河畔の悲劇 17 ― 2022年06月30日
一七、病苦
外は朝の霧から引きつづいて、細(こまか)い、冷(つめた)い雨が降りだしていた。けれど、ソオブルジイは一向気づかないふうで、その雨の中を当(あて)もなく歩きだした。
彼は首をうな垂れたまま、野原や森の中を独り徘徊(さまよ)ったが、ときどき立ちどまって何か呟いては、また歩いて行った。百姓たちは摺(す)れちがいにお辞儀をしながら、後を見送って、ソオブルジイの旦那はどうかしたのではないかと思った。
しかし幸か不幸か、彼は決して気が狂(ふ)れたのではなかった。
夜になってから、雨が土砂降りにふりだしたので、彼は濡れ鼠のようになって、邸へ帰って来た。体が綿のように疲れて、寒さが骨の髄までも徹(とお)りそうだった。
一生懸命に快活を装うたが、仇敵同様な男女(ふたり)とともに晩餐を取ることだけは、我慢が出来ないので、風をひいたといって、そのまま寝室へ入った。
その後でベルタは、伯爵に耳打ちをした。
「あの人はどうかしていますわ。」
「それはそうでしょう、一日雨の中を歩いて来たんだから。」
「眼付が変っています。今までにない眼付よ。」
「そんなことはない。至って快活だったじゃありませんか。」
「いいえ、あの人はもう感付いたようです。いつも外から帰ると、わたしを抱擁するのに、今日に限ってそれをしなかったのよ。」
これはソオブルジイの大きな失策だった。彼もそこに気づかぬではなかったが、その際ベルタを抱擁するということは、どうしても出来かねた。
やがてベルタと伯爵が晩餐を終えて、寝室へ行ってみると、ソオブルジイは夜具をかぶって微かにふるえていた。額が燃えるように熱(ほて)って、咽喉が渇いて、眼は異常にぎらぎらしていた。
間もなく高熱を発して、意識が朦朧となった。早速医師を招(よ)んだが、医師もこの容体では請合(うけあ)いかねるといって、首をかしげていた。
翌(あ)くる日は一層わるくなった。
ベルタと伯爵は、熱心に看護をした。どういう考えからそうしたかわからないが、兎に角懸命に、夜昼(よるひる)病床に附きっきりで看病した。
病人は熱のために夢中になって、しきりに跳ね起きるので、それを鎮めるに骨が折れた。窓から身を投げようとしたことも度々だった。三日目からは、妙に寝室を嫌いだして、
「この室(へや)は厭だ。他の室につれて行けつれて行け。」
と呶鳴(どな)った。医師に相談すると、こんなときは病人の機嫌を損じてはいけないというので、階下の狭い室へ移した。そこは庭へ開けていて、気持のいい室だったせいか、病勢も次第に衰えて行った。
それから何日か経った或る晩、初めてはっきりした意識で眼をあけると、ベルタと伯爵が相変らず病室に附添(つきそ)うていた。
「貴郎(あなた)、御気分はどう?」
と、ベルタは彼の額にやさしく接吻をした。
「もういい、大変楽になった。」
「よくよく思い知ったでしょう。無茶をするとこんなものよ。」
「寝てから何日になるかな。」
「恰度(ちょうど)八日目です。」
「僕はどうして、此室(ここ)にいるんだい?」
「貴郎が、此室へつれて行けといって肯(き)かないんですもの。」
そのとき伯爵が枕頭(まくらもと)へやって来て、
「君は二階が厭だといって暴れるので、弱ったよ。此室へつれて来るまでは始末に行かなかった。」
「済まなかったね。」
「疲れると可(い)けないから、眠(ね)たまえ。よく眠(ねむ)れば、明日(あす)はぐっと快(よ)くなるだろう。僕も一寝入りして朝の四時に奥さんと交代だ。」
伯爵は自分の室の方へ行った。ベルタは良人に何か飲みものをすすめてから、椅子にかえって、
「伯爵は何て親切な方(かた)でしょうね。」
と独りごとのようにいったが、ソオブルジイはこの皮肉な讃(ほ)め詞(ことば)には、挨拶の仕様がなかった。彼は眼をつぶって、眠(ね)たふりをしながら、例の手紙のことを考えていた。
あの手紙は注意ぶかくたたんで、チョッキの右の衣嚢(かくし)へ蔵(しま)った筈だが、あれがひょっとしてベルタの眼に触れたら大変だ。折角の復讐計画も水の泡になる。そうならぬ前(さき)にあの手紙を他の場所へ匿(かく)してしまいたい。それには、チョッキがおいてある二階の寝室へゆかねばならぬが、どうしたら見つからずにゆけるだろう――そんなことを懸命に考えていると、ベルタが静かに枕頭(まくらもと)へ来て、
「貴郎(あなた)、貴郎。」
低声(こごえ)で呼ぶ。眼をつぶって眠(ね)たふりをしていると、彼女は抜き足さし足で、そっと出て行った。
「彼奴(あいつ)のところへ行くんだな!」
そう思うと、尚(な)おさら早くかの手紙を手に入れようと焦(あせ)る。
彼は体の衰弱していることも忘れて、寝衣(ねまき)のままスリッパを突っかけて、廊下へ忍び出ると、暗がりのなかを手さぐりで戸を開けて、庭へおりた。そこから裏梯子を昇って二階の室へ行こうとするのである。
庭には雪が降りつもり、寒風は氷のへばりついた樹々(きぎ)の枝を吹きまくっていた。前(まえ)二階の方を見ると真暗(まっくら)で、たった一所(ひとところ)灯火(あかり)の射しているのは、伯爵の室だけで、そこには煖炉の火も盛んに燃えているらしかった。窓布(カーテン)に映っている伯爵の顔が、くっきりと影絵のように見えていた。
他人(ひと)の邸へ来て、いかにも処(ところ)を得たように納まっている男――しかもこれほどの厚遇に対して、あべこべに忍びがたい侮辱を彼に与えたその男の影を、ソオブルジイはつくづく打ち眺めていると、突然、その影は物に驚いたように起(た)ちあがった。と思うと、もう一つの影がそっと寄添(よりそ)うように近づいて行った。それはベルタにちがいなかった。
ソオブルジイは、ぞっとして立ちすくんだ。手紙を見た時からすでに察したとはいうものの、心の底には、万一の空頼(そらだの)みがないでもなかった。しかし今は、現実間違いのない証拠を見せつけられたのだ。もう何も要らぬ。確実に、最も恐ろしい懲罰を彼等に加えてやるばかりだ。
暫くして、ベルタが階段を降りて来る気配に、彼ははっとした。もう手紙を取りに行く余裕はなし、それよりもここで見附かっては大変と、慌てて廊下へ引きかえし、戸口の錠をかけることも忘れて、病室へ帰って、床(とこ)へもぐりこんだ。雪がついて濡れたスリッパを、蒲団の下へ押しかくした。そして眠(ね)たふりをしていた。
直(じき)にベルタが帰って来たが、良人がよく眠(ねむ)っているらしいのに、ほっと安心して、煖炉のそばに坐って、また刺繍を膝に取りあげた。と、間もなく伯爵も入って来た。彼は忘れて行った新聞を取りに来たのであったが、何だか不安そうな顔をして、
「奥さん、あなたは今夜庭の方へ出ましたか。」と低声(こごえ)でベルタに訊いた。
「いいえ。」
「召使達はみな寝たでしょうな。」
「ええ、どうして?」
「僕が二階へ行ってから、誰か庭へ出たらしい。」
ベルタも怪訝な顔をしたが、
「そんな筈はないんですがね。」
「いや確かに、廊下の戸口を出入りした形跡があります。その証拠に、靴についた雪が廊下に溶けています。」
「変ですわね。」
二人はすぐにランプをもって廊下へ行ってみると、成るほど、ところどころに小さな水あとがついていた。
「これは、ずっと前からあったんでしょう。」
「いや、一時間前には、こんなものはなかった。そら御覧なさい、ここにまだ溶けない雪が落ちている。」
「多分下男が庭に出たんでしょう。」
「下男なら、入るときに錠をかける筈です。」と伯爵がいった。「僕が夕方に此戸(ここ)を締めて、たしかに錠をかけておいたんですがね。」
「変ね。」
「まったく怪しい。それに、この水あとは、客間の向うまでは行っていない。」
二人は不安そうに、顔を見合せた。
「だけど、まさかあの人がね。」とベルタの声。「わたしが帰ったときも、ぐっすり眠っていたんですからね。」
ソオブルジイは、寝床の中でこの話し声を聞きながら、
「失敗(しま)った。寝衣(ねまき)やスリッパを見られたら、すぐに発覚だ。」
とはらはらした。しかし幸いにも、彼等はこの簡単な方法に気づかなかった。
その夜半(よなか)から、病人は急に悪くなった。翌(あ)くる朝に大急ぎで巴里(パリ)から医師を迎えたが、そのドクトルは容体を診(み)ると、自宅へあて、二三日帰れぬという電報をうった。
苦悶がはげしくて、ときどき途方もなく異(ちが)った症状が現われるので、ドクトルも殆(ほと)んど当惑したようであった。
『イソップ寓話』より。 ― 2022年06月30日
『伊曾保物語』より「蛙と牛との事」
ある川の辺に、牛一疋、こゝかしこ、餌食を求め行き侍りしに、蛙、これを見て心に思ふやう、「我が身を膨しなば、あの牛の勢ほどになりなん」と思ひて、きつと伸び上がり、身の皮を膨らして、子どもに向つて、「今は、この牛の勢ほどなりや」と尋ねければ、子供、嘲笑つて云はく、「未だその位なし。憚りながら、御辺は牛に似給はず。正しく蕪の形にこそ見え侍りけれ。御皮の縮みたる所侍る程に、今少し膨れさせ給はゞ、あの牛の勢になり給ひなん」と申しければ、蛙答へて申さく、「それこそ、やすき事なれ」といひて、力及び、「えいやつ」と身を膨らしければ、思ひのほかに、皮、俄に破れて腸出で、空しくなりにけり。
その如く、及ばざる才智位を望む人は、望む事を得ず、終に己れが思ひ故に、我が身をほろぼす事あるなり。
・蛙(かひる)と牛の話 渡辺温訳
或日牛沢畔(さはべ)に出て草を食(は)み。あちこちあるきけるとき。蛙児(こがひる)の一群(ひとむれ)になつてゐるのを思はず踏潰すと。其内の一疋が危き場を逃れ。蛙母(はゝ)の許へ注進して。「ヤア阿嬢(おつかさん)。それはマア四足(よツつあし)のある大な獣(けだもの)だが。それが同気(みんな)をふみつぶしました」といへば。蛙母(はゝがひる)驚いて。「ヱ。大きかつたか。それはどんなに大かつた」といひながら。自分が満気(ふく)れあがり。「こんなに大かつたか」ととへば。こかひる「それ処じやァ御坐りません。もつと大(おほき)う御坐りました。はゝ「ヨシ。夫はそんなに大かつたか」といひながら、ぐつと興張(ふくれ)あがると。蛙児(こがひる)が仰(あほ)むいて見て。「イヤァ阿嬢(おつかさん)。中々半分にも及(おつつき)ませぬ」といふゆゑ。蛙母(はゝがひる)「夫じやァ此様(かう)か」と勢(せい)一ぱい息張(いきば)ると。腹が裂(やぶ)れて死(しに)けるとぞ
己(おの)が及びもせぬ巨大(たいそう)な事を仕様(しやう)とすると、多くは自滅するものじや
・同じ原話の別ヴァージョン。プレイヤーが異なるので「alternate take」とは言わない。