河畔の悲劇 242022年07月27日

二四、探偵の家

 その翌日プランタさんが巴里(パリ)へ出て来て、モンマートル街へついたのは、恰度(ちょうど)聖ユウスターシュ教会堂の大時計が九時を打ったのと同時だった。
 教わった番地の家へつかつかと入って行って、門番の婆さんに訊ねた。
「ルコック君の住室(へや)は此方(こちら)ですか。」
 三匹の大きな猫に食べ物を与(く)れていた婆さんは、プランタさんの容子(ようす)を怪訝そうに、じろじろと眺めた。プランタさんが正式に着替えをして出かけるときは、何処(どこ)となく気品の冒しがたいものがあって、田舎の保安判事というよりは、堂々たる名流らしい風采が備わるのであった。
 ルコックの許(ところ)へは、職掌柄、種々雑多な人間がやって来るけれど、こうした風采のお客は珍しいのであろう。
「ルコックさんのお室(へや)は、三階の階段のすぐ前のところでございます。」
と婆さんが教えてくれた。
 狭い、うす暗い階段を三階まで昇ると、そこの廊下に、まったく風変りな一つの戸口があった。厚い樫の扉で、上の方には鉄格子がはまっていて、中央(まんなか)のところに、雄鶏が翼をひろげて時をつくっている紋章とともに[註:「le coq」は雄鶏の意]、「油断大敵」の標語が刻みつけてあった。
 プランタさんは、恋人の戸口にでも立ったように、暫く躊躇(ためら)ってから、訪問鍾(ほうもんしょう)を鳴らすと、扉に板の軋む音がして、鉄格子の覗き窓が開いたと思うと、皺くちゃな婆さんの顔がにゅっと現われた。
「何ぞ御用ですか。」
 深い、厳(いかつ)い声だ。
「ルコック君にお会いしたいんです。」
「どういう御用ですか。」
「お約束がしてあるから、御承知の筈ですがね。」
「貴方さまのお名前は?」
「オルシバルの保安判事プランタです。」
「一寸お待ち下さい。」
 覗き窓が閉まって、婆さんは奥へ行ったが、しばらく経ってから、錠へ鍵を突っ込む音と、鎖の音がして、やがて扉が開けられた。
 婆さんはプランタさんを案内して、質素な食堂を通りぬけて、奥の方の大きな室(へや)へつれて行った。そこは、半分は化粧部屋、半分は仕事部屋のようなところで、窓には鉄格子がはまっていた。
「どうぞお掛けなすって、旦那さまは只今部下の人と御談(おはな)し中ですから――」
 婆さんが椅子をすすめて引退(ひきさが)ると、プランタさんは、突っ立ったまま、その不思議な室(へや)の様子を眺めた。棚にはあらゆる階級のあらゆる着物がぎっしり詰っていて、その上の方にならんだ懸釘(かけくぎ)には、いろいろな毛色の仮髪(かづら)がぶら垂(さが)り、床にはあらゆる形状(かっこう)の靴が押しならんでいた。
 窓際の化粧台には、白粉(おしろい)や、香水や、種々なる顔料などを置きならべ、その反対の側の書架には、各種の科学の本――殊(こと)に薬剤と化学の本が、一杯につまっていた。
 だが、この室で一等奇抜なのは、黒天鵞絨(くろビロード)でこしらえた一つの大きな球(たま)であった。それは鏡のそばにぶら垂げてあったが、その表面に突き刺した沢山のピンは、二つの名前を判然(はっきり)と書き現わしていた。一つは「エクトル」もう一つは「ゼンニイ」で、この二つの名前は、黒天鵞絨(くろビロード)を背景にして、きらきら光っていた。こうして、いろいろな名前が後から後からとこの球の上に書き現わされては、主人公の凄い眼で睨まれるのであろう。
 卓子(テーブル)に書きかけの手紙が載っていたので、プランタさんはちょっと覗きこんだが、直(じき)に渋い顔をして、断念(あきら)めてしまった。それはわけの分らない暗号手紙であったからだ。
 一通(ひととお)り室の様子を眺め了(おわ)ったとき、金縁眼鏡をかけた、頭髪(かみ)の抜けあがった一人の上品な老人が、慇懃(いんぎん)にそこへ入って来た。
 プランタさんは一寸腰をかがめて、
「私はルコック君をお待ちしているんですが――」
 そういうと、老人は手を拍(う)って笑いながら、
「御冗談でしょう。お判りになりませんか――私がルコックです。」
と、眼鏡を外したのを見ると、成るほどルコックの眼付だ。声もそうだ。プランタさんはひどく面喰(めんくら)って、
「すっかり見違いましたよ。」
「御無理がありません、変装は此方(こっち)の本職ですからね。」
と、探偵は客の方へ椅子をすすめながら、
「ほんとうに失礼しました。直ぐにお通しすればいいんですが、ときどき物騒な人間がやって来るものですから、余計な要慎(ようじん)もしなければなりませんので。先日も、荷物をとどけて来た運送屋を、女中が迂(うっ)かり室内へ入れると、いきなりポンポンと短銃(ピストル)を二発ぶっぱなしましてね。其奴(そいつ)は去年私に捕まった徒刑囚で、今度脱獄すると早速運送屋に化けて、意趣がえしにやって来たらしいが、その荷物というのは、短銃(ピストル)に油紙をかぶせた包みだったのです。しかし、わけなく取捕(とっちめ)てしまいましたがね。」
 ルコックは、そうした事件を、日常の出来事ででもあるかのように、さらさらと話してから、呼鈴(ベル)を鳴らして、先刻(さっき)の婆さんに昼餐(ひるげ)の支度を云い附けて、何はともあれ、上等の葡萄酒をもって来いといった。
「私の女中を御覧になりましたか。実に忠実な女で、我が子のように私の世話をしてくれて、私のためなら水火も厭わぬという意気込みです。彼女(あれ)はああ見えても、嬰児殺しと放火犯の前科をもっていますがね、私が彼女を免囚の中から拾いあげてから三年になりますが、一銭の金だって胡魔化そうとしたことがありません。不思議なものですね。」
 プランタさんは、上の空で聞いていた。それよりも、早くオルシバル事件の話を切りだそうとあせった。
「ルコック君、お邪魔ではありませんか。」
「どういたしまして。私も『油断大敵』の標語どおり、大いにやっていますよ。今朝は三人の部下に手筈を授けて、そのほかに自分で十回も外へ飛び出したようなわけです。ゆっくり落ちつく時間というものはないものですね。ブルカン金物店へも行って見ました――ゲスパンについて、何か耳寄りの話が聞けるかと思いましてね。」
「いい話がありましたか。」
「やはり想像した通りでした。ゲスパンは水曜の晩の十時少し前に、買い物にやって来て、五百法紙幣(フランさつ)をくずしたそうです。」
「やはり無罪でしょうな。」
「ゼンニイという女さえ見つかれば、彼は救われます。」
「しかしその女を探し当てるまでには、手間がかかるでしょう。」
「いや、雑作もないことです。私の黒球(くろだま)に名前が書き出された以上はね。特別事故がないかぎり、今日中に見つかりましょう。」
「えっ、そんなに早くですか? そして伯爵は?」
「それは、はっきり見当がつきません。今日明日にも捕まるか、それとも一ケ月も長びくか。そこは見込の立て方と、手筈の正確さとによるのです。」
「その見込は立ちましたか。」
「それは迅(と)うに出来ています。何しろ伯爵は相当に人目を惹きつける人物であるのに、若い美人をつれて隠れているという――そこが此方(こっち)の附目なんです。そうした事情と彼の性格から推(お)して、隠れ場所を判断すると、次第に捜すべき範囲が狭(せば)まってゆくわけです。伯爵は非常に怜悧(りこう)だが決断力に乏しく、むしろ臆病に近いほど綿密に計画を立てる性質(たち)です。そうした彼の性癖からいえば国境外へ逃げるということは、仏蘭西(フランス)人は殊更(ことさら)人眼につきやすいので、非常に危険らしく思われる。そんなら米国へ高飛びをしたら何(ど)うかというと、長い航海が危(あぶな)い。海峡の向うの英吉利(イギリス)へ渡るとすれば、逮捕状をもった探偵がすでに入込んでいると見るから、倫敦(ロンドン)のどんな隅っこに隠れて、どんなに流暢な英語を操ろうとも、結局一週間と経たぬうちに発見されることを、彼はよく知っています。で、彼はあらゆる点から考えて、ついに外国行きを断念(あきら)めるでしょう。」
「成るほど、そうにちがいない。では、内地に隠れていますね。」
「内地といっても、隠れ場所として都合のいいのは、大都市ですが、その中でも、巴里(パリ)から一等近いボルドオは、妙に外来者に注意する市(まち)で、人の口が煩(うるさ)い所です。マルセイユやリヨンも、屈強な土地にはちがいないが、汽車の旅が長いので、途中が危ない。汽車というやつは一度乗りこんだが最後、その車窓(はこ)を出るまでは、まるで警官の指の先に載っかっているようなものですからね。」
「そんなら、地方の大都市も、見込がありませんな。」
「お待ちなさい。伯爵はふところに金があるから、どんな旅でも、しようと思えば出来ないことはありません。そして、それらの大都市の郊外に、目立たない家を借りて、変名で慎ましく暮せば、最も安全なんですが、伯爵にはそれをやる勇気がない。殊に若い美人という足手まといがあるから駄目です。そこで、外国も、地方の大都市も、田舎も可(い)けないとすれば、残るところは巴里(パリ)しかありません。して見ると、伯爵の隠れ場所は、この巴里(パリ)以外ではないということになります。」
 ルコックは、数学の教師が問題を解くような正確さをもって、きっぱりと結論を与えた。
 プランタさんは、その生徒になった形で、耳を傾けていたが、成るほど偉い探偵になると、かくまで綿密に考察しながら手筈をつけるものかと、沁々(しみじみ)感心した。しかし、捜索範囲がそんな風に狭められたとしても、おいそれと捕まるものであろうか。
「一口に巴里(パリ)といっても、広大な地域ですからね。」
 正直に不安をぶちまけると、ルコックはにやりと笑って、
「幾ら広いといっても、巴里(パリ)は我々のお膝下(ひざもと)です。ここへ飛込んだからには、恰度(ちょうど)生物学者の顕微鏡下におかれた蟻のようなものです。しかし我々は逮捕命令を持っているとしても、巴里中(パリじゅう)を一軒々々捜し廻る訳には行かない。そこですよ、苦心の要るのは。ひょっとすると、此処から二町(ちょう)と隔てない所に、否(いや)、此の隣りの家に隠れていないとも限らない。何しろ伯爵は生粋(きっすい)の巴里(パリ)っ子で、市中の地理、人情を、手に取るように知っているので、中々油断が出来ません。が、旅館や下宿には、警察の手が廻っているから、一ケ月と潜んでいる訳に行かない。まア私の見当では、余り目立たない住続室(アパルトマン)で、隠れた生活をやっているだろうと思います。そういうことは、前々から準備がしてあったでしょう。」
「そういえば、彼は最近に二三回、巴里(パリ)へ出て来た形跡があります。」
「そのときに、てっきり偽名で住続室(アパルトマン)を借りたでしょう。そして今は、そこに納まっているにちがいありません。」
 プランタさんはそれを聞くと、また妙に焦々(いらいら)した。
「私も、そのことは迅(と)うから気づかっていました。何にしても、彼奴(きゃつ)が安全に隠れているなんて、怪(け)しからんことです。巴里中(パリじゅう)の家を片っ端から捜すわけに行きませんかね。」
 ルコックは、プランタさんがひどく急(せ)きこんで来る容子(ようす)を見ると、擽(くすぐ)ったいような顔をして、にっと鼻をゆがめた。
「それはそうと、伯爵は住続室(アパルトマン)を借りたとすれば、彼のことだから、早速造作(ぞうさく)を入れて、飾りを施したでしょう。彼は元来贅沢好きで、今財布に金を沢山もっているばかりでなく、ロオランス嬢のような富豪の娘を、急に見すぼらしい室に入れたくないというのが、人情ですからね。彼の気性としては、恐らく、オルシバルの邸の客間ぐらいの装飾はやったでしょう。」
「けれど、ルコック君、それが我々の助けになりましょうか。」
「非常に有利なことです。何故って、伯爵はいくら贅沢好きでも、この際特別註文で家具を造らせるわけに行かないから、家具屋から出来合(できあい)の品を買ったにちがいないんです。」
「一流の家具屋でしょうな。」
「いや、そこは要心ぶかい男だから、比較的小さな家具屋に命じて、例の偽名でとどけさせたでしょうが、その家具屋は、きっと彼の顔を見覚えていますよ。」
「偉い!」プランタさんは思わず叫んだ。「すぐにオルシバルへ使いをやって、伯爵の写真を取りよせて下さい。」
「いや、必要なものは、ちゃんと整えてあります。私は一昨日(おととい)伯爵邸へ検索に出かけたとき、伯爵の手札形(てふだがた)の写真を三枚、衣嚢(かくし)に取りこんで来ました。今朝は、早速巴里中(パリじゅう)の家具屋の名簿を三冊に分けて、三人の部下を出動させましたが、彼等は今頃は、その名簿と写真をもって、片っ端から家具屋を調べているので、そのうちの一軒でも、写真の男から註文をとったといえば、しめたものです。」
「では、大丈夫、捕まりますね。」
 プランタさんは有頂天になって、顔が蒼ざめるほど亢奮(こうふん)した。
「まだまだ、勝利を叫ぶには早過ぎます。」と探偵は抑えるようにいった。「伯爵が要慎(ようじん)して、自分で註文に行かなかったとすれば、それっきりですからね。そのときは、此方(こちら)もすぐに手筈を変えなければなりません。」
 そこへ女中のジャヌイユ婆さんがやって来て、丁寧にいった。
「旦那さま、お食事のお支度が出来ました。」