第九十三段2022年04月29日

 丹波(たんば)に出雲(いづも)といふ所あり。大社(おほやしろ)をうつして、めでたく造れり。志田(しだ)の何(なに)がしとかや、しる所なれば、秋の頃、聖海上人(しやうかいしやうにん)、其の外(ほか)も、人あまた誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて、具(ぐ)しもて行きたるに、各々(おのおの)拝みて、ゆゆしく信(しん)起したり。御前(おまへ)なる獅子、狛犬(こまいぬ)そむきて、後様(うしろざま)に立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや、此の獅子の立ちやういと珍らし。深き故あらん」と、涙ぐみて、「いかに殿(との)ばら、殊勝の事は、御覧じとがめずや。無下(むげ)なり」と言へば、各々怪しみて、「誠(まこと)に他に異(こと)なりけり。都(みやこ)のつとに語(かた)らん」などいふに、上人なほゆかしがりて、大人しく、物知(ものし)りぬべき顔(かほ)したる神官(じんぐわん)を呼びて、此の御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、定(さだ)めて習(なら)ひあることに侍(はべ)らん。ちと承(うけたま)はらばや」と言はれければ、「其の事に候(さうらふ)。さがなき童(わらはべ)どもの仕(つかまつ)りける、奇怪に候(さうら)ふことなり」とて、さし寄りて据(す)ゑ直(なほ)していにければ、上人の感涙、いたづらになりにけり。

『徒然草』第二百三十六段。
まあ、独り善がりの早合点に基く勝手な思い込みで騒ぎ出す人は今も昔も変らない。
これに附和雷同する人(『ボートの三人男』中のモンモランシーみたいな)がいると厄介な話になる事もある。