金毛の羊皮 3 ― 2022年07月10日
(三) 不思議な老婆
ペリオン山の麓には、アナウロスの急流が、オレーフの林を貫(つらぬ)いて、矢のように流れている。ヤソンがこの河の岸まで来ると、丁度雨上りの河水(かわみず)が、真赤に濁って、泡立ちながら、恐ろしい勢いで流れていた。彼は岸に立って、河の面(おもて)を視詰(みつ)めていると、河の瀬音(せおと)にまじって、何処かで人の泣くような声が聞えるので、声のする方へ目を向けると、河下(かわしも)の方へ二三間(げん)隔たった処に、乞食のような風をした一人の老婆が坐っていた。その老婆はもう老衰して、腰は弓のように曲り、頭や手を始終ぶるぶると震わせていた。そして右の手には、郭公鳥(かっこうどり)の形を握子(にぎり)に彫り付けた杖をついて、ヤソンの顔を眺めながら、馬鹿にするような調子で、こう言った。
「若い癖に意気地のない男だ! この位な河が渡れないのか? それともその沓(くつ)を濡らすのが惜しいのか?」
こう言って、じっと彼を見詰めた老婆の顔には、牡牛の目のような、大きな、美しい、光のある、鳶色(とびいろ)の目が輝いていた。老婆の左の手には、時ならぬ時分(じぶん)に、柘榴の実を一つ持っていた。
ヤソンが呆気にとられて、ぼんやり立っているのを見ると、老婆は同じ皮肉な調子で、またこう言った。
「ヤソン、お前は全体何処へ行くのかい?」
ヤソンは自分の名を呼びかけられて、いよいよ驚いて、老婆の姿を見詰めていると、何処からともなく、一羽の孔雀が現われて、老婆の側(そば)を歩き出した。
「私はイオルコスへ行くのです。」と青年はカイロンの言葉を思い出して、叮嚀に答えた。「ペリヤスの手から父の王位を取り返しに行くのです。」
「ああそうかい。」と老婆は横柄に言った。「それなら序(ついで)に私を負(おぶ)って、この河を越さしてお呉れ、私は是非向う岸まで行く用事があるのだから。」
こう言われて、ヤソンは思わず河の上へ目を移した。河の上には、根こぎになった大木が、岩の間を縫って、矢のように流れて行く間に、河の底では、まるで一隊の騎兵が地を踏むような音をさせて、沢山の大石が押流(おしなが)されて行く。彼はほっと息をついて、老婆の方を見た。
「お母(っか)さん、この水では、私一人でさえ越せるかどうか分りません。その上あなたを負(おぶ)って行ったら、二人ながら流されるにきまっています。どうかそんな無理なことを言わないで下さい。」
「おやおや、そんなことでペリヤスの位が取れると思ってるのかい?」と老婆は嘲笑(あざわら)った。「弱い者や、不幸な者を助けるのが、王の役目だ。ヤソン、お前はこんな年寄を負って、河を越せないようなことで、王になれると思うのか? よしよし、渡して呉れなければ、自分で渡るからいい。」
こう言って、老婆は杖を取るや否や、足場でも見付けるように河の底を捜(さぐ)り出した。それを見ると、ヤソンは何か悪いことでもしたような気がして、急に今言った言葉を後悔した。そして老婆の前へ跪(ひざまず)いて、背中を出した。
「越せるか越せないか分りませんが、まあ背中へ乗って御覧なさい。若(も)し流されたら、運命と諦めて下さい。」
「なに大丈夫だ! 心配することはない!」
と言うや否や、老婆は若い山羊のように、身軽に、ヤソンの背中へ跳び上った。
ヤソンは直ぐに河へ下りて、二本の槍で河の底を捜りながら、徐々(そろそろ)と逆巻く水を分けて行った。一足(ひとあし)目には膝まで入ったが、二足(ふたあし)目にはもう腰へついた。そして一歩一歩に流れが急になって、足の周囲(まわり)では、大きな石がごろごろと転げ廻った。ヤソンはよろけながら、喘ぎながら、一生懸命に足を踏みしめながら、河上から流れて来る大木の間をすりぬけて進んで行くと、背中では我儘な老婆が、いろいろな注文をする。
「そら、わたしの裾が水で濡れるじゃないか? そんなによろけると、わたしが落ちるじゃないか? もっとしっかりおし! そんな弱虫で王になれるかい?」
ヤソンは「忌々(いまいま)しい老婆だ!」と思って、一時は水の中に打込(ぶちこ)んでやろうかと思った位腹が立ったが、それでもカイロンに約束した言葉を思い出して、じっと辛棒(しんぼう)した。
「お母(っか)さん、こらえて下さい!」と彼はすなおにあやまった。「上等な馬でも、たまには躓(つまづ)く事がありますから。」
こんな風にして石の間を辿りながら、もう少しで向うの岸へ着く処まで来ると、片方の足が大きな岩の間へ挟まったのを、抜こうとする拍子に、沓(くつ)がぬげてしまったので、ヤソンは思わず小さな声を立てた。
「ヤソン、何をした?」と老婆が背中から尋ねる。
「大変なことをしました。」と青年は答える。「足を抜く拍子に、片方の沓を岩に取られてしまいました。これでイオルコスへ行ったら、いい笑い物になるでしょう。」
「気にかけるには及ばない。」と老婆が言った。「それで神託が果たされるのだから。」
ヤソンには、老婆の言った意味が、よく了解(のみこ)めなかった。けれども問い返す暇もなく、ようようのことで向岸(むこうぎし)へ辿り着いて、老婆を草の上へ下(おろ)した。その時老婆の肩の上には、先刻の孔雀がいつの間にかとまっていたが、岸へ着くと、ふわりと肩から下りて、老婆の前で美しい羽を拡げた。その時老婆の大きな、鳶色の目の中から、美しい光が出て、あたりを照らした。と思う中(うち)に、老婆の姿は忽ち神々(こうごう)しい女神の姿になって、すっくりとヤソンの前に立った。
「私はオリムポスの女王です。ヘラです。」と女神は凛とした声で言った。「ヤソン、さあ、お前の行く処へおいでなさい。そして行く先々(さきざき)で困った時には、いつでも私の事を思い出しなさい。お前が私にして呉れた通りの事を、私もお前にして上げるから。」
ヤソンはこの有様を見ると、思わず跪(ひざまず)いて、両手で顔を隠したが、再び顔を上げた時には、女神の姿は、一片の雲のように、空を翔(かけ)ってオリムポスの方へ帰って行った。ヤソンはその後を見送って、徐(しず)かに立ち上がると、イオルコスを指して真直ぐに下って行った。
ペリオン山の麓には、アナウロスの急流が、オレーフの林を貫(つらぬ)いて、矢のように流れている。ヤソンがこの河の岸まで来ると、丁度雨上りの河水(かわみず)が、真赤に濁って、泡立ちながら、恐ろしい勢いで流れていた。彼は岸に立って、河の面(おもて)を視詰(みつ)めていると、河の瀬音(せおと)にまじって、何処かで人の泣くような声が聞えるので、声のする方へ目を向けると、河下(かわしも)の方へ二三間(げん)隔たった処に、乞食のような風をした一人の老婆が坐っていた。その老婆はもう老衰して、腰は弓のように曲り、頭や手を始終ぶるぶると震わせていた。そして右の手には、郭公鳥(かっこうどり)の形を握子(にぎり)に彫り付けた杖をついて、ヤソンの顔を眺めながら、馬鹿にするような調子で、こう言った。
「若い癖に意気地のない男だ! この位な河が渡れないのか? それともその沓(くつ)を濡らすのが惜しいのか?」
こう言って、じっと彼を見詰めた老婆の顔には、牡牛の目のような、大きな、美しい、光のある、鳶色(とびいろ)の目が輝いていた。老婆の左の手には、時ならぬ時分(じぶん)に、柘榴の実を一つ持っていた。
ヤソンが呆気にとられて、ぼんやり立っているのを見ると、老婆は同じ皮肉な調子で、またこう言った。
「ヤソン、お前は全体何処へ行くのかい?」
ヤソンは自分の名を呼びかけられて、いよいよ驚いて、老婆の姿を見詰めていると、何処からともなく、一羽の孔雀が現われて、老婆の側(そば)を歩き出した。
「私はイオルコスへ行くのです。」と青年はカイロンの言葉を思い出して、叮嚀に答えた。「ペリヤスの手から父の王位を取り返しに行くのです。」
「ああそうかい。」と老婆は横柄に言った。「それなら序(ついで)に私を負(おぶ)って、この河を越さしてお呉れ、私は是非向う岸まで行く用事があるのだから。」
こう言われて、ヤソンは思わず河の上へ目を移した。河の上には、根こぎになった大木が、岩の間を縫って、矢のように流れて行く間に、河の底では、まるで一隊の騎兵が地を踏むような音をさせて、沢山の大石が押流(おしなが)されて行く。彼はほっと息をついて、老婆の方を見た。
「お母(っか)さん、この水では、私一人でさえ越せるかどうか分りません。その上あなたを負(おぶ)って行ったら、二人ながら流されるにきまっています。どうかそんな無理なことを言わないで下さい。」
「おやおや、そんなことでペリヤスの位が取れると思ってるのかい?」と老婆は嘲笑(あざわら)った。「弱い者や、不幸な者を助けるのが、王の役目だ。ヤソン、お前はこんな年寄を負って、河を越せないようなことで、王になれると思うのか? よしよし、渡して呉れなければ、自分で渡るからいい。」
こう言って、老婆は杖を取るや否や、足場でも見付けるように河の底を捜(さぐ)り出した。それを見ると、ヤソンは何か悪いことでもしたような気がして、急に今言った言葉を後悔した。そして老婆の前へ跪(ひざまず)いて、背中を出した。
「越せるか越せないか分りませんが、まあ背中へ乗って御覧なさい。若(も)し流されたら、運命と諦めて下さい。」
「なに大丈夫だ! 心配することはない!」
と言うや否や、老婆は若い山羊のように、身軽に、ヤソンの背中へ跳び上った。
ヤソンは直ぐに河へ下りて、二本の槍で河の底を捜りながら、徐々(そろそろ)と逆巻く水を分けて行った。一足(ひとあし)目には膝まで入ったが、二足(ふたあし)目にはもう腰へついた。そして一歩一歩に流れが急になって、足の周囲(まわり)では、大きな石がごろごろと転げ廻った。ヤソンはよろけながら、喘ぎながら、一生懸命に足を踏みしめながら、河上から流れて来る大木の間をすりぬけて進んで行くと、背中では我儘な老婆が、いろいろな注文をする。
「そら、わたしの裾が水で濡れるじゃないか? そんなによろけると、わたしが落ちるじゃないか? もっとしっかりおし! そんな弱虫で王になれるかい?」
ヤソンは「忌々(いまいま)しい老婆だ!」と思って、一時は水の中に打込(ぶちこ)んでやろうかと思った位腹が立ったが、それでもカイロンに約束した言葉を思い出して、じっと辛棒(しんぼう)した。
「お母(っか)さん、こらえて下さい!」と彼はすなおにあやまった。「上等な馬でも、たまには躓(つまづ)く事がありますから。」
こんな風にして石の間を辿りながら、もう少しで向うの岸へ着く処まで来ると、片方の足が大きな岩の間へ挟まったのを、抜こうとする拍子に、沓(くつ)がぬげてしまったので、ヤソンは思わず小さな声を立てた。
「ヤソン、何をした?」と老婆が背中から尋ねる。
「大変なことをしました。」と青年は答える。「足を抜く拍子に、片方の沓を岩に取られてしまいました。これでイオルコスへ行ったら、いい笑い物になるでしょう。」
「気にかけるには及ばない。」と老婆が言った。「それで神託が果たされるのだから。」
ヤソンには、老婆の言った意味が、よく了解(のみこ)めなかった。けれども問い返す暇もなく、ようようのことで向岸(むこうぎし)へ辿り着いて、老婆を草の上へ下(おろ)した。その時老婆の肩の上には、先刻の孔雀がいつの間にかとまっていたが、岸へ着くと、ふわりと肩から下りて、老婆の前で美しい羽を拡げた。その時老婆の大きな、鳶色の目の中から、美しい光が出て、あたりを照らした。と思う中(うち)に、老婆の姿は忽ち神々(こうごう)しい女神の姿になって、すっくりとヤソンの前に立った。
「私はオリムポスの女王です。ヘラです。」と女神は凛とした声で言った。「ヤソン、さあ、お前の行く処へおいでなさい。そして行く先々(さきざき)で困った時には、いつでも私の事を思い出しなさい。お前が私にして呉れた通りの事を、私もお前にして上げるから。」
ヤソンはこの有様を見ると、思わず跪(ひざまず)いて、両手で顔を隠したが、再び顔を上げた時には、女神の姿は、一片の雲のように、空を翔(かけ)ってオリムポスの方へ帰って行った。ヤソンはその後を見送って、徐(しず)かに立ち上がると、イオルコスを指して真直ぐに下って行った。