人は何で生きるか 1 トルストイ ― 2022年08月05日
人は何で生きるか トルストイ 米川正夫訳
われら兄弟を愛するによりて、死より生命に移りしを知る、愛せぬ者は死のうちにあり。(ヨハネ第一書第三章第十四節)
世の財宝(たから)をもちて兄弟の乏しきを見、かえって憐みの心を閉ずる者は、いかで神の愛そのうちにあらんや。(第三章第十七節)
わが子よ、われらことばと舌とをもて相愛することなく行ないと真(まこと)とをもってすべし。(第三章第十八節)
愛は神より出(い)ず、おおよそ愛ある者は、神より生まれ神を知るなり。(第四章第七節)
愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり。(第四章第八節)
いまだ神を見し者あらず、われらもし互いに相愛せば、われらにいます。(第四章第十二節)
神は愛なり、愛におる者は神におり、神もまたかれにいたもう。(第四章第十六節)
人もし『われ神を愛す』といいて、その兄弟を憎まば、これ偽る者なり。すでに見るところの兄弟を愛せぬ者は、いまだ見ぬ神を愛することあたわず。(第四章第二十節)
一
一人の靴屋が女房や子供といっしょに、ある百姓の家を借りて住んでいました。じぶんの家もなければ土地もなく、ただ靴屋の仕事だけで家族を養っていました。パンは高いし、仕事賃は安いので、かせいだものはみんな食べてしまうありさまです。靴屋は女房とおもあいで毛皮の外套を持っていましたが、それもくたびれてぼろぼろになってしまいました。で、もうこれで二年ごし、新しい毛皮外套をつくるのに、羊の皮を買おうと思っていました。
秋になるころ、靴屋には小金がたまりました。三ルーブリ紙幣(さつ)が女房の長持にしまってあるし、そのうえ、五ルーブリ二十コペイカが村の百姓たちに貸してありました。
で、靴屋は朝から羊皮を買おうと思って、村へ行く支度をしました。ルバーシカの上から、綿のはいった女房の南京木綿(ナンキンもめん)の内着を着て、その上に羅紗の長外套(カフタン)をひっかけ、三ルーブリ紙幣をかくしに入れ、杖をこしらえて、朝めしをすますと、村へ出かけました。心のうちでは『百姓どもから五ルーブリ受け取ったら、この三ルーブリをたして、新しい外套に使う羊皮を買おう』と考えているのでした。
村へ着くと、靴屋はある百姓のところへ行ってみましたが、留守でした。女房は、一週間のうちに亭主に金を持たしてやると約束したけれど、金はくれませんでした。もう一人の百姓のところへ行くと、金がないと神かけて誓った後、靴の修繕代といって二十コペイカだけくれました。靴屋は羊皮をつけで買おうとしたけれど、皮屋はつけではくれません。
「金を持って来なさい、そうしたら好きなのを取らしてあげるから。かけがどんなに取りにくいか、こっちはちゃんと知ってらあ」
こういうわけで、靴屋はなんの用もたさず、ただ修繕代の二十コペイカをもらって、ある百姓から古いフェルトの長靴を皮で張る仕事を取ったばかりです。
靴屋はすっかりしょげてしまって、二十コペイカをみんな使ってウォートカを飲み、羊皮を持たないで家路に向かいました。靴屋は朝からひどく寒いように思っていましたが、いっぱいやると毛皮外套なしでも暖かくなってきました。靴屋は道を歩きながら、片手には杖を持って凍った石をこつこついわせ、片手ではフェルトの長靴をふり回して、ひとりごとをいうのでした。
『おれは外套なんかなくても暖かいや。小びんをば一本飲んだら、からだじゅうの血管を走り回っていやがる。皮ごろもさえいらないくらいだ。おれはまあこういう男なんだ! おれなんか平気なものさ! 毛皮外套なんかなくても、生きていけるよ。そんなものは一生涯いりゃしない。ただ一つ、女房がくよくよするだろうて。それがどうもしゃくにさわる。こっちは仕事をしてやっているのに、むこうはひとをばかにしやがる。ちょっと待てよ、貴様こんど金を持ってこなかったら、帽子をひったくってやるから、ああ、ひったくってやるとも。ほんとうにこれはいったいなんということだ? 二十コペイカずつなしくずしによこすなんて! ふん、二十コペイカでいったい何ができる? 酒でも飲むよりしようがありゃしない。貴様は困る、というけれど、こっちだって困っていないと思うのかい? 貴様は家もあれば、牛馬でもなんでも持っているけれど、おれは裸一貫だ。貴様は自分のパンを食べているけれど、こっちは買って食っているんだぞ。どんなにもがいてみても、一週間にパン代だけでも三ルーブリ払わなくちゃならない。家へ帰ると、パンがなくなっているから、また一ルーブリ半出さなくちゃならない。だから、貴様もおれの金をはらってくれよ。』
やがて靴屋は道の曲り角の辻堂の近くまで来ました。ふと見ると、お堂のうしろに何か白いものがあります。もううす暗くなりかかっているので、靴屋はじっと目をこらして見ましたが、なんだか見分けがつきません。
『ここには石なんかなかったっけ。牛かな? しかし、畜生のようでもない。頭は人間らしいが、なんだかばかに白い。それに、人間がこんなところにいるわけがない』と考えました。
もっとそばへ寄って見ると、はっきり見えてきました。まあ、なんというふしぎなことでしょう、まさしく人間なのですが、生きてるのやら死んでるのやら、まっ裸でお堂にもたれてすわったまま、身動きもしません。靴屋は恐ろしくなってきました。
『何者かがこの男を殺して、着物をはぎ取り、ここへすてて行ったのだ。あんまりそばへ寄ったら後で取り返しのつかぬことになるぞ』と考えました。
で、靴屋はそのまま通り過ぎました。辻堂のうしろへ出ると、男の姿は見えなくなりました。お堂を通りこして、ふり返って見ると、男はお堂から背中を離して、身動きしました。何かじっとようすを見ているようなふうです。靴屋はもっとおじけがついて、こう考えました。
『そばへ行って見たものか、通り過ぎてしまったものか? もしそばへ行って、何か悪いことでも起こらなければいいが。あいつ何者かわかりゃしないんだから。いずれいいことをしてこんな所へ来たのじゃあるまい。そばへ寄るが早いか、おどりあがって、おれをしめ殺すかもしれない。そうしたら、のがれっこありゃしない。よしんばしめ殺されないまでも、やっかいなめをみるにきまってる。あんな裸男をどうするのだ? じぶんの着ているものをぬいで、一枚しかないものをやるわけにもいくまい。どうか神様、無事に通りぬけさせてくださいまし!』
そう思って、靴屋は歩みを早めました。もう辻堂を通りぬけようとしたとき、良心がとがめてきました。
で、靴屋は道の上に足をとめました。
『いったいおまえは何をするのだ、セミョーン?』とじぶんでじぶんを責めるのでした。『人間が一人、災難にあって死にかかっているのに、おまえは臆病風を吹かして、通りぬけようとしている。それとも、おまえは大金持ちにでもなったというのか? 自分の持ち物をはぎ取られるのがこわいのか? おいおいセミョーン、それはよくないぞ!』
で、セミョーンはひっ返して、男のそばへ近寄りました。
われら兄弟を愛するによりて、死より生命に移りしを知る、愛せぬ者は死のうちにあり。(ヨハネ第一書第三章第十四節)
世の財宝(たから)をもちて兄弟の乏しきを見、かえって憐みの心を閉ずる者は、いかで神の愛そのうちにあらんや。(第三章第十七節)
わが子よ、われらことばと舌とをもて相愛することなく行ないと真(まこと)とをもってすべし。(第三章第十八節)
愛は神より出(い)ず、おおよそ愛ある者は、神より生まれ神を知るなり。(第四章第七節)
愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり。(第四章第八節)
いまだ神を見し者あらず、われらもし互いに相愛せば、われらにいます。(第四章第十二節)
神は愛なり、愛におる者は神におり、神もまたかれにいたもう。(第四章第十六節)
人もし『われ神を愛す』といいて、その兄弟を憎まば、これ偽る者なり。すでに見るところの兄弟を愛せぬ者は、いまだ見ぬ神を愛することあたわず。(第四章第二十節)
一
一人の靴屋が女房や子供といっしょに、ある百姓の家を借りて住んでいました。じぶんの家もなければ土地もなく、ただ靴屋の仕事だけで家族を養っていました。パンは高いし、仕事賃は安いので、かせいだものはみんな食べてしまうありさまです。靴屋は女房とおもあいで毛皮の外套を持っていましたが、それもくたびれてぼろぼろになってしまいました。で、もうこれで二年ごし、新しい毛皮外套をつくるのに、羊の皮を買おうと思っていました。
秋になるころ、靴屋には小金がたまりました。三ルーブリ紙幣(さつ)が女房の長持にしまってあるし、そのうえ、五ルーブリ二十コペイカが村の百姓たちに貸してありました。
で、靴屋は朝から羊皮を買おうと思って、村へ行く支度をしました。ルバーシカの上から、綿のはいった女房の南京木綿(ナンキンもめん)の内着を着て、その上に羅紗の長外套(カフタン)をひっかけ、三ルーブリ紙幣をかくしに入れ、杖をこしらえて、朝めしをすますと、村へ出かけました。心のうちでは『百姓どもから五ルーブリ受け取ったら、この三ルーブリをたして、新しい外套に使う羊皮を買おう』と考えているのでした。
村へ着くと、靴屋はある百姓のところへ行ってみましたが、留守でした。女房は、一週間のうちに亭主に金を持たしてやると約束したけれど、金はくれませんでした。もう一人の百姓のところへ行くと、金がないと神かけて誓った後、靴の修繕代といって二十コペイカだけくれました。靴屋は羊皮をつけで買おうとしたけれど、皮屋はつけではくれません。
「金を持って来なさい、そうしたら好きなのを取らしてあげるから。かけがどんなに取りにくいか、こっちはちゃんと知ってらあ」
こういうわけで、靴屋はなんの用もたさず、ただ修繕代の二十コペイカをもらって、ある百姓から古いフェルトの長靴を皮で張る仕事を取ったばかりです。
靴屋はすっかりしょげてしまって、二十コペイカをみんな使ってウォートカを飲み、羊皮を持たないで家路に向かいました。靴屋は朝からひどく寒いように思っていましたが、いっぱいやると毛皮外套なしでも暖かくなってきました。靴屋は道を歩きながら、片手には杖を持って凍った石をこつこついわせ、片手ではフェルトの長靴をふり回して、ひとりごとをいうのでした。
『おれは外套なんかなくても暖かいや。小びんをば一本飲んだら、からだじゅうの血管を走り回っていやがる。皮ごろもさえいらないくらいだ。おれはまあこういう男なんだ! おれなんか平気なものさ! 毛皮外套なんかなくても、生きていけるよ。そんなものは一生涯いりゃしない。ただ一つ、女房がくよくよするだろうて。それがどうもしゃくにさわる。こっちは仕事をしてやっているのに、むこうはひとをばかにしやがる。ちょっと待てよ、貴様こんど金を持ってこなかったら、帽子をひったくってやるから、ああ、ひったくってやるとも。ほんとうにこれはいったいなんということだ? 二十コペイカずつなしくずしによこすなんて! ふん、二十コペイカでいったい何ができる? 酒でも飲むよりしようがありゃしない。貴様は困る、というけれど、こっちだって困っていないと思うのかい? 貴様は家もあれば、牛馬でもなんでも持っているけれど、おれは裸一貫だ。貴様は自分のパンを食べているけれど、こっちは買って食っているんだぞ。どんなにもがいてみても、一週間にパン代だけでも三ルーブリ払わなくちゃならない。家へ帰ると、パンがなくなっているから、また一ルーブリ半出さなくちゃならない。だから、貴様もおれの金をはらってくれよ。』
やがて靴屋は道の曲り角の辻堂の近くまで来ました。ふと見ると、お堂のうしろに何か白いものがあります。もううす暗くなりかかっているので、靴屋はじっと目をこらして見ましたが、なんだか見分けがつきません。
『ここには石なんかなかったっけ。牛かな? しかし、畜生のようでもない。頭は人間らしいが、なんだかばかに白い。それに、人間がこんなところにいるわけがない』と考えました。
もっとそばへ寄って見ると、はっきり見えてきました。まあ、なんというふしぎなことでしょう、まさしく人間なのですが、生きてるのやら死んでるのやら、まっ裸でお堂にもたれてすわったまま、身動きもしません。靴屋は恐ろしくなってきました。
『何者かがこの男を殺して、着物をはぎ取り、ここへすてて行ったのだ。あんまりそばへ寄ったら後で取り返しのつかぬことになるぞ』と考えました。
で、靴屋はそのまま通り過ぎました。辻堂のうしろへ出ると、男の姿は見えなくなりました。お堂を通りこして、ふり返って見ると、男はお堂から背中を離して、身動きしました。何かじっとようすを見ているようなふうです。靴屋はもっとおじけがついて、こう考えました。
『そばへ行って見たものか、通り過ぎてしまったものか? もしそばへ行って、何か悪いことでも起こらなければいいが。あいつ何者かわかりゃしないんだから。いずれいいことをしてこんな所へ来たのじゃあるまい。そばへ寄るが早いか、おどりあがって、おれをしめ殺すかもしれない。そうしたら、のがれっこありゃしない。よしんばしめ殺されないまでも、やっかいなめをみるにきまってる。あんな裸男をどうするのだ? じぶんの着ているものをぬいで、一枚しかないものをやるわけにもいくまい。どうか神様、無事に通りぬけさせてくださいまし!』
そう思って、靴屋は歩みを早めました。もう辻堂を通りぬけようとしたとき、良心がとがめてきました。
で、靴屋は道の上に足をとめました。
『いったいおまえは何をするのだ、セミョーン?』とじぶんでじぶんを責めるのでした。『人間が一人、災難にあって死にかかっているのに、おまえは臆病風を吹かして、通りぬけようとしている。それとも、おまえは大金持ちにでもなったというのか? 自分の持ち物をはぎ取られるのがこわいのか? おいおいセミョーン、それはよくないぞ!』
で、セミョーンはひっ返して、男のそばへ近寄りました。
・これも子供向けの文学全集にあった。
プーチン氏のお好きな作家だそうだが、この作品の事では無いようだ。どう考えても。