人は何で生きるか 32022年08月10日

    三

 セミョーンの女房は早く用事をすませてしまいました。薪(たきぎ)を割り、水をくみ、子供たちにもご飯を食べさせ、じぶんも食事をすましてから、思案をしはじめました。パンを竈(かまど)に入れるのはいつにしよう、今夜にしようか明日にしようかと思案したのです。いま丸パンの大きなはしっこが残っています。
『もしセミョーンがむこうで食事をすまして来たら、夜食にはたいしてたくさん食べやしないだろう。そうすれば、明日の朝のパンはこれで十分だ』と考えました。
 マトリョーナはパンのはしっこを、ひっくり返しひっくり返ししながら考えるのでした。
『今夜はパンを籠へいれないことにしよう。粉もそうたくさん残ってはいないんだから、金曜日までもたすようにしよう』
 マトリョーナはパンをしまいこんで、亭主のルバーシカの破れをつくろいにかかりました。針仕事をしながらマトリョーナは、亭主がどんな羊皮を買って来るか、と考えるのでした。
『ひょっと毛皮屋にだまされなきゃいいが。なにしろうちの人はほんとうに気がいいのだからねえ。じぶんじゃ他人をだますようなしないけれど、ちっぽけな子供でさえあの人をごまかすのはわけなしなんだから。八ルーブリといったら、ちっとやそっとのお金じゃないから、いい毛皮外套がこしらえられる。たとえ本鞣(ほんなめ)しでないにしろ、なんといったって毛皮にゃちがいない。去年の冬は毛皮外套がなくって、どれだけ苦労したかしれやしない! 川へもどこへも行かれないんだもの。今だって、外へ出かけるのにありったけのものをみんな着て行っちまって、わたしなんか、着るものもありゃしない。そう早く出かけたわけじゃないけれど、もう帰ってもいい時分だ。ひょっとあの男、酒でも飲んでるんじゃないだろうか?』
 マトリョーナがそう考えるか考えないかに、入り口の段々が、みしみしいって、だれかがはいって来ました。マトリョーナは、針を仕事につきさして、入口の間(ま)へ出てみると、二人づれではありませんか。セミョーンのほか、どこかの男がフェルトの長靴をはいて、帽子もかぶらずに立っています。
 マトリョーナはすぐさま、亭主が酒くさい匂いをさせているのに感づきました。『やっぱりそうだ、飲んで来たのだ』と考えました。ふと見ると、亭主は長外套も着ないで、じぶんの内着一枚きり、しかも手には何もさげていないで、だまりこんだままもじもじしています。マトリョーナは腹の中が煮えくり返るような気がしました。
『お金をみんな飲んでしまったにちがいない。どこかのよたものといっしょにさわいで、おまけにそいつをひっぱって来たんだ』
 マトリョーナは二人を中へ通して、じぶんもその後からはいりましたが、見ると、見も知らぬ若いやせぎすの男で、着ている長外套はじぶんの家のものです。長外套の下にはシャツを着ているふうもなく、帽子もかぶっていません。中へはいると、そのままそこにつっ立って、身動きもしなければ、目もあげません。そこでマトリョーナは、よくない人間だから、びくびくしているのだ、と思いました。
 マトリョーナは顔をしかめて、暖炉(ペーチカ)のほうへ離れて行き、二人がどうするかと見ていました。
 セミョーンは帽子をぬいで、身にやましいところがない人間のように、床几(しょうぎ)に腰をおろしました。
「おい、マトリョーナ、夜食の支度をしないか」
 マトリョーナは、口の中で何かぶつぶついうばかりで、暖炉のそばに立ったまま、動こうとしません。二人をかわるがわる見くらべて、首をひねるばかりです。セミョーンは女房のきげんが悪いのを見てどうもしかたがないとあきらめ、見知らぬ男の手を取って、
「さあ、腰をかけないかね、夜食をしよう」といいました。
 見知らぬ男は床几に腰をおろしました。
「いったいなんにも煮なかったのかね?」
 マトリョーナはしゃくにさわって、
「煮たことは煮たけれど、おまえさんのためじゃないよ。どうやら見受けたところ、おまえさんは分別まで飲んでしまったとみえるね。毛皮外套をこしらえに行って、長外套もなしで帰って来て、おまけにどこかの宿なしをひっぱりこむなんて。おまえさんたちのような、酔っぱらいに出す夜食はありませんよ」
「マトリョーナ、わけもわからずによけいな口をたたくなあたくさんだよ。その前に、どういう人間か聞いてみるもんだ……」
 セミョーンは長外套のかくしをさぐって、紙幣を取り出し、それをひろげて見せました。
「そら、これが金だ。トリーフォノフはよこさなかったよ、明日はきっとという約束でな」
 マトリョーナはいよいよ腹がたってきました。毛皮も買って来ないで、たった一枚しかない長外套をどこかの裸男に着せて、家へひっぱってくるなんて。
 マトリョーナはテーブルの上の金を取って、それを長持にしまい、こういうのでした。
「いいえ、夜食なんかありません。裸の酔っぱらいをいちいち養ってたまるもんかね」
「おい、マトリョーナ、少し口をつつしみなさい。まあ初めに人のいうことを聞くものだ……」
「酔っぱらいのあほうのいうことを聞いたって、利口にはなりゃしない。わたしゃおまえみたいな酒飲みと夫婦になるのが、初めから気がすすまなかったが、やっぱり虫が知らせたんだねえ。おっ母(か)さんからもらった反物もおまえさんに飲まれてしまうし、毛皮を買いに行けば、それも飲んでしまうし」
 セミョーンは女房にむかって、じぶんが飲んだのはたった二十コペイカだけだ、ということも得心のいくように話して聞かせ、この男を見つけたしだいも話そうと思いましたが、マトリョーナがいわせてくれません。どこから出て来るのか、一度にふたことずつもしゃべって、セミョーンの口を入れるすきがありません。十年も前のことまで持ちだす始末なのです。
 マトリョーナはぺらぺらとまくしたてて、セミョーンのそばへ走り寄り、そのそでをひっつかむのでした。
「さあ、わたしの着物を返しておくれ。たった一枚残ったものをわたしからひっぱがして、じぶんで着てしまったのじゃないか。さあ、こっちイおよこし、このあばたづらの畜生、くたばってしまえ!」
 セミョーンは女房の内着をぬごうとしたところ、片そでがうら返しになりました。そのとき女房がぐいとひっぱったので、ぬい目がぴりぴりとほころびました。マトリョーナは内着をひったくって、頭からかぶり、戸に手をかけました。そのまま出て行こうとしましたが、ふと足をとめました。腹の中がむしゃくしゃして、癇癪(かんしゃく)のやり場がないので、この男が何ものか聞いてやろうと思いました。