第百二十八段 ― 2022年07月29日
李下に冠を正さず瓜田に履を納れず
金毛の羊皮 10 ― 2022年07月29日
(一〇) 二つの難題
アルゴー艦は其処(そこ)から亜細亜(アジヤ)の岸に沿うて、長い長い航海を続け、名も知れぬ蛮族の国を通り、女人(にょにん)の国として有名なアマゾン族の港も過ぎ、やがて世界の東の果(はて)だと言われるコウカサスの高峯(こうほう)を雲の間に眺める所まで来た。その山中から流れて、エウクシネの海へ注ぎ込むファシス河の黒い水を遡(さかのぼ)ると、其処にコルキスの都があって、アイエテスの王宮の黄金の屋根が、きらきらと日に輝いていた。
アイエテスは日神(にちじん)ヘリオスの子で、妹には西方の島に住む有名な魔法使いのキルケがあり、娘にはフリクソスの妻になったカルキオーペとメデアという二人の王女があった。アイエテスもキルケと同じように、或(あるい)は薬草を集め、或は膏薬を煉り、或は不思議な呪文を唱えて、様々の魔法を行った。髪の色や眼の色の闇を流したように黒い末の王女のメデアも、父に劣らない魔法使いで、あの金毛の羊皮の掛けてあるアレスの森の巫女であったが、この王女は東方の女に特有な烈しい熱情と怖ろしい執念を有(も)っていた。
その日アイエテスは、仮睡(うたたね)の夢から醒めて、俄(にわか)に王女メデアを呼んで、夢の中の不思議を語っていた。燦然と輝いた一つの星が、空を流れて王女の膝へ落ちた。メデアは嬉しそうにそれを拾って、河辺(かわべ)へ持って行って、流れる水の真中(まんなか)へ投げ込んだ。すると渦を巻いて流れて行く大河の水は、見る見るその星を運んで、エウクシネの海へ押出して行った――というのが、王の見た夢であった。王はこう語って、メデアの顔をつくづくと眺めながら、色々と夢の意味を考えていた。
この時である、数十人の勇士を載せた不思議の船が、徐々(しずしず)とファシス河の流れを遡って来たのは!
王はこの報告を聞くと、二人の王女と共に、黄金の馬車を駆(か)って、河の岸へ下(くだ)って行った。王はカルキオーペとメデアを左右に従えて、馬車を下(お)り、岸に立って河の面(おもて)を見渡すと、一群の勇士を載せた異様の船は、生きたような女神の像を船首(みよし)に立てて、白鳥のように河の中流を上って来た。船の上には、勇士等の武器が、麗(うら)らかな朝日の光を受けて、白い河霧の中からきらきらと輝いていた。之(これ)を見たアイエテスの眼は、異様に輝いて、側(そば)に立ったメデアの横顔をちらと眺めたが、その時メデアの黒い瞳は、何物にか吸い寄せられたように、じっと船の上に注がれていた。その瞬間に、アイエテスの目は、メデアの瞳の底に映っている一人の勇士の姿を見落さなかった。それは五十人の勇士の中でも、際立って雄々しく、際立って美しく王女の眼に映ったヤソンの姿であった。エロスの矢は、知らぬ間に、火のようなメデアの胸に、優しい傷を与えていたのである。
そのうちに勇士らは船を岸に近づけて、やがて堤の下へ着けると、ヤソンは一同を代表して、王の前へ進んで来た。王の上衣(うわぎ)は燦爛(さんらん)たる黄金の光を放ち、王冠は火のように燃え、宝石を鏤(ちりば)めた笏(しゃく)は星のように輝いていた。ヤソンはその威光に打たれて思わず足を停めた時、アイエテスはその嶮しい眉の下から、鋭い眼をこの若い勇士の上に注いだ。
「あなたは何処から来なすった?」と王は努めて平静を粧(よそお)って問うた。「漫遊ですか? 或は探検のためですか? それともわしの国に何か目的でもあって、遙々(はるばる)と来なすったのか?」
「陛下、お察しの通り、我々は陛下にお願いがあって、ギリシャから遙々と参った者です。」とヤソンはアイエテスの眼の中に、何となく叔父のペリヤスを見た時と同じような、冷たい色を感じながらも、礼儀を守って恭々(うやうや)しく答えた。「私の叔父に当るポサイドンの子のペリヤスが、金毛の羊皮を尋ねさせるために、万里の波濤(はとう)を隔てたこの国まで、我々を派遣したのです。何卒(どうぞ)陛下の寛大なお心で、我々一族のフリクソスの魂魄(たましい)の宿った、あの遺物を取って還ることを許していただきたい。」
之(これ)を聞くと、アイエテスの顔には、抑え切れぬ憤怒(ふんぬ)の色が漂ったが、言葉の上では、何処までも穏やかに、こういった。
「うむ、そういうことで遙々来なすったのなら、如何にもあの羊皮を還してあげたいが、併(しか)し今ではこの国の宝になっているあの羊皮を、無条件で渡したとあっては、この国の者が承知すまい。あなた方の中から代表者を選んで、わしの要求する仕事をやらして見たらどうだ? それを遂行(しおお)せたら、その褒美として金毛の羊皮を差し出すということにしよう。」
「先ずその条件を伺いましょう。」とヤソンは断乎(きっぱり)した声で答えた。
「わしの牛舎(うしごや)には、黄銅の蹄(ひづめ)と黄銅の肺を有(も)った二頭の牡牛(おうし)がある。これは鍛冶の神ヘファイストスが、わしの為に造って呉れたもので、腹の中に火室(かしつ)があるので、口と鼻からは焔の息を吐いて、近づく者を、見る間に灰にしてしまう。第一の条件としては、先ずこの二頭の牡牛を馴らさねばならぬ。」こう言って、王は凝乎(じっ)とヤソンの顔を見ていたが、やがて又口を開いてこう続けた。「さてその牡牛を馴らすことが出来たとすると、今度はそれに犂(すき)を着けて、アレスの森に近い軍神の野を犂(す)き返して、その畝(うね)の間へ竜の歯を蒔きつけて行くのだ。その歯からは鎧武者が生えて、蒔いた者の方へ向って行くから、余程手早く刈取ってしまわねばならない。うっかりすると、あなた方がみんな掛かっても、手に余るかも知れない。兎に角これだけの仕事を一日のうちに仕上げるのだ。この二つの条件を仕遂げた上は、アレスの森へ入って、自由に金毛の羊皮を取って還っても差支えない。」
此処まで言って、王は言葉を切ったが、その儘(まま)黙って馬車の方へ引返して、王宮へ帰って行った。心の中では、この位に嚇(おど)して置いたら、恐らく今宵のうちに逃げ帰るだろうと思っていたのである。王とヤソンとの問答の間、メデアは始終王の側(そば)に立って、熱心に若者の様子を見詰めていたが、馬車へ乗ってからも、その眼はヤソンの上を離れなかった。