金が入(い)るから払つて行つて呉れんか抔(など)と云はれる。自分は洋袴(ズボン)の隠しから金貨を出して、むき出しにへえと云つて渡すと、先生はやあ済まんと受取りながら、例の消極的な手を拡げて、一寸掌(てのひら)の上で眺めた儘(まゝ)、やがて是(こ)れを洋袴(ズボン)の隠しへ収められる。困る事には先生決して釣を渡さない。余分を来月へ繰り越さうとすると、次の週に又、ちよつと書物を買ひたいから抔(など)と催促される事がある。
先生は愛蘭土(アイヤランド)の人で言葉が頗(すこぶ)る分らない。少し焦(せ)き込んで来ると、東京者(とうきやうもの)が薩摩人(さつまじん)と喧嘩をした時位に六(む)づかしくなる。それで大変疎忽(そゝつか)しい非常な焦き込み屋なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔丈(かほだけ)見てゐた。
其の顔が又決して尋常ぢやない。西洋人だから鼻は高いけれども、段があつて、肉が厚過ぎる。其処は自分に善く似てゐるのだが、こんな鼻は一見した所がすつきりした好い感じは起らないものである。其の代り其処いら中(ぢゆう)むしやくしやしてゐて、何となく野趣(やしゆ)がある。髯抔(ひげなど)はまことに御気の毒な位黒白乱生(こくびやくらんせい)してゐた。いつかベーカーストリートで先生に出合つた時には、鞭を忘れた御者(カブマン)かと思つた。
先生の白襯衣(しろシヤツ)や白襟(しろえり)を着けたのは未(いま)だ曾(かつ)て見た事がない。いつでも縞のフラネルをきて、むくむくした上靴(うはぐつ)を足に穿(は)いて、其の足を煖炉(ストーヴ)の中へ突き込む位に出して、さうして時々短い膝を敲(たゝ)いて――其の時始めて気が附いたのだが、先生は消極的の手に金の指輪を嵌(は)めてゐた。――時には敲く代りに股(もゝ)を擦(こす)つて、教へて呉れる。尤も何を教へて呉れるのか分らない。聞いてゐると、先生の好きな所へ連れて行つて、決して帰してくれない。さうして其の好きな所が、時候の変り目や、天気都合で色々に変化する。時によると昨日(きのふ)と今日(けふ)で両極へ引越しをする事さへある。わるく云へば、まあ出鱈目で、よく評すると文学上の座談をして呉れるのだが、今になつて考へて見ると、一回七志(シルリング)位で纏(まとま)つた規則正しい講義抔(など)の出来る訳のものではないのだから、是は先生の方が尤(もつと)もなので、それを不平に考へた自分は馬鹿なのである。尤も先生の頭も、其の髯の代表する如く、少しは乱雑に傾いてゐた様でもあるから、寧(むし)ろ報酬の値上(ねあげ)をして、えらい講義をして貰はない方が可(よ)かつたかも知れない。
先生の得意なのは詩であつた。詩を読むときには顔から肩の辺(あたり)が陽炎(かげろふ)の様に振動する。――嘘ぢやない。全く振動した。其の代り自分に読んで呉れるのではなくつて、自分が一人で読んで楽(たのし)んでゐる事に帰着して仕舞ふから詰りは此方(こつち)の損になる。いつかスヰンバーンのロザモンドとか云ふものを持つて行つたら、先生一寸見せ玉(たま)へと云つて、二三行朗読したが、忽ち書物を膝の上に伏せて、鼻眼鏡をわざわざはづして、あゝ駄目々々スヰンバーンも、こんな詩を書く様に老い込んだかなあと云つて嘆息された。自分がスヰンバーンの傑作アタランタを読んで見様(みやう)と思ひ出したのは此の時である。
先生は自分を小供(こども)の様に考へてゐた。君かう云ふ事を知つてるか、あゝ云ふ事が分つてるか抔(など)と愚(ぐ)にも附かない事を度々(たびたび)質問された。かと思ふと、突然えらい問題を提出して急に同輩扱(あつかひ)に飛び移る事がある。いつか自分の前でワトソンの詩を読んで、是はシエレーに似た所があると云ふ人と、全く違つてゐると云ふ人とあるが、君はどう思ふと聞かれた。どう思ふたつて、自分には西洋の詩が、先(ま)づ眼に訴へて、しかる後(のち)耳を通過しなければ丸で分らないのである。そこで好い加減な挨拶をした。シエレーに似てゐる方だつたか、似てゐない方だつたか、今では忘れて仕舞つた。が可笑しい事に、先生は其の時例の膝を叩いて僕もさう思ふと云はれたので、大いに恐縮した。
ある時窓から首を出して、遙かの下界を忙しさうに通る人を見下(みおろ)しながら、君あんなに人間が通るが、あの内(うち)で詩の分るものは百人に一人もゐない、可愛相なものだ。一体英吉利(イギリス)人は詩を解する事の出来ない国民でね。其処へ行くと愛蘭土(アイヤランド)人はえらいものだ。はるかに高尚だ。――実際詩を味(あぢは)ふ事の出来る君だの僕だのは幸福と云はなければならない。と云はれた。自分を詩の分る方の仲間へ入れてくれたのは甚だ難有(ありがた)いが、其の割合(わりあひ)には取扱(とりあつかひ)が頗る冷淡である。自分は此の先生に於て未だ情合(じやうあひ)といふものを認めた事がない。全く器械的に喋舌(しやべ)つてる御爺(おぢい)さんとしか思はれなかつた。
けれども斯(こ)んな事があつた。自分の居る下宿が甚だ厭になつたから、此の先生の所へでも置いて貰はうかしらと思つて、ある日例の稽古を済ましたあと、頼んで見ると、先生忽ち膝を敲(たゝ)いて、成程、僕のうちの部屋を見せるから、来給(きたま)へと云つて、食堂から、下女部屋から、勝手から、一応すつかり引つ張り回して見せて呉れた。固(もと)より四階裏の一隅(ひとすみ)だから広い筈はない。二三分かゝると、見る所はなくなつて仕舞つた。先生は其処で、元の席へ帰つて、君斯(こ)ういふ家なんだから、何処へも置いて上げる訳には行かないよと断るかと思ふと、忽ちワルト・ホイツトマンの話を始めた。昔ホイツトマンが来て自分の家へ少時(しばらく)逗留して居た事がある――非常に早口だから、よく分らなつたが、どうもホイツトマンの方が来たらしい――で、始めあの人の詩を読んだ時は丸で物にならない様な心持(こゝろもち)がしたが、何遍も読み過(すご)してゐるうちに段々面白くなつて、仕舞(しまひ)には非常に愛読する様になつた。だから……
書生に置いて貰ふ件(けん)は、丸で何処かへ飛んで行つて仕舞つた。自分はたゞ成行(なりゆき)に任せてへえへえと云つて聞いてゐた。何でも其の時はシエレーが誰とかと喧嘩をしたとか云ふ事を話して、喧嘩はよくない、僕は両方共好きなんだから、僕の好きな二人が喧嘩をするのは甚だよくないと故障を申し立てゝ居(を)られた。いくら故障を申し立てゝも、もう何十年か前に喧嘩をして仕舞つたのだから仕方がない。
先生は疎忽(そゝつ)かしいから、自分の本抔(など)をよく置き違へる。さうして夫(それ)が見当(みあた)らないと、大いに焦(せ)き込んで、台所に居(ゐ)る婆さんを、ぼやでも起つた様に、仰山な声をして呼び立てる。すると例の婆さんが、是(こ)れも仰山な顔をして客間へあらはれて来る。
『お、おれの「ウオーズウオース」は何処へ遣つた』
婆さんは依然として驚いた眼を皿の様にして一応書棚を見廻してゐるが、いくら驚いても甚だ慥(たし)かなもので、すぐに、「ウオーズウオース」を見附け出す。さうして、「ヒヤ、サー」と云つて、聊(いさゝ)かたしなめる様に先生の前に突き附ける。先生はそれを引つたくる様に受け取つて、二本の指で汚ない表紙をぴしやぴしや敲きながら、君、ウオーズウオースが……と遣り出す。婆さんは、益(ますます)驚いた眼をして台所へ退(さが)つて行く。先生は二分も三分も「ウオーズウオース」を敲いてゐる。さうして折角捜して貰つた「ウオーズウオース」を遂に開けずに仕舞ふ。
先生は時々手紙を寄こす。其の字が決して読めない。尤(もつと)も二三行だから、何遍でも繰返して見る時間はあるが、どうしたつて判定は出来ない。先生から手紙がくれば差支(さしつかへ)があつて稽古が出来ないと云ふことゝ断定して始めから読む手数(てすう)を省く様にした。たまに驚いた婆さんが代筆をする事がある。其の時は甚だよく分る。先生は便利な書記を抱へたものである。先生は、自分に、どうも字が下手で困ると嘆息してゐられた。さうして君の方が余程上手だと云はれた。
かう云ふ字で原稿を書いたら、どんなものが出来るか心配でならない。先生はアーデン・シエクスピヤの出版者である。よくあの字が活版に変形する資格があると思ふ。先生は、それでも平気に序文をかいたり、ノートを附けたりして済してゐる。のみならず、此の序文を見ろと云つてハムレツトへ附けた緒言を読まされた事がある。其の次行つて面白かつたと云ふと、君日本へ帰つたら是非此の本を紹介して呉れと依頼された。アーデン・シエクスピヤのハムレツトは自分が帰朝後大学で講義をする時に非常な利益を受けた書物である。あのハムレツトのノート程周到にして要領を得たものは恐らくあるまいと思ふ。然し其の時は左程(さほど)にも感じなかつた。然し先生のシエクスピヤ研究には其の前から驚かされてゐた。
客間を鍵の手に曲ると六畳程な小さな書斎がある。先生が高く巣をくつてゐるのは、実を云ふと、此の四階の角で、其の角の又角に先生に取つては大切な宝物(ほうもつ)がある。――長さ一尺五寸幅一尺程な青表紙の手帳を約十冊ばかり併(なら)べて、先生はまがな隙(すき)がな、紙片(かみきれ)に書いた文句を此の青表紙の中へ書き込んでは、吝坊(けちんばう)が穴の開いた銭を蓄(ため)る様に、ぽつりぽつりと殖やして行くのを一生の楽(たのし)みにして居(ゐ)る。此の青表紙が沙翁(さをう)字典の原稿であると云ふ事は、こゝへ来出(きだ)して暫く立つとすぐに知つた。先生は此の字典を大成する為に、ウエールスのさる大学の文学の椅子を抛(なげう)つて、毎日ブリチツシ・ミユージアムへ通ふ暇をこしらへたのださうである。大学の椅子さへ抛つ位だから、七志(シルリング)の御弟子(おでし)を疎末(そまつ)にするのは無理もない。先生の頭のなかには此の字典が終日終夜槃桓磅礴(ばんかんはうはく)してゐるのみである。
先生、シユミツドの沙翁字彙(じゐ)がある上にまだそんなものを作るんですかと聞いた事がある。すると先生はさも軽蔑を禁じ得ざる様な様子で是れを見給へと云ひながら、自己所有のシユミツドを出して見せた。見ると、さすがのシユミツドが前後二巻一頁として完膚なき迄真黒(まつくろ)になつてゐる。自分はへえと云つたなり驚いてシユミツドを眺めてゐた。先生は頗る得意である。君、もしシユミツドと同程度のものを拵(こしら)へる位なら僕は何もこんなに骨を折りはしないさと云つて、又二本の指を揃へて真黒なシユミツドをぴしやぴしや敲き始めた。
「全体何時(いつ)頃から、こんな事を御始めになつたんですか」
先生は立つて向ふの書棚へ行つて、しきりに何か捜し出したが、又例の通り焦れつたさうな声でジエーン、ジエーン、おれのダウデンは何(ど)うしたと、婆さんが出て来ないうちから、ダウデンの在所(ありか)を尋ねてゐる。婆さんは又驚いて出て来る。さうして又例の如くヒヤ、サーと窘(たしな)めて帰つて行くと、先生は婆さんの一拶(いつさつ)には丸で頓着(とんぢやく)なく、餓(ひも)じさうに本を開けて、うん此処にある。ダウデンがちやんと僕の名を此処へ挙げて呉れてゐる。特別に沙翁を研究するクレイグ氏と書いて呉れてゐる。此の本が千八百七十……年の出版で僕の研究は夫(それ)よりずつと前なんだから……自分は全く先生の辛抱に恐れ入つた。序(つい)でに、ぢや何時出来上るんですかと尋ねて見た。何時だか分るものか、死ぬ迄遣る丈(だけ)の事さと先生はダウデンを元の所へ入れた。
自分は其の後暫くして先生の所へ行かなくなつた。行かなくなる少し前に、先生は日本の大学に西洋人の教授は要らんかね。僕も若いと行くがなと云つて、何となく無常を感じた様な顔をしてゐられた。先生の顔にセンチメントの出たのは此の時丈(だ)けである。自分はまだ若いぢやありませんかといつて慰めたら、いやいや何時どんな事があるかも知れない。もう五十六だからと云つて、妙に沈んで仕舞つた。
日本へ帰つて二年程したら、新着の文芸雑誌にクレイグ氏が死んだと云ふ記事が出た。沙翁の専門学者であると云ふことが、二三行書き加へてあつた丈である。自分は其の時雑誌を下へ置いて、あの字引(じびき)はつひに完成されずに、反故(ほご)になつて仕舞つたのかと考へた。
(明治四十二年)