河畔の悲劇 272022年08月02日

二七、報酬一万法

 シャルマン夫人の店は、ノオトル・ダーム・ド・ロレット街百三十六番地の建物の二階にある。
 それは風変りな商売で、金を借りたい時や、最新流行の衣類を揃えたい時、そのほか宝石貴金属から、絵額(えがく)、食器、切地(きれじ)、あらゆる装飾品に至るまで、何でも欲しいときは、このシャルマン夫人の許(ところ)へ行けば、すぐに貸してくれる。
 顧客は相当の担保を入れなければならないが、若くて美しい「それ女(しゃ)」なら、たいてい無担保で融通してもらえる代り、二十割の利息を払わされることになっている。そんなわけで、女将(おかみ)のシャルマン夫人は、そうした社会の消息を手に取るように知っている。つまりその方面の活字引(いきじびき)なのである。
 この女将は、手腕(うで)の凄そうな、活溌な女で、相当儲かりもするが、貸し倒れも多いから、結局金は蓄(たま)らないそうで、夏も冬も、真黒な絹地の一張羅(いっちょうら)でぶっ通しているという変り女(もの)だ。
 彼女は商売柄、ルコックから可成(かな)り庇護(たす)けられているらしいが、同時にルコックを火事よりも恐ろしい人だといって、畏敬もしているのだ。それゆえ、今、ルコックとプランタさんが入って来ると、彼女は愛想よく出迎えて、早速客間へ案内して、飲みものなどをすすめた。
「女将さん、手紙はとどいただろうね。」
 ルコックの方から話を切りだした。
「はい、今朝早く拝見しました。」
「まだ判らないかね、ゼンニイの居所(いどころ)は?」
「判りました。それについては、随分苦心をして、巴里中(パリじゅう)を探し廻って漸(やっ)とのことで発見(みつか)りました――とでも申しあげて、馬車賃をたんまり戴きたいところですがね。」
「冗談は抜きにして、早く聞かしてくれ。」
「御免なさい。実は、一昨日(おととい)、ゼンニイが此店(ここ)へまいりましたの。」
「え、それは真実(ほんとう)か?」
「真実(ほんとう)ですとも、あの娘(こ)はあれで正直なところがあります。二年越し四百八十法(フラン)ばかり立替えになっていたのを忘れないで、一昨日突然(だしぬけ)にやって来て、きれいに払って行きました。誰かに遺産を貰ったとかいって、財布がお紙幣(さつ)で充満(いっぱい)でした。運がいいんですね。彼女(あれ)はほんとうに好い娘(こ)でございますよ。」
 女将はゼンニイが遺産を貰ったという話を信じているらしかった。
 ルコックはプランタさんと、ちらと顔を見合った。
「女将さん、ゼンニイはその運を捉(つか)む前は、景気がよくなかったのか。」
とルコックが問いかけた。
「それはもう、ひどい有様でした。伯爵に捨てられてからというものは、自棄(やけ)になったんでしょうね。ぐんぐん堕落して、莫連女(あばずれ)の仲間に入って、家財道具から着物の果(はて)まで売り飛ばしては、飲んだくれていたそうでございます。」
「今は何処に住まっているんだね?」
「すぐ近所の、バンチミイル街におります。」
「そんなら、此家(ここ)へ呼んでおいて貰いたかったね。」
「今朝呼びにやったときは留守でございましたが、帰りしだいに此店(ここ)来ることになっています。もう来てもいい時刻でございますがね――」
「それでは待っていよう。」
と、腰を据えたが、それから物の二十分と経たないうちに、廊下にそれらしい跫音(あしおと)がした。
 女将は起(た)ちあがって、
「あ、まいりました。」
「我々は偶然ここへ来たことにしてね、感づかれないように頼むよ。」
とルコックは低声(こごえ)で注意した。
 やがて衣ずれの音とともに、ゼンニイが素晴らしくしゃれた服装(みなり)で入って来た。
 丹念に化粧をした顔は、男を惹(ひ)きつけるには十分だが、伯爵の寵女(おもいもの)であった時分の、生々(いきいき)した美しさはすでに失われて、頬はこけ、口許(くちもと)は皮肉にゆがんで、荒(すさ)んだ窶(やつ)れが著しく見えていた。僅か一年間にこうも衰えるものかと驚かされた。
 彼女は憤(おこ)ったような調子で、
「どうしたのさ、女将さん? 人が忙(せわ)しいのに、煩(うる)さく来い来いって――一体何の御用なの?」
「そう憤(おこ)るもんじゃないよ。実はね、今度来た素晴らしい天鵞絨(ビロード)を、お前さんにお見せしたいと思って――何しろ飛びきりの上等で、一ヤードがたった三十法(フラン)よ――こんな掘り出し物は滅多にありはしない――」
「御冗談でしょう。夏もお小袖(こそで)っていうけれど、七月に天鵞絨(ビロード)は早過ぎるわ。」
「そう云わずに、見るだけでも見て下さい。」
「もう沢山。わたしはこれから、アスニエールの晩餐に出かけますからね。また来るわ――」
 遽(あわただ)しく帰ろうとする気配なので、ルコックは堪らなくなって前へ出た。
「やあ、ゼンニイさんじゃありませんか。」
 ゼンニイはびっくりしたふうで、
「わたしはゼンニイですが、貴方は誰方(どなた)?」
「もう忘れましたか。ときどきあなたの許(ところ)へお邪魔をした者さ。そら、伯爵の何だった時分にね。」
 そういいながら、女将に目配せをすると、女将は用ありげに、そそくさと店の方へ出て行った。
「僕はあの時分、エクトルと懇意にしていた者だが――あなたは、この頃、あの人の噂を聞きましたか?」
「伯爵とは一週間前にお会いしました。」
「それでは、あの恐ろしい事件を知りませんか。」
「知りません。何かございましたの?」
「これは驚いた。あなたは新聞を読まないんだね。この二日間というものは、大変な評判ですよ、伯爵が短刀で夫人を突き殺したというのでね。」
 すると、ゼンニイは見ているうちに、顔が真蒼になって、「そ、それは真実(ほんとう)ですか?」
「真実(ほんとう)だとも。今頃は無論逮捕(あげ)られている筈だが、やがて裁判がきまると、死刑(おしおき)だろう。」
 プランタさんは、傍(そば)からじっとゼンニイの様子に眼をつけた。多分落胆(がっかり)して気絶をするか、泣き崩れるか、いずれにしても無事には済むまいと思ったが、それは間違いであった。
 ゼンニイは極端に伯爵を憎んでいた。会えば莞爾々々(にこにこ)して、出来るだけ金を捲きあげたくせに、内心では絶えずその無情冷酷を呪っているのであった。それゆえ彼女は、涙に咽(むせ)ぶどころか、からからと笑いだした。
「恰度(ちょうど)いいじゃありませんか。あの奥さんだって、いい気味よ。」
「どうして?」
「あの女は、どうせ碌な女ではありません。先夫の眼を竊(ぬす)んで、伯爵と道ならぬ恋を遂げたのです。金の威光でわたしの手から伯爵を横奪(よこど)りしたのです。それに、伯爵だってとても狡(ずる)い人ですわ。」
「それは、僕もそう思っている。彼があなたを捨てたように女をふり捨てる男は、たいてい悪党にきまってるんだが、それにしても、夫人を殺した罪を他人になすりつけるなんて、遣(や)り方がいかにも卑劣だ。」
「伯爵のやりそうなことですわ。」
「けれど、まったく潔白な者を罪に陥(おと)そうとするのは酷(ひど)い。その男は、水曜の晩の行く先を証明することが出来ないので、死刑(しけい)にされるところだった。まだ嫌疑が晴れないで、牢屋につながれているがね。」
「その無実の罪に陥された人って、誰でしょう?」
 ゼンニイの声はふるえていた。
「新聞によれば、伯爵邸の庭師だっていうことだが――可憫(かわい)そうに。」
「小造りで、痩せ形で、頭髪(かみ)の黒い人でしょう――名前は、ゲスパンとかいいましたね。」
「そうだ。あなたはその男を知ってるんだね?」
 ゼンニイはもじもじした。彼女は迂(うっ)かり口を辷らせたのを後悔したらしかったが、
「隠したって仕様がありません。わたしは正直な女です。あの庭師が罪を被(き)せられたら、可憫そうですわ。」
「あなたはそれについて、何か知ってるんだな。」
「ええ、何もかも知っておりますの。一週間ほど前に、伯爵からメランで会いたいっていう手紙がまいりましたので、すぐに行ってみましたが、そのとき伯爵の話では、料理女(コック)が近々に結婚をすることになっているけれど、下男の一人がその女に惚(のぼ)せているので、婚礼の晩に暴れこみそうだが、そんな間違いがあっては困るといって、大変心配なふうでした。」
「えっ、伯爵は婚礼のことをいいましたか、一週間も前に?」
「まアお待ちなさい。伯爵があまり心配そうなので、わたしも気の毒になって、そんなら婚礼の晩に、その男を外(はぐ)らかしたらいいでしょうと申しますと、伯爵はそれに越したことはないといって、暫く考えてから、実はそれについてお前に頼みがあるんだが、その晩お前は何家(どこ)かの奥女中のようなふうに化けて、九時半から十時までの間に、シャトレ広小路の或るカッフェの、入口に近い右手の卓子(テーブル)に席をとって、目印に花束をもって、待っていてくれ。そうすると、下男がそこへ入って行って、お前に包み物を渡すだろうから、お前はそれを受取って、彼に酒を飲まして、出来るだけ酔っぱらわせてくれ。彼は梯子酒だから、その後は一晩巴里中を引っぱり廻してくれっていうんです。」
「あなたは、その通りにやったのか。」
「ええ、やりましたの。」
 彼女の話によれば、すべてが伯爵の目論んだとおりに進行した。その晩恰度十時に、ゲスパンはそのカッフェに入って来ると、花束ですぐに彼女を認めて、包み物をわたした。彼女はそれを受取ると、お礼のつもりで麦酒(ビール)を振舞った。ゲスパンは一息に飲み乾してから、返礼だといってお代りを取った。そうしてだんだん酒杯を重ねているうちに、酔いが廻って来た。種々(いろいろ)なことを知っていて、気前のいい男で、話が馬鹿に面白かった。
 彼は財布に金をどっさりもっていた故(せい)か、やたらに気が大きくなって、麦酒(ビール)から葡萄酒、それからパンチと、止め度なく酒を飲んだ。
 やがてゼンニイは、シャンゼリゼイの端(はず)れまで送って行ってくれといって、一緒にそこを出たが、途中でも方々(ほうぼう)のカッフェに寄っては、種々(いろいろ)な酒を飲んだので、二時頃になって彼はついにぐでんぐでんに酔っぱらって、凱旋門の近所のベンチに打倒(ぶったお)れると、そのまま前後不覚に眠ってしまった。
 ゼンニイはそれを見済まして、そっと家へ帰ったというのである。
「その包み物は、どうしたんだね。」
「伯爵から云い付かったように、セエヌ河へ投げこむつもりでしたが、迂(うっ)かり忘れて家まで持って来てしまいました。まだわたしの室においてあります。」
「一体それは何の包みかね。」
「鉄槌(ハンマー)や鑢(やすり)のような道具と、短刀が一本入っていました。」
 これで、ゲスパンの無罪は、いよいよ明白になったのである。
 と、ルコックは今までの優しさから、急に厳格な態度になって、
「有難う。お前さんのお蔭で、無実の罪を被(き)せられた男が一人救われるのだ。お前さんは、これからコルベイユの予審判事の前へ行って、もう一度この話をしなければならん。途中で迷児にならないように、案内者をつけてあげよう。」
と手早く窓をあけて、往来に見張りをしていたグラアル刑事に声をかけた。
「おいグラアル君、此方(こっち)へ昇って来たまえ。」
 それから、度胆(どぎも)をぬかれてまごまごしているゼンニイに向って、隙(すか)さず問いかけた。
「伯爵はその報酬として、お前さんに幾らか与(く)れただろう。」
「一万法(フラン)貰いました。けれど、それはずっと前から約束したお金で、当然わたしに与(く)れなければならないものでございました。」
「大丈夫、それはお前さんの所有(もの)だから、安心しなさい。」
 そういっているところへ、グラアル刑事が昇って来たので、
「さあこの人と一緒に、一度お前さんの室に帰って、ゲスパンから受取った包み物をもって、コルベイユへ行くがいい。それが大切(だいじ)な証拠品になるんだからな。しかし途中でずらかったりすると、このルコックが承知しないぞ。」
 ゼンニイがグラアル刑事に護られながら出て行った後で、女将は怪訝そうな顔をして入って来た。
「一体どうしたんですか。」
「何でもないんだよ、女将さん。」とルコックはさりげなくいった。「私達は今日は忙しいから、また来るよ。ではさようなら。」