猿の手 W・W・ジェイコブズ 菊池寛訳2022年06月18日

猿の手 ウヰリヤム・ジェイコッブス 菊池寛訳

    一

戸外には冷たい湿つぽい夜があつた。がレイクスナム邸の小座敷の中では、窓掩ひは閉され、炉の火は華やかに燃えて居た。父と子は将棋を指して居た。父は局面が捗らないのをもどかしがつて、自分の王を際どい用もない危険な場所に立ち入らせたので、炉の傍で静かに編物をして居た白髪の老婦人迄が、「ああ王様が危い」と云つた程だつた。
「聞えないかい! あの風が」と、ホワイト氏は取返しの付かない悪手を指したのに気が付いたので、息(むすこ)に感づかれないやうに、息(むすこ)の注意を外らさうとして、そんなことを云つた。
「聞いて居ますとも」と、息(むすこ)は手を指し延べながら盤面をムツチリと、見詰めて居たが、「王手」と云つた。
「今晩はあの男は到頭やつて来ないなあ」と、父は盤面の上に手を中ブラリにしながら云つた。
「詰(つめ)です」と息(むすこ)が答へた。
「之だから田舎住ひは嫌になつてしまふのだ」と、ホワイト氏は急にとつけもないやうに、荒々しく云つた。「むさくるしいじめじめした辺鄙な住居の中でも、茲が一番いけない。路地と云へば沼だ、道と云へば急流だ。こんな家に住まつて居るのは、人聞きだつてよくはない。それかと云つて、此往来で借家は二軒だけしかないのだが、世間の人達はそんなことを考へて呉れないのだからな」
「そんなことは何(ど)うでもいゝぢやありませんか。此の次ぎの勝負にはお勝になりますよ」と、彼の妻はなだめるやうに云つた。
ホワイト氏は直ぐ顔を上げたので、母と子とが意味ありげに、目くばせしようとしたのを妨げた。彼は何(なに)か云はうとしたのを噛み潰して、薄い灰色の髯の中で、そつといまいましげな歯噛をした。
「あ、やつて来たな」と、息(むすこ)のハアバアト・ホワイトが云つた。門が音たかく開けられ思い足音が扉の方に近づいた。
老人はお客大事と云つたやうに、急いで立上つて、扉をあけて、客に「ひどかつたでせう」と慰めて居るのが聞えた、客自身も「随分ひどかつた」と云つたので、ホワイト夫人はチエツと舌鼓を打つたが、夫が背の高い赤ら顔の眼のくるりとした男と、一緒にはいつて来ると、柔しく咳をして居た。
「曹長のモリスさん」とホワイト氏が紹介した。
曹長は皆と握手をした。炉の傍の勧められた座に着いた。主人がウヰスキイと盃を取り出し、銅製の小さい鑵子を炉の上に置くのを、落着いて見詰めて居た。
三杯目の盃を重ねると、曹長の瞬(またゝき)は輝いて来た。彼は語り始めた、この小家族の団欒は異常な興味を以て、この遠い国から来た客を見詰めて居た。客は椅子の上で広い肩を聳やかし、珍らしい光景や荒々しい事業や、戦争や疾病や、珍らしい人種のことなどを話し続けた。
「二十一年になるんだよ」とホワイト氏は妻や息(むすこ)の方を顧みながら云つた、「彼方へ行つた時は倉庫会社のホンの子供上りだつたのが。こんなになられたんだ」
「あまり苦労を、なさつたやうでもありませんね」と、ホワイト夫人が丁寧に云つた。
「いや、住み馴れた所が一番いゝものだ」と、曹長は頭を振つた。飲み干した盃を措きながら、軽い溜息をして頭を再び振つた。
「いや古いお寺や、波羅門の行者(ぎやうじや)や、魔術使ひなどを見たいものぢや。さうさう此間君が僕に話しかけやうとした話があつたね。猿の手か何かの話だつたが」
「つまらない話だ。兎に角聞く価値もない話だ」と、軍人は忙いで打ち消した。
「猿の手、ほう」とホワイト夫人は物珍しげに云つた。
「さう、あなた方に云はすれば、魔術とでも云ふものかな」と、曹長は何気なく云つた。
 三人の聞き手は、乗り気になつて膝を進めた。
 お客は飲み干した盃を、うつかり口へ持つて行きながら、再びそれを下に置いた。主人がそれに酒を注いだ。
「見たところ」と云ひながら、軍医はポケットを探りながら「当り前の小さい手です。からからになつて木乃伊になつて居ます」
 彼はポケットから何か取り出して、それを差し出した。ホワイト夫人は顔をしかめて後退りをした。が、彼女の息(むすこ)はそれを手に取つて、珍らしげに検べて見た。
「ほゝう、之について何か変つた所があるのかね」と訊きながら、ホワイト氏は息(むすこ)の手から、それを受取つて、仔細に見ながら卓の上に置いた。
「老行者(らうぎやうじや)が、之に魔力をかけてあるのです。その行者と云ふのは、非常に高徳な男なのだが、彼は運命と云ふものが人生を支配して居る、そしてその運命に逆はうとするものは、却つて禍を受けるものだと云ふことを教へようとしたのだ。彼は此の猿の手に、かう云ふ符呪(ふじゆ)をかけた。三人の人が別々に此の猿の手に依つて、三つの願ひを叶へることが出来ると云ふ符呪だ」
 曹長の態度が非常に力強く真面目であつたので、聞手は自分たちの軽い笑声が、少し震ひを帯びて居るのを感じたほどであつた。
「さうですか、それなら何(ど)うしてあなた御自身、三つの願ひを起さないのですか」と、息(むすこ)のハアバアト・ホワイトが云つた。
 曹長は、よく中年の人が小生意気な青年を見るやうな眼付で、彼をヂロリと見たが、
「起しましたとも」と、静(しづか)に云ふかと思ふと、その斑点のある顔の色がサツと蒼ざめた。
「それで、本当に叶ひましたか」と、ホワイト夫人が訊いた。
「叶ひました」と、曹長が答へた。彼の盃が強い歯に触れてカチリと音がした。
「あなたの外にも、やつた人がありますか」と、老夫人が訊いた。
「最初の持手が三つの願ひを叶へました。その中の初の二つの願は、何だつたか知りません。が、最後の願は、死ぬと云ふ事だつたのです。そのために之が私の手に、入つたのです」
 彼の声が余りに重苦しかつたので、一座がシンとしてしまつた。
「君が三つの願ひを叶へてしまつたなら、君には差詰(さしづ)め用のないものだね。何のためにそれを持つて居るのだ」と、暫くしてから老ホワイトが訊いた。
 曹長は首を振つた。
「まあ考へて御覧なさい。私も売らうと思つたことがあります。が、どうも売る気にはなれないのです。もう充分此の手は持手に、禍をして居るのです。それに買手だつてありません。ある人達は、荒唐無稽な話だと思ふのです。さう思はない人は、先づ試めしに願ひを叶へて見てから後で金を払はうと云ふのです。」
「もしもう一度、君の三つの願ひが叶ふとしたならば、やつて見る気があるかね」と、老ホワイトは曹長を鋭く見詰めながら訊いた。
「それは分らない。それは分らない」と、彼が答へた。
 彼は猿の手を、人指し指と親指とで、ブラブラさせて居たが、いきなりそれを、ストウヴに投じた。
 ホワイトは、アツと云ひながら、身をかゞめてそれを手早く拾ひ上げた。
「やいた方がいゝ」と、曹長は真面目で云つた。
「もし入(い)らないのなら、僕に呉れたまへ」と、老ホワイトは云つた。
「いや、与(や)らない。俺は火に投げ込んだのだ。もし、君が持つて居るとしたら、どんな事が起つても俺は知らないぞ。さあ火にくべてしまひなさい、その方が賢い」
 が、相手は首を振つて、彼の新らしい所有物を、ぢつと見つめた。
「一体之を何(ど)うすればいゝのだ」と訊いた。
「右の手で高く差し上げて、声高く願ふのだ。然し後が恐ろしいからな」と、曹長が云つた。
「アラビアンナイトにでもありさうな」と、云ひながらホワイト夫人は立ち上つて、夕飯の仕度をし始めた。「私に手が八本も出来るやうに祈つて下さらないかな」と云つた。
 彼女の夫は、そのポケットからかの魔の符を取り出した。親子三人は大声を出して笑つた。曹長は色をなしながら、彼の腕を取つた。
「是非ともやるのなら、余り無理でないことを願ひたまへ」と、荒々しく云つた。
 ホワイト氏は再び猿の手を、ポケットに蔵(しま)つた。そして椅子を並べながら、友人を卓に招いた。
 食事の間、魔の符の事は、一時忘れられた。それが終ると三人は、曹長の印度に於ける冒険談に再び聞き惚れて居た。
 お客が終列車の間に合ふやうにと帰つて行つた後で、息(むすこ)のハアバアトは云つた。
「猿の手の話も、あの人の外の話と同じやうにいゝ加減のものなら、余りアテにもなりませんね」
 ホワイト夫人は、ぢつと夫を見守りながら、
「それで、幾何(いくばく)か代金を、上げたのですか」と訊いた。
「ホンの少し」と、ホワイト氏は顔を一寸赤くしながら「向ふぢや入(い)らないと云つたのだが、無理に取らせたのだ。彼は呉(く)れぐれも、捨てゝしまへと云つて居つた」
「本当だ」と、息(むすこ)はわざと恐ろしさうにしながら「何も金持になつたり、有名になつたり、幸福になつたりする必要はありませんからね。第一、お父さん、皇帝になるとしたら、今のやうにお母さんのお尻に敷かれて居ちや駄目ですからね」と云つた。
 ホワイト夫人は怒つて椅子の腕木を持ち上げて、息(むすこ)を追ひかけたので、彼は卓の周囲を逃げ廻つた。
 ホワイト氏は猿の手を、再びポケットから取出して居た。そして、それを半信半疑で見て居た。
「何を願つていゝか、それが判らない。本当に判らない。実際大抵欲しいと思ふものは持つて居るやうにさへ思ふ」と、静(しづか)に云つた。
「家が抵当になつて居る借金を払つてしまふのですな。さうするより外に望みはない。ねえお父さん。」と、息(むすこ)のハアバアトが、父の肩に手を置きながら云つた。「二百磅(ポンド)欲しいと云ふのですな、二百磅(ポンド)なら丁度いゝ」
 父は自分が魔の符を余りに、軽々しく信じて居るのを、少し恥づるやうに微笑しながら、それを高く差し上げた。すると、息(むすこ)は真面目な顔をしたが、母の方を見てそれを少しく緩めながら、ピアノに向つて坐ると、二三の力強い絃を打つた。
「俺は二百磅の金が欲しい」と、父親がハツキリと云つた。
 ピアノの華々しい混乱した響が、その言葉に応じた。何故と云へば父が急に悲鳴を挙げたので、息(むすこ)は鍵盤の手を放した為である。
 妻と子とが、彼の傍にかけ寄つた。
「あゝピクツと動いた」と、彼は床に横つて居るものを苦々しげに見ながら「俺が願ひを云ふと、あれが蛇か何かのやうにピクツと身をよぢたのだ」
「それにしても、お金は出ませんな。また出たら大変だ」と、云ひながら息(むすこ)は猿の手を取上げて、卓の上に置いた。
「お父さんの思ひ做(な)しだらう」と、妻は夫を見ながら心配さうに云つた。
 彼は首を振つた。「心配しないでいゝ。何も怪我をした訳でもない。が何(なに)しろ駭(おどろ)かせた」と云つた。
 父と子が煙草を吸ひ終ると、彼等はストウヴの傍に坐つて居た。戸外では風が益々吹き募つて来た。父は二階の扉が、バタンと音をさせるたびにビクビク驚いて居た。いつもとは違つた圧倒するやうな静寂が三人を包んで居た。それは老夫婦が、寝室へ退く迄続いて居た。
「お父さん、寝床の真中に大きい袋に入れた現金がきつと有りさうですよ。そして、あなたがそのアブク銭をポケットに蔵(しま)ひ込むところを、衣装戸棚の上に蹲(うずく)まつて居る魔物がぢつと見つめて居るでせうよ。ぢやお休みなさい」と息(むすこ)が別れる時云つた。

    二

 翌日は、冬の日がアカアカと照つて居た。それが食卓に流れ込んだとき、ハアバアトは父の恐怖を嗤つた。
 昨夜は、全く欠けて居た散文的な健全な空気が、部屋に充ちて居た。そして汚い干からびた猿の手は棚の上に投げ捨てられて居た。その力を誰もが信じて居ないことを明(あきらか)に示すやうに。
「年寄りの軍人と云ふものは、皆あんなものだ。私達があんなに一生懸命に聴いたのが、馬鹿げて居たのです。今時、願が叶ふなんて云ふことがあるものでない。もし叶つたところで、その二百磅(ポンド)はきつと害こそすれ得にはなりませんよ」と、ホワイト夫人が云つた。
「お天道様から真逆様に落ちる位が落ちですよ」と、冗談好きなハアバアトが云つた。
「が、モリスは非常に本当らしく話した。まあさう云ふ事が起つたのは暗合だつたと云つてしまへばそれまでだが」と、父が云つた。
「兎に角、私の帰つて来る迄、その金には手を付けないやうにして下さい。その金を握ると、お父さんが急にケチン坊の握り屋になつて、その為にお父さんと義絶しなけりやならなくなりはしないかと、心配して居るのです」と、云ひながら彼は卓から立ち上つた。
 彼の母は笑ひながら、息(むすこ)を送りだした。そして息(むすこ)が歩いて行く姿を見送ると、朝食の卓に帰つて来た。彼女は、夫が軽卒(けいそつ)に猿の手を信じたことを、やりこめるのが愉快であつた。が、さうしながらも郵便が来ると馳け出したり、又その郵便が洋服屋の勘定書であることが分ると、酒好きの曹長の話をしたりした。
「ハアバアトが帰つて来ますと、またきつと何かひやかしを云ひますよ」と、昼食のときに彼女が云つた。
 ホワイト氏は、ビアをつぎながら、
「然し、あれが俺の手の裡(うち)で、ビクリと動いた丈(だけ)はたしかなのだ。それ丈は誓つてもいゝ」
「さう思つたのでせう」と、老夫人はなだめるやうに云つた。
「いや思つたのぢやない、確に動いたのだ。思つたりしたのぢやない、実際――」
と云ひかけたが、妻が向ふを向いて居るので「何(ど)うしたのだ」と訊いた。
 妻は返事をしなかつた。彼女は戸外に居る一人の男のあやしげなそぶりを見つめて居た。その男は中へ入らうとして、入りかねて居る様子であつた。妻は心の中にふと二百磅の事が浮んだので、その男の身装(みなり)が立派で、帽子が新しく光つて居るのに気が付いた。その男は、門の前で三遍立ち止まつて、そして通り過ぎた。四回目に到頭(たうとう)門に手を掛けながら立ち止まつた。そして急に決心したと見え、門をあけると、玄関の方へ歩いて来た。それと同時に、ホワイト夫人は、手を後にやつて、エプロンの紐を外(は)づし、その有用な品物を椅子の座蒲団の下へ置いた。
 彼女は、内心穏(おだやか)でなさゝうなその客を、導いて来た。彼は恐縮したやうにホワイト夫人を見て居た。[一部欠落]それから、彼女は女性と云ふ性が、許すかぎりの辛抱強さで、相手が話を切り出すのを待つて居た。が、相手はしばらくは不思議な程黙つて居た。
 到頭その男が切り出し始めた。
「私はえー此方様(こちらさま)へ参るやうに」と、云ひかけて、洋袴(ズボン)から落ちた糸屑を拾ひ上げたりした。「実はモーエンドメギンス会社から参りました。」
 老夫人はビクリとした。
「何か事件が起りましたか。何かハアバアトの身の上に事件が起りましたか、一体何です、何です」と、息を切らせて訊いた。
 彼の夫が、横からそれを制した。
「これこれ! お前のやうに、さう急いではいかん。まあお坐りなさい。決して凶(わる)い知らせぢやありますまいね」と、相手の顔を憂はしげに見つめた。
「大変お気の毒なことですが――」と、その客が話し始めた。
「怪我をしたのですか」と、女親が訊いた。
 客は肯(うなづ)いて見せた。そして静(しづか)に云つた。
「大怪我です。が、苦痛はありませんでした」
 年寄つた女親は、彼の手を合せながら、
「有難い、苦しまないと云ふ丈(だけ)でもどんなに――」と、云ひかけたが、ふと「苦痛はない」と云ふ事の凶(わる)い意味が分ると、彼女はハッと言葉を途切らせた。見ると相手の男は、顔を横へ背けて居るので彼女の恐怖が恐ろしくも、当つて居るのを知つた。彼女はホッと息を吐くと、まだそれとは気の付いて居ないらしい夫の手の中に、彼女の打ち震ふ老いた両手を托(たく)した。
 其処に長い沈黙があつた。
「機械に身体を捲き込まれたのです」と客が到頭おしまひに、低い声で云つた。
「機械に捲き込まれた。なるほど」と、ホワイト氏がうつけのやうに繰り返した。
 彼は窓の方角を、ぼんやりと凝視して居た。そして妻の手を自分の手の裡(うち)に握りしめて居た。もう四十年も昔の、恋人同志であつた頃にやつて居たやうに、
「あれは私達に取つて、取替へのない一人子です。お察し下さい」と、静(しづか)に客の方を振向きながら云つた。
 客は咳払ひをして、席を立つて静に窓の方へ歩(あゆ)んだ。
「会社の重役も御愁傷(ごしうしやう)の程を心からお察し申すと、申しました」と、彼は窓の方を見ながら云つた。「が、一寸お断りして置きます。私は会社の使用人で、会社の命令通り申上げますのです」
 それに対して返事はなかつた。年取つた夫人の顔は白かつた、眼は引きつり、息は絶えるばかりであつた。夫の顔は、彼の友なる曹長が最初の戦場に、望んだやうな顔をして居た。
「会社の方でかう申して居るので厶(ござ)います。会社の方で責任は持てない。が、御子息様のこれまでの御功労に対するお礼として慰藉金(いしゃきん)若干を差し上げようと申して居ります」
 ホワイト氏は妻の手を放すと、立ち上つた。そして恐怖に充ちた面でぢつと客を見つめた。彼の渇いた唇が、
「金額は」と云ふ言葉を思はず吐いた。
「二百磅(ポンド)です」と、客人が答へた。
 妻の悲鳴を揚げたのにも、気が付かず、老人はかすかな微笑を洩すかと思ふと、盲目のやうに手を泳ぐやうに突き出しながら、死人の如く床の上に崩れかゝつた。

    三

 二哩(マイル)ばかり離れた、新しい大きい墓地へ死人を葬つてから、老夫婦は陰と沈黙とに閉ざされて、家の中へ帰つて来た。
 凡てが夢の如く、現(うつゝ)の如く去つてしまつたので、彼等は何(ど)うしても、それが実際の事だとは諦めかねて居た。まだ何か起るに違ひない、この老いた心には堪へがたい重荷を緩めて呉れるやうな、何事かゞ起るに違(ちがひ)ないと云ふやうな、期待の心さへ残つて居た。
 が、然し日は空しく去つた。さうした期待の心はあきらめに移りかけて居た。時々は冷淡と間違はれる、年寄特有のあきらめに、移りかけて居た。
 時には彼等は言葉さへ交(か)はさなかつた。もうそれに就いて話すべき対象がなかつたのである。そして日が退屈になるほど、長かつた。
 息(むすこ)が死んでから、一週間ばかり経(た)つたある夜だつた。老人は、夜中眼がさめて、手を延ばして寝床の上を探つた、そして自分一人であるのに気が付いた。
 部屋は暗かつた。声を潜ませた泣き声が、窓の所から聞えた。彼は起き直つて聴いて居た。
「さあ来てお休み、身体が冷えるだらう」と、物やさしく言つた。
「あの子が、どんなに冷えるでせう」と、云ひながら老夫人は更に声をあげて泣いた。
 いつか妻の泣き声が聞えなくなつて居た。寝床が温かかつた。彼の眼は眠く重かつた。彼がとろとろまどろみかけた時であつた。彼はいきなり妻の烈しい叫声によつて、急に覚された。
「猿の手! 猿の手!」と、彼女はすさまじく叫んだ。
 彼は駭いて起き上つた。
「何処に何処に。それが何(ど)うしたのだ」
 彼女はよろめくやうに、彼の所へ馳(か)けつて来た。そして静(しづか)に云つた。
「あれが欲しいのです。無くしはしないでせう」
「座敷の棚の上にある、それが何(ど)うしたのだ」と、いぶかりながら答へた。
 彼女は大きな叫び声と笑ひ声を、一時に揚げた。そして彼の上に身を掩(おほ)ふて、頬にキスをした。
「今(いま)丁度(ちやうど)あのことを思ひ付いたのです。何うしてあのことを今迄忘れて居たのだらう。あなたも何故考へ付かなかつたのです」と、彼女はヒステリックに云つた。
「考へ付くつて何の事をだい」と、彼が尋ねた。
「もう二つの願の事です。私達はまだ一つしか願つてありません」と、彼女は口早に答へた。
「一つで懲々(こりごり)したぢやないか」と、夫が烈しく云つた。
「いゝえ」と、女は居丈高(ゐたけだか)に答へた。「もう一つ願ひを叶はして貰ふのです。はやく行つてあれを取つて来なさい、そしてあの子を生き返らすやうに願つて下さい」
 夫は寝床の中に立ち上つた。そして打ち震ふ手で夜具を投げ捨てた。
「馬鹿な。お前は気が違つたな」と、蒼白な顔をして叫んだ。
「取つておいでなさい」と、彼女は喘いだ。「早く取つておいでなさい、そして願を立てゝ下さい、あああの子を、あの子を」
 夫はマッチを擦つて、蝋燭を灯した。
「さあお寝(やす)みなさい。お前は途方もないことを云つて居る」と、夫はおづおづ答へた。
「私達は初の願が叶つたのです。二度目の願が叶はないと云ふことがあるものですか」と、彼女は熱狂して云つた。
「あれや偶然さ」と、夫が口ごもつた。
「行つて取つて来なさい! そして願を立てゝ下さい」と、年寄つた妻は夫を扉の戸へと、引きずるやうにした。
 夫は闇の中を手探ぐりに、座敷へ降りて行つた。そして炉の傍へ近づいた。あの魔の符はやつぱり元の所にあつた。彼はふと、まだ願を口に出さない前に、はやくも身体を打ち砕かれた血まみれの息(むすこ)の姿が室を出ない前に、眼の前に現われはしないかと云ふ恐怖が、恐ろしく襲つて来た。扉の方角を忘れた時には、彼はハッと息を止めた程であつた。彼の額は、冷汗をかいて居た。彼は卓の周囲を擽り[「擽り」はママ]ながら廻つた。それからやつと壁を伝ひながら、小さい入口の方へ出た。その間始終あの物騒な品物は彼の手中にあつた。
 部屋に帰つて見ると、彼の妻の顔色も前とは変つて居るやうに思はれた。蒼白でしかも緊張して居た。そして此世の人と見えないやうな顔付をして居ることが、彼の心を怖れしめた。彼は彼女を薄気味悪く思つた。
「さあ願をお立てなさい!」と、妻は強い声で云つた。
「馬鹿らしい、正しい事ぢやない」と彼は呻くやうに云つた。
「願をお立てなさい!」と、妻は厳然と繰返した。
 彼は彼の手を指し延べた。
「俺はもう一度子供が生きかへるのを望む」
 魔の符は床上に落ちた。彼は戦きながら、それを見た。そして震へながら長椅子に腰を下した。老いた妻は燃えるやうな眼をしながら、窓の所へ歩いて行つて、その窓掩ひを揚げた。
 彼は身の裡が、冷えるまで坐つて居た。そして窓から表を覗いて居る老いた妻の姿を、時々見て居た。蝋燭のはしが、支那製の燭台の縁よりも低く燃えつきて、天井や壁にたゆたふやうな光を投げて居たが、パッと燃え上ると同時に消えてしまつた。
 老人は、魔の符の利き目のないのにホッと安心して寝床に入つた。二三分経つと、妻も静(しづか)にあきらめたやうに彼の傍に来た。
 両方とも物を云はなかつた。静かに時計の音を聞いて居た。階段の板が鳴る響がした。鼠が鳴きながら、壁の中を走つた。闇は堪へがたいほど重くるしかつた。夫はやつと元気を引きたゝして、マッチを点けながら、階下へ蝋燭を取りに行つた。
 階段を降りた所で、マッチが消えた。二本目を擦るために立ち止まつた。丁度その瞬間であつた。やつと聞えるか聞えないかの、かすかな戸を叩く音が、表から聞えて来た。
 マッチは彼の手から、滑り落ちた。彼は叩く音がもう一つ繰り返へされると、息を凝らして、立ちすくんでしまつた。それから急いで、部屋へ馳けもどつて、後の戸をハタと閉ざした。
 三度目の叩音は、家中に響いた。
「何でせう」と、年取つた妻は、駭いて立ち上つた。
「鼠だよ。鼠だよ、今階段のところで、擦れ違つたんだ」と、夫は震へながら言つた。
 妻は寝床の上に坐り直して聞耳を立てゝ居た。音高いノックが家中に響いた。
「あゝハアバアトだ。ハアバアトだ」と、妻は叫んだ。
 彼女は、戸の所へ馳け寄つた。が夫は前に立ち塞がつた。そして彼女を取(とら)へて放さなかつた。
「何うする気なのだ」と、彼はうつろになつたやうな声で云つた。
「あの子です。ハアバアトです。二哩(マイル)もはなれて居るので来るのに時間がかゝつたのです。何うして止め立てするのです。はなして下さい。戸をあけてやらねばなりません」と彼女は機械的に夫と争つた。
「後生だから入れてはいけない」と、夫は打ちふるへながら云つた。
「あなたは自分の息(むすこ)を恐がつて居るのですか。はなして下(くださ)れい。ハアバアトや、今行つて上げるから、今行つて上げるから」と、彼女は叫びながら争つた。
 ノックは又一つ、又一つ続いた。老いた妻はいきなり身を振り切ると部屋から走り出た。夫は階段の中段に追(おひ)すがつて、頼むやうに妻を呼び止めようとしたが、彼女は階下へ馳け下りてしまつた。彼は表戸の鎖がはづされ、下のかんぬきが徐々に重々しく、環から取り除けられる音を聴いた。それから老いた妻の緊張して喘いで居る声をきいた。
「降りて来て下さい。閂が。閂に手が届かないのです」と、彼女が声高く叫んだ。
 が、彼女の夫は四つ這ひになつて、懸命に床に落ちた猿の手を探して居た。表に居る者が家に入らぬ間に探せたらと思つて居た。
 殆ど間断なき射撃のやうに、戸を叩く音が家中に響き渡つた。彼は妻が閂を除(は)づす踏台のために戸に寄せかけて置いた椅子が、ギチギチ音がするのを聴いた。彼は、閂がだんだん音を立てながら、外づされるのを聴いた。丁度その瞬間に、彼は猿の手を見付けた。そして狂せんばかりに彼の第三番目にして而して最後なる願を立てた。
 戸を叩く音が、急にピッタリと止まつた。まだその反響は家の中に残つて居る位であるのに。彼は椅子が取り除けられ、戸が開かれるのを聴いた。冷めたい風がサッと階段を伝ふて流れ上つた。妻の悲しみと失望との長い呻きが、彼に妻の所へ馳け下りる勇気を与へた。そして門の所へ迄出て見る勇気を与へた。
 街の向ふ側にまたゝいて居る街燈が、静かな人跡の絶えた深夜の通(とほり)を照して居たばかりであつた。
        (大正九年『文藝往來』)

・William Wymark Jacobs、1863年-1943年。