「ポーの想像」 夏目漱石 ― 2022年04月07日
漱石ついでに、もう一篇。
ポーの想像
去年の九月、本間といふ人の『名著新譯』に序文を送つた。それに書いて置いた事、それ以上に僕の智識は無い。其(そ)の文句の復習(おさらへ)でもするより外(ほか)にない。
以前に Poe の作物を読んだ時の感じが僅(わづ)かに残つてゐるばかりで、格別研究しようともしなかつた。で、其の漠然たる感じと云ふのは、先づ何でも非常な想像家であつた。而(し)かも其の想像たるや人情或(あるい)は性格に関する想像でない、云はゞ事件構造の想像、即ち Constructive imagination である。而かも其の事件は、日常聞睹(ぶんと)の区域を脱した supernatural もしくは superhuman な愕(おどろ)くべき別世界の消息である。此(こ)の愕くべき別世界と云ふのは、彼の詩の "The Raven" に歌つてあるやうな内面的の幽玄深秘(いうげんしんぴ)で無い、極(ご)く外面的な主として読者の好奇心を釣つて行くと云つた風の、悪く云へば荒唐不稽(くわうたうふけい)な嘘話を作るに在る。併(しか)し嘘の想像譚と云つても、一種の scientific process を踏んだ想像でそれを精密に明晰に描写してゐる。こんな風の、とても常人の思ひ附く事も出来ないやうな想像の働き……之(これ)に付(つい)ては後に附言をしませう。
さて又序文には短篇作家としての Poe の事を一言した。所謂(いはゆる)三巻小説の例を打破した独創的作家で、今日の短篇的傾向を予言したものである。彼と今一人の Bret Harte との二人が同じくアメリカ人で、又同じく短篇作家の祖たる名誉を担つているのは、好(よ)く人の云ふ事で、国と人と年代との関係に付て別に一考すべき事柄だと思ふ。
以上は単に此の序文の復習をしたに過ぎないが、今少し Poe の想像に付て附け足しをしてみよう。一体明(あきら)かな想像……前に精細且つ明晰な描写と云つたが、其れは勿論図抜(づぬ)けて豊贍(ふせん)な想像力がなければ出来ない事で、其の想像にも色んな種類があるが、其の中で、茲(こゝ)に云ふ明かな想像と云ふのは Poe や Swift の如きを意味する。それで二人の比較をすると、Swift は――素(もと)より其の作の或る物に付て云ふのだが――何等(なんら)かの寓意或る架空譚を作つたのであるが、其の寓意と云ふ事を離して云つてみると、其の描写の仕方が如何(いか)にも exact に出来てゐる、objectivery に exact に書いてある。委(くは)しく云ふと物の大小とか、位置とか部分と部分との関係とか是等が如何にも exact に描いてある。詮じ詰めれば斯(か)かる特点の想像は number に帰着する。例へば Swift の小人島の住人を六インチあるとして置いて、其れを持主とする小人島の物品器具、即ち火鉢とか皿とかは、皆其の六インチに比例して大小が出来てゐる。物の extention 若(も)しくは magnitude の proportion を明かにしてゐる。其の為めに種々の形容を使つてゐるが、要するに帰着する処は number の観念を人に与へると云ふ事になる。
其れが Poe になると更に甚(はなはだ)しい。Swift は何倍、何寸とか云ふ種類の exaction を以てする想像家の一人で、云はゞ素人としての exact であるが、Poe になると其れが専門技師の設計の如くに、より exact になる。Scientific imagination である。斯かる緻密な想像は Mathematical な clear head が無くては駄目なのであるが、此の点から見て Poe は Swift よりも大変進んでゐる。だから何(ど)うして恁(こ)んな事を想像する事が出来たかと驚くよりも、何うして恁んなに精密に、数学的に想像する事が出来たかと驚く事になる。
以上は無論 Poe の全体を尽した論ではない。只(たゞ)其の一面の特色に付てのみ云つたのである。夫れも亦、construction の想像と style の想像と、又 construction の想像だけでも、何と何との種類に帰着するかと云つた方の問題にも触れてゐない。それを云つてると随分長くなりさうだから、特色のホンの一部を見た丈(だけ)のお話に止めて置く。
――四二、一、一五『英語青年』――
談話の筆記。『名著新譯』とはポウ(ポー)の短篇集で訳者は本間久四郞という人らしい。それ以外の事は不明。
漱石の言う「三巻小説」とは「Three-decker novel」と言う英国の出版形態そうだ。ウォルター・スコット(Sir Walter Scott、1771年-1832年)が始めた物で、19世紀、ディケンズやウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins、1824年-1889年)などの小説も概ねこの形式で出版されていたらしい。無論、長篇が主体(全て?)である。漱石も英国留学時に多く実物を目にしていただろう。米国の出版事情は知らないが、少くともポウ(ポー)は詩人兼雑誌編集者で、作品も雑誌に発表していた。作品も殆どが短篇なのは首肯出来る。後に英国でも雑誌が流行してくると短篇が掲載されるようになる。
スウィフトに関しては、『文學評論』でも1章(1編?)を割いて述べている(「第四編 スヰフトと厭世文學」)。そちらは英国の作家だから自家薬籠中の物だろう。
漱石は英文学の教師なので、英米文学を語る際に英単語が頻発するのは当然である。そんな事を言えば、外国人教師の講義は丸ごと外国語である筈だ。
・余談。
「闇米」ならぬ「闇小麦」が流通しているらしい。某天気予報楽団のアルバムじゃ無いが「Black Market」は常に存在するだろう。今回の「一方的な侵攻に始まった戦争」では日本も「朝鮮特需」みたいには行かないと思われる。結局、戦争で確実に儲かるのは「黒い幽霊団」のみか。