最後の猟 ピエール・ロチ2022年07月04日

「最後の猟」 ピエール・ロチ 菊池寛訳

 両手を拱(く)んで、変つた草の床の上に身体を横へると、寝ぐるしい眠(ねむり)が、私の疲れた身体を襲つて来た。
 見知らない樹が、私の上に陰を落して居た。そして、直ぐ傍の葭(よし)の間には、熱帯地方に特有な沼が、目を眩(くら)ますやうにギラギラ輝いて居た。
 極度に疲れたときには、よく起ることだが、私の頭は一種の陶酔の中に陥つてしまつて、周囲に何があるかさへ、ぼんやりしてしまつた。その周囲には、夢とも現(うつゝ)とも付かぬ出来事が、不断に起つて居た。
 急に、私は何かゞ来たやうな感じを受けた。それは肉体的の感じと云つてもよかつた。かすかな感じではあつたが、確かに偽りでなく、しかも直ぐ手近かに何か居るやうに感じた。私は誰かに見られてゐるやうに思つた。私は確めようとして眼を開いた。
 ところが、果して私の直ぐ近くに、一疋の猿の小さい顔が、枝の間から歯をむき出して居るのだつた。二つの丸い、極く生々とした眼が、人間の子供のそれのやうにパチパチ瞬いて、人間そつくりの烈しい好奇心で、私をぢつと調べて居た。我々が猟をしてゐるときには、いつでも心のどんぞこに、一種の攻撃的本能が潜んで居るものだが、その時の私もそれで、鉄砲の方へ私の手を延ばした……。
 が、さうしようと思つたのも、ぼんやりとした出来心であつたと見え、差し延べた手はいつの間にか身体(からだ)の脇へ帰つて居た。眠り――さうだ前よりももつと辛抱の出来ぬ眠りが、数分私を支配した。
 その小さい顔は、私を続けて見てゐた。私も熟睡はして居たけれども、そのことは知つて居た。
 それと同じやうに、周囲の静けさをやぶつて、羽も身体も金属的にギラギラ光つて居るとんぼが飛び交ふて居るのを聴いた。羽のある堅い甲の昆虫が、ブンブン温い香のある空気の中で踊つて居るのを聴いた。その空気は、私の身体には好くなかつたが、猛獣や悪草などの世界へは豊かな生活を与へて居るのだつた。
 その裡に、その枝に止まつて、しつこい動物の凝視を受けながら、私は到頭だんだん眠が、はつきりと覚めてしまつた。私の腕は、そつと私の鉄砲の方に延ばされた、そつと陰謀でも廻らすやうに。私は握つた銃を静(しづか)に肩にあてがつた。
 そのときになつて、猿は初て退却を始めようとした、不思議に、彼は少しも周章(あはて)て居なかつた。狐疑して居る様子もなかつた。彼は少し邪魔をしたと云ふやうに、出来る丈の可笑しげな注意をしながら音をたてないやうにした。
 彼は若葉の中を静(しづか)に滑つた。その長い尾を変な恰好に捲き上げながら、彼は再び私の方を振り向いた。丁度かう云ふやうに。
「私は信じて居るのです、あなたは私に悪意を持つてはいらつしやらないでせうね。だつて、私は何も悪いことはしなかつたのですもの。たゞ私の好奇(ものずき)が少し過ぎたのです、たゞそれ丈(だけ)です。……でも、何だかあなたの手の中にある道具は、気味のいいものぢやありませんね。……ほんたうに、彼方へ行く方がよかつたのです。私をいぢめてはいけませんよ。今行くところですもの、御覧なさい! 今行きかけて居るところですもの。」
 丁度そのとき、少し遠方に二つの大きい猿が、明かに此の子猿の親である猿が、子を呼んで居るのだつた。
 二三秒の間狙つた。
 急に恐ろしい響が周囲の静けさを破つた。木の葉が四方に散り、鳥の群は驚いて飛び立つて、烈しく鳴き始め、樹の陰に眠つて居た多くの獣は、眼を覚した。
 私の掌(てのひら)よりも大きい、化物のやうな蛾が、黒檀の樹から飛び立ち、羽を動かす毎に金属的な閃光を示しながら、飛んで行つた。
 若い猿の身体は、枝から枝へと、そろそろ転げ落ちた。その敏捷な手で、樹にぶら下ろうと云ふ必死な努力は、何にもならなかつた。おしまひには、その努力を放棄して、地へ急落した。そして私の足元に横はつた。
 私がそれを取り上げたときに、彼はまだ息をして居た。が、彼の身体の中の力は、少しの抵抗をも為し得ないほど弱つて居た。死物のやうに、身体を自由にさせた。彼の小さい堅くなつた唇は顫へ、彼の無邪気な両眼は、ぢつと私の眼を見詰めて居た。その眼付には、私が生涯忘れ得ないやうな苦痛と恐怖と叱責との混じた表情があつた。
 やつと、その時私は自分のやつた事の馬鹿らしさと恐ろしさとに気が付いた。
 私は猿を両手に抱へて、彼の死にかゝつて居る頭を、そつと撫でた。
 私に子供を殺された二疋の猿は、近所の大木の梢から、彼等の歯を剥き大声に叫んで居た。殺されるかも知れないと云ふ恐怖と、私を引つ掻き噛み付くと云ふ欲求とに、板ばさみになつて居るのだ。
 その時に、小さい人間の子供のやうに、安心して私の腕に抱かれて居るやうな姿で、その額を私の胸に埋(うづ)めながら、その小さい生物(いきもの)は死んだ。
 私はよく自分自身の頭を散々に罵りたい要求に駆られるのだが、この時ほどそれが甚しかつたことはない。
 私は歯を、喰ひしばりながら、
「おゝ汝(なんぢ)獣(けだもの)め! 此の馬鹿な獣め!」

        (大正九年九月「中央文學」)



Pierre Loti(1850年-1923年)。代表作に、『氷島の漁夫(Pecheur d'Islande)』『お菊さん(Madame Chrysantheme)』など。この短篇の詳細は不明。