河畔の悲劇 222022年07月18日

二二,グラアル刑事

 ドミニ判事が癇癪を起しているだろうといったプランタさんの言葉は、決して誇張ではなかった。
 その日、朝早くからコルベイユの裁判所へ出勤した判事は、待てど暮せどプランタさん達が顔を見せないので、カンカンに憤(おこ)っていた。そして遂(と)う遂う我慢がしきれなくなって、騎馬憲兵をオルシバルへ迎えに出そうとしているところへ、漸(ようや)く三人がやって来たので、
「馬鹿に遅かったね。何をぐずぐずしていたんです?」
と頭から呶鳴(どな)りつけた。
「一分だって無駄にしたのではありません。我々は寝ずに働いたのです。」
とプランタさんは落ちついたものだ。
「そんなら、吉報をもって来たでしょう。伯爵の屍体が見附かりましたか。」
「もっと好い知らせがあります。」とルコックが引取って説明した。「屍体は出ませんが、今に伯爵は見附かります。彼は最初に想像されたように犠牲者ではなくて、犯人だったのです。」
 ドミニ判事はそれを聞くと、椅子から跳びあがるようにして、
「そ、そんなことはない。」
「いや、たった半時間お話をすれば、判事殿もきっと納得されます。そしてトレモレル伯爵に対して、逮捕命令をお書きになりましょう。死んだと思った伯爵が、現在生きているんですから。」
と、ルコック探偵は、昨日からの検索によって発見した事実のすべてを、推理に当てはめて説明した上に、無免許医ロベロオが自殺を遂げたことと、その家宅捜索の結果をも併(あわ)せて報告した。が、プランタさんが読んでくれた記録のことは、全く個人的のものだから判事に話してはならぬと、プランタさんから口止めをされていたので、それだけは云わなかった。
 ルコックの話は、あまりに瞭然(はっきり)しているので、さすがに強情なドミニ判事も、一応は承認しないわけに行かなかった。
「うむ、そのロベロオという者から毒薬を手に入れて、ソオブルジイ氏を毒殺した事実があったというんだね。それについては、明日にでも屍体発掘検査の命令を出して、ドクトルにソオブルジイの遺骸を検(しら)べて貰おう。」
「毒薬の痕跡は必ず発見出来ます。」
とドクトルも念をおした。
「しかし、」ドミニ判事はいいだした。「伯爵が友人の妻と結婚せんがために、その友人を毒殺した事実があったとしても、それによって、今度伯爵がその夫人を殺害して逃亡(にげ)たということを、こじつける必要はあるまい。」
「けれども一方に、町長の娘さんのロオランス嬢が家出をして、自殺したらしく想像されている事実があります。」とルコックは、飽くまでも自説を主張した。「それとこれとを考え合わせると、どうしても、伯爵が逃亡(とうぼう)したとしか思われません。」
「それは偶然の暗合で、必ず連絡があるとはいえまい。」
「だが、あの晩、伯爵は兇行後に変装の目的で髭を剃り落した証拠があります。そればかりでなく、伯爵邸の執事の話によれば、あの日の朝に伯爵が穿(は)いていた靴が一足、たしかに紛失しています。」
「うむ、うむ、君の話はよくわかった。俺(わし)は君の考えを否定するのではない。伯爵は多分、夫人を殺して逃亡しただろう。しかし、それがために、庭師のゲスパンが無罪だとはいえない。彼奴(あいつ)が兇行の幇助者でなかったとは、誰が云えよう。」
 そう云われてみると、ルコックのゲスパン無罪説には、たしかに隙(すき)があった。けれど彼は、伯爵の有罪を信ずるとともに、かの哀れな庭師の無罪を堅く信じていたのであった。
 そのとき、廊下に靴音が聞えて、判事の室(へや)へ人がやって来る気配がした。
「待ちたまえ。今に判然(はっきり)したことがわかるぞ。」と判事が勇み立った。
「有力な証人でも出ましたか。」プランタさんが訊ねると、
「いや、ゲスパンの写真が手に入ったので、それをこの町の刑事に持たして、巴里(パリ)へ急行させたのです――ゲスパンは兇行の当夜ブルカン(Vulcan's)という金物店(かなものてん)へ立寄ったと申し立てているが、果して其店(そこ)へ行ったのか、そして何(ど)んな買物をしたかを調べさせるためにね。今その刑事が帰って来たらしい。」
 ルコックは面白くなかった。自分はコルベイユ裁判所の要求によって、警視庁から主任探偵として、わざわざ出張して来ているのに、判事が自分を出しぬいて、余人を巴里(パリ)へ出張させるとは、あんまり馬鹿にした仕方であると思った。人一倍自尊心の強いルコックだから、そうしたことには我慢が出来なかった。
「判事殿、他の刑事をお使いになるのは、つまり私の手腕(うで)を信じて下さらんのですね。」
 この傲然(ごうぜん)たる云い方には、判事もちょっと気色(けしき)ばんだ。
「君はいくら偉くても、一人で八方へ手が廻りかねるだろう。君の手腕(しゅわん)は認めるが、今日のごときは、いくら待ってもやって来ないし、此方(こっち)は急ぐから、仕様がないじゃないか。」
「しかし、下手な手伝いをされると、取りかえしのつかんことが出来ますからな。」
「それは安心したまえ。今日使いに出した刑事は、なかなか機敏な男だ。」
 恰度(ちょうど)そこへ噂の刑事が入って来た。毛虫のように太い眉毛の下に、眼玉がぎろっとして、厳(いかめ)しい八字髭を蓄え、腕っ節の強そうな、頑丈(がっしり)した男だ。彼は軍人らしい恰好で、判事の前に一礼すると、
「成功でした、判事殿。ゲスパンの行動がはっきり判りました。」
と大きな声で報告した。すると判事は満悦の体(てい)で、
「御苦労だったな、グラアル君。ゲスパンはやはりブルカン金物店へ立寄ったか。」
「はい、あの晩――七月八日水曜の晩の十時頃――店を閉めようとしているところへ行ったそうです。それですから、店の者達は、彼の様子をよく記憶していました。彼はそのとき、酒気を帯びていて、今に園芸協会のお出入(でいり)にしてやるから、値段を勉強しろといったそうです。」
「そのときの買物を、番頭は記憶(おぼ)えておったか。」
「はっきり記憶(おぼ)えていました。鉄槌(ハンマー)と、鑿(のみ)と、鑢(やすり)をかったそうです。」
「それは判っている。それから?」
「それから――」とグラアル刑事は、ここで芝居気(しばいぎ)を出して、ぐっと眼を剥(む)いて、「短刀を一本買いました。」
「どうだね。」判事は勝ち誇った、皮肉な口調でルコックにいった。「ゲスパンは結婚披露に招(よ)ばれていながら、その宴会には顔も出さずに、鉄槌(ハンマー)や、鑿や、短刀といったような、兇器を買ったのだ。」
 ルコックは、焦々(いらいら)して来た。こんな愚にもつかぬ話で時をつぶすのは、馬鹿々々しいと思った。が、言葉は慇懃(いんぎん)に、
「判事殿、伯爵邸の犯人は、鉄槌(ハンマー)や、鑿や、鑢のような兇器は使わなかったし、外から兇器を持って来た形跡もありません。」
「短刀を所持していたではないか。」
「それは、別問題で、非常に難しい点です。」
と答えたが、ルコックは堪(たま)らなくむしゃくしゃして来たので、いきなりコルベイユの刑事に問いかけた。
「君の調べたことは、それだけか。」
「それだけです。判事殿も満足しておられるから、それで沢山じゃありませんか。私は判事殿の命令によって働くのです。」
 ルコックは肩をすぼめて、
「君は、ゲスパンが買ったという短刀の長さや幅を訊ねただろうな。」
「聞きません。しかし、それは何(ど)うだっていいでしょう。」
「そうは行かん。刃(は)の長さや幅がわかっていなければ、屍体の傷とくらべることが出来ない。殊(こと)に、肩先の創口(きずぐち)に残った痕(あと)と、柄(え)の恰好を較(くら)べる必要がある。」
「訊くことを忘れました。」
「手落ちは誰にでもあるから、仕方がない。が、ゲスパンがどんな金で支払いをしたかということは、確かめただろうな。」
 グラアル刑事はぐっと行き詰った。彼は当惑して、もじもじしていると、ドミニ判事が助け船を出した。
「金のことは大した問題であるまい。」
「そうは行きません。大切(だいじ)なことです。」とルコックはやり返した。「ゲスパンが嫌疑をうけた有力な証拠というのは、衣嚢(かくし)に持っていた金ではありませんか。ところで、ゲスパンがあの晩の十時頃に、巴里(パリ)で千法(フラン)の紙幣(さつ)をくずしたとしても、その紙幣(さつ)は、犯罪によって手に入れたものと見ることは出来ません。何故なら、十時頃には、まだ兇行が演ぜられていなかったのです。紙幣(さつ)の出処(でどころ)は二の次として、彼が衣嚢(かくし)に持っていた数百法(フラン)の金は――私の推定によれば――その買物の剰錢(つりせん)に相違ないのです。」
「それは単に、君の推定だろう。」
「しかし、恐らく間違いのない推定です。ところで、私がもう一つ、このグラアル君にお訊きしたいのは、ゲスパンがその店を出る時に、買物を衣嚢(かくし)にねじこんだか、それとも丁寧に包みをこしらえたか。もしそうとすれば、どんな風に包んだかです。」
 鋭くたたみかけると、グラアル刑事は狼狽して口籠(くちごも)りながら、
「わかりません――番頭はそれについて、何も云わなかったので――」
 ルコックは、この刑事をたしなめることによって、ドミニ判事からうけた侮蔑に応(こた)えてやろうと、ひそかに考えた。
「ははあ、君は巴里(パリ)へなにしに行ったんだい。金物店の番頭等(ら)に、ゲスパンの写真を見せたり、殺人事件のはなしを聞かせたりしに行ったのか。そんなつかいなら、女中のほうがよっぽどえらいのだ。」
 グラアル刑事も、とうとう憤慨した。彼は凄い眼を剥きだして、大声で呶鳴り立てた。
「何を失敬な! 一体君は――」
「おいおい、生(なま)を云うな。俺を誰だと思う? ルコック探偵だぞ!」
 この一言(いちごん)は、魔法のような利目(ききめ)があった。
「えっ? 貴方がルコックさん――」
とグラアル刑事は、急に容(かたち)を改めた。彼はこの有名な大探偵から直接(じか)に小言を頂戴したことを、むしろ光栄として感激したらしかった。
「そうだよ。」ルコックは静かにいった。「君は仕事は拙(まず)かったが、ゲスパンの無罪の証明をもって来てくれた。それだけの功はあったのだ。」
 ドミニ判事は驚いた。グラアル刑事が名前を聞いただけで最上級の敬意を払いはじめたのを見て、成るほどルコックは偉い探偵らしいということを、初めて感じた。けれど、そのルコックがいきなりゲスパンを無罪と断定するに至っては、僭越(せんえつ)の沙汰だと思った。
「君はどうして、ゲスパンを無罪というのか。」
「それはごく簡単に証明出来ます。判事殿も記憶(おぼ)えておいででしょうが、伯爵邸の床に転がっていた置時計が、二時三十分を指していたのを、私が拾いあげて、針を廻すと、十一時を打ちましたね。つまり、あの兇行は十一時前に行われたわけですが、今グラアル君の報告によれば、ゲスパンはその晩の十時に、ブルカン金物店へ行ったということで、それから直(ただ)ちにオルシバルへ戻ったとしても、十二時前には着けないのです。してみると、あの兇行はゲスパンの仕業でないということが、明らかに証明されます。」
 これが正しいとすれば、判事の今までの見込は、根こそぎ覆(くつがえ)されることになるが、判事もそう容易(たやす)くは負けていない。
「ゲスパンは主犯者でないとしても、共犯者には相違ないと見られる。」
「いや、共犯者どころか、彼はひどい目に遭(あ)わされた犠牲者です。伯爵はなかなか奸智(かんち)に長(た)けた男で、置時計の針を進ませたのも、つまりゲスパンが巴里(パリ)から帰って来られる時刻に合わして、彼に罪を被(き)せようという魂胆だったのです。」
「そんなら、ゲスパンがあの一夜(いちや)を何処でどう暮らしたかを、君は説明出来るかね。」
「そこが大切(だいじ)な点です。いったい彼奴(あいつ)が頑固に口を噤(つぐ)んでいるのは、何故でしょうか。どうも、伯爵からよほど偉い罠にかけられたようです。それで、申し開きをすればするほど、罪に陥(お)ちそうなので、断然沈黙と覚悟をきめたらしいです。」
「どうすれば、彼は口を割るだろうか。」
 判事はついに我(が)を折って、探偵の意見を求めた。これは容易ならぬ勇気の要ることなので、プランタさんとドクトルは、目顔(めがお)でその勇気をほめた。
「私にゲスパンを審(しら)べさせて下さい。二つ三つ問いたいことがありますので――そうすると、彼はきっと白状します。」
 ルコックは、きっぱりと云いきった。よほどの確信があるらしかった。けれど、予審の調べは判事が直接これに当る規定であって、警察官に審べさせるということは、前例にもないことなので、判事は暫く考えていたが、
「よろしい。前例がどうあろうとも、俺(わし)が責任をもって、君に審べさせよう。」
と、すぐに呼鈴(ベル)を鳴らして、廷丁(ていてい)に命じた。
「囚人ゲスパンを此室(ここ)へ呼べ!」

金毛の羊皮 62022年07月18日

(六) ドドナの神託

 ヤソンはペリヤスの王宮を出て、ドドナの森へ急いだ。ドドナの市(まち)は、昔からゼウス神の市(まち)と呼ばれて、神聖な湖水の側(そば)に、太古以来斧(おの)の入(はい)らない檞(かしわ)の森がある。森の真中(まんなか)には神木(しんぼく)があって、その枝には幾羽かの黒鳩(くろばと)が巣をくっている。これらの鳩は、昔からゼウス神の巫女と呼ばれて、この附近の住民にゼウス神の神託を伝えるものとなっている。ヤソンは金毛の羊皮を取りに行くについて、先ずこのドドナの神木に伺いを立てようというのであった。
 ヤソンはゼウスの森へ入って、神木の前へ立つと、深い蔭をあたりへ拡げている節瘤(ふしこぶ)だらけの枝を見上げて、何かその葉蔭(はかげ)に隠れている人にでも話しかけるように、大声に言い出した。
「どうしたら金毛の羊皮を手に入れることが出来るか、教えて下さい!」
 その時森の中には、そよとの物音も聞えず、死んだように静まり返っていたが、少時(しばらく)すると神木の梢の上で、かすかな葉擦れの音が聞えて来た。そして周囲(まわり)の木は依然として静まり返っている間(あいだ)に、神木の梢では、葉の擦れ合う音が刻々に高まって、終(しまい)には大風の吹き荒(すさ)ぶような声になった。それがまた聞いているうちに、人の言葉のように思われて来た。けれども幾万とも数の知れない葉が、一枚々々に喋舌(しゃべ)る言葉が、一つになって耳へ入って来るといったような具合で、始めのうちは、何を言っているのか、はっきりと聞き取れなかったが、それが次第に太く、次第に深くなって行くに連れて、その中から一筋(ひとすじ)の声音(こわね)がはっきりと聞えて来た。
「船大工のアルゴスを尋ねて、五十人乗りの船を造らせろ!」
 そして少時(しばらく)すると、その声は次第にまた元のような雑音に打消(うちけ)されて、聞えなくなってしまった。
 ヤソンは葉擦れの音が静まるのを待って、徐(しず)かに神木の下を去って、イオルコスの市(まち)へ帰って来た。そしてアルゴスという者を尋ねると、それは市でも有名な船大工であった。アルゴスは、ヤソンの話を聞くと、喜んでその仕事を引受けた。その頃のギリシャ人は、海へ出るといっても、ようよう四五人乗りの小舟や、一本の木をくりぬいて造った独木舟(まるきぶね)で漕ぎ廻っていた時代だから、五十人乗りの船と言えば、殆ど昔から聞いた事もない程の巨船であった。
 アルゴスはその日から数多(あまた)の職人を使役して、ペリオン山の松を伐(き)り出し、女神アテーネの助力を借りて、とうとう五十梃の橈(かい)を備えた美事(みごと)な船を造り上げた。船の外側には、一面に真黒な瀝青(チャン)を塗り、船首(みよし)には朱(しゅ)を塗った。そして棟梁の名に因(ちな)んで「アルゴー」という名を付けた。
 其処でヤソンは再びドドナへ行って、またも神木の前へ立って、次に着手する事について伺いを立てると、今度は以前の時と違って、全体の木が動かずに、ただ自分の頭の上へ乘り出した一本の大枝が、葉擦れの音を立てて、終(つい)にこう言い出した。
「おれを伐れ! おれを伐れ! おれを伐って行って、お前の船の船首(みよし)の飾りにしろ!」
 ヤソンは言われた通りにその枝を伐って、イオルコスへ持って帰り、一人の彫刻師に命じて、船首(みよし)へ飾る像を造らせた。彫刻師は直ぐに鑿(のみ)を揮(ふる)って、細工にかかると、不思議なことに、鑿は自然と動き出して、自分の手で造ったとは思われない立派な像を造り上げた。それは兜を被った女神の像で、左の腕には、メデューサの首を描(えが)いた一面の楯を抱(いだ)き、右の腕は前を指さすように真直ぐに伸ばしていた。その顔には神々(こうごう)しい威厳が備わり、その唇は今にも何か言いそうな様子をしていた。
 ヤソンは今船首(みよし)へ据え付けられた女神の像を満足げに眺めながら、胸の中では、もう一度ドドナへ行って、これから先のことを神木に尋ねようと思っていると、見る見る女神の唇が開いて、ヤソンに向って言った。
「ヤソン、行くには及ばない。相談する事があったら、何でもわたしに言って御覧。」
 こう言った声は低かったが、それでも何処かにあの神木の荘厳な調子が思い出されるような、凛とした声であった。
 ヤソンはこの不思議を見て、一時は自分の耳を疑った位であったが、そのうちに、この像を刻んだ木は神木の一部であった、ということを思い出して、初めて疑いが解けると共に、深く神の冥助(めいじょ)を感じて、女神の像に向って訴えた。
「この通り船は出来上りましたが、五十人の乗組員をどうして捜したらいいでしょう?」
「行け!」と女神の像が答えた。「行って全国の勇士を集めてお出(い)で!」
 この答を聞くや否や、ヤソンは伝令使(でんれいし)をギリシャの諸市(しょし)に送って、全国の人民にこの度の冒険を告げて、この遠征に加わろうという四十九人の勇士を募らせた。