『武家義理物語』より「我物ゆゑに裸川」 井原西鶴 ― 2022年04月11日
我物ゆゑに裸川
口の虎(とら)身を喰(はみ)、舌の剣(つるぎ)命を断つは、人の本情(ほんじやう)にあらず、憂(うれ)ふるものは、富貴にして愁(うれ)ひ、楽(たのし)む者は貧にして楽む。嵐は雲ふき晴れて名月院の詠(ながめ)、鎌倉山の秋の夕暮(ゆふぐれ)を急ぎ、青砥左衛門尉藤綱(あをとさゑもんのじやうふぢつな)駒をあゆませて滑川(なめりがは)を渡りし時、聊(いさゝ)か用の事ありて火打袋(ひうちぶくろ)を明くるに、十銭(じつせん)にたらざるを川浪に取り落し、向ひの岸根にあがり、里人をまねき、僅かの銭を三貫文(さんくわんもん)あたへて是をたづねさせけるに、あまたの人足(にんそく)松明(たいまつ)を手毎(てごと)に、水は夜の錦と見え、人の足手は柵(しがらみ)となつて瀬々を立切り捜しけるに、一銭も手にあたらずして、難儀する事しばらくなり。たとへ地を割(さ)き、龍宮までも是非にたづねて取り出(い)だせと下知(げぢ)する時、一人の人足(にんそく)仕合(しあは)せと一度(いちど)三銭さがし当り、其の処を替へず、又は一銭二銭づつ、十銭(じつせん)ばかり取出(とりい)だせば、青砥左衛門勘定あはせて、よろこぶ事かぎりなく、其男には外(ほか)に褒美をとらせ、これ其のまゝ捨て置かば、国土の重宝朽ちなん事(こと)本意(ほい)無し、三貫文は世にとどまりて人のまはり持ちと、下人(げにん)に語りて通りける。此の断(ことわり)聞きながら、一文をしみの百しらずとぞ笑ひしは、智恵の浅瀬を渡る下々(しもじも)が心ぞかし。兎角は夜(よる)のまうけに思ひよらざる事なれば、今宵の月に集銭酒(しふせんざけ)呑まんと各勇みをなせり。其中に物の才覚らしき男のいへるは、いづれもに心よく酒事(さけごと)さすは、我に礼をいふべし、其仔細は、青砥が落せし銭にたづね当(あたる)べき事は不定(ふぢやう)なり、時にそれがしが理発(りはつ)にて、此方(このはう)の銭を手まはしして、左衛門程、世に賢き者を偽りすましけるといひければ、皆々横手をうつて、扨(さて)は其方がはたらきゆゑ、楽遊びのおもしろやと、盃はじめけるに、又ひとりの男興を覚(さま)して、これ更に青砥が心ざしにかなはず、汝が発明らしき貌(かほ)つきして、人の鑑(かゞみ)となれる其心を曇らせけるは、ならびなき曲者(くせもの)、天命もおそろし、我れ老母をはごくむたよりに此銭嬉しかりしに、今の有増(あらまし)を聞き、なんぞ其れを取るべし、其上母此事聞かば、まことをもつて養ふとも、中々常も満足する事あらじと、其座を立ちて帰り、母に語るまでもなく、朝(あした)にとく起きて、馬の沓(くつ)を作りて、けふをなりはひに暮しぬ。此男はいはねど、自然と青砥左衛門聞きて、其人足をとらへて、きびしく横目を付け、身を丸裸(まるはだか)にあらため、落せしまことの銭にたづね当るまで、毎日過代(くわたい)をいひ付けけるに、秋より冬川になる迄、いかばかり難儀して、世間もおのづから水かれて、やうやう真砂(まさご)に成る時、九十七日目に彼銭(かのぜに)残らず捜し出し、あやふき命をたすかりぬ。是おのれが口ゆゑ非道をあらはしける。其後(そののち)正道を申せし人足の事を窃(ひそか)に尋ねられしに、千馬之介(ちばのすけ)が筋目、歴々の武士にて、千馬孫九郎といへる者なるが、仔細あつて、二代まで身を隠し、民家にまぎれて住みける。流石(さすが)侍(さむらひ)のこころざしを深く感じて、青砥左衛門此事(このこと)を時頼(ときより)公に言上申して、首尾よく召し出されて、二たび武家のほまれ、ちとせを祝ふ鶴が岡に住みぬ。
現代口語訳 菊池寛
口の虎が身を喰(は)み、舌の剣(つるぎ)が命を断つのは、人の本情ではない。如何(いか)に富貴であつても憂ひを持つ人もあり、貧乏し乍(なが)ら仕合せな人もある。
嵐は雲を吹き払つて、名月院の眺め、鎌倉山の秋の夕暮を、駒に乗つて急いで行く青砥左衛門尉藤綱(あをとさゑもんのじやうふぢつな)が、滑川(なめりがは)を渡りながら、いさゝか用ありて、火打袋を開けた時、十銭(じつせん)足らずの銭を過(あやま)つて川の中へ落した。
向ふ岸へ上つてから、里人を呼び集め、三貫文の手間賃を与へて、僅か十銭足らずの銭を捜させた。多くの人足が松明てんでに携へたゝめ、水は夜の錦と見え、手足は柵となつて瀬々を立ち切つた。斯(か)うして一生懸命に捜したけれど、一銭の銭さへ手に当らず、暫しはただ捜しあぐんだ態(てい)であつた。此の時、
「たとひ地を割つても、龍宮の底までも是非に取り出せ。」
と、藤綱の下知に励まされ、幸ひ一人の人足が、仕合せにも、三銭捜し当て、場所を替へないで其の近辺から一銭二銭づゝ拾ひ上げて、やつとの事で十銭程を拾ひ集める事が出来た。青砥左衛門は勘定の合つたのを悦んで、其の男へは別に褒美の銭をやつた。
「僅か十銭だけれど、是れを此の儘に捨て置くと、国の重宝が朽ちて仕舞ふ訳だ。それが不本意だから、わざわざ手間賃を出して捜させたのだ。三貫文は世間へ廻る金である。」
と人々に説明して、藤綱は此の場を立ち去つて行つた。斯うした説明を聞きながら、「一門惜しみの百知らずだ」と嘲笑したのは、考への浅い下民の心であつた。
此の三貫文の手間賃は、人足達に取つては思はぬ収入だつたので、幸ひ今宵は月もいゝからと割勘で酒宴を開く事となつた。其の中に、機転の利いたらしい一人の男が言ふ事には――
「皆が斯うして、うめえ酒の一杯も飲めるツてえのは、本当は俺に礼の一つも云はなきやなるめえぜ。と云ふ訳ア、青砥が落した銭を捜し出すのは難儀なこつた。其処で俺がちよいと頭を働かせて、こちとらの銭をやりくりしてやつた迄さ。左衛門程の賢い奴に、まんまと一杯喰はしてやつた。」
皆々横手を打つて、
「偖(さ)ては其方の働きで、斯うした酒に有りつけるとは有難(ありがて)え。」
と、愈々(いよいよ)酒宴が初まつたとき、一人の男が興を覚まして、
「其う云ふ事をしたのは、青砥の心ざしに添つたとは云へぬ。お前が賢さうな顔付をして、折角(せつかく)人の鑑となるやうな事を傷つけるとは、とんでもない悪人、天命の程も怖ろしい。自分は老母を養ふために此の銭を得たのを喜んだけれど、今の概略(あらまし)を聞いては此の銭は貰へぬ。其の上、もし母がこんな事を聞いたら、折角一生懸命に孝養しても、満足しては呉れなく成るだらう。」
と、其の座を立つて家へ帰り、母に此の事を語るまでもなく、毎朝早く起きては馬の沓(くつ)を作つて、其日々々(そのひそのひ)の生活を立てるのだつた。
此の男が申上げた訳ではなかつたけれど、此の事が自然と青砥左衛門の耳に聞えた。早速不正な人足は捕へられて、きびしい見張役の監視の下に、丸裸にされて滑川に這入らせられ、落した銭が見つかる迄、毎日々々労役に服さねばならなかつた。秋から冬へかけて、毎日の労苦は大変だつた。自然と冬の川水も涸(か)れて、やうやく砂が露(あら)はれる頃、やつとの事で其の銭を残らず捜し出す事が出来た。川へ這入らせられてから、実に九十七日目であつた。其の男の危い命も、是(こ)れでやつと助かつたのである。是れと云ふのも、自分の口が禍(わざはひ)して、自分の不正をさらけ出した訳であつた。
其の後、実直な人足の方を秘かに訊ねて見ると、千葉之介(ちばのすけ)の後裔で、歴々の武家、千葉孫九郎と云ふ者であつた。仔細があつて、親の代から身を隠し、民家に紛れて住んで居つた。
「流石に武士の心ざしである。」
と深く感じて、青砥左衛門は此の事を時頼公に言上した。その結果、遂に首尾よく召し出され、再び名誉ある武家と成つて、千歳を祝ふ鶴が岡に住んだ。
・補記。
菊池寛の訳文では作業日数が「十七日」となっているが、明かな誤植(原稿の誤記?)なので勝手に校正した。