奈良の庭竈 井原西鶴2022年06月02日

『世間胸算用』より「奈良の庭竈(にはかまど)」 井原西鶴

 昔から今に同じ顔を見るこそ可笑しき世の中、此(この)二十四五年も奈良通(がよ)ひする肴屋(さかなや)ありけるが、行く度に唯だ一色(ひといろ)に極(きは)めて、蛸(たこ)より外に売る事無し。後には人も蛸売(たこうり)の八助とて、見知らぬ人も無く、それぞれに商ひの道付きて、ゆるりと三人口(さんにんぐち)を過ぎける。されども大晦日(おほつごもり)に銭五百持つて、終(つひ)に年を取りたる事無し。口喰うて一盃に雑煮祝うた分なり。此の男常々世渡りに油断せず、一人ある母親の頼まれて、火桶買うて来るにも、早や間銭(あひせん)取りて唯は通さず。まして他人の事には、産婆呼んで来て遣る烈しき時も、茶漬飯を喰はずには行かぬ者なり。如何に欲の世に住めばとて、念仏講仲間の布に利を取るなどは、寔(まこと)に死ねがな目くじろの男なり。是程にしても彼(あ)のざまなれば、天の咎めの道理ぞかし。抑も奈良に通ふ時より、今に蛸の足は日本国が八本に極まりたるものを、一本づゝ切つて、足七本にして売れども、誰れか是れに気の附かぬ事にて売りける。其足ばかりを松原の煮売屋(にうりや)、定まつて買ふ者あり。さりとは恐ろしの人心(ひとごゝろ)ぞかし。
 者には七十五度(たび)とて、必ず現はるゝ時節あり。過ぎつる年の暮に、足二本づゝ切つて、六本にして忙がし紛れに売りけるに、是れも穿鑿する人無く、売つて通りけるに、手貝(てがい)の町の中程に、表に菱垣したる内より呼び込み、蛸二盃(はい)売つて出る時、法躰(ほつたい)したる親仁(おやぢ)ぢろりと見て、碁を打ちさして立ち出で、何とやら裾(すそ)の枯れたる蛸と、足の足らぬを吟味し出し、是れは何処の海より揚がる蛸ぞ、足六本づゝは神代(じんだい)このかた何の書にも見えず、不便(ふびん)や今まで奈良中の者が、一盃喰うたで有らう、魚屋顔見知つたと云へば、此方(こなた)の様(やう)なる大晦日(おほつごもり)に、碁を打つてゐる所では売らぬと、云分してぞ帰りける。其後誰が沙汰するとも無く世間に知れて、さる程に狭い処は隅から隅まで、足切り八助と云ひ触らして、一生の身過(みすぎ)の止まる事、是れ己れが心からなり。(後略)



「羊頭狗肉」では無いが「産地偽装」よりタチが悪いと思う。
昨今、原料不足や価格高騰で、已むを得ず内容量を減らしたり価格を上げたりしなければならない事態になっているようだ。内容量は明記されている(筈)だから詐欺には当らないが、製造者は無念だろう。特に「1コイン商品」の場合。

メデューサの首 32022年06月03日

(三)難題

 セリフォスへ帰って見ると、留守中に、母はポリデクテスの宮中で、奴隷として様々な苦役(くえき)をさせられていた。ペルセウスは母を捜して留守中の様子を聞くと、ダナエは涙を流しながら、王が結婚を迫った事、自分が王の意に従わなかったので、奴隷にして、あらゆる迫害を加えた事を話して、身体(からだ)の傷まで出して見せた。それを見たり聞いたりするにつけても、ペルセウスは、直ぐに王宮へ跳び込んで、一太刀(ひとたち)王に恨みを報いたいと思ったが、母に止められて、暫く時期を待つ事にした。
 すると或る日、王は宴会を開いて、島中の者を招待した。その日招待を受けた者は、銘々に自分の身分に相当した贈物を持って行く例になっていたが、ペルセウスは何も持って行く物が無いので、王宮の前まで来て、自分一人贈物を持たないのを見ると、きまりが悪くなって、門を入りかねて、乞食のように立っていた。平生(ふだん)からペルセウスを嫉(ねた)んでいた島の青年らは、この様子を見ると、彼の周囲を取り巻いて、口々に嘲弄する。
「お前は何時(いつ)も人間の子で無いと言って威張るが、今日は一つ神様の贈物を拝見したいものだ!」
 すると王もそこへ来て、みんなと一処(いっしょ)にペルセウスを愚弄(なぶ)り出した。
「さあ、神様の息子が持って来た贈物を、おれにも見せて貰いたいね!」こう言って、王はだぶだぶした頬と、締りのない口を震わしながら、面白そうに笑った。
 その時ペルセウスは、屹(きっ)と顔を上げて、ポリデクテスの顔を睨んだが、誰の眼にも神の子と思われるような、気高い様子と、力のある声でこう言った。
「おお、神の贈物を見せてやろう。本当に神の贈物を見せてやる。俺の贈物はメデューサの首だ!」
 これを聞くと、王の口からも、その周囲に立っていた人々の口からも、一度に笑い声が出かかったが、ペルセウスが王宮へ背を向けて、大跨(おおまた)に歩き出した姿を見ると、急に出かかった笑いを飲み込んでしまった。
 その時ペルセウスは、パラス・アテーネが、天の霊火(れいか)を自分の胸へ吹き込んだような気がして、心は功名の念で燃え立って、最後の血の一滴を濺(そそ)ぐまでも、この事業を続けようと決心した。
 ペルセウスは島人の無礼を心の底に憤りながら、王宮を後にして、海岸へ下って来た。彼の心は、復讐の念と、功名の火で燃えていたが、眼の前に拡がった大海の面(おもて)は、底知れぬ神秘の色を湛(たた)えて、打寄せる波は、人の心を和らげるような優しい囁きを洩らしていた。
「パラス・アテーネが来て呉れれば――あの夢が真実なら――」と彼は胸の中で考えた。
 世の中の青年と同じように、ペルセウスも華々しい功名を夢み、人のしないような冒険に胸を躍らす青年であった。
「パラス・アテーネよ、どうぞ此処へ来て、私の夢を事実にして下さい!」
 ペルセウスは砂の上へ跪(ひざまず)いて、一心に祈った。
 彼の祈りは答えられた。
 藍を溶かしたような空の果てに、一点の銀色の雲が現われた。見るうちに雲は次第に大きくなり、刻々に近づいて来た。遂にその中から夢に見たとおりのパラス・アテーネの姿が現われて、懐かしい笑顔を彼に向けた。併し今度はアテーネだけでなく、その側(そば)に、翼のある沓(くつ)をはいた使神ヘルメスが立っていた。その時パラス・アテーネは、鏡のように研ぎすました銀の楯をペルセウスの手に渡して言った。
「メデューサを見ずに、只ここへ映った影を目当てに、一刀の下(もと)に切り落さなくてはいけない。そして首が落ちたら、大急ぎでこの楯に結び付けてある山羊の皮へ包んで、持っておいで。」
「ですが、どうしてこの海の上を越えたらいいでしょう?」とペルセウスが尋ねる。「ひと飛びにのして行けるような翼が欲しい。」
 するとヘルメスが、笑いながら進んで、ペルセウスの肩へ手を置いた。
「私のこの沓を貸して上げる。どんな海鳥でも、この沓を追い越すものはない。」
「もう一つ上げるものがある。」とアテーネが言った。「神の賜物として、この剣(けん)を佩(さ)げてお出で。」
 ペルセウスは神々の賜物(たまもの)を受けたが、まだ何か考えて、もじもじしていた。
「母に暇乞いをして行ってはいけませんか?」と彼は女神の顔を見て言った。「あなたにも、ヘルメスの神にも、ゼウスの大神にも、供え物をして行きたいのですが。」
 併しアテーネはそれを許さなかった。母の涙を見たら、張りつめた気が弛(ゆる)むだろう、又オリムポスの神々への供物(くもつ)としては、メデューサの首に越した物はないからと言うのであった。
 そこでペルセウスは、勇猛な若鷲(わかわし)のように、両手を拡げて、岩から飛び下りると、翼のある沓は、彼をのせたまま、北の国をさして、海の上を走って行った。

空に浮かぶ騎士 A・ビアス2022年06月04日

空に浮かぶ騎士

   1

アメリカ合衆国が北部と南部の二つにわれて、あの南北戦争がはじまった一八六一年の秋のことである。西ヴァージニアの山道(やまみち)ぞいにしげっているゲッケイジュにうずもれて、ひとりの兵士が横たわっていた。うつぶせになって、左の手に顔をおしつけたその姿は、死んでいるのかとうたがわれた。ただ、皮帯(かわおび)にとりつけた背中の弾薬(だんやく)ぶくろが、ゆるく拍子(ひょうし)をとって動いているので、生きているのだなと、わずかにうなずけるのだった。さしのべた右手は、ゆるく小銃をおさえている。この兵士は、重要な任務についていながら、ねむりこけているのである。見つけられたら、当然、銃殺(じゅうさつ)されなければならない。
 兵士がねむっている場所は、急斜面を南へのぼりきった道が、にわかに西へおれる。そのまがりかどにあたっていた。道は、そのまま三十メートルあまり山のいただきを走ってから、さらに南へまがって、森の中をうねりくだっていく。その二番目のまがりかどのところに、大きな、たいらな岩があって、北のほうへ、ぐっと頭をつきだしている。下は深い谷で、道はその谷からはいのぼってきているのである。岩は、高いがけに帽子をかぶせた形で、そのはずれから石を落とせば、谷にはえたマツのこずえまで三百メートル、まっすぐに落ちるわけだ。
 このあたりは、いたるところ森におおわれている。ただ谷底(たにそこ)の北よりに、ひととこ、自然の牧場のようになっている、せまい原があり、そこを小川がながれている。その原だけが、まわりの森よりは、みどりが、ひときわ、あざやかに見える。その向こうには、こちらがわと同じような高い大きながけが、ならび立っている。谷の地形は、すっかり山にかこいこまれていて、出口も入り口もないように思われる。
 かりに、この谷底へ、一師団(いちしだん)の兵力を追いこんだとすれば、これを兵糧(ひょうろう)ぜめにして屈服(くっぷく)させるためには、入り口をかためる五十人の兵隊があれば、じゅうぶんであろう。ところが、そういう危険な場所の森の中に、現在、北軍(ほくぐん)の五個連隊(ごこれんたい)がかくれているのだ。全軍の将兵(しょうへい)は、いち日ひと晩の強行軍(きょうこうぐん)をつづけたあと、必要な休養をとっているところだ。日のくれぐれには、ふたたび立って、いま、たのみにならない歩哨(ほしょう)がねむっている山をのりこえ、およそ真夜中(まよなか)ごろに、向こうがわの谷にある、敵陣(てきじん)へなだれこもうというのだ。それまでに味方の行動をかんづかれたら、なにもかも終わりだ。
 それなのに、だいじな歩哨(ほしょう)はねむりこけているではないか。

   2

 ねむっている歩哨(ほしょう)はカータ・ドルースというヴァージニア[註:南軍の州]の青年だった。かれはゆたかな農家のひとりむすこで、家は、ここから、ほんの何(なん)キロかはなれたところにあるのだ。
 ある朝、カータは、朝めしの食卓(しょくたく)から立ちあがって、静かに、しかし、おもおもしくいった。
「おとうさん、北軍の連隊がグラフトンに到着(とうちゃく)しました。私はそれに参加しようと思います。」
 父親はその威厳(いげん)にみちた顔をあげて、しばらく、無言で、むすこをながめたあとで、こたえた。
「行くがいい、カータ、それが正しいことだと思うなら。そしてどんなばあいにも、自分の任務だと信ずることはやりとげてもらいたい。ヴァージニアにとっては、おまえは、むほん人(にん)になる。だが、この父にも、それをとめる権利はない。戦争がすむまで、ふたりとも生きていられたら、その時に、このことはよく相談することにしよう。ところで、おかあさんの容態(ようだい)は、おまえも医者からきいているとおり、いま、たいへん悪いのだ。せいぜいもつとしても、ここ何週間というところだろう。だがその何週間かはとうとい時間だ。よけいな心配はさせたくない。なんにも話さずにいくほうが、かえってよかろう。」
 カータ・ドルースは、父にむかって、うやうやしく、頭をさげて、自分の生まれた家を立ちさっていった。父は、深い心の悲しみをおしかくして、りっぱな態度で、それを見おくったのであった。
 良心と勇気によって、また命をおしまないだいたんなおこないによって、カータ・ドルースは、すぐに、戦友や上官にみとめられるようになった。それだからこそ、かれは、いまこうして、最前線のこの危険な歩哨(ほしょう)にえらばれたのだった。それに、かれがこのへんの地理にあかるいことも、この任務につごうがいいと考えられたのだった。だが、さすがのカータも、はげしい疲労(ひろう)には勝つことができず、とうとう、ねむりこんでしまったのである。

   3

 あたりは静まりかえっている。おそい午後の空気は、ものうくよどんでいる。どうしたはずみか、その静けさの中で、カータのまぶたが、わずかにひらいた。それから、かれは、そっと顔をあげて、むらだつゲッゲイジュのほそい幹(みき)のあいだから、向こうの空を見つめた。右手は、自分でも知らずに、銃をつかんでいた。
 はじめに起こったのは、美しいなあという気もちだった。おもおもしい威厳をそなえた騎馬像(きばぞう)が、れいのたいらな岩におおわれた、とてつもなく大きながけを台座(だいざ)にして、その突き出た岩のはずれに、大空を背景(はいけい)にして、くっきりと、えがきだされているのだ。人間の像が、馬の像の上に、まっすぐな軍人らしい姿勢(しせい)で、座をしめている。それでいて、大理石にきざんだギリシァの神像のような、ゆったりしたおもむきもそなえている。灰色(はいいろ)の軍服が、うしろの空の色と、じつに、うまく調和している。日光をぎゃくにうけている金具(かなぐ)も光らず、色のけじめもやわらげて、影の中に沈んで見える。馬のからだにも、白く光っているところは、ひとつもない。くらの前輪に、右手でかるくささえられている騎兵銃は、遠くはなれているために、じっさいよりは、また、いちだんと小さく見えた。馬上の人の顔は、少し左をむいているので、こちらから見えるのは、こめかみとあごひげの輪郭(りんかく)だけにすぎなかった。かれは谷底(たにそこ)を見おろしている。ぜんたいが空に浮かんでいるというせいもあり、とつぜん敵が近くへあらわれたのをおそれるカータの気もちのせいもあったのだろうが、その騎馬像は、何か、どうどうとして、むやみに大きく思われたのであった。
 ほんのちょっとのあいだ、カータは、自分がねむっているまに、戦争がすんでしまったのではあるまいかと、うたぐった。そして、いま自分がながめているのは、えらいてがらを立てた将軍(しょうぐん)の銅像かもしれないという気がした。だが、そのとき、馬が、ちょっと動いた。そして、かれの夢(ゆめ)のような気もちを、一度にふきはらってしまった。かれは、みかたの軍隊が、いま、どんな危険にさらされているか、はっきり、それをさとったのである。
 カータは、注意ぶかく銃身をしげみのあいだからつきだして、台尻(だいじり)を、ぴたりと肩につけた。銃口は、まさしく、馬上の人の心臓をねらっていた。もう、引きがねを引きさえすれば、カータ・ドルーズの任務は、とげられるのだ。そのしゅんかん、馬上の人は、ふいに、このかくれた敵兵のほうに顔をむけて、じっとながめた。カータは、自分の顔を、自分の目を、いや、自分の心臓を、のぞきこまれたような気がした。
 戦争で敵をころすということは、これほども恐ろしいことだったのであろうか。しかも、その敵は、自分にとっても、また戦友たちにとっても、命にかかわる秘密をさぐり出してしまっているかもしれないのだ。カータ・ドルーズの顔は青ざめていた。手足(てあし)はふるえ、空中の騎馬像は、黒いかたまりになって、目の前で浮いたり沈んだりした。
 銃身をささえた手はだらりとさがり、もたげた顔も、がくりと落ちた。さすが勇気のさかんな若い兵士も、あんまり気もちをはりつめすぎて、あぶなく気をうしないかけたのだった。
 だが、それは、長いあいだではなかった。カータは、しだいに気力をとりもどしはじめた。かれは、ふたたび、顔をあげて、銃をしっかりとかまえた。指は引きがねをさぐっている。心も目もすみきっていた。敵をいけどりにすることはのぞめない。敵に気(け)どられたらさいご、敵は馬を自分の陣地へ飛ばして、このできごとを報告するにきまっている。カータがなすべきことははっきりしていた。敵がなんにも知らぬまに撃ちころすことだ。だが、待てよ。馬上の人は、じつは、まだ、みかたのことはなんにも知らずにいるのかもわからない。ただあそこに馬を立てて、あたりの風景に見とれているだけなのかもしれない。助けてやれば、そのまま、もときた方角へ馬をかえして、引きあげていくだけのことかもしれない。すくなくとも、その引きあげるときのようすを見れば、敵がみかたのひそんでいることに気がついたか、気がつかなかったかを判断することはできるだろう。カータは、頭をねじって、遠く谷底(たにそこ)をのぞいて見た。みどり色の草原を、一隊の兵と馬とが、長い、うねった線をえがいて行進している。おろかな部隊長のひとりが、何百という峰(みね)に見おろされた、むきだしの原っぱを通って、馬を水飲みにつれていくことをゆるしたとみえる。
 カータ・ドルースは、いそいで、目を谷底(たにそこ)から岩の上の人と馬にうつした。もう、ゆうよはできない。彼は、銃をかまえて、静かにねらいをさだめた。だが、こんどかれがねらっているのは、馬であった。かれの頭の中で、家を出るとき父に言われたことばがきこえていた。「どんなばあいにも、自分の任務だと信ずることはやりとげてもらいたい。」かれはすっかり静かな気分になっていた。
「あわてるなよ。おちついて――。」かれは自分に言いきかせた。ねらいはさだまった。かれは発砲した。

   4

 ちょうどそのとき、北軍の将校がひとり、地形偵察(ちけいていさつ)のために、マツ林のはずれを歩いてきた。五百メートルばかり向こうに、みどり色のマツのこずえをつきぬけて、大きながけがそそり立っている。見あげると、頭のしんがクラクラッとするほど高い。――と思ったとたんに、将校は異様な光景を見た。馬上の人が、そのままの姿勢で、谷へむかって、空中を乗りおろしてくるではないか。
 岸は、しっかりとくらに腰をつけて、軍人らしく、まっすぐに上体をたもっていた。ひかえたたづなはピンと張っている。ただ、帽子だけは、風にあおられて飛びさった。そして頭からは、長い髪の毛が、空にむかって流れている。たてがみを雲のようになびかせた馬のからだは、大地を走るときのとおり水平である。四つのひづめは、猛烈な勢いで速(はや)がけをしているときのように動いていたが、見ているうちに、そろって前のほうに突きだされ、いま、地上へおり立とうとするときの姿勢になった。
 空に浮かぶ騎士! 将校はまぼろしを見ている思いだった。感情がたかぶって、走ろうとしても、足がいうことをきかなかった。かれは、ほうりだされるようにころんだ。そして、それと同時に、一発の銃声をきいた。ただ一発、そして、あとは、しんと、静まりかえってしまった。
 将校は立ちあがった。しかし、ふるえは、まだ、とまらない。そのうちに、すりむいたむこうずねが痛んできた。そして、その痛みのおかげで、やっと、われを取りかえすことができた。そこで、がけから二百メートルばかりはなれたところまで、かけつけてみた。そのへんに、馬と人とは落ちたにちがいないと思ったからである。しかし、むろん、かれは、そこに何ものも発見することはできなかった。空中の騎士の美しさにまどわされて、かれは、それが、まっすぐ下へむかって落ちていったのだということに思いいたらなかったのである。馬と人とは、がけの真下(ました)に横たわっているはずだ。将校は、一時間ののちに、陣営(じんえい)へ帰った。
 この将校はかしこい人だったから、たとえ、ほんとうのことでも、人が信じてくれそうもないことは、だまっているにこしたことはないと考えた。だから、自分の見てきたことを、だれにも話さなかった。

   5

 発砲したあと、歩哨(ほしょう)カータ・ドルースは、ふたたび、銃にたまをこめて、見はりをつづけた。十分(じっぷん)とたたないうちに、みかたの軍曹(ぐんそう)が、四つんばいになって、かれのそばへしのびよった。カータはふりむかなかった。伏せたままの姿勢で、身じろぎ一つしなかった。
「発砲したのか。」
 軍曹(ぐんそう)は小声(こごえ)できいた。
「はい。」
「何を撃ったんだ。」
「馬です。あそこの――ずっと向こうの岩の上に立っていたんです。もう見えないでしょう。がけから、ころがり落ちたんです。」
 カータの顔には血の気がなかった。だが、そのほかにかわったようすは見えない。返事をしてしまうと、かれは、顔をそむけて、口をつぐんだ。軍曹(ぐんそう)には、なんのことか、さっぱりわからなかった。
「おい、ドルース、はっきりしたことを言うのだ。命令だ。返事をしろ、馬にはだれか乗っていたのか。」
「はい、乗っていました。」
「何者(なにもの)だ、乗っていたのは。」
 ドルースは、もういちど、軍曹(ぐんそう)のほうを向いて、それから、ひとことずつ、かみしめるように言った。
「わたくしの父です。」軍曹(ぐんそう)のほうを向いて、それから、ひとことずつ、かみしめるように言った。
「わたくしの父です。」軍曹(ぐんそう)は立ちあがって、歩み去った。「なんということだ!」と、かれはつぶやいた。


・『空に浮かぶ騎士 ―海外少年小説選―』より。何故この作品が「少年小説選」にセレクトされたかは不明。
原作は、アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce、1842年-1914年頃?)『In the Midst of Life(Tales of Soldiers and Civilians)』(1982年)より「A Horseman in the Sky」。
ビアスを初めて知ったのは、偶々聞いていたNHK-FMの朗読番組だった。たぶん中学生の時。作品は『One of the Missing』、訳題は『行方不明の兵士(男?)』みたいな記憶がある、ぼんやりとだが。
日下武史氏による抑制されたトーンの朗読が実に印象的だった。FM東京(当時)のラジオ・ドラマ『あいつ』も好きだった。

ちなみに、その頃のFM局は「NHK」と「民放局」の二つしか無かった。
……その割に、FM誌は多かったが。

第百五段2022年06月04日

二階氏と安倍氏が会談し、現政権を支える事で一致したそうだ。

露骨な「疑似院政ごっこ」って奴か。
誰が「puppet」で、誰が「puppeteer(s)」であるか、見え見えである。

・余談。
「納税」は国民の義務であり、「生活保護の受給」は国民の権利である。
義務を果すのも権利を行使するのも当然であり、一々騒ぐ必要はない。
納税が嫌なら「tax haven」とか言う土地へ引っ越しゃ好いだけである。
…昨今、やや旨味が減っているそうだが。

妻を尋ねて幽界まで 22022年06月05日

(二)歓喜の絶頂から絶望の底へ

 オルフェウスは終(つい)に冥府の王ハーデスと女王ペルセフォネが列(なら)んだ玉座の前へ来た。その時ペルセフォネの心は、この不思議の楽(がく)の音色(ねいろ)に誘われて、あの藍を溶いたようなエーゲ海に浮んだ美しいシチリヤの花園で、楽しく送った遠い昔の日に返って行った。春の花の色と香りとが心に浮んだ。そして冷たいハーデスの手が、天にも地にも、ただ一人の母から、彼女(かれ)を奪って行ったあの時の悲しい思いが、昨日(きのう)の事のように、まざまざと胸に湧き上がった。彼女(かれ)は無言で、夫の側(そば)に坐っているうちに、目の底には、いつか涙がにじんで来た。
 顫(ふる)えを帯びた歎息の音色(ねいろ)を永く引いて、糸の音(ね)がぴったりと止(や)んだ。その時オルフェウスはハーデスに向って、その願いを訴えた。エウリディケを返して貰いたい、彼女(かれ)は自分の生命(いのち)である、彼女を伴って、再び日の光の照らす処へ帰ることを許して貰いたい――というのが彼の願いであった。
 ハーデスとペルセフォネとは、互いに顔を見合せる迄もなく、異口同音にその願いを許した。エウリディケは再び夫の手に戻されることになった。併しそれには一つの条件が付いていた。それは日光の中へ出る迄は、後(あと)を振返ってはならないということであった。オルフェウスは異議なくその条件に従った。そしてエウリディケを呼び出す声を聞いた時には、嬉しさに胸を躍らして、いそいそと元(もと)来た道を歩き出した。
 オルフェウスの後からは、その愛する妻の、軽い、小さな足音がついて来た。彼は歩きながら、折々立ち止まって、その足音を聞いた。その度に彼の胸は歓喜の波で脹(ふく)れ上がった。
「妻は後にいる――直ぐ後からついて来る。二人の幸福の日は終らなかった。地上にいた間に言い残した愛の言葉を、今度こそは残らず言ってしまおう。」
 こう思ってオルフェウスが進んで行く後(うしろ)からは、跛足(びっこ)を引き引き、小さな足音が絶えず続いて来た。彼は彼女(かれ)が直ぐ後にいるような気がした。――手を伸ばしたら触る位に、首を傾げたら息がかかる位に。
 そのうちに、何かのはずみで、ふと一つの恐ろしい疑いが起って来た。ハーデスが若(も)し自分を欺したのだったら、どうしよう? 後からついて来る足音が、若しかエウリディケではなくて、見ず知らずの幽霊だったら、どうしよう? やがて急な坂道へかかって、かすかに遠くの方に、地上の光が見えはじめた時に、この疑惑が、恐ろしい力を以て彼の胸を圧(あっ)して来た。後の足音が今にも止まりそうな気がした。そして地上へ出た時には、自分はまた寂寞(せきばく)の中へ取り残されるのではないか、というような気がしてならなかった。疑いは一歩毎(ひとあしごと)に彼の心に迫って来た。
 その時二人はもう地上への出口に近づいていた。二人を包んでいる闇は最早(もはや)夜の暗さではなくて、黄昏の色であった。そしてかすかに前の方からさし込んで来る地上の光は、二人の影を今来た道の方へ投げているようにさえ想像された。
 この時オルフェウスは最早どうしても待ち切れなくなった。此処まで来ればもう大丈夫だ、とさえ思った。そう思うと共に、彼は急に後(うしろ)を振り返った。そして後(あと)について来る妻の姿を見た。けれどもそれはほんのただ一目であった。二人は腕を伸ばして互いにかき抱(いだ)こうとしたが、その手はただ空(くう)をつかむばかりであった。その瞬間に、エウリディケは再び闇の中へ引き戻されて行った。彼女(かれ)は、自分を慕って、この怖ろしい下界の闇を辿って来た夫の切なる心を思うにつけても、今(いま)早まって後(うしろ)を振り返った夫の過失(あやまち)を、どうしても責める気にはなれなかった。
「さよなら!」
と言った彼女(かれ)の声は、絶望の響きにふるえていた。
 オルフェウスは狂気のように追い縋(すが)って、引き戻そうとしたが、最早どうすることも出来なかった。彼は闇の中を流れるアケロン河の岸まで行って、今丁度船を出そうとする渡し守のカロンに向って、その船へ乗せて呉れと哀願したが、カロンは一言(いちごん)の下(もと)にはねつけた。
「お前なぞを乗せる場所はない。この河を渡った者は、もう二度と帰ることはない。」
 こう言って、カロンはエウリディケを乗せたまま、アケロン河の黒い流れを横ぎって、漕いで行ってしまった。
 七日七夜(なぬかななよ)の間、オルフェウスは、若しやカロンの心が解けることもあろうかと思って、河の岸に立っていたが、終(つい)に絶望して、とぼとぼとトラキヤの森の奥へ帰って来た。
 トラキヤの国では、木も、岩も、鳥も、獣(けもの)も、悉くオルフェウスの友であった。彼が竪琴を取って弾き出した時、是等の旧友は一斉に身を震わして、その悲しい糸の音色(ねいろ)に感動した。それからは昼となく、夜となく、日の光も通らない森の茂みをさまよいながら、オルフェウスは心の悲しみを、琴の音色に洩らしていた。その間に猛獣は彼の足元へ忍び寄って、悲しそうな目付で、そっと彼の顔を見上げた。楽しそうに囀(さえず)っていたさまざまの鳥は、ぱったりと歌を止(や)めた。そして林の木(こ)の葉をそよがせながら、梢(こずえ)をかすめて吹いて通る風の声は、彼の曲に調子を合せて、「エウリディケ! エウリディケ!」とむせんで行った。