『河畔の悲劇』1 エミール・ガボリオ2022年04月16日

「河畔の悲劇」 エミール・ガボリオ 田中早苗訳


一、早暁(そうぎょう)の訴え

 千八百六十……年七月九日、木曜日の夜(よ)の明け方のことであった。
 巴里(パリ)の北、セエヌ河に沿うてコルベイユから約一哩(マイル)をへだてた、オルシバルという町の町長邸(ちょうちょうてい)の訪問鐘(ほうもんしょう)を、遽(あわ)ただしく叩く者があった。
 その消魂(けたた)ましい音で真先(まっさき)に目をさました執事が、窓をあけてみると、常々(つねづね)小盗(こぬす)みや密猟で評判のわるいベルトオ爺(おやじ)と、その倅(せがれ)のフィリップという若者が、血相かえて、鐘を叩いているのだ。
「こら、どうしたんだい。煩(うるさ)いじゃないか。」
「町長様に大至急会わして下さい。ナニ、取次(とりつ)いだって、貴方が叱られる気づかいはありません。」
 二三押問答(おしもんどう)の末に、執事は奥へ行ったが、間もなく、ずんぐりと肥った赭(あか)ら顔の町長クルトア氏が寝衣姿(ねまきすがた)のまま、睡そうな眼をこすりながら玄関へ出て来ると、
「町長様、た、大変です。トレモレル伯爵様のお邸(やしき)に、人殺しがありました。」
とフィリップが急(せ)きこんでいった。
 町長は、その伯爵とはごく親しい間柄(あいだがら)なので、それを聞くと、さっと顔色を変えた。
「ナニ、伯爵の邸に人殺し? そりゃ真実(ほんとう)か?」
「たった今見て来たのです。彼邸(あすこ)の水際に死んでいたのは、伯爵家の奥様にちがいありません。」
「それは大変だ。すぐに行って見にゃならん――私が着がえをする間待ってくれ。」
 それから執事を呼んで、
「おい、バプチスト、大急ぎで保安判事の許(ところ)へ行って、今これこれだから直ぐにお出(い)で下さいと云って来い。」
 執事は慌(あわ)てて飛びだした。
 やがて執事が保安判事のプランタ氏をつれてもどって来たのは、町長の身支度(みじたく)が出来たのと同時だった。
「お早(はよ)う。」保安判事は閾際(しきいぎわ)から声をかけた。「今使いの人に聞けば、伯爵夫人が殺されたっていうじゃありませんか。困ったことになりましたなア。」
「ええ、私もたった今、この二人に聞いたんですがね。飛んだことになったもので。」
 町長はもう他行(よそゆき)の服に着替えて、別人のように取澄(とりす)ましていた。この町長は、地位ある者がやたらに慌てると、威厳にかかわると思っているのだ。尤(もっと)も、微々(びび)たる商人から数百万の資産をつくり上げた人だけに、そんなことは殊更(ことさら)やかましく考えているらしかった。
 それに較べると、保安判事は明けっ放(ぱな)しで、さっぱりした人であった。
「実(じつ)にお気の毒ですな。」と判事はいった。「とにかく現場(げんじょう)を検(しら)べにゃならんが、憲兵伍長にも直ぐに彼邸(あすこ)へ出向(でむ)くように、私からいってやりました。」
 判事もしかし、幾分(いくぶん)か、強(し)いて冷静を装(よそお)うている風(ふう)があった。
 この保安判事は、土地では「プランタさん」と呼ばれて、誰からでも、尊敬されていた。元はメランの弁護士で、なかなか繁昌したものだが、五十の時たった一月(ひとつき)の間に、最愛の夫人と二人の子息が病死してからというものは、多年(たねん)幸福だった家庭生活が一遍に覆(くつが)えされた。それで悲観のあまり世の中のあらゆる野心を捨てて、まるで隠者(いんじゃ)のような気持になってしまったが、その後(ご)このオルシバルの保安判事の地位が空(あ)いたのを知ると、隠居仕事にはよかろうというので、そのかぶを譲りうけたのであった。
「さア大急ぎで出かけよう。」
 町長とプランタさんは、ベルトオ父子(おやこ)を先頭に、伯爵邸を指(さ)して急いだ。
 このオルシバルという町は、セエヌ河に沿うて、青々と茂った森の間からは、土地の豪家(ものもち)や貴族の邸宅(やしき)の高い屋根がところどころに聳(そび)えていて、いかにも裕福らしい、瀟洒(しょうしゃ)たる趣(おもむき)をそなえている。巴里から左程(さほど)遠くもないのに、日曜といえば近郊を荒し廻るパリの遊び客も、ここだけは忘れたのか、滅多に入込(いりこ)むこともなく、いつも静然(ひっそり)としていて、平和そのもののような町なのだ。
「この町にも、とうとう人殺しが出来(でき)たか。これまでは只の一度も、そんな不吉な事件がなかったのだがなア。」
 町長は歎息しながら、胡散(うさん)そうにちらちらとベルトオ父子(おやこ)の方を見た。
 倅のフィリップは真先(まっさき)に立って、性急(せっかち)に歩いていたが、爺(おやじ)はうつ向いて、妙に考えぶかい風(ふう)で歩(あし)を運んでいた。
 やがて伯爵邸の前へ来ると、門は固く締(しま)っていた。
 町長は訪問鍾(ほうもんしょう)をがんがん鳴らした。けれど、玄関まで僅か五六ヤードしか隔てていないのに、なかなか人が出て来そうな風もない。
 と、そのとき、真向(まむこ)うのラナスコール夫人の邸前(やしきまえ)に、馬具の掃除をやっていた一人の馬丁(ばてい)が、
「皆さん、鳴らしたって駄目ですよ。其邸(そちら)は誰もいないんです。」と声をかけた。
「ナニ、人がいない?」
「旦那様と奥様はいらっしゃる筈ですがね、取次(とりつぎ)の者がいないんです。召使達は、旧(もと)料理女(コック)をしていたデニイさんの結婚披露に招(よ)ばれて、昨晩(ゆうべ)お揃いで巴里へ出かけたのです。」
「そんなら昨晩(ゆうべ)は、伯爵と奥様と二人っきりだったんだね?」
「ええ、お二人っきりです。」
「それは大変だ。」
「此門(ここ)にぐずぐずしてはいられない。」とプランタさんは急(せ)きこんだ。「おい、誰か錠前屋(じょうまえや)を呼びに云ってくれ。」
「私がまいりましょう。」
 ベルトオの倅が駆けだそうとすると、恰度(ちょうど)そのとき、町の向うから、笑いさざめきながらやって来たのは、此邸(ここ)の召使達であった。二人の男と三人の女中が打揃(うちそろ)って、帰って来たのだ。彼等は門前(もんぜん)に人が立騒(たちさわ)いでいるのを見ると、急に笑い談(ばなし)を止(や)めて、すたすたと早足(はやあし)になったが、執事のフランソアという男が、一人(ひとり)真先(まっさき)に駆けて来た。
「皆様は旦那様に御用でいらっしゃいますか。」
と執事は、町長とプランタさんの方へ丁寧にお辞儀をした。
「先刻(さっき)から呼んでいるのに、返事がないんだよ。」
「そんな筈はありません。旦那様はいつも早くお目覚(めざ)めですから、事によると、何処(どこ)ぞへお出懸(でか)けになったのでしょう。」
「皆さん大変です、きっと、御夫婦とも殺されていますよ。」
 ベルトオの倅が突然(だしぬけ)に叫んだ。それを聞くと召使達は、昨晩(ゆうべ)からの愉快を一遍に吹きとばされたように、ぎょっとして顔を見合(みあわ)せた。
「えっ、そんな災難があったのですか。」と執事は呆気(あっけ)にとられた。「さては、あの金(かね)に目をつけた奴(やつ)――」
「何か思い当ることがあるのか?」
「実は、昨日(きのう)の朝、旦那様のお手許(てもと)に大金(たいきん)が入りましたので。」
「うむ」町長は眉をよせて、「お前達は昨晩(ゆうべ)此邸(ここ)を何時に出かけたのだ?」
「夕食を早めに済まして、八時に出かけました。」
「皆(み)んな一緒にか。」
「はい。」
「途中で別れ別れになりはしなかったか。」
「始終一緒におりました。」
「帰りも皆んな一緒なんだな?」
 召使達は意味ありげに顔を見合せたが、
「昨晩(ゆうべ)巴里の停車場へ着くと、一人だけ、はぐれました。」と奥女中が思いきっていった。「それは庭師のゲスパンでございます。」
「どうしてはぐれたのだ?」
「後刻(のち)に宴会の場所――バチニョオル街のウェプラ亭へ来るって約束で、用足(ようた)しに出かけたのでございます。」
 町長はそれと聞くと、肱(ひじ)で保安判事へ相図(あいず)をしながら、
「そのゲスパンという男は、後(のち)に会場へ来たのか。」
「いいえ、それっきり顔を見ません。」
「その男は何時(いつ)から此邸(こちら)に雇われたのか。」
「この春からでございます。」
「彼は伯爵の手に大金が入ったことを知っていたんだな。」
 召使達はもう一度、互いに視線を交換したが、
「はい、わたし達は度々(たびたび)その噂をしました。」と奥女中がいった。「そしてゲスパンは、旦那様はえらくお金が入ったから、今に我々にも下(くだ)されものがあるぜ――そんなことをいって、喜んでいました。」
「彼はどんな性質(たち)の男か?」
 この問(とい)には、さすがに饒舌(おしゃべり)な召使達も黙りこんでしまった。何かいうと、それが直(ただ)ちに有力な証言になりそうなのを恐れているらしかった。
 が、先刻(さっき)からこの話に割込みたがって、むずむずしていた向(むこ)う邸(やしき)の馬丁が、無遠慮に口を出した。
「ゲスパンは面白い男ですよ。もとは裕福だったそうで、何でも一通(ひととお)りは心得ています。毎晩仕事を終えると大急ぎで遊びに出かけるんですが、撞球(たま)は素的(すてき)な名人で――」
 プランタ判事は、門や塀のあたりをそれとなく目で検(しら)べていたが、じれったそうに、
「その話は後廻しとして、まず現場(げんじょう)を見なければならん。鍵を持っている者が早く門を開けなさい。」
 執事が早速(さっそく)鍵を取りだして門を開けると、皆(み)んなどやどやと前庭へ入りこんだ。
 恰度(ちょうど)そこへ、憲兵伍長が部下を率(ひき)いて駆けつけた。
 伍長は、早速二人の部下に門を警戒(かた)めさせ、自分だけが皆(みな)と一緒に邸内へ入って行った。



ポウのデュパンを取上げたら、次はガボリオ(Emile Gaboriau、1835年-1873年)のルコック(Lecoq)と来るのがものの順序である。前記した子供向け全集の中に、ポウは『盗まれた手紙』『黄金虫(the Gold Bug)』の2篇、ガボリオは『ルコック探偵』が入っていた。訳題は異なるがこの作品、原題は『オルシヴァルの犯罪(Le Crime d'Orcival)』(1867年)、ルコック物の第3長篇である。

"It is simple enough as you explain it," I said, smiling. "You remind me of Edgar Allen Poe's Dupin. I had no idea that such individuals did exist outside of stories."
Sherlock Holmes rose and lit his pipe. "No doubt you think that you are complimenting me in comparing me to Dupin," he observed. "Now, in my opinion, Dupin was a very inferior fellow. That trick of his of breaking in on his friends' thoughts with an apropos remark after a quarter of an hour's silence is really very showy and superficial. He had some analytical genius, no doubt; but he was by no means such a phenomenon as Poe appeared to imagine."
"Have you read Gaboriau's works?" I asked. "Does Lecoq come up to your idea of a detective?"
Sherlock Holmes sniffed sardonically. "Lecoq was a miserable bungler," he said, in an angry voice; "he had only one thing to recommend him, and that was his energy. That book made me positively ill. The question was how to identify an unknown prisoner. I could have done it in twenty-four hours. Lecoq took six months or so. It might be made a text-book for detectives to teach them what to avoid."
I felt rather indignant at having two characters whom I had admired treated in this cavalier style. I walked over to the window, and stood looking out into the busy street. "This fellow may be very clever," I said to myself, "but he is certainly very conceited."

『A Study in Scarlet』第2章より。ホームズは貶しているが、ワトスンはデュパンもルコックも admire していたようだ。作者のドイル自身、ポーもガボリオも読んでいる。でなきゃこういう文章は書けない。『モルグ街の殺人』の冒頭でデュパンが行ったのと同様の推理をホームズがやってみせる場面が、後の短篇『ボール箱(The Cardboard Box)』の冒頭にある。