盗坊と母親 イソップ ― 2022年08月21日
盗坊(どろぼう)と母親 イソップ 楠山正雄訳
子供が小学校へ通う頃から友達の本を取って来ては母親に見せた。それを母親は叱りもしなかった。其の次には外套を盗んで来たが、あべこべに母親に褒められた。その子供が大人になってますます盗坊(どろぼう)がうまくなり、沢山(たくさん)人の品物を掠(かす)め取った揚句(あげく)、到頭見付かって縛られてしまった。さて愈々(いよいよ)死刑と極(き)まって仕置場(しおきば)へ引いて行かれる途中、この盗坊(どろぼう)の母親が見物の中に交じっていて、わが子の浅ましい姿を見ると、胸を拊(う)ってなげき悲しんだ。その時盗坊は、
「母に一言(いちごん)言い残したいことがございます」
と願った。母親が許されて傍(そば)へ寄って来ると、盗坊はいきなり母の耳に口を寄せて、一口にアングリその耳を噛み取ってしまった。母親は怒る、人々は騒ぐ、その中に盗坊は大きな声で、
「お母(っか)さん、わたしが度々(たびたび)友達の本を取って来たとき、お前はなぜわたしを打(ぶ)って呉れなかったのだ。そのおかげで到頭こんなざまになって、情ない死にようをすることになったのだぞ」
と叫んで口惜し泣きに泣いた。
盗人と母の話 通俗伊蘇普物語 ― 2022年08月21日
「第七十二 盗人と母の話」 『通俗伊蘇普物語』より 渡部温訳
或手習子(てならひて)手癖悪くして。朋輩の筆紙(ふでかみ)などをしばしば盗(ぬすむ)で持帰りしが。母叱りはせずして。却(かへつ)て働きものなりと誉(ほめ)けり。その子成長するに従ひ。盗(ぬすみ)ごと次第に増長して。貴重(ねうち)のものをさへ盗む様になりしかば。果(はて)は公儀の手にかゝり。法場(おきてのには)に引れたり。その時母はかなしみに堪(たへ)ず。いかにもして最後を見届け。念仏をも申さんと。泣々(なくなく)群集(くんじゆ)に立まぎれ。後に尾(つき)つゝゆきけるが。その子は目早(めばや)く見て取(とり)て。附添の役人に打向ひ。「彼処(あすこ)に来(きた)る我(わが)母ヘ。何卒(なにとぞ)最後の一言(ひとこと)を演申度(のべまうしたし)」と云ければ。事もなしとて許されたり。そこで母は涙を拭ひ。「何事をいひ置くぞ。いざ申されよ」といひながら。耳を口もとへさし寄(よす)れば。其子は只怨めしャといふ一言(いちごん)にて。母の耳朶(みゝたぶ)を噬(く)ひきりたり。此騒(このさわぎ)にて人々打寄(うちより)。母をいたはり介抱して。実に汝(おまへ)の息子殿は人でなし。今までの罪はさて置(おい)て。此度の事は大悪無道(だいあくぶだう)と。いたく罵り噪(さわ)ぎゐたければ。其子静(しづか)に回顧(ふりかへつ)て。「列位(みなさま)左様におつしやるな。私を此極(こゝ)に至らせましたは。固(もと)はといへば母の所為(わざ)。私がまだ幼少(ちいさ)いときに。朋輩のものを盗(とり)ましたのを。厳しく叱つて下されば。今日の事はありませぬ。嗚呼(あゝ)怨めしィ」といひけるとぞ。
・原話は前出と同じ。イソップの寓話には「ヒト」以外の動物が登場しないものもあるが、これもその一つ。
第百三十三段 ― 2022年08月21日
「四分音」「八月」「終戦記念日から一週間」「ザポリージャ」等からの連想。
ポーランドの作曲家ペンデレツキに『広島の犠牲者に捧げる哀歌』と言う曲がある。タイトルを知っているだけで曲自体は未聴。
岩城宏之氏のエッセイに依れば、「二十世紀後半で最も重要な楽曲の一つ」だそうだ。四分音を同時に鳴らすという技法で知られるらしい(ウィキペディア情報)。
筆者の場合、音楽に限らず「おゲージツ」全般と個人的に相性が良くないので詳細は知らない。
そう言えば、穐吉敏子にも『ヒロシマ―そして終焉から』と言う組曲があった。
・追記。
穐吉敏子には、「ミナマタ」と言う組曲もある。アルバム『インサイツ』(1976年)所収。