河畔の悲劇 20 ― 2022年07月11日
二〇、アコニチン
保安判事プランタ氏が厚ぼったい書類を読みながら、ルコック探偵と老ドクトルに物語った長い長い説話(はなし)は、これで終った。
その鮮やかな話(はな)しっぷりを聞くと、話し手であるプランタさんも、この事件の中に活躍した役者の一人ではないかと思われるくらいだった。
一体プランタさんは、こんな詳細な記録を何処から手に入れたか。それをルコック探偵はひそかに訝(いぶか)った。プランタさんが自分で書いたのか。そうでないとすれば、誰が書いたか。情報を聞き集めたとすれば、誰に聞いたのか。それがわからぬ謎であった。
「とにかく、ソオブルジイは不思議な人物ですね。妻の手でじりじりと毒殺されながら、少しも騒がずに死んで行ったとは、話を聞いても慄然(ぞっ)としますね。」
ルコックがいうと、
「その代り、彼は実に深刻な復讐をやったものです。」とプランタさんが答えた。「彼の墓場の土が乾かないうちに、ベルタと伯爵は、死ぬの生きるのという啀(いが)み合いをはじめたんですからね。」
「それがソオブルジイの偉いところです。それを予(あらかじ)め見抜いたところがね。」
「両人は、愛情が褪(さ)めてしまったのに、遺言によって、どうしても夫婦になっていなければならない。そこへ町長の娘のロオランス嬢が入って来ると、伯爵は深い関係まで出来たこの若い令嬢の方へ走ろうとするけれど、ベルタは、先夫毒害の共犯という弱点を握っていて、どうしても伯爵を自分の手許から離すまいとする。そこで彼等の争闘(あらそい)はますます真剣になったのです。」
「けれど、伯爵は意久地(いくじ)のない男ですね。」ドクトルが口を挿(はさ)んだ。「唯一の証拠であるソオブルジイの日記が自分達の手にもどって、それを破いてしまったら、後は何も恐れることがなさそうなものだが。」
「そこですよ。その日記が果して破かれたかどうかということは、この事件を解釈する上に重大な関係をもっています。ところで諸君は、その日記をソオブルジイから預かった者は誰だと思いますか。」
「貴方でしょう。」ルコックはプランタさんの顔を真面(まとも)に見つめながら、「どうも貴方らしい。」
「ええ、実は私が預かったのです。」プランタさんが白状した。「私は死んだ友人との約束に基いて、未亡人ベルタと伯爵が結婚をした日に、その包みをもって、新夫婦を訪ねると、両人(ふたり)は早速私を階下(した)の一間(ひとま)に招じて、面会しました。両人(ふたり)とも目出度い日にも似合わず、血色のわるい、冴えない顔をしていました。私は夫人に向って『奥さま、私は御先夫ソオブルジイさんからこの包みをお預りしていましたが、御結婚の当日、あなたのお手にお渡ししろというお頼みによって、持参したのです。』そういって、かの日記と毒薬の瓶の入った包みを渡すと、彼女は莞爾々々(にこにこ)して、厚く礼をいってから、その包みを抱えて、独りで其室(そこ)を出てゆきました。と、伯爵は急に顔色を変えて、焦々(いらいら)して、居ても起(た)ってもいられないような風だったが、暫くすると、ついに我慢がしきれなくなったのか、『ちょっと失礼します。』といったまま、彼もそそくさと出て行きました。が、間もなく、私を見送るべく帰って来たときは、両人(ふたり)とも眼が異様に光って、声がふるえていて、何だかよほど激しい口論でもやったらしい風でした。」
「夫人はその包みを、早くも秘密の場所に隠したんですね。」とルコックがいった。「そして伯爵が追っかけて行って、見せろといったとき、彼女は『欲しかったら、御自分でお探しなさい。』と拒(は)ねつけたでしょう。」
「多分そうでしょう。それを予め見抜いたソオブルジイは偉いものです――包みは必ずベルタに手渡しせよという指図だったからね。」
「ところで、夫人がその毒薬を何処から手に入れたかということが、次の問題なんですが、それを彼女に提供した者は、我々が先刻(さっき)物置へ押籠(おしこ)めた、あの無免許医のロベロオにちがいないと思います。」
ルコックがいうと、するとドクトルも附加(つけくわ)えて、
「私もそう睨んでいます。しかも彼奴(きゃつ)は、それを私の研究室から盗みだしたらしい。今プランタさんに聞いたソオブルジイの症状から判断すると、その毒薬は多分アコニチンでしょう。あれは恰度(ちょうど)私がアコニチンの研究に熱中していた当時でしたからね。」
「そのアコニチンというのは、近頃発見された毒薬ですか。」
「いや、昔からあったそうで、伝説によれば、希臘(ギリシャ)のメデアという妖婦が、鳥頭(とりかぶと)から取った毒で人を殺したというのが、それです。希臘(ギリシャ)や羅馬(ローマ)では、死刑囚をこの毒薬で片附(かたづけ)たものです。」
「けれど、メデアの使った毒や、ボルヂア父子(おやこ)の服(の)まされた毒は、今ではわからないっていうじゃありませんか。」
「全然わからんということはありません。古くは十六世紀に、マチオールが死刑囚に試みた実験があり、十九世紀になって、ヘルスがそれから塩基性化合物(アルカロイド)を游離(ゆうり)させたし、ブカルダ[註:Apollinaire Bouchardat、1809年-1886年]も若干の実験をやっているが――」
ドクトルの研究談が止め度をもなくつづきそうなので、ルコックは堪(たま)らなくなって、
「お話し中ですが――ソオブルジイの屍体を検(しら)べると、二年後の今日(こんにち)でも、そのアコニチンを服(の)まされて死んだということが判りましょうか。」
「人体の場合にそれを析出(せきしゅつ)する方法は、まだ知られていません。ブカルダは沃剥(ようはく)を用いたが、その実験は不成功だったので――」
「それは困りましたな。」
「しかし御安心なさい。私の発明した方法によれば、その痕跡は多分発見出来る筈です。」
それでルコックもほっと安心した。もしもドミニ判事が、飽くまでも毒殺の事実を否定する時は、ソオブルジイの屍体を検査することによって、納得させる外(ほか)はないといふ肚(はら)であったからだ。
「それにしても、伯爵は何処に隠れたかなア。そしてロオランス嬢はどうしているでしょう。」
プランタさんは、それが心配で堪(たま)らない風であった。
「それは、必ず突き止めてお目にかけます。このルコックの手腕(うで)に信頼して下さい。」
探偵がそう云いきったとき、書斎の戸をコツコツと慎ましく叩く者があった。それは下男のルイが、迅(と)うに昼餐(ひる)の支度が出来ていることを告げに来たのであった。プチ小母(おば)さんとルイは、「旦那がたは昨夜(ゆうべ)から十二時間もぶっ通しで、食わず飲まずに、何をしゃべくっているだろう。」と、何遍(なんべん)も不審をうったり、気遣ったりした結果、とうとうルイが使いに立ったのだ。
プランタさんはそれで思いだしたように、客を食堂へ案内した。そして三人は食卓についたが、無言で、遽(あわただ)しく食ったり飲んだりした。時間が惜しいのであった。恰度その時分、コルベイユ裁判所では、ドミニ判事がこの三人の来(き)ようが遅いので、どんなにか気をもんでいるだろうと思われたからである。
下男が食後の果物をはこんで来たとき、ルコックは、物置に押籠(おしこ)めてあるロベロオのことを思いだした。
「彼奴(あいつ)は腹が減ったでしょう。」
プランタさんは、下男に行って見ろと云い附けたが、ルコックは、
「彼奴は危険な奴だから、何をやるか知れない――私が行って見ます。」
そういって物置の方へ出かけた、と思うと、
「皆さん、早く来て下さい。」
只ならぬ声がするので、プランタさんとドクトルが駈けて行って見ると、ロベロオはそこの閾際(しきいぎわ)にぐったりと倒れていた。彼は細紐(ほそひも)で首を絞めて、自殺を遂げたのであった。
第百二十一段 ― 2022年07月11日
今日、コンビニで懐かしい曲が流れていた。
「高気圧ガール」(山下達郎)である。但し女声のカヴァー・ヴァージョンだったが。
この曲は個人的に好きな夏の歌第3位である。
ちなみに第2位は「暑中お見舞い申上げます」(キャンディーズ)。
堂々の第1位は「夏が来た!」(同)。
なお、個人的山下達郎の楽曲ベスト1は、「アトムの子」である。小説「アトムの子ら(Children of Atom)」では無い、念の為。
え? 「勝手にしろ」? 生温(なまぬる)い励ましのお言葉ありがとうございます。