毒蛇退治 キップリング ― 2022年04月26日
『毒蛇退治(どくじやたいぢ)』 キップリング 菊池寛訳
(前略)
諸君の中で、マングースを見た人は恐らく余りあるまい。それはインドの様(やう)な熱い[「熱い」はママ]土地に住んでゐるもので、日本の内地にゐたといふことは余りきかない。たゞ琉球(りうきう)に行けば見る事が出来る。
琉球は熱い[「熱い」はママ]ところで、そこには毒蛇(どくじや)が住んでゐる。うつかりして、人がその毒蛇にかまれると、大変なことになる。ことによると、そのために人が死ぬやうな場合もある。それで、或(ある)博士(はかせ)はわざわざマングースを熱帯から取りよせて、琉球に放飼(はなしが)ひにした。それは、そのマングースの力で毒蛇を退治してしまはうといふ計画なのである。
マングースは、その毛と尾は小猫のやうであるが、頭は鼬(いたち)に似てゐる。その眼と鼻は一寸(ちよつと)のひまもなく絶えず活動してゐる。それで、からだの運動は大変すばしこくて、藪をくゞつたり、草にもぐつたり、平地をとびまはつたり、殆(ほと)んど目にもとまらぬすばしこさでかけまはつて居(ゐ)る。
少しも休まずに、ちよこちよこかけまはつてゐる有様(ありさま)は、丁度(ちやうど)マングースの仲間には、「かけまはれ。そして見つけ出せ」といふ格言があつて、その格言を後生大事(ごしやうだいじ)に守つてゐるやうにも見える。
人間には、手ではどうしても捕(とら)へることは出来ない。鉄砲でうたうとしても、めつたにうたれないくらゐである。
この話に出るもう一つの動物は、おそろしい毒蛇(どくじや)である。その名をコブラと云つてゐる。これも諸君は絵で見るくらゐのものである。寒いところには決してゐない蛇である。琉球にゐる毒蛇はいくらか似てゐるかも知れないが、恐らく本当のコブラは琉球にもゐないであらう。インドの方へ旅行した人は、コブラ使(つかひ)をしばしば見ることがある。インドの土人は、どうかすると、このコブラを捕(とら)へて、おそろしい毒を出す牙をぬいてしまふ。さうするとコブラは、家畜のやうによく馴(なら)すことが出来る。コブラ使(つかひ)のインド人は、それを籠(かご)に入れて持つて歩く。そして、見物人が少し集(あつま)ると、籠を下(おろ)して、そして笛を吹きはじめる。さうすると、コブラは籠の中から頭(あたま)を持ち上げて、笛にあはせて、踊るやうに頭をふる。恐(おそろ)しい毒蛇ではあるが、さうなると一寸(ちよつと)愛嬌でもある。
諸君が絵で見るやうに、コブラは頭のところに広いかぶりものゝやうな肉がついてゐる。そしてその上には一種のコブラ独特の模様がある。これは昔々(むかしむかし)インドの神様のブラームが昼寝をしてゐたときに、コブラがこのかぶりものゝやうな肉をひろげて、陽(ひ)よけをこしらへて上げたので、その功(てがら)のしるしに、ブラームがつけたのだといふ話である。
とにかくこの話は、一方は毒蛇(どくじや)を喰(く)ふ鼬(いたち)のやうなもので、一方はこの毒蛇だときてゐるので、諸君は甚(はなは)だ気味悪(きみわる)がるかも知れぬ。しかし、こんなものは、インドには極めて普通なものである。こんなものがあるからこそ、話がインドめいておもしろいのである。そして蛇だと云つて、何もさう恐れるには及ばない。やつぱり動物である。諸君は肝玉(きもたま)を大きくして、この毒蛇退治の話を一つ聞いて下さい。
これは、インドの或村(あるむら)での出来事である。或日(あるひ)、そこに大雨がふつた。そして、マングースの一匹が、その住家(すみか)の穴から外に洗ひ流された。父親も母親も、どこへ行つたか、さつぱりわからなくなつてしまつた。このマングースは、穴から庭の中の路(みち)ばたの溝(どぶ)の中へ押し流された。いかにすばしこいマングースでも、溝の中に洗ひ流されたのでは、どうにも動きがとれない。それで水が少し減つた時、溝からとび出したけれど、からだがすつかりぬれてゐるし、疲れてもゐるので、動くことも、どうすることも出来なかつた。それで、そこの路ばたにねてゐて、せめてからだでも乾(かわ)かさうとしてゐた。そこへ、子供が一人通りかゝつた。この子供は、イギリス人の子供である。インドもその初めはインド人ばかりが住んでゐたけれども、この頃になつては、軍事上の関係や、政事上の関係で、イギリス人が入つて来て住むやうになつた。それで、この子もそこに近頃来た或(ある)イギリス人の家族の子供であつた。そして、この子供は、マングースが死んでゐるものだから、持つてかへつて、どこかへ埋(うづ)めようとした。
そこへ、その子供の母親が来た。見ると、そのマングースは、たゞ弱つてゐて、半死半生(はんしはんしやう)だけのことで、まだ全く死んではゐないことが分つた。
「お前、このマングースは、まだ死んでゐはしないよ。家に持つてかへつて、少し乾かして御覧。きつと生きかへつて、直(す)ぐ飛んだり、はねたりするやうになるよ。」
幸(さいは)ひなことには、このマングースは、この子供と母親に救はれて、その家まで持つて帰られた。家ではその父親も一緒になつて、いろいろこのマングースを介抱してやつた。まづからだを綿(わた)で包んで、そして火であたゝめた。さうすると、だんだんマングースの疲れがなほつて、少しづつ元気が出て来た。今までつむつてゐた眼をぱつちりと開けた。
子供は、それをみて非常に喜んで、思はず大きな声を立てようとした。
「まあまあ、しづかにしづかに。だまつてゐろ、だまつてゐろ。もう少しじつとして、様子を見ておいで。」
父親がさう云つたので、またみんなものは、音もたてずに、マングースを見守つてゐた。
マングースは目を開(ひら)いて見ると、そこは溝(どぶ)でもなければ、庭でもなく、また路(みち)ばたでもなく、人の家であつた。そして、からだは綿で包まれて、ていねいに介抱されてゐた。しかし、このくらゐのことで、彼は驚きも何ともしなかつた。そして、からだの疲れが少しなほると、忽(たちま)ちマングースの本性(ほんしやう)にたちもどつて、無暗(むやみ)にそこら中(ぢゆう)をとびまはりたくて仕方(しかた)なかつた。
そこで彼は、忽ち綿の中からとび出して、テーブルの上にかけあがつたと思ふと、今度はテーブルのまはりをぐるぐると走りまはつた。それからまたしばらくすると、そこに立つてゐた子供の方へとびついた。
「くすぐつたい、くすぐつたい。くすぐつたくて仕方がない。」
子供がさう云ふと、父親は、
「おどかすな。おどかすな。おどかしてはいけない。おどかすと、お前に馴(な)れないよ。」
と云つた。この家の人たちは、この小さい動物を飼つて、よく馴らさうと思つたのである。それからこの人たちは、マングースに少し生肉(なまにく)を持つて来てやつてみた。彼は非常に喜んで、その生肉をみんな喰つてしまつた。それで、今まで腹がへつてゐたのもなほつて、だんだんこの家に落(おち)ついてゐることが出来た。
この家の人々は、彼を「利吉(りきち)、利吉」とよんで、可愛がつてやつた。
利吉は、この家をすつかり自分の住家(すみか)と思ふやうになつた。家の中でも、外でも、朝から晩まで独楽(こま)のやうにかけまはつてゐた。あんまりかけまはり過ぎて、風呂桶(ふろをけ)の中へおつこちたこともあるし、卷煙草(まきたばこ)をくはへてゐる父親の肩にとびついて、焼傷(やけど)をしたこともあるし、机の上のインキ壺に鼻をつつこんだこともある。少しの暇(ひま)でも、利吉は絶えずそこら中をかけまはつてゐた。
或晩(あるばん)などは、あんまり走つて、くたびれたので、子供のねてゐる寝台(ねだい)にとびあがつて、その枕の上にのつて、少し休んでゐた。それを、母親がみつけて、
「大変だよ。利吉がこの子に喰ひつきはしないかしら。」
父親はマングースの性質をよく知つてゐた。そして、そんなことには少しも心配しなかつた。
「冗談いふな。利吉がそんなことをするものか。あれはからだは小さくとも、番をさせたら、犬よりももつと安心だ。毒蛇が来たら、犬の手にはおへないが、利吉が一匹ゐたら安心なものさ。」
かうして、利吉は、この家の番人にもなれば、子供の遊び友だちにもなつた。
この家にはずゐぶん広い庭があつた。そして、あんまり広いので、その全体には手がまだ十分には行きとゞいてゐなかつた。よく耕されて、畑になつてゐるところもあつたけれど、まだちつとも鍬(くは)を入れてないところもあつた。そんなところは、昔からの荊(いばら)が生(お)ひ茂つて、草は人の丈(たけ)よりも高く生(は)えてゐた。また森と云つたら、いろいろの大木が繁つてゐて、その下は昼でも暗いやうな、物凄いところであつた。
利吉は勿論そんなところをかけまはることは大得意であつた。そして、その藪の中に入つたら、何かよほどの獲物があるだらうと思つて、おめずおくせず、その中へどんどん入つて行つた。すると、どこともなく憐れな鳥の声が聞えて来た。不思議に思つてその辺(へん)を見まはすと、或一本の木の上に、葉縫鳥(はぬひどり)[註:「tailorbird」サイホウチョウ(裁縫鳥)]といふ小鳥の夫婦が、何事かをしきりに嘆いてゐるのであつた。
この鳥の巣は、木の葉を上手に縫ひ合せて、その中に綿(わた)だの、髪の毛だのを入れて、さも寝心地よく作つてあつた。利吉はその下へとんで行つた。
「お前たちは一体どうしたんだ。何だか悲しさうな声を出してるではないか。」
葉縫鳥は、めそめそ泣きながら、わけを話してきかせた。
「私の家では大変なことが起つたんですよ。まあ、よくきいて下さい。昨日(きのふ)コブラが来て、私共(わたしども)の大事な大事な雛(ひな)を喰つてしまつたんです。」
「コブラとは一体何だ。」
「この森にゐる大きな毒蛇です。それに、私共の雛が喰はれてしまつたんですもの。私共は昨日から、すつかり力を落して泣いてばかりゐるんです。」
「何? この森にそんな毒蛇がゐるのかい。」
さう云つてゐるうちに、どこからともなく、この草むらの中で、何かもののすれ合ふ様(やう)な、気味の悪い、いやな音がして来た。その音をきくと、小鳥の夫婦は物も云はずに、がたがたふるへ出して、その巣の中へひつ込んでしまつた。そこで利吉は、さてはこれが毒蛇が草の中を歩く音だと気がついた。それで、彼は大いに気をひきしめて、ぢつと向(むか)ふの草原(くさはら)を見つめてゐた。
しばらくすると、向ふの草原の中から、大きな真黒(まつくろ)な毒蛇が、にゆつとその頭をもちあげた。その毒蛇は全体の長さは、五フィートもありさうだが、まづ頭だけをもちあげて、物凄い目をして、利吉をにらみつけた。

利吉は勿論気持(きもち)はよくないが、そんなことぐらゐで恐れてはゐなかつた。
「やい。お前がそのコブラと云ふやつか。」
「さうだ、さうだ。どうだ。このおれの姿は恐ろしいだらう。それみろ。お前もふるへてゐるではないか。」
実際、利吉もおそろしいにはおそろしかつた。一寸(ちよつと)ぐらゐ身ぶるひしたかもしれぬ。しかし、さういつまでも恐れてゐる利吉ではなかつた。これまで度々(たびたび)蛇の肉は喰つたことがあるし、また親たちが、毒蛇と戦争した話をきいてゐる。それを思ふと、何、こんなやつでも、やつつけられないことはないといふ自信が出た。
「何だ。無暗(むやみ)に威張るな。お前は葉縫鳥(はぬひどり)の雛をとつて喰つたやうな悪党ではないか。」
さう云はれると、毒蛇の方でも一寸考へた。毒蛇の方でも、マングースは中々(なかなか)の大敵だといふことはよく知つてゐる。だから、何とかして、うまくこいつをかたづけてしまはなければならないと考へた。
「小僧、生意気なことを云ふな。お前だつて生きものばかり喰つてゐるではないか。おれが鳥の雛を喰つていけないといふことがあるか。」
さう云つてゐるときに、木の上の巣の中にゐた葉縫鳥は、急にけたゝましい声を立てた。
「利吉さん、利吉さん。うしろを御覧。うしろを御覧。大変だ。」
利吉はふりかへつてみると、うしろの方から、この毒蛇のおかみさんの雌の毒蛇が、今にも利吉に、うつてかゝらうと思つて、ねらひをつけてゐたのであつた。利吉はあつといふ間(ま)もなく、力一杯に、とびあがられるだけ高くとびあがつた。そして、あべこべに、雌の蛇の背中にとび下りて、そこへ噛みついた。そして、一噛(ひとか)みするや否(いな)や、直(す)ぐ身をひるがへして、草の中へかくれてしまつた。若(も)し利吉が一人前であつたら、この一噛みで蛇はまゐつてしまつたかも知れないが、そこは、まだ何(なに)しろ子供のことだから、いよいよ蛇を殺してしまふといふところまでは行かなかつた。それよりもまづ第一に、自分のからだの安全を計(はか)らなければならなかつた。
毒蛇は、さもさも残念さうに、小鳥の巣を見上げた。
「この野郎、つまらないところに口出(くちだし)をしやがる。小鳥のくせに、失敬なやつだ。覚えてゐろ。」
そして、この毒蛇は、小鳥の巣を襲はうと思つて、木に登りかけたが、中々(なかなか)巣のところまでは登つて行かれなかつた。木(こ)の葉をくみ合はせた巣は、高い枝の上にかゝつてゐて、揺籠(ゆりかご)のやうに、ゆらゆら風にゆれてゐた。それで、この毒蛇の雄も雌も、仕方がないから草の中にかくれて行つた。利吉の方では、二匹の蛇を相手に喧嘩をするのは、今は大変であるから、強(し)ひてそれを追はうともしなかつた。
一体にマングースと毒蛇との噛み合ひは、一瞬間(いつしゆんかん)でかたがつくので、噛みつかれた方がまけである。マングースが一度ひどく毒蛇に噛みつかれたら、その傷は、薬草を喰つても、どうしても直らない。だから、利吉にしても、この毒蛇と戦争するには、よほどの覚悟がいるわけである。
そこへ折よく、利吉の主人の子供が歩いて来た。利吉は百万(ひやくまん)の味方を得たような気になつて、非常に喜んだ。
「利吉。お前は何をしてゐたんだ。」
子供がさう云つたときに、またそこに、非常にあぶないものが、塵(ごみ)だめの中からあらはれた。それは鳶色(とびいろ)をした小さな蛇で、やはりひどい毒を持つた毒蛇の一種である。からだは小さくとも、それに噛みつかれたら、丁度(ちやうど)あのコブラのやうな、大きな毒蛇に噛まれたと同じやうに危険である。この蛇はからだが小さいから、うつかり油断して、それに噛まれるものもあつた。
この毒蛇の姿を見ると、利吉は直ぐに戦争の身構へをした。相手が小さいから、よほどよく、狙ひをつけないと、噛みそこなふ。さうしたら大変である。そこで、この小さい蛇と利吉との間(あひだ)に、はげしい戦争が始(はじま)つた。あつちへはねたり、こつちへ飛んだり、しばらくはげしく争つてゐたが、とうとう利吉はその蛇の背中にとびのつて、一生懸命そこに噛みついた。その一噛(ひとか)みで、蛇はまゐつてしまつた。
そこで利吉は、この蛇をむしやむしや喰つてしまふかと思つたら、さうもしない。利吉はかしこいから、あんまり腹に物をつめこんで、からだを重くするやうな馬鹿なことはしなかつた。
そこへ、この子供の両親が出て来た。その子供が利吉のおかげで、毒蛇からのがれた喜びは、非常なものであつた。
「お前は本当に感心ものだ。おれの子供の命の親だ。よくお前は蛇を退治(たいぢ)ておくれだつたね。」
さう云つたけれども、そんな言葉は一向(いつかう)利吉には通じない。たゞその晩は利吉は大変優待された。晩の食卓の上にのせられて、いろいろなうまい御馳走を食べさせられた。利吉にしても、勿論かうして褒められて、御馳走されるのは嬉しいが、しかし、それで、まだもう一つの大敵がゐることを忘れてしまふやうなことはしなかつた。あの大毒蛇(だいどくじや)夫婦のことは、一分間も彼の頭の中から去らなかつた。御馳走を喰ひながらも、利吉は時々さう云つてゐた。
「あの野郎を、どうしてやつつけてやらう。」
この家の子供は、晩餐がすむと、利吉を自分の室(へや)の寝床につれて行つた。
「利吉。お前、今晩外へ出てはいけないよ。どうもかう物騒(ぶつさう)では仕方がない。」
子供はさう云つて、すやすやねてしまつた。そのねたのを見すまして、利吉はそつと室をぬけ出した。そして、家の中をあちらこちらと歩きまはつた。その歩くうちに、ふと出くはしたのは鼠である。この鼠は、形こそ利吉に似てゐるが、性質は大変臆病で、到底(たうてい)利吉の味方にはならなかつた。それどころではなく、利吉と毒蛇と喧嘩をしてゐるので、そのまきぞへを食つては大変だと、そんなことばかりおそれてゐた。だから利吉は、この家の中で毒蛇と本当に太刀打(たちう)ちの出来るものは、いよいよ自分きりだといふことをかたく決心した。
さうしてゐるうちに、この家のどこからともなく、虫が壁でも這つてゐるやうな、一種異様な物音が聞えて来た。
「あれは、なんでせう。」
臆病な鼠はぶるぶるふるへながらさう云つた。
「本当に、あれはなんだらう。」
利吉もぢつと耳をすました。そのときは真夜中である。家の中はしづまりかへつてゐる。かすかな物音でも、手にとるやうに聞える。
「わかつた、わかつた。とうとうあいつが、家の中に入つて来やがつたんだ。あの毒蛇等(どくじやら)が、きつと湯殿(ゆどの)にやつて来たに違ひない。ようし。あいつらに敗(ま)けるものか。」
利吉は、そーつと足音を忍ばせて、子供の湯殿へ行つて見た。しかし、そこには何にもゐなかつた。今度は父親の湯殿に行つてみた。そのときは丁度(ちやうど)月がさしてゐたので、湯殿の中の様子がよくわかつた。見ると、なるほどそこに毒蛇の夫婦がひそんでゐた。そして、ひそひそ話(ばなし)の声もよく聞えて来た。
「ねえ、お前さん。こゝへ待ちぶせしてゐて、こゝのやつらを、みんなやつつけてしまはうではないか。」
「しかし、お前はさういふけれど、こゝのやつらを殺してしまつたところで、あとどうも仕方がないぢやないか。」
「お前さんも随分(ずいぶん)馬鹿だねえ。この家の人間どもをみんな殺してしまつたら、あんなマングースなんか、一人(ひとり)この家に居(ゐ)られるもんかね。やつぱりどこかへにげて行くよりほか、仕方がないぢやないか。さうなつたら、もうしめたもんさ。わたしたち二人で、この家も、この庭もすつかりぶんどつてしまはれらあねえ。お前さんはこの家や、この庭の王様さ。わたしはそのお妃(きさき)様さ。こんなうまい話がどこにあるもんかねえ。」
「なるほど、さう云はれてみれば尤(もつとも)だ。お前はやつぱりうまいことを考へるよ。あんな人間を殺してしまふことぐらゐ世話はない。」
利吉はこの話をきいて、大いに憤慨(ふんがい)した。今にもとびかゝつてやらうかと思つて、湯殿の様子をよくみた。さうすると、雄の毒蛇は、そこへ悠々(いういう)と横になつて水を飲みはじめた。そして、水を飲んでしまふと、安心してしばらくそこにねてしまつた。その間(あひだ)に雌の毒蛇は何か用があつたと見えて、そこから出て行つた。
利吉はこいつをやつつけるのは今だと思つて、十分に用意して、毒蛇の頸(くび)を狙つてをどりかゝつた。そして、その急所へ力一杯に噛みついた。
驚いたのは毒蛇である。この不意の襲撃に奮然(ふんぜん)として反抗して来た。そして、その噛みつかれた頭(あたま)を激しく振り出した。噛みついた利吉を振り落してしまはうといふ策略である。毒蛇は長いし、大きいし、利吉は小さいマングースで、しかもその頸に噛みついてゐるので、毒蛇が頸をふると、まるで竹さをのさきに品物を結びつけて、それを振つてゐる様(やう)にも見えた。
首を振つたくらゐで、利吉は決して落ちなかつた。それで振り飛ばされる様(やう)な弱い噛みつき様(やう)ではなかつた。毒蛇はそれでも落ちないので、こんどは頭をどたんどたんと激しく床に打ちつけた。そして、利吉をどうにかして振り飛ばさうとした。しかし、それでも利吉はいつかな放さなかつた。一噛(ひとか)み一噛みに力を入れて、ぐいぐいと毒蛇の頸の肉に噛み入(い)つて行つた。毒蛇と利吉とは上になり、下になり、はねまはつたり、ころがつたり、必死の力を尽(つく)して争(あらそ)つた。
その騒ぎで、壁も床もゆらゆら揺(ゆ)れて、棚の上のものはがらがら落ちる。そして、びんや皿などはがちやんがちやん壊れてしまふ。家中がひつくり返る様(やう)な大騒動(おほさうどう)になつた。そこで、何事かと思つて父親はピストルを持つて飛んで来て見た。さうすると、この有様(ありさま)である。利吉と毒蛇と死(しに)もの狂(ぐる)ひの争闘(さうとう)の最中(さいちゆう)である。そこで、父親は早速ピストルのねらひを定(さだ)めて、ドンと一発ぶつ放(ぱな)した。
ピストルの煙が消えて見ると、さしもの大戦争もすつかりかたが付いてゐた。ピストルのねらひは誤(あやま)らず、毒蛇はそこに倒れて死んでゐた。しかし、その頸に噛み付いてゐる利吉も、ほとんど気を失つて、眼を閉ぢ、脚を縮めて倒れてゐた。ピストルの音に驚いて、自分がやられたと思つたのと、あまり激しい争闘をしたので、気がゆるんでがつかりしたのである。
父親は飛んで行つて、利吉を助け起した。
「やつぱり利吉だ、利吉だ。ほんとに偉いやつだ。こんな小さなからだをしてゐるくせに、こんな大きな毒蛇と戦つたのだ。おかげで、我々の命が助かつた。ありがたい、ありがたい。それにしても、お前はほんとに偉いやつだなあ。」
そこへ一家のものがどやどややつて来た。母親も子供も、利吉の姿を見ると、まるで泣き出(だ)さんばかりに喜んだ。そして、口をそろへて利吉をほめた。
その一夜(いちや)は、利吉はこの家の人々に手あつく介抱された。利吉が気がついて見たら、からだには幸ひに一箇処(いつかしよ)もけがはない様(やう)である。しかし、何しろあれほどの大戦争をしたので、からだ全体は綿(わた)の様(やう)に疲れてゐる。頭が痛いし、胸も苦しいし、そしてからだがまだ何処(どこ)となく、づきんづきんと痛んでゐる。その一夜(いちや)はまるで夢心地で、ぼんやりして過してしまつた。
雄の毒蛇を一匹やつつけたくらゐで、それで満足する様(やう)なけちな利吉ではなかつた。
まだ大敵がゐる。雌の毒蛇がゐる。そしてこいつは、なかなか侮(あなど)り難(がた)い。雄の毒蛇が五匹ゐるよりも手ごはい。しかし、どうかしてこいつも退治(たいぢ)てしまはなければならぬ。さて、どうしたもんであらう、と利吉はこんどはそれを熱心に考へはじめた。
毒蛇と大戦争があつた翌日、夜(よ)が明けると、朝飯(あさはん)も待たずに、利吉は藪に走つて行つた。一晩(ひとばん)よく介抱されたので、利吉はすつかり元気を回復してゐた。藪の中の木の上では、例の葉縫鳥(はぬひどり)が声(こゑ)高らかに、さも嬉しさうに、歌を歌つてゐた。よく聞くと、それは昨日(きのふ)大蛇(だいじや)が退治されたといふ凱旋の歌であつた。利吉が毒蛇を退治(たいぢ)たといふ吉報は、この藪中(やぶぢゆう)に知れ渡つてゐた。
「お前は何といふ間(ま)ぬけだ。今そんなに呑気(のんき)に歌なんか歌つてゐる時ぢやないよ。」
しかし葉縫鳥は、そんなことにはおかまひなく、しきりに歌を歌つてゐた。
「万歳、万歳。毒蛇は死んだ。
利吉が毒蛇をつかまへた。
人が鉄砲をぶつぱなした。
それで毒蛇は真二(まつぷた)つ。
万歳、万歳。もう安心だ。」
葉縫鳥の呑気なのに、さすがの利吉もあきれかへつた。
「おい、おい。もつとしつかりしてくれよ。まだそんな呑気なことを云つてる時ではない。まだ大敵がのこつてゐる。おれたちはまだまだひどい戦争を、もう一つやらなければならない。一体(いつたい)雌の毒蛇はどこに居(ゐ)るんだ。あいつは卵を持つてるさうだが、どこへかくしてゐるんだらう。知つてるならおれに教へてくれ。おれは、まづ、あいつの卵からやつつけてやる。それにしても、あの雌の毒蛇はどこにゐるのだ。」
さう云はれてみると、いかに呑気な葉縫鳥でも、歌を歌ふことだけはやめてしまつた。そして、利吉の相談にのつた。
「あいつのゐるところなら私は知つてますがねえ。あいつは昨晩(ゆふべ)亭主に死なれたので、すつかりしよげてしまつて、今(いま)馬小屋のそばの塵(ごみ)ための中にゐるやうですよ。」
「よし、それで分つた。それからもう一つ聞くがねえ。あいつの卵はどこにあるだらう。それもお前は知つてゐる筈だ。」
「それも知つてますよ。あの壁のはしにメロンのあるところがあるでせう。そこは一日中いつも日が当つてゐます。だからあいつは、そこに卵をかくしたやうです。大分前の事ですよ。」
「そんなことを、お前、また何でおれにもつと早く教へてくれなかつたのだ。」
「利吉さんは、その卵を喰ひに行く気なんでせう。」
「馬鹿なことを云ふな。あんなものゝ卵を喰ふやつがあるか。そんな呑気なことではないんだ。おい、お前にたのむが、いゝか、やつてくれるか。お前あそこまで飛んで行つてくれ。そして羽をやられた、羽をやられたと言つてわめいてみろ。きつとあの毒蛇は、お前を追つかけて出て来るに違ひない。そしたら、お前はだんだんあいつをこの藪までおびき出してくれ。その間(あひだ)に、おれはあいつの巣へ行つて、卵をみんなやつつけてやるんだ。どうだ、分つたか。お前に出来るかい。なんだ出来ない? 困つたやつだな、もつとしつかりしてくれ。たのむよ。」
しかし、葉縫鳥は、さう急にうんと云はなかつた。この鳥は歌だけはうまいけれど、頭の中はほとんどからつぽであつた。毒蛇は卵から生れるといふことだけは知つてゐたが、だからその卵をつぶせば、それだけ毒蛇を退治(たいぢ)られるのだといふことまでは考へられなかつた。それで、この利吉の計画の意味がよくのみ込めなかつた。
それに引きかへて、葉縫鳥の雌の方は、大変かしこかつた。そして、利吉の計画を直ぐすつかりのみ込んでしまつた。
「お前さん、なんだねえ。利吉さんがあんなにたのむのだから、お前さんに出来ることなら早く手をかしておあげなさいよ。」
それでも、雄の葉縫鳥はまだ呑気に歌を歌つてゐた。
「よろしうございます。利吉さん。私が御案内しませう。そして、あの毒蛇を、一つ、こちらへおびき出してみませう。」
そこで葉縫鳥は、自分の子供をその夫にまかせておいて、自分は巣からとび下りた。そして、雌の毒蛇のゐる方に飛んで行つた。そこから毒蛇をおびき出すために、葉縫鳥はわざと大声でわめきはじめた。
「羽が痛い。羽が痛い。羽をこんなに破られた。このうちの小僧が石を投げたおかげで、羽をこんなに破られた。」
その声を聞きつけて、雌の毒蛇が、のろのろ這ひ出して来た。
「ざまを見ろ。おれが折角(せつかく)利吉のやつを殺さうとしたとき、お前が傍(そば)から余計な口を出したので、おかげであいつを取りにがした。お前が羽を怪我したのも、いゝ天罰さ。ざまを見ろ。」
さう云ひながら、じりじりと毒蛇は葉縫鳥の方へよつて行つた。葉縫鳥は「羽が痛い、羽が痛い」と云ひながら、じりじりあとへしざつて行つた。
「なんだ。お前逃げる気か、おれが一度(いちど)にらんだ以上、逃げようたつて、逃げられるもんか。お前だけではないよ。おれの亭主を殺したやつらは、今朝(けさ)みんな仇(かたき)をとつてやる。」
さう云ひながら毒蛇は、だんだんと自分の居場所から外へ出て行つた。
その間(あひだ)に、利吉は後にまはつて、毒蛇の居たところへ行つてみた。なるほど、話に聞いてゐた通り、そこには毒蛇の卵が二十五もあつた。これがみんな孵(かへ)つて毒蛇になつたらどうであらうと思ふと、さすがの利吉もぞつとした。そして、出来るだけ早く、その沢山の卵をつぶしはじめた。
そこへ、さつきの葉縫鳥がとんで来た。
「利吉さん、利吉さん。私はあいつを家の方までおびき出しましたが、あいつはそこから家の中へ入つたやうです。あいつが家の中へ入つたら大変です。どんなことをするか知れたもんではありません。大変です。利吉さん。早く来て下さい。早く、早く。」
それをきくと、利吉はやにはに其処(そこ)に残つた卵を二つ破(やぶ)つてしまつて、最後に残つた一つを口に啣(くは)へて、宙(ちう)をとぶやうにして家にかへつた。
家にかへつてみると、そこは全く危機一髪の有様であつた。毒蛇は食堂に入(はひ)り込んでゐた。食堂には子供とその両親が、丁度(ちやうど)朝飯を食べようとするときであつた。そこへ毒蛇が入つて来たので、三人のものは全く色(いろ)を失つた。あんまり恐(おそろ)しさに口もきけなかつた。
毒蛇はそこに、とぐろを巻いてゐた。そして、鎌首(かまくび)を持ち上げて、それをぶらりぶらり動かしながら、さも愉快さうに、勝利の歌を歌つてゐた。
「さあ、どうだ。かうなつては人間だつて、から意気地(いくぢ)がないものさ。さあ、動けるものなら動いてみろ。動いたら最後喰(く)ひつくぞ。動かなくたつて、喰ひつくには喰ひつくさ。さあ、どうだ。馬鹿野郎。よくもお前たちは、おれの亭主を殺しやがつたな。」
三人のものは、生きた心地(こゝち)もなかつた。
そこへ、利吉がをどり込んで来た。そして、毒蛇にどなりつけた。
「こつちへむいてみろ。おれが来た以上、さあ、おれが相手になつてやる。さあ、かゝつて来い。」
「ははア、来たな。おあつらへ向きだ。しかし、ちよつと待て。今はお前の出る幕ではない。おれは今この三人のやつらを相手にしてゐるんだ。あいつらを見ろ。身動きも出来ないではないか。あいつらの顔色(かほいろ)は、まるで死人のやうではないか。おれは今、おれの亭主の仇(かたき)をとつてやるんだ。お前が邪魔をしようたつて、そんなことが出来るもんか。お前が一寸(ちよつと)でもおれの方へ動いたら最後、おれは忽(たちま)ちあいつらに喰ひつくぞ。」
「そんなくだらない文句が何の役に立つものか。そんな馬鹿なことを言つてゐる間(うち)に、早く帰つてお前の卵のところに行つてみろ。ヘン、なつてないざまだ。大事な卵をめちやめちやにされて、それで何が仇討(かたきうち)だ。さつさと帰つてみろ。」
卵のことを云はれたので、さすがの毒蛇もぎよつとした。頭を少し利吉の方へむけてみると、利吉は卵を一つ口に啣(くは)へてゐる。
「やあ、こら、その卵をかへせ。その卵をかへしてくれ。私にかへしておくれ。」
「おあいにくさまさ。これがお前の生んだ最後の卵だよ。まあ、とにかく家に帰つてみろ。あとの卵には、今頃は、さぞ蟻がたかつてゐることだらう。」
毒蛇は、この卵のために、他(ほか)のことはもうみんな忘れてしまつた。何(なに)が何(なん)でも、この卵だけは取りかへさうと思つて、きつとその方へ身構へをした。そのすきに、子供の父は子供を抱いて逃げて行つた。
「やれ、やれ。これで安心だ。うまく逃げてくれた。やい、お前いくらじたばたしたつて、もうあの子供たちにかゝられはしないよ。さあ、かうなつたら、おれはお前に云つて聞かしてやるが、あの風呂場でお前の亭主を殺したのは、何をかくさう、このおれさまだ。くやしいと思つたら、おれにかゝつて来い。お前の亭主と一緒に、お前もさつさとかたづけてやるよ。」
折角かたきを討たうと思つた人間に逃げられたので、毒蛇は少ししよげてしまつた。そして、大事の大事の卵は、利吉が両足でちやんとおさへてゐる。喧嘩に勝味(かちみ)は全くなくなつた。
「利吉、利吉さん。本当にその卵だけかへしておくれ。たのむからかへして下さい。卵さへかへしてくれたら、私はさつさと帰つて行くよ。そして、二度と再びこゝへは来ないよ。」
「あたりまへさ。二度と再びお前がこゝへ来てたまるものか。お前の亭主と一緒に、さつさと塵(ごみ)ために捨てられてしまへ。さあ、かゝつて来い。相手になつてやる。」
云ふまでもなく、そこでまた利吉と毒蛇の大戦争が始(はじま)つた。毒蛇は、はげしく利吉に打つてかゝつたが、その度(たび)に、利吉はひらりひらりと身をかはした。利吉は、たゞあつちへ飛び、こつちへ飛びして食堂の中を軽くとびまはつてゐた。利吉は、いゝかげんに毒蛇をあしらつて、毒蛇の疲れるのをねらつてゐるのだ。
この騒ぎの間に、利吉は卵のことを、ついうつかり忘れてゐた。毒蛇は絶えずその卵をねらつてゐた。何かすきがあつたら、それをとらうと思つてゐた。それで利吉が、一寸(ちよつと)一息(ひといき)入れてる間に、毒蛇はやにはにその卵を啣(くは)へると、家の外へとび出した。そして、あとをも見ずに一生懸命で逃げ出した。
「しまつた。あいつ、逃げ出しやがつた。あいつを逃がしたら大変だ。またしかへしにかへつて来るに違ひない。是非とも、あいつはやつつけてしまはなくてはならない。」
さう思つたので、利吉はやはり一生懸命になつて、毒蛇のあとを追ひかけた。
そのとき、藪の木の上にゐた葉縫鳥はこの様子をみて、これは利吉のための一大事だと悟つた。それで利吉を助けるために、毒蛇の頭のところにとんで行つて、ばたばた羽ばたきをした。それで毒蛇の逃げる速度が、いくらかゆるくなつた。こんな鳥でも、夫婦してそれをやつたら、もつと効果があつたかも知れないが、やはり呑気な生れつきは仕方がないもので、雄の方はたゞぼんやり木の上で、相変(あひかは)らず歌を歌つてゐるだけであつた。
そこに丁度鼠の穴があつた。その穴は、もともとこの毒蛇の夫婦が住んだことのある穴である。それで毒蛇はよくこの穴の様子を知つてゐたから、忽ちその穴の中に逃げ込んだ。しかし、その穴の中に入るとき、とうとう利吉に追ひつかれた。利吉は毒蛇の尾をしつかり啣(くは)へてしまつた。そして、毒蛇を追つて、自分もその穴の中にとび込んだ。
これこそ非常な冒険である。こちらにとつては少しも様子の分らない穴の中である。毒蛇の方には住み馴れた穴である。その穴の中に入つて戦争をしようといふのであるから、利吉にとつては、非常に割(わり)の悪い戦争である。そして、あまり利吉の出て来方(きかた)がおそいので、葉縫鳥は、きつと利吉は毒蛇に殺された事だと思つた。
「あゝ可哀(かはい)さうに。利吉さんはもう出て來ない。あれほど強い利吉さんも、とうとうあいつに殺されちやつた。私たちはお葬(とむらひ)の歌でも歌つてあげよう。」
そして、葉縫鳥は大変悲しい歌を歌ひ始めた。利吉の死んだのを悲しむ歌である。また利吉を葬(はうむ)る哀歌(あいか)である。
しばらく葉縫鳥がその歌を歌つてゐると、意外な事には、穴の中から死んだとばかり思つてゐた利吉がのこのこ這ひ出して来た。
葉縫鳥はびつくりして、「おや!」と声を立てた。利吉は土の底に這ひこんで戦争をしたものだから、全身まるで泥まみれになつてゐる。鬚も毛も泥だらけである。しかし、別に手きずを負つてゐる様子もなく、土地の上に這ひ出すと、非常に元気な、もとの利吉になつた。
「やつとかたづいたぜ。あいつ、大骨(おほぼね)を折らしやがつた。もう大丈夫だ。あいつ二度と再び来る事はないよ。あいつも、とうとう、年貢を納めやがつた。」
「なに? お前さん、あの恐ろしい毒蛇のやつを、とうとうやつつけたのかい。お前はまあ、大変な仕事をしたもんだなあ。偉いもんだなあ。」
さう聞くと、その近所にゐた蟻どもが、「さあ面白い、利吉の云ふ事が本当かしら、蟻ならどこへでも行けるから、さア行つて見ようよ」といふので、ぞろぞろ穴の中に入つて行つた。葉縫鳥はもうこれで毒蛇におびやかされることもなく、一生呑気に歌を歌つてゐられるといふので、心の底から喜んだ。しかし、利吉は、何しろながい間の戦争で、からだが疲れてゐるし、もう大敵をみんな滅ぼしてしまつたので、すつかり気がゆるんでしまつて、そこの草原(くさはら)にたふれたきり、前後不覚(ぜんごふかく)に寝こんでしまつた。
眼がさめてみると、もうその日の昼過ぎで、日(ひ)あしも大分傾いてゐた。
「どれ、ぼつぼつ家にかへるとしよう。」
それから、葉縫鳥にさう云つた。
「あのかちかち鳥[註:「coppersmith」ムネアカゴシキドリ]に、お前さう云つてくれないか。そしてあの鳥に、毒蛇どもはみんなかたづいたことを、この庭のもの一般に、ふれをまはらせてくれ。」
かちかち鳥と云つたけれど、私もその鳥を見た事がないから、どんなものだかよくわからない。話にきくと、その鳥は鍛冶屋(かぢや)が銅をたたくやうな声を出して鳴くから、銅鍛冶屋(どうかぢや)といふ名がついてゐるさうである。何しろインドには奇妙な鳥が沢山ゐる。
とにかく、このかちかち鳥が、そのかちかちといふ音を前ぶれにして、利吉の勇敢悲壮な毒蛇退治のことを庭中にふれてまはつた。
「東西(とうざい)、東西。
さあ、さあ、諸君きゝ給へ。
恐(おそろ)しい雄の毒蛇が死にました。
雌の毒蛇も死にました。
この庭に、無事と平和が来ました。
さあ、さあ、諸君きゝ給へ。
東西、東西。
利吉が家にかへつて行く道で、既にこのかちかち鳥の声を聞いたぐらゐに、この勝利の知らせは、忽ちのうちに、庭の隅から隅まで知れ渡つた。
この知らせで、庭の中に住んでゐるすべての生物(いきもの)は、一時(いちじ)に歓呼の声をあげた。この庭はこの時に、急に明るくなつたやうに見えた。藪の中からも木の上からも、数知れぬ小鳥の歌がひゞいて来た。蛙(かはづ)たちも声をかぎりに喜びの歌を歌ひ始めた。庭はわれるやうなにぎやかさである。
利吉が家にかへつて見ると、はじめは家の者たちは、利吉の生死(せいし)を気遣(きづか)つて、みんな額をあつめて心配さうな話をしてゐた。しかし、利吉が怪我もせずに、無事にかへつて来たのを一目(ひとめ)見ると、みんな我(われ)を忘れて万歳を絶叫した。
「利吉、偉い、偉い。大した手柄だ。お前は本当にこの家の守神様(まもりがみさま)だ。我々の命の親だ。」
その晩は利吉は大変優待されて、その子供と一緒に寝た。夜中(よなか)に主人夫婦は、利吉がどうしてゐるだらうかと思つて、そつとその室(へや)に見に来た。そしたら利吉は、子供と一緒にさも心地よく寝てゐた。
「ねえ、あなた。利吉は大した働きをしたものですね。」
「さうさ、あれがゐたおかげで、われわれは助かつたのさ。」
この話声(はなしごゑ)をきくと、利吉は直ぐとび起きた。一体利吉は、我を忘れてぐつすり寝こむといふことはなかつた。少しの話声でも直ぐ目がさめた。
「え? 何を云つてるんです。まだ何か心配事があるんですか。あの毒蛇は、雌も雄も完全にやつつけてしまつたんです。もう大丈夫、御安心なもんです。私がこゝにゐる間は、どんな毒蛇だつてよせつけはしませんよ。また毒蛇が一匹もゐなくなつたつて、私はやつぱりこゝにゐます。どこへも行きはしません。」
利吉の働きはまことに立派なものであつた。勿論よほど自慢をしてもいゝものであつた。しかし利吉はあまり自慢したいとも思はなかつた。利吉がゐる間は、この庭はいつも平穏無事であつた。これからあと、一匹の毒蛇もこの庭に顔出しすることは出来なかつた。
(諸君の読みよいやうに、マングースの名を利吉と書いた。本当の名は「リッキ・テイッキ・タヴィ」である。)
ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling、1865年-1936年)。『ジャングル・ブック(The Jungle Book)』(1894年)より「Rikki-Tikki-Tavi」。
Drawing by W. H. Drake(1856年-1926年)。
訳本は、1928(昭和3)年刊。