第六十七段・番外篇 ― 2022年02月16日
第六十七段の蛇足 ― 2022年02月18日
NATOも一枚岩では無いようだ。UN(国際連合)は元々そうだが。
・上兵伐謀 其次伐交(上兵は謀を伐つ、其の次は交わりを伐つ)
『孫子』謀攻。
・「困難は分割せよ」
伝デカルト。
手品でも、難しいシークェンスのある新作は手順を分割して考案するそうだ。戦争も然り。この辺り間諜工作(防諜含む)に長けた国家が強い。日本の野党にも当て嵌まるかも知れない。「同して和せず」じゃ単なる烏合の衆である。或る意味では「民主主義の弱点」と言えるかも知れない。
(前略)デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」といふ三つ子にでも分る樣な眞理を考へ出すのに十何年か懸つたさうだ。(後略)
『吾輩は猫である 七』より。
・訂正。
×「分割」→○「分断」。直面する課題という本質は同じだが「Player(s) on the Other Side」に対してはこちらの語が適切だろう。
×「間諜」→○「エージェント(agent)」.。
第六十九段 ― 2022年02月21日
「スイス」「歌」で思い附いた事その他。
・ヨーデル
ヨーデルでまず連想するのは、オランダのロック・バンド「フォーカス(Focus)」の楽曲『悪魔の呪文(Hocus Pocus)』である。日本公演も2度行った。「Focusの『Hocus Pocus』」とは曲名からして振ってる。
ヴォーカル入りの曲だが歌詞カードは不要。意味のある言葉は「メンバー紹介」の部分のみ。あとはほぼ全篇ヨーデルである。
……え? 『アルプスの少女ハイジ』? ……子供の頃、原作を読んだことはあるが……。テイラー・スウィフトの「Shake It Off」? どうもナウいヤングの言うこたぁ、話があっちィ行ったりこっちィ行ったりして、何だかさっぱり判らねぇ。
・四分音
前にもちょっと触れたが、一般的な西洋12音の音楽ではあまり使われないだろう。が、中東の民俗音楽などでは基本らしい。「四分音音階」と言うのもあるそうだ。
さらに「微分音」なんて物もあるらしい。
・『狼少年ケン』と言うTVアニメがある。元ネタはキップリング(Rudyard Kipling、1865年-1936年)の『ジャングル・ブック(The Jungle Book)』だろう。レギュラー陣にジャックという名の隻眼の狼がいる(CV内海賢二)。ネーミングの由来はマーロン・ブランド(Marlon Brando、1924年-2004年)監督・主演の『片目のジャック(One-Eyed Jacks)』と思われる。映画の公開は米日とも1961年、アニメの放映開始は1963年である。このアニメ主題歌も好きだった(作曲は小林亜星)。かなり後になって、英国の特撮人形劇『海底大戦争』のオリジナル版主題歌「Stingray」を聴いた時、近いものを感じた。イントロで打楽器(percussion instruments)が活躍すると言う点だけだが。
なお、聴く限りでは、でんでん太鼓のような「弦打楽器(percussion with strings)」は含まれていないようだ。ピアノのような「打弦楽器(struck string instrument)」に関しては不明。
註:このarticleは特定のTV番組とは無関係である。内容が類似していたとしても、ほんの偶々に過ぎない(雁擬の事では無い)。
……そう言えば、フランシスコ・ザビエルのラスト・ネームは「Xavier」と綴るようだが、「Xenakis」は何故……いや、その、何でも無い。
・追記。
そう言えば、フォーカスには『ハンバーガー・コンチェルト(Hamburger Concerto)』(1974年)なんてアルバムもあった。タイトル曲の元ネタはこの曲。

・余談
「ラヴァーズ・コンチェルト」なんて曲もあった。サラ・ヴァーンなどが歌っている。聴いた人の九分九厘は「どこが協奏曲なんだ」と言いたくなるだろう。元ネタはこちら。
筆者が中学生の頃は「伝バッハ」だったが現在では真の作曲者が判明しているらしい。
蛇足ながら、昨今「九分九厘」の事を「九割九分」と言う人がいるようだ。「くぶくりん」だからリズミカルなので、「きゅーわりきゅーぶ」なんて間抜けな語感じゃ慣用句にならない。
第七十段 ― 2022年02月22日
何かを探していたら、ちょっと面白い物が見つかった。
「私の最初の翻訳」
丸善の二階はまだ狭く、外国の本なども今のように沢山は来ていなかった。私はおりおりそこに行って、なるたけ安い本をさがして買ったり、欲しい本を注文したりした。ツルゲネフの『親々と子供』、ドウデエの『流竄王(るざんおう)』、ある日ふとトルストイの『コサックス』の五十銭本、海辺叢書の一冊を其処にさがし出したが、それを呼んだ時には、夥(おびただ)しく感動させられた。
丁度内田君の『罪と罰』の最初の一巻が公けにされた頃で、その世評は嘖々(さくさく)としてきこえていたが、ラスコリニコフの心理描写よりもかえって此方(こちら)の方が好いように私には思われた。私はE君にその話をした。
と、E君はある日、
「一つ翻訳して見たまえ、H書店の翻訳の叢書の中に入れても好いって言う話だから……。」
「じゃ、やって見よう。」
私は喜んで引受けた。
その叢書は『ロビンソン漂流記』や『ドン キホオテ』などの出る叢書であった。恐らくH書店の主人は、丁度日清戦争時代であったので、コサックスという名に惚(ほ)れて、トルストイの傑作をコサック騎兵のことでも書いたものと思ったのであろう。それで、無名の一文学書生の翻訳をも引受けようと言ったのであろう。
しかし私にはそんなことはどうでもよかった。そういうすぐれた作品を翻訳し得るのは嬉しいと思った。その夏は丁度私は柳田君[引用者注 柳田國男だと思う]などと日光の寺に行っていたが――そこで日清談判破裂の騒がしい号外の声を聞いたが、帰って来ると、丁度好い塩梅(あんばい)に、裏の大きな二階屋が貸屋になっていたので、そこに机を持って行って、そして夏中一生懸命にその翻訳にその翻訳に従った。
勿論その時分もやはり歴史家の二階に写字には通っていたので、夜と日曜と朝としかそれをやっているわけに行かなかった。それに、語学は不完全だし、翻訳も初めてなので、初めはとても出来そうには思われなかった。しかしそれもどうやらこうやら曲りなりにも漕ぎ付けた。
従ってその翻訳は滅茶苦茶であったに相違なかった。それに、その台本にした本も、省略の多いものであった。
しかしその奥の二階での仕事は今でもはっきりと私の記憶に残っている。栽込(うえこみ)の深い庭に夜遅く月が登って、それが葉間から洩れて来たり、西日が暑く窓からさし込んで来たり、虫の音(ね)が湧くようにあたりに繁くきこえたりした。ランプが遅くまで二階についているのが外から見えた。
そこで私はオレニンの苦悶を考えたり、ルカシカの生活を思ったり、ヂェロチカという老人の自然に対する感慨を思ったりした。カウカサスの不思議な生活は、この極東の一文学青年の空想と煩悶とに雑(まじ)り合った。
で、三月かかって完成した。紙数六百余枚。
それを清書して、E君から紹介書を貰って、私はそれをH書店に持って行った。H書店もまだその時分はそう大して大きな書肆ではなかった。本石町(ほんごくちょう)から本町(ほんちょう)へはもう移っていたけれども、編輯局(へんしゅうきょく)も何も出来ず、主人の新太郎氏は、表の通に面した店の隅の帳場に坐っていた。新太郎氏もまだその頃は若かった。
E君の手紙が添っていたので、新太郎氏は私をその帳場のところへと引見した。髪の長い蒼白い顔をした私を、いやにじろじろと神経的に人の顔を見るオドオドした一文学青年を。
小僧が本を運んで来た。
新太郎氏は、厚い私の翻訳の原稿をバラバラと明けて見て、
「コサックのことはかなり詳しく書いてありますか。」
「え。」
また、開けて見て、「一体、あの叢書は、あんまり売れんで、あとはどうしようかと思っているんだが、……これは、まア、しかしお頼みしたのだから、出版するつもりですけれど……あれは、一冊三十円ずつになっているんだが……。」
六百枚の翻訳――三十円。しかし私は別に苦情は言わなかった。私はやがて急いでそこから出て来た。で、あのトルストイの『コサックス』の拙(まず)いひどい翻訳が出た。
田山花袋『東京の三十年』より。原著の刊行は1917(大正6)年。ドーデ(Alphonse Daudet、1840年-1897年)の『パリの三十年(Trente ans de Paris)』(1888年)に倣ったものらしい。題に「最初の」とあるが、後に何とフローベールの長篇『ボヴァリー夫人(Madame Bovary)』(1857年)も訳しているらしい(ウィキペディア情報)。
単なる「蒲団フェチの変なおじさん」では無かったようだ。
……それにしても、何を探していたんだっけ……。
第七十一段 ― 2022年02月23日
またもや予期せぬ物が出て来た。
『まえがき』
ある、丹念にものをしらべる人が、いったい明治以来、「西遊記」と名のつくものが、どのくらい出版されたかと、しらべてみたところ、ゆうに三百種に達していることが、わかったそうです。しかもその九割以上が、青少年のためのものであります。もっとも、それらはほとんどが、徳川時代に訳された日本訳から、ダイジェストされたものばかりではありますが。
このように「西遊記」は、日本の少年に愛好されてきましたが、「西遊記」のほんもとの中国でも、この本は、青少年の愛読書の随一(ずいいち)となってきました。
わたくしはかつて、したしく、中国から来ている留学生に、たずねてみましたところ、かれらもみな、中学生か小学生の時代に、「西遊記」を読んだことを告白しています。また現在、中華人民共和国の毛沢東主席(もうたくとうしゅせき)も、少年時代に本書を読んだことを、その自伝にのべています。なおおもしろいことには、猛主席は、学校で課せられた本よりも、小説の「三国志」や「西遊記」を、かくれて読んだことが、将来、ずっとためになったことをつけ加えています。
しかし「西遊記」の原本は、もちろん、おとなのために書かれたもので、青少年にはわからないところもあり、また教育上おもしろからぬところも、少しはあります。そこで中国でも、青少年のための抄本(しょうほん)や、かんたんなダイジェストがたくさん出ました。が、少年たちは、そんな片々(へんぺん)たるものにはあきたらず、やはり原本を、内証(ないしょ)で読んでしかたがありません。そんなわけで、ついに方明(ほうめい)という人が、原本の一部をけずり、価値のあるところ、おもしろいところをぜんぶ生かして、青少年のための、模範的底本をつくったのが、その「改編西遊記」であります。これはしかし、邦訳しますと、四百字原稿紙で二千数百枚にもなるもので、日本のダイジェスト本にくらべると、比較にならないほど、ぼう大なものです。
わたくしは戦前に、その「改編西遊記」を、全訳したことがありましたので、その経験を生かして、こんどこの「西遊記」三巻を、編訳することにいたしました。このくらいの紙数では、多少食いたりない点も生じますが、まあ、まあ、青少年のためのものとしては、満足できるのではないかと思っています。
さきに――「西遊記」は、徳川時代に訳されたと申しましたが、じつはあれは、四分の一あまりの編訳で、そのためでもありましょうか、巻中のあふれるようなユーモアや、しゃれや、こっけいが、大部分失われてしまっています。まして、それからまたダイジェストした少年ものは、ただ、いたずらに孫悟空の武勇伝、妖魔の変化(へんげ)くらべにすぎないものになっています。
また「西遊記」は、七十パーセントまでぐらいが、軽快な会話で、その会話の受けわたしで、描写的に構成されているものですが、旧訳はその会話の多くが失われ、ぜんたいが説明体になりおわっています。
なおまた、あまりみじかい旧訳では、孫行者(そんぎょうじゃ)、猪八戒(ちょはっかい)、沙和尚(さおしょう)その他の性格がはっきりせず、ことに孫行者にもおとらない立役者(たてやくしゃ)の、八戒の性格が、なおざりになっています。シェイクスピーアは、一万人の心をもっていたとかで、たくさんの人間の性格の型(かた)を、創造しましたが、そのなかでも――太っちょで、大食らいで、うそつきで、無類のこっけい家(か)で、人間のあらゆる欠点をそなえていながら、しかもどうしてもにくめない、あのフォールスタッフという人物が、一ばんの傑作であるとか、言いますが、このフォールスタッフに好一対(こういっつい)のものが、猪八戒であります。八戒こそは「西遊記」中で、いや中国の全古典小説中で、もっとも特色ある性格ではないかと、わたくしはひそかに信じています。なお孫悟空にしましても、原本で読みますと、いわゆる神通広大(じんずうこうだい)で、ただ強いばかりではなく、「仁(じん)も義(ぎ)もあり」、寝てもさめても、その師(し)を思う真情(しんじょう)にいたっては、じつに切々(せつせつ)たるものがあり、わたくしどもも、つい涙ぐまされてしまうくらいであります。
以上、くどくどとのべてまいりましたが、わたくしはこんど、新しく本書を編訳(へんやく)するにあたりまして、すこしでも旧訳の欠(けつ)をおぎなおうとし、また量もかつかつではありますが、その大作の特色を、うかがうに足るだけの分量とし、なるべく会話体を生かし、ユーモアや、しゃれはぜんぶとりいれ、全編いたるところに出てくる、格言や、興趣(きょうしゅ)ある俗諺(ぞくげん)の多くをもとり入れることにいたしました。それで、以前の邦訳(ほうやく)の「西遊記」を読まれた方でも、もいちど本書をひもといて、――じつに「西遊記」とは、こんなに内容の豊富なものであったか――と、西遊記観(かん)を、一新してくださる方があれば、わたくしの満足はこれにすぎません。(以下略)
1955(昭和30)年刊の『西遊記』より。編訳した伊藤貴麿(いとうたかまろ、1893年-1967年)の文章。この編集・翻訳の著作権は消滅している筈だから、閑に飽かせてそのうち中身もアップするかも知れない。
……「何を探していたか」という難問は未だ解けない。