河畔の悲劇 292022年08月11日

二九、間一髪

 すべてがルコックの予想したとおりであった。
 ロオランスは死んだのではなくて、両親へあてて自殺をすると書きおくった彼女の手紙は、一つの偽計(トリック)に過ぎなかった。その実(じつ)、彼女は、米国人ウィルスンと変名している伯爵とともに、サン・ラザール街の隠れ家にひそんで、ウィルスン夫人となっていたのであった。
 あんなに無邪気で可愛い娘さんだったロオランスが、どうしてこんな惨めな、草にも木にも心置く不安な身の上になってしまったのか。これも運命の果敢(はかな)さというものであろう。
 伯爵がパロオのもって行った手紙を読んで、あたふたと出て行った後、その晩は門番のほかの召使達もみな外出してしまったので、哀れなロオランスは独り留守居(るすい)をしながら、しみじみと過ぎこし方の思い出を辿っていた。
 何だか、呼吸(いき)をつく暇もなく、嵐に吹きまくられて来たような気がするのであった。ひょっとするとこれはみんな悪い夢で、今にも、あの懐かしいオルシバルの邸の、自分の室(へや)に目が醒めるのではないか、と思ったり、一体こんな風に人目を避けて、日蔭者の生活をしているこの身が、ほんとうの自分であろうか、と疑ったりした。そして、それを思えば思うほど、両親や、妹や、故郷の親しい人々に対する思慕の情が、涯しなく募るのであった。
 彼女は書斎の長椅子にもたれて、心ゆくまで泣いた。たった二十歳で損なわれてしまった彼女の人生と、永久に失われた処女の誇りと、そして二度とふたたび返って来そうもない、あの華やかだった希望を泣いたのである。
 と、暫く経って、だしぬけに戸が開けられたので、彼女は慌ててハンケチを顔にあてて、涙をかくしながら起(た)ちあがると、一人の見知らぬ男が、閾ぎわで丁寧に腰をかがめながら、入って来た。
 伯爵から、二人を狙っている者があるから気をつけなければならぬと注意されていた矢先なので、その瞬間に彼女は、ハッと思うと、何だか恐ろしい予感とともに、身ぶるいがした。
「貴方は誰方(どなた)ですか。何の御用ですか?」
 少し慳貪(けんどん)に問いかけた。
 入って来たのは、ルコック探偵だった。彼はそうした詰問を予期していたので、何もいわずに、一歩側面(わき)へよると、そこにプランタさんの姿が現われた。
「あら――貴方もいらしたんですか――」
 ロオランスは驚きと羞(はずか)しさで、殆(ほとん)ど消えも入(い)りたい気持だった。
 プランタさんは彼女よりももっともっと感動したらしいが、無言のまま、彼女の窶(やつ)れはてた顔を見まもっていた。
「わたしを取押(とりおさ)えにいらんしたんでしょう。あんな手紙を書いたって、どうせ見つかるにきまっているから、厭(いや)だって申しましたけれど、エクトルが肯(き)かないものですから――わたしはもう、誰方(どなた)にも顔向けが出来ません――いっそ死んでしまいとうございます。」
 いきなりそんなことを云いだしたので、プランタさんは慌ててなだめようとすると、ルコックが遮って、
「マダム、我々は伯爵を取押えに来たのです。しかしあなたは罪がないから、御安心なさい。」
「えっ、エクトルを? どうしてですの?」
「伯爵には、容易ならぬ犯罪があります。」
「そ、それは何かの間違いでしょう。」
「ところが、不幸にして事実なのです。伯爵は、水曜日の晩に夫人を殺害(せつがい)しました。それで取押えに来たわけなんだが――ここに逮捕命令をもっています。私は警視庁の探偵です。」
 ロオランスは、落雷にでもうたれたように愕然(ぎょっ)としたが、しかし案外しっかりしていた。
「ああ、やっぱりそうでしたか。」彼女は絶望しながらも、儼然(きっ)となって、「では、わたしも同罪です。わたしも一緒に縛って下さい。」
「いや、あなたは共犯者ではない。」と探偵はいった。「それに、伯爵の犯罪は、今度の夫人殺しばかりではありません。二年前(ぜん)には夫人と共謀して、その先夫で自分にとっては親友でもあり生命(いのち)の恩人だったソオブルジイ氏を毒殺したのです。それについても証拠があがっています。」
 それを聞くと、ロオランスはまったく胸つぶれて、へなへなと長椅子の上に崩折(くずお)れてしまった。
 成るほど、思いあたる節々(ふしぶし)があった。伯爵はソオブルジイの死後、ベルタ夫人と結婚をした。そのくせ夫人に対する憎しみは日にまし募って行った。その時分から、妙に怖々(おじおじ)して、人目を避けたがる癖が出来た。そしてついに家出をしてしまったが、そうした彼の行動は、ソオブルジイの毒殺と夫人殺害という二つの犯行に結びつけて考えると、判然(はっきり)わかるのであった。
「わたしは知っています――何もかも知っています――」
 彼女はすて鉢(ばち)な気持で、出来るだけ伯爵と途(みち)づれになろうとするらしかった。
「うむ、あなたはよくよく彼に迷っているんだな、可哀そうに。」
 プランタさんが落胆(がっかり)していうと、ロオランスは何を思ったか、すっくと起(た)ちあがった。その眼付には案外にも鋭い反感がひらめいていた。
「プランタさま、貴方にはわたしのこの気持がおわかりにならないのでしょう。今はもう何もかも申しあげますから、どうぞお聞きなすって下さい。わたしはエクトルを愛しています――いいえ、愛していました。あの人のために両親に背いたばかりでなく、自分の身はどうなってもいいとさえ思っていました。けれど、あの人の素振(そぶ)りで本心がわかってからというものは、わたしもそれまでの情愛がなくなって、只もう、何て情(なさけ)ない人だろうと思うようになってしまいました。ソオブルジイさんが毒殺されたということは気づきませんでしたが、エクトルの話では、或る事情のために、自分の生命(いのち)も名誉もそっくりベルタの掌(て)に握られているので、どうしてもベルタと結婚をしなければならぬ立場になったから、これだけは許してくれいという頼みなのです。わたしは、それは死ぬよりも辛いことだけれど、あの人の幸福のためと思って、我慢をしました。わたしは詰らなく犠牲になったのですわ。それでわたしは、身重(みおも)になった恥を繕(つくろ)うことも出来ない体になったので、ほんとうに自殺を覚悟したのに、エクトルは、どうかそんなことをしないで――子供のために生きていてくれといって、泣くように頼むものですから、とうとうわたしが負けてしまったのです。」
 伯爵の帰宅(かえり)が刻々に迫って来ている。ここで手筈が狂うようなことがあっては大変なので、ルコックははらはらして、早くこの話を切りあげさせようと焦(あせ)ったが、彼女は平気だった。
「けれど、わたしが今更そんなことをいったって、仕様がありません。エクトルが大罪を犯したとすれば、わたしも其の罪を半分引受けるつもりです。是非そうしなければならないと思いますの――」
 そういいかけたとたんに、街の方から、呼子(よびこ)の音が高らかに二声(ふたこえ)聞えて来た。伯爵が帰ったというパロオ刑事の相図(あいず)なのである。もう一刻もぐずぐずしてはいられない。ルコックはいきなりロオランスの腕をつかんで、
「そのお話はすべて判事におっしゃって下さい――私の役目はトレモレル氏を逮捕するだけですから――これがその逮捕命令です。」
と、衣嚢(かくし)からドミニ判事の書いた逮捕命令を取りだして、卓子(テーブル)の上においた。ロオランスは一生懸命、冷静になろうとしながら、
「お願いがあります。エクトルと五分間談(はな)しをさせて下さるわけに行かないでしょうか?」
「五分間ぐらいなら、いいでしょう。しかしその間に囚人を逃がそうとしたって駄目ですよ、マダム。私は隣りの室で監視しているし、家の前には、私の部下が大勢張りこんでいますからね。」
 階段を昇って来る跫音は、たしかに伯爵だった。
「あ、エクトルが帰って来ました。早く隣室(となり)へいらして下さい――わたし達は決して逃げも隠れもしません。」
 探偵とプランタさんを奥の間へ押しやって、手早く戸口の垂幕(カーテン)を卸したところへ、伯爵が入って来た。顔が死人(しびと)のように蒼ざめて、何者(だれ)かに追っかけられてでもいるような、不安な眼つきをしていた。
「大変だ。手が廻ったらしいぞ。今この手紙の差出人のところへ行ったら、そんな手紙をやった覚えがないっていうんだ。さア早く逃げよう――此家(ここ)にぐずぐずしていては、危(あぶな)い!」
 ロオランスは惨(いた)ましい、そして軽蔑した眼付で、じっと伯爵の容子を見ていたが、
「もう駄目です。」
「どうして?」
「何もかも発覚しました――貴郎(あなた)が奥さまを殺したっていうこともね。」
「それは飛んでもない濡れ衣だ。」
 しかしロオランスは、黙って、肩をすぼめた。
「うむ、実はやっつけたのだ。」と伯爵は急(せ)きこんでいった。「あなたが可愛いばっかりに!」
「でも、ソオブルジイさんを毒害したのは、わたしの故(せい)じゃないんでしょう。」
 伯爵は、もう可(い)けないと思った。留守中に役人がやって来て、すべてを彼女に告げたに相違ないことを知った。
「ハテどうしたらいいだろう?」
 いたずらに狼狽していると、ロオランスは彼を引きよせるようにして、耳許(みみもと)にささやいた。
「貴郎(あなた)、トレモレル家の名誉をお考えなさい。ここに短銃があります。」
「いや、まだ逃げられる。僕が先に行って、隠れ場所がきまったら、あなたを呼ぼう。」
「もう駄目だっていったではありませんか。警官がこの家を取囲(とりま)いています。どうせ捕まって絞首台に引かれるよりは――」
「待て待て、前庭(ここ)から逃げられないってことはあるまい。」
「前庭(ここ)にも大勢張りこんでいます。」
 窓から前庭(ここ)の方を見ると、ルコックの部下が隙(すき)もなく警戒(かた)めているので、伯爵は半狂乱のようになったが、
「しかし出来るだけやってみよう。僕は変装で逃げる――」
「それも可(い)けません。探偵が奥の間で監視しています。卓子(テーブル)の上にある逮捕命令は、その探偵がもって来たのです。」
 もはや絶体絶命であった。
「僕はどうしても死なねばならんのか。」
「こうなっては仕方がありません。罪のない者が係合(かかりあ)いにならないように、告白状をお書きなさい。」
「それもそうだ。」
 伯爵は機械的に坐って、ロオランスから渡されたペンを執(と)った。

 余は今神の御前(おんまえ)に行かんとするに当り、次の件を告白す。余は前にはクレマン・ソオブルジイを毒殺し、次いで余の妻なるトレモレル伯爵夫人を殺害したり。いずれも共犯者なく、全然余が単独にて行えるものなり。

            エクトル・ド・トレモレル

 書き終ったとき、ロオランスは卓子(テーブル)の抽斗をあけると、そこに伯爵の短銃(ピストル)が二挺はいっていた。
 伯爵はその一挺を手に執った。と、ロオランスも手早く他の一挺を握った。
 伯爵は顳顬(こめかみ)のところへ短銃(ピストル)をもって行ったが、顔は颯(さっ)と血の気がうせ、手先がぶるぶるふるえて、その短銃(ピストル)をぱったり床へ落してしまった。
「ああ、ロオランス。僕が死んだら、あなたはどうなるだろう?」
「わたしもお後(あと)を慕(した)いますわ――ね、おわかりでしょう――」
「ああ堪(たま)らん。」伯爵はいった。「ソオブルジイを殺したのは、ほんとうは僕じゃないんだ。あの女だ。証拠がある。それについては、立派な弁護人もある。」
 ルコックは、この悲劇的場面の一挙一動をも見のがすまいとして、戸口の垂幕(カーテン)の隙間(すきま)から、じっと覗きこんでいたが、そのとき故意(わざ)としたのか、それとも偶然だったか、その垂幕(カーテン)をひいて、かすかな音を立てた。
 ロオランスは、探偵が踏みこむらしい気配を感じてはっと思った。
「貴郎(あなた)、女々しいことをいっている場合ではありません!」と彼女はさけんだ。「その短銃(ピストル)ではやく――」
 それでも伯爵はもじもじしていたが、戸口の方で再び垂幕(カーテン)の音。もう可(い)けない――彼女は矢庭(やにわ)に引金をひいた。轟然一発!
 伯爵がぱったり床へ斃(たお)れた。
 ロオランスはすぐに銃口を自分の顳顬(こめかみ)へあてたが、その瞬間に、飛鳥(ひちょう)のごとく跳びこんで来たルコックが、彼女の手を攫(つか)むが早いか、短銃(ピストル)を奪(と)りあげてしまった。
「何をするんです? 慌(あわ)てちゃいけない!」
と探偵は叫んだ。
「死なせて下さい――わたしは生きてはいられません――」
「それは可(い)かん。あなたを死なして堪るものか!」
「わたしはもう、人に顔向けの出来ない女ですから――」
「いや、あなたは悪漢に誘(つ)れだされた、お気の毒な女(ひと)です。あなたはひどく過失(あやまち)を悔いておられるようだが、それを償う方法は、この世の中に幾らでもあります。何も死ぬるばかりが道でない。それに、あなたの生命(いのち)は、あなたばかりのものではありません――ね、あなたの――」
「いいえ、子供のためにも、死んだが優(ま)しと思います。子供が大きくなって、親のことを訊かれますと、わたしは何と答えていいかわかりません。」
「それは御安心なさい。そのときは、あなたの親友だった、人格の高い紳士のお姓名(なまえ)を仰(おっ)しゃればいいんです。その人は喜んで、御自分の姓名(なまえ)をお与えになりましょう――その紳士というのは、ここにおられるプランタ氏です。」
 プランタさんは、悲痛な顔をして、物もいわずに控えていたが、そのとい、つと前へ出て、
「ロオランス、お気の毒だが、そういうことにして下さい。」
と口を添えた。言葉は簡単だが、その中に無限の愛情と優しさがふくまれていた。ロオランスは堪らなくなって、わっとばかりに泣き伏した。
 彼女は救われたのであった。
 ルコックは長椅子におちていたショールを彼女の肩にかけてやってから、彼女の手をとってプランタさんと握手をさせながら、
「この女(ひと)をつれて行って下さい。パロオ刑事が馬車の準備(したく)をして、外に待っています。」
とプランタさんにいった。
「我々は何処へ行くんですか?」
「オルシバルへ! 私はクルトアさんに、令嬢が生きておられることを、手紙でお知らせしておきました。御両親ともお待ちかねでしょうから、一刻も早く無事なお顔を見せてあげて下さい。」
と、大急ぎで二人を送りだしたが、やがて轣轆(れきろく)と馬車の駈けだした音を聞きすましてから、伯爵の屍体のそばへ行った。
「可憫(かわい)そうに。逮捕するかわりに俺の手心でとうとう殺してしまった。俺は義務には背いたか知らんが、良心に疚(やま)しいところはない。俺は正しい処置をとったと信じていいのだ。」
 ルコック探偵は、こう独言をいいながら、階段のところへ行って部下の刑事等を呼び入れた。

 伯爵が死んだ翌(あ)くる日、かねて容疑者として収監されていたベルトオ爺と、庭師のゲスパンが釈放された。
 それから半月経って、この事件の詳しい関係を知らぬオルシバルの人々をアッといわせたのは、老保安判事プランタさんと、ロオランス・クルトア嬢が、突然にめでたく婚礼の式をあげたことであった。そしてこの新郎新婦は、その夜(よ)、一年間滞在の予定で、伊太利(イタリー)の方へ旅立った。
 町長クルトア氏は、それから間もなく、オルシバルの邸宅を売り払って、今度は仏蘭西(フランス)の中部地方に善き町長が欲しそうな町を物色しているということであった。


河畔の悲劇 終


・一読されればお判りのように、「前半で犯人が判明→後半は犯行に至るまでの事情」と言う構成になっている。無論、ホームズ物の第一作『緋色の研究(A Study in Scarlet)』はこれを踏襲している。ホームズのキャラクターも、「デュパンの分析力・推理力」+「ルコックの観察力・行動力(と変装癖?)」を併せ持っている。ドイルがポウとガボリオ両者を参考にした事は周知の事実である。