河畔の悲劇 22022年04月23日

二、大乱雑

 玄関を入ると、只(ただ)ならぬ事件があったらしいことは、誰の眼にも判った。
 庭園の方へ出る硝子戸(ガラスど)は開け放したままで、その硝子が粉々に破(こわ)れ、大理石の敷石(しきいし)のところどころに血が附着し、殊(こと)に階段の下が夥(おびた)だしい血痕! 人々は思わずアッと叫んだ。
 町長は足許(あしもと)がふらふらして、気が遠くなりそうだったが、役目の重いことを考えて、強(し)いて勇気をふるい起し、「おい、お前等(ら)が屍体を見たという場所へ案内しろ。」と、ベルトオ父子(おやこ)にいうと、プランタさんは遮(さえぎ)って、
「それよりも、まず家の中を検(しら)べなければなりますまい。」
「なるほど――左様(そう)でしたね。」
 町長は召使達を遠ざけて、執事だけを案内者(あんないしゃ)として、プランタさんや伍長と共に、二階へ昇って行った。
 階段にも欄干(てすり)にも血が附着していた。
「伯爵御夫婦の居間は何処だね?」
「此方(こちら)でございます。」
 執事の指(ゆびさ)した戸口を見ると、扉の上の方に、血塗(ちまみ)れの手型がべったりとくっついていた。これには、クリミヤ戦争の勇士だった憲兵伍長でさえ、たじたじと後退(あとずさ)りをした。
「とにかく内部(なか)を見なければならん。」と、プランタさんが真先(まっさき)に踏込んで行った。
 そこは、青天鵞絨(あおビロード)の窓掛(カーテン)を垂れた居間で、やはり青天鵞絨張りの長椅子が一脚と、肱掛椅子(ひじかけいす)が四脚備えてあったが、その一脚が顛覆(てんぷく)していた。
 隣りの寝室の方へ行くと、そこは物凄く取散らかって、死物狂いの格闘を演じた跡がまざまざと残っていた。室(へや)の中央(まんなか)の小卓は倒れ、砂糖の塊りだの、朱色の茶碗や、急須や、皿の破片(かけら)が、そこいら一杯に散乱していた。
「賊は、旦那様と奥様とお茶を召飲(めしあが)っているところへやって来たんですね。」と執事がいった。
 暖炉棚に飾ってあった置時計はころげ落ちて、三時二十分のところで針が止っていた。その傍(そば)に倒れたランプは、火蓋(ほや)が砕け、石油が床に零れていた。
 寝室の帳(とばり)は、夜具の上に落ち蔽(かぶ)さっていた。恐らく誰かが獅囓(しが)みついた拍子に断(ちぎ)れたのであろう。椅子は短刀様(たんとうよう)の刃物で切られたらしく、こみ物(もの)がはみ出していた。書きもの机は叩き破され、書き板(いた)のところは蝶番(ちょうつがい)が外れ、そして鮮血は床にも、窓布(カーテン)にも、あらゆる器具にもはねかえって、実に凄惨を極めていた。
「お気の毒なことだ。」と町長がいった。「ここで御夫婦とも殺されたんだな。」
 誰も彼も、暫時(しばし)は呆気(あっけ)にとられた。独りプランタさんだけは、せっせと室の隅々までも検べて、必要な箇所は一々手帳に書き止めていたが、それが済むと、
「さア他の室を検べよう。」と皆を促(うなが)した。
 伯爵の書斎も、恐ろしく荒され、鍵のかかった箪笥や戸棚は一つ残らず破壊されていた。賊はそれらの錠前をこじあける代りに、斧で片っ端から叩き破したらしい。
 何しろ徹底的に暴れたもので、客間も、喫煙室で、泊り客用の二つの室も、同じように恐ろしく踏み荒らされていた。
 二階の検べが一通り済んだところで、一同は三階へ上って行ったが、その突(つっ)かけの室に、賊が破しにかかって開けきれなかった旅行鞄(トランク)が一つあって、その傍(そば)に薪割用(まきわりよう)の斧が投(ほう)りだしてあった。
 執事の話では、その斧は、伯爵家の所有(もちもの)にちがいなかった。
「賊は大勢ですね。」町長がプランタさんにいった。「彼等は伯爵御夫婦を殺してから、方々に手分けをして、かねて目をつけた金(かね)の所在(ありか)を探したらしい。その中(うち)の一人が、この旅行鞄を破しにかかったとき、仲間の者から金が発見(みつか)ったという知らせがあったので、もう探す必要がないから、斧をここへ投りだしたまま、大急ぎで階下(した)へ降りて行ったんでしょう。」
「そうにちがいありません。目に見えるようです。」と憲兵伍長は、すっかりその説に共鳴した。
 しかし、プランタさんは何も云わなかった。
 それから、再び階下の方へ引っかえしたが、そこは各室(かくしつ)とも整然(きちん)としていて、別段荒された跡はない。ただ、賊等(ぞくら)が食堂へ入って飲食(のみく)いをした形跡があった。戸棚に残っていた冷肉(れいにく)をすっかり平らげて葡萄酒やその他の酒壜(さかびん)が八本も空になって、食卓には酒杯(コップ)が五個(いつつ)ならんでいた。
「賊は五人だね。」町長がいった。「早速コルベイユの裁判所へ通知しなければならん。そうすると予審判事がやって来て、この厭な仕事を片付けてくれるでしょう。」
 すぐに厩(うまや)から二輪馬車を引出(ひきだ)し、憲兵の一人がそれに乗って、コルベイユ裁判所へ急行した。
 それから、町長と、プランタさんと、伍長と、執事が打揃(うちそろ)って、ベルトオ親子の案内で、屍体が見えたという庭園の端(はし)の水際の方へ行った。
 伯爵家の庭園は可成(かな)り広くて、主家(おもや)からセエヌ河の岸まで訳二百歩をへだて、家の傍は一面の芝生で、そのところどころに花床(はなどこ)があった。
 芝生の間には、二つの径(こみち)が河岸(かし)の方へ通(とお)っているけれど、賊等は近道をするために、芝生の上を真直ぐに歩いたもので、しかも重い物を引きずって行った痕がはっきりと残っていた。
 プランタさんは、その芝生の中央(まんなか)に赤いものが落ちているのを見つけて拾いあげたが、それはスリッパの片一方で、執事の説明によれば、その前日まで伯爵の穿(は)いていたものにちがいなかった。
 もう少し先へ行(ゆ)くと、白いハンケチの血(あけ)に染まったのが一枚落ちていた。それは伯爵が頸にまいていたもので、執事はたしかに見覚えがあるといった。
 河岸(かし)は緩(ゆる)い砂地(すなじ)で、どうかすると足をとられそうだったが、この辺(へん)で猛烈な格闘が行われたらしく足跡が盛んに入乱れていて、そこの大きな柳の根方(ねかた)に、女の屍体が横たわっていた。
「誰も此方(こっち)へ来てはならんぞ。」
 町長は皆を少し離れた処へ止めておいて、プランタさんと二人っきりで、屍体の傍(そば)へ行ってみた。仰向けになったその屍体は、上半身が水につかり、着物は血や泥で浅ましく汚れていた。そして顔は水中の砂に埋(うま)っているので、見わけが出来なかったけれど、それは伯爵夫人に相違なかった。青のレースで縁どった灰色の服は、町長にもプランタさんにも見覚えのあるものであった。
 しかし彼女は、どうしてこんなところで死んでいるのか?
「夫人は夢中になって、ここまで遁(に)げて来たんだね。」と町長がいった。「ところが賊に追っかけられ、ここで捉(つか)まって、激しい抵抗の後(のち)ついに倒されたのです。してみると、芝生の上を引きずられたのは夫人ではない。賊がきっと伯爵の屍体を引きずって来たのでしょう。」
 しかしこの熱心な説明に対して、プランタさんは殆んど耳を傾けてはいなかった。
 プランタさんは、忙(せわ)しげにあっちへ行ったり、こっちへ駈けたり、距離を測ったり、しゃがんで地面を検べたりしていた。その辺の水は一呎(フィート)ほどの深さで、ところどころに菖蒲(しょうぶ)が生えて、睡蓮が静かにうかんでいた。
 そのとき町長は、ふと何か思いついた風(ふう)で、
「おい、ベルトオ、お前等(まえら)は船からこの屍体を見たというが、その船は何処にあるんだ?」
「もう少し下の方の岸に繋いであります。」
「そこへ案内しろ。」
「はい。」
 ベルトオ爺(おやじ)はひどく狼狽(どぎまぎ)したが、厭々ながら先に立って、少し下手(しもて)の、邸境(やしきざかい)の溝(みぞ)をわたろうとすると、その辺の草原(くさはら)に点々と足跡がついていた。町長は早くもそれを見咎めて、
「おお、誰かここを跳び越えた者がある。まだ新らしい足跡だ。」
といいながら、溝を越えて漁船のあるところへ行った。
「お前等は船から見たなんて、出鱈目をいったな。この網も橈(かい)もカラカラに乾いていて、昨日(きのう)から使った形跡がないではないか。」
「どういたしまして――私達は嘘を申したのではありません――」
とはいったものの、父子(おやこ)ともに慌てだした様子は、隠しきれなかった。
「それが正直なら、裁判官の前で言訳(いいわけ)をしろ。しかしあの屍体は、ここでは見えない。沖からはなおのこと見えはしない。それに、あの草原の足跡は、お前等が溝を越えて、邸内へ入った証拠なんだ。」
 ベルトオ父子(おやこ)は、黙って首をうな垂れた。
 町長は憤然として、
「おい伍長さん、この父子を捕縛(ひっくく)って、別々に監禁したまえ。」
「承知しました。二人とも此方(こっち)へ来い!」
 伍長は早速ベルトオ父子を邸の方へ引っ立て、別々の室に押しこめて、部下の憲兵に監視を云い附けてから、再び庭の方へ引っかえして来た。
「ところで、伯爵の屍体はどうなっただろう。」
と町長は小首を傾げた。それがひどく気にかかった。けれどこの場合、まず発見された夫人の屍体を処理せねばならなかったので、とにかく戸板(といた)を取寄せて、そこらの証拠となるべき足跡を消さないように注意しながら、屍体を邸の方へ運びこんだ。
 これが美貌で鳴らしたトレモレル伯爵夫人とは、どうして思えよう。莞爾(にこや)かだった顔や、涼しい眼(まな)ざしや、稍(やや)肉感的(にくかんてき)な口許など、今はその面影(おもかげ)だも見られない。顔面はまったく識別しがたいほど、めちゃくちゃに傷つけられた上に、血や泥に汚れていたのである。
 屍体の様子から判断すると、賊は途方もない狂暴性をもった奴らしく思われた。短刀で斬り附けた傷が二十個所以上もあって、そのほか棍棒又は鉄槌(てっつい)のようなもので激しく殴りつけた痕(あと)があり、脚や髪を攫(つか)んで引きずり廻した形跡もあった。
 彼女は左の手に、少しの切地(きれじ)を堅く握っていたが、それは賊へ獅囓みついたときに、その服の切地が断(ちぎ)れたものらしかった。
 召使等(めしつかいら)にも手伝わせて、夫人の屍体を階下(した)の撞球室(どうきゅうしつ)へはこびこんで、球台(たまだい)の上に安置したとき、コルベイユ裁判所の予審判事が、書記と嘱託医(しょくたくい)を従えてやって来た。
「とうとう来てくれたか。」
 町長はほっと安心して、漸(ようや)く重荷をおろしたような気持がした。
 彼はつまらぬ野心から、オルシバルの町長という椅子に坐って以来、この日ほどそうした野心を後悔したことはなかった。その重要な地位に伴う役目の辛さをば、今日という今日は沁々(しみじみ)と思い知ったのであった。



1929(昭和4)年出版の訳文だから、さすがに多少の古さは否めない。