河畔の悲劇 5 ― 2022年05月10日
五、止まった時計
ルコックは真先(まっさき)に、階段の下の点々(てんてん)たる血痕を見ると、
「あッ、これは酷(ひど)い!」びっくりして叫んだ。「大抵(たいてい)の賊は、沢山の血を残すことを嫌って、中には拭き取る奴(やつ)さえあるんですがね。」
階段を昇りきって、二階の居間へ入ると、室(へや)の中央(まんなか)に突立(つった)って、その取散(とりち)らかった有様を眺めていたが、
「莫迦(ばか)な奴等(やつら)だ。」と吐きだすようにいった。「物盗(ものとり)が目的で人殺しをやって、その上、こんなにあらゆる器物を打破(ぶちこわ)すとは、なんて乱暴だろう。器用な賊は、どんな錠前でも合鍵で開けるものだが、何て拙(まず)いんだろう――」
いいかけたが、ふと驚いた風(ふう)で、
「はてナ、左様(そう)ばかりもいえない――」
彼は蹲(しゃが)んで、厚い絨毯の上に茶碗の破片(かけら)が散らばっているあたりを、掌(てのひら)で撫(な)で廻しながら、
「じっとりと濡れている。してみると、この茶碗が破(こわ)れたときは、お茶を飲みきらないうちであったのか、それとも――」
「急須(きゅうす)に残ったお茶が後でこぼれたかも知れない。」
とプランタさんが注意した。
「そんなこともあります。だから、この湿りによって兇行の時刻をきめるわけには行きません。」
「それは時計の止(とま)った時刻が、一等正確でしょう。」
町長がいうと、プランタさんは、
「その時計も変ですね。三時二十分のところで止っているが、伯爵夫人の屍体を見ると、きちんと服を着たままだし、第一、三時過ぎに茶を飲むということも、怪しいじゃありませんか。」
「私も実はそれを考えたのです。その点から判断すると、この犯人は満更(まんざら)莫迦でもないらしいが――しかしお待ちなさい。」
ルコックはそういいながら、その置時計をそうっと拾いあげて、暖炉棚(だんろだな)の上に直した。針は依然として三時二十分を示している。
彼は注意ぶかく上蓋(うわぶた)をあけて、長針を徐(しず)かに三時半のところへ廻したとき、時計はぼんぼんと鳴りだした。しかも――十一時を打(う)ったではないか!
「これです。」ルコックは勝ち誇ったようにいった。「これが正確な時刻です。」
この簡単な発見に、皆がアッといった。不思議にも、こんな無雑作(むぞうさ)な試験法を、誰も思いついた者がなかったのである。
ルコックは、医者が患者を診る時のような注意ぶかさで、更にその長針を先へすすめると、時計は十一時半から、十二時、十二時半、一時と、順々に時を報じた。
彼はつかつかと判事の前へ行って、
「判事殿、お判りになったでしょう。この兇行は十時半に行われたのです。」
「いいかね?」判事は念を押した。「時計は何でもないときに狂って止ることがあるものだが――」
「そんなら、他にも証拠があります。」
といいながら、ルコックは寝台にかぶさっていた帳(とばり)を除(の)けて、
「御覧なさい。かけ蒲団(ぶとん)ははね上がって、枕がころがっているけれど、人が寝たのではありません。誰かわざとこの上で転(ころ)げただけです。人が一寸(ちょっと)でも寝た蒲団は、必ず足の部分に隙(すき)が出来ているものだが、この蒲団は些(すこ)しも隙がなくて、何処へ手をやってもぴったりしています。それは、昨晩(ゆうべ)この寝台に人が寝なかった証拠なのです。」
「では、伯爵も昨晩寝床へ入らなかったんだな。」と判事がいった。
「寝てから殺されたとすれば、脱ぎすてた服がそこいらにあるべき筈ですからね。」
と、ドクトルも口を挟んだ。
「しかし伯爵のような頑丈な人を、起きているときに殺すということは、困難ですよ。」
といったのはプランタさんであった。
「それに、伯爵は武器を沢山持ってますからね。向うの室(へや)には、猟銃や、剣(けん)や、猟刀(りょうとう)が一杯に陳(なら)んでいます。」
その間(あいだ)に、ルコックは居間と寝室を行(い)きつ戻(もど)りつして、室内(しつない)のあらゆる場所を丹念に検(しら)べていた。そして、絨毯の上に落ちていた二三の鍵と、棚の上に投(ほう)りだしてあった一本のタオルを摘(つま)みあげて、それが貴重品ででもあるように、注意ぶかく片隅(かたすみ)においた。
こうした難事件になると、出張の役人達も、解釈が区々(まちまち)である。めいめいに意見はもっているけれど、迂闊にそれを云いださない。そしてお互いに何かアッといわせるような手がかりを発見しようとして、内心血眼(ちまなこ)になっているのである。
暫くして、プランタさんが、
「ルコック君、何か新発見がありましたか。」
と声をかけた。そのとき、寝台の向うの壁に懸けられた伯爵の大きな肖像画に向って、一心(いっしん)に見入(みい)っていたルコックは、此方(こっち)へ向き直って、
「新発見はありません。いや少くとも、私の考えを変えさせるものは見附かりません。実は私の推理はすっかり纏(まと)まっているのです。燭台(しょくだい)に蝋燭を立てるまでに漕ぎつけたので、あとはマッチ一本で今にもぱっと明るくなりそうですがね――」
「おいおい、法螺を吹きなさんな。」
ドミニ判事が刺々(とげとげ)しくたしなめた。けれどルコックは、それには取り合おうともしないで、極めて謙遜に、
「実は、私も断定を下(くだ)しかねているのです。この際、ドクトルに夫人の屍体を検案して頂けば、きっと得るところがありましょう。」
「俺(わし)もそれをお頼みしようと思っていたところだ。ドクトル、御苦労だが、一つやって下さい。」
「承知しました。」
ドクトルが戸口の方へ行きかけると、ルコックが一寸呼び止めて、
「どうぞ頭部(あたま)の傷を詳しく検(しら)べて下さい。あの傷がどうも腑に落ちない点があります。」
それでドクトルが階下(した)へ降りようとしているところへ、遽(あわた)だしく入って来たのは、町長邸の執事のバプチストであった。彼は役人達に一礼して、
「うちの主人は何処におりますでしょうか。」
恐る恐る訊ねると、
「何だい、バプチスト?」町長が呶鳴(どな)るような調子でいった。「客が来たのなら、今は忙(いそが)しくて手が離せないと云え。」
「お客様ではございません。実は、奥様が俄(にわ)かに御気分がおわるいので。」
「ナニ、家内が?」
町長は少し蒼くなった。
「はい、只今郵便がまいりまして、ちょうど客間にいらした奥様へ、私がその郵便をおとどけしましたが、其室(そこ)を退(さが)ると間もなく、アッという叫び声とともに、誰か、どしんと床に倒れる物音が聞えまして――」
執事は、主人の苦痛を少しでも引延(ひきの)ばしたいような調子で、緩(ゆっ)くり緩くり話している。
町長は急(せ)きこんで、
「それから何(ど)うした? 早くいえ。」
「はい、それで私はもう一度客間へ引返(ひっかえ)して見ますと、どうでしょう、奥様が仰(あお)のけに倒れていらっしゃるではありませんか。私は仰天して助けを呼びますと、女中や、料理女(コック)や、その他召使達が駈けつけまして、奥様を寝室の方へお運びしました。女中の話によれば、今の郵便はロオランス嬢様(じょうさま)からのお手紙で、それがひどく御心配の種になったらしいということでございます。」
執事はいかにも気の毒そうに、渋面(じゅうめん)つくって話したけれど、その眼付(めつき)は笑っているようであった。
町長はあまりの驚愕(おどろき)に、呆然(ぼうっ)となってしまった。
するとプランタさんは、つと執事の傍(そば)へよって、低声(こごえ)で訊ねた。
「ロオランス嬢からお手紙っていうと、嬢(じょう)さんは何処(どこ)ぞへ行っていらっしゃるんだね?」
「はい、今から一週間前に、一ケ月の予定で、伯母様の許(ところ)へお出かけになりましたので。」
「そうかい。で、奥様の御容態はどうだね?」
「およろしいようです。ただ、ひどく泣いていらっしゃいます。」
そのとき、町長は漸(やっ)と気を取り直して、
「おいバプチスト、私はやはり帰らにゃならん。お前も来い。」
と、執事と一緒に、大急ぎで帰って行った。その後(あと)で、
「お気の毒じゃ。」とドミニ判事がいった。「ひょっとすると、娘さんが死んだかも知れないね。」
「それだけなら、まだいいんですがね。」プランタさんが判事に囁いた。「どうも、ベルトオ爺(おやじ)のいった皮肉が思い当りますよ。」
判事と、ドクトルと、プランタさんの間に、何かしら意味深い視線が交換された。
町長にとって、この日は何という悪日(あくび)だったろう。