河畔の悲劇 142022年06月17日

一四、あいびき

 伯爵は、その晩寝床に入ってから考えると、何だか、ソオブルジイの親切が少しうるさく思えて来た。しかしそれは已(や)むを得ないことだ――美しいダイヤモンドだって、顕微鏡でしらべると、無疵(むきず)のものは一つもないっていうから。
「生命(いのち)の恩人もいいが、こう特権を濫用されては困る。此方(こっち)に感づかせないで好意をつくしてくれるということは、出来ないものか知ら。」
 そんなことを思ってみたりした。
 翌(あ)くる日、ソオブルジイは午前十時ごろに、巴里(パリ)へ行くために邸を出ると、伯爵も停車場(ていしゃば)まで送ってゆくといって、一緒に出かけた。
 ベルタは、二人が仲よく連れだってゆくのを、窓から見送っていた。彼女は伯爵が邸へ来てから、妙に心持(こころもち)がそわそわしだした。それは、自分にも不思議なくらいだった。
 今に伯爵が停車場から帰って来ると、良人(おっと)の留守に、その人と初めて差向(さしむか)いで談(はな)しをしなければならないが、そのときはどうしよう。何だか恐ろしい。と同時に、それが待遠(まちどお)しいような気がしないでもなかった。
 彼女は取止(とりと)めもなくそんなことを考えながら、客間の方へ出て待っていたが、二時間経っても伯爵は帰って来ない。何処へ行ったんだろうと、それがまた気になりだした。
 ところが恰度(ちょうど)その時分、伯爵は、コルベイユの停車場でゼンニイを迎えていた。
 念入りにお化粧をしたゼンニイが、緑色の服に天鵞絨(ビロード)の外套を被(はお)って、いそいそとフォームに降り立った姿は、常より数倍も艶(あでや)かに見えた。彼女は駅の入口に立っている伯爵を遠くから見かけると、人込(ひとごみ)を押分け押分け駈けて行って、犇(ひし)と胸に取り縋(すが)るなり、
「貴郎(あなた)、よく生きていて下さったのね! わたし、こんな嬉しいことはありません!」
 感極(かんきわ)まって泣き笑いをしながら、大きな声で、止め度もなくそんなことをいうので、町の人々や旅客達は呆れたように、遠囲(とおまき)にして、この不思議な男女(ふたり)を見ているのであった。
 伯爵は極(きま)りがわるいので、ぐんぐん彼女の手をひいて、程近いベル・イマーヂ旅館へつれこんだ。
 やがて一等いい室(へや)へ案内されて、睦(むつ)まじく食事をとりながら、彼は自殺から救われたまでの経過を女に話して聞かせた。それは一篇の小説を読むような色彩と変化に富んでいて、ゼンニイにはなかなか面白かった。
 ゼンニイの方では、伯爵と別れてから、偶然にも、旧い友達で今は立派な裁縫師になっている女(ひと)にめぐり逢った。ところが、その女(ひと)は衣裳屋をはじめるについて資本主(ぬし)を探していると聞いて、早速自分が金を出して、ブルダ区に小じんまりとした建物を買って、両女(ふたり)共同の店を出すことになったが、相手は腕のある女だから、商売はきっと繁昌するだろうし、第一そうしておけば、伯爵を楽に遊ばせておくことが出来るというのであった。
 ゼンニイは大真面目(おおまじめ)で、もう商売人になったような口調でそんなことをいうものだから、伯爵は可笑しかった。けれど、彼女が自分のためにそこまで真剣に考えてくれたかと思えば、嬉しいにはちがいなかった。
 が、残念なことに、二人はいつまでもそうして話しこんでいるわけには行かなかった。女の方では一週間もコルベイユに滞在するつもりでやって来たのだけれど、伯爵の都合はそれを許さなかった。女は泣いたり憤(おこ)ったりして、なかなか帰ろうとはいわなかったが、とうとう来週にまた会うという約束で納得した。
「ではさようなら。わたしを忘れてはいやですよ。」彼女は伯爵を抱擁しながら、「わたし、何だか気が揉めるわ。だって貴郎(あなた)のお友達の奥様は、大変な美人だっていうではありませんか。そうじゃなくって?」
「僕は知らん。まだ沁々(しみじみ)顔も見ないんだ。」
 ゼンニイは稍(やや)安心したふうで帰って行った。
 そのときのゼンニイの言葉――嫉妬(やきもち)半分にベルタの美しさを警戒する言葉が、伯爵の耳底(みみそこ)にいつまでも残った。
 それから、ソオブルジイの邸へ帰って行くと、ベルタは良人の留守に、独りで客間に本を読んでいた。やがて差向(さしむか)いになって、談話(はなし)をしてみると、成るほどこの女(ひと)は美人だと思った。すぐれた彫刻に見るような、整った顔の輪郭は、何処といって非のうちどころがない。それに、ぱっちりと澄みきった眼差(まなざし)は、何となく凄(すご)い感じさえも与えるのであった。
 ベルタの方では、初めから冷静を失っているので、相手の欠点を見極めるという余裕もなかった。伯爵の話は何もかも珍しくて、遠い異国から帰ってきた旅人の物語を聞くような気持で、彼女は胸を躍らせながら耳を傾けた。
 それから幾週、幾月と時は過ぎたが、二人はこうして談(はな)し合うにつれて、人知られぬ親しみを加えて行った。それに、伯爵は一種の居候(いそうろう)心理とでも云おうか、自分の不自由に引きくらべて、此邸(ここ)の主人の幸福を羨(うらや)み、それが嵩(こう)じて来ると憎しみにさえ変って行った。そうした心持(こころもち)は、良人の平凡に飽足(あきた)らぬベルタの気持と、何処かぴったりするところがあった。そしていつの間にか、この男女(ふたり)は離れがたい関係になってしまっていた。
 こうなると、田舎の生活も伯爵にとって、そんなに単調ではなかった。彼は心ゆくまで飲んで、食って、十二時間もぐっすり寝て、ベルタと談(はな)しこんだり、乗馬や釣をやったりして、気随気儘(きずいきまま)にその日を送っているうちに、体がめきめき丈夫になって、肉附(にくづき)もよくなって来た。
 その間に、ソオブルジイは親友のために、一日おき又は二日おきにせっせと巴里(パリ)へ出かけて行っては、財産整理をやった。後から後からと際限もなく出て来る債権者達と折衝(せっしょう)したり、官署(かんしょ)向きの手続きに奔走したり、動産や不動産の値段の掛引(かけひき)までも、これが他事(ひとごと)と思えないほど親身に尽しているのであった。
 ゼンニイは相変らずコルベイユへやって来ては、伯爵と媾曳(あいびき)をしていた。巴里(パリ)に起ったいろいろな出来事や、噂話をもって来ては、伯爵に聞かせるのを喜んだ。彼女は毎週欠かさずにやって来たが、その媾曳が度重(たびかさ)なるにしたがって、ますます深味(ふかみ)へはまって行くようであった。
 最近は友達と二人ではじめた衣裳店の方が、思わしくない上に、その友達に三千法(フラン)という金を持ち逃げされて、だんだん苦しくなって来たから、ぜひ伯爵に店へ来て助けてくれということであったが、伯爵にはそんな仕事は出来もしないし、彼はてんで巴里(パリ)へ足踏みをする気がないので、その話はそれっきりになっていた。
 ところが、間もなく、ベルタが伯爵にゼンニイと手を切ってくれとせがみ出した。けれどゼンニイはこの頃、金廻(かねまわ)りが悪くなればなるほど、ますます深く伯爵に打込んで来ている矢先だから、これと手を切るということは、容易な業(わざ)でなかった。それでなくてさえ、ゼンニイは伯爵の素振(そぶり)が冷たくなって来たのに業(ごう)を煮やして、泣くやら拗(すね)るやらで、散々(さんざん)手子摺(てこず)らせていたのだ。
 或る晩、ゼンニイは癇癪をおこして、こんなことをいった。
「貴郎(あなた)は他にいい女(ひと)が出来ましたね。いいえ、知っています。証拠があります。そんなことでわたしを捨てたら承知しませんよ。わたしはその女(ひと)を取殺(とりころ)してくれるっ――」
 伯爵は、そんな嚇(おどか)しを大して恐れもしなかったが、女が大分(だいぶ)逆(のぼ)せているらしいから、迂濶(うっかり)すっぽかしを喰わして、ソオブルジイの邸へ押しかけてでも来られたら面倒だと思ったので、別れ話ももちだし兼ねていた。
 ところが、一方ではベルタが泣いてせがむので、或る日のこと、ついに肚(はら)をきめて云いだした。
「ゼンニイや、気の毒だけれど、少しの間(あいだ)遠のいていてくれないか。知ってのとおり、僕は没落してしまって、盛りかえす方法といえば、結婚をするより外(ほか)はないんだが、こうしてお前と媾曳をしていては、纏(まと)まる縁談も破(こわ)れてしまうからね。」
 それを聞くと、ゼンニイは黙りこんでしまった。そして見る見る顔色が真蒼(まっさお)になり唇は血の気が失せて、じっと眼を据えていたが、
「そう――貴郎(あなた)は結婚をなさるの?」
「どうもね、そうしなければならないんだ。」伯爵はわざと溜息をついて、「此間(このあいだ)お前に与(や)った金も、ソオブルジイに借りたんだが、友達の財布をいつまで当てにしているわけにも行かないからね。」
「貴郎(あなた)はほんとうに結婚をするから別れてくれと仰しゃるんですか。嘘じゃないでしょうね。」
「嘘は云わない。名誉にかけて誓う。」
「そんなら仕方がありません。」
 彼女は鏡の前へ行って、静かに身仕舞(みじまい)をなおして、帽子をかぶってから、
「貴郎(あなた)、もう一度確(しか)と仰しゃって下さい。どうしても別れなければならないんですか。」
「そうだよ。」
 彼女は、恐ろしい身振りをやった。けれど、それは伯爵の眼には見えなかった。彼女は物凄い顔をして、何か毒づくべく唇をゆがめたが、ふと思い直して、
「わたしはもう帰ります。これっきりお目にかかりません――結婚のお邪魔をしては、お気の毒ですからね。」
「まア、そう云わずに、友達になっていて貰いたいんだが。」
「だけど、覚えていらっしゃい。貴郎(あなた)は結婚をするのでなくて、他の事情でわたしを見捨てるなら、わたしはきっと貴郎(あなた)を取殺(とりころ)します。あの女(ひと)だってただは置きません。」
 伯爵が宥(なだ)めるように手をとろうとしたが、彼女は憤然と振りきって、
「さようなら。」
 そのまま外へ飛びだした。そして大通りをまっすぐに、停車場の方へ行ってしまった。
「やれやれ、これで形(かた)がついたわい。」伯爵はほっとして、独りごとを云った。「ゼンニイはやっぱり好(い)い娘(こ)だ。」

メデューサの首 52022年06月17日

(五)ゴルゴンの島

 暫く行くと、美しい日の色はだんだんと薄れて、天も地も、ただ一色(ひといろ)に、灰色の冷たい霧にかき消された、何ともいえぬ物凄い海の上へ出た。そこには夜と昼の区別もなく、雲も、風も、嵐もなく、ただ死のような静寂(しずけさ)が天地に蔓(はびこ)っている。この海中に浮んだ形のない島の上に、ゴルゴンの姉妹は横(よこた)わっている。
 ペルセウスはアテーネの楯を振りかざして、空の上から、楯の面(おもて)の映る影を眺めた。そこには大きさ象程(ぞうほど)もある三個の怪物の姿が現われている。その中の二つは、まるで豚のように醜い姿を、だらしもなく伸ばして、死んだように眠っていたが、後(あと)の一つは、絶えずあちらこちらに寝返りをしていた。見ると、その神女(ニムフ)のように美しい顔には、悔恨と苦痛の色を浮べて、両方の眉の間には深い皺を刻み、唇は固く結んでいる。ペルセウスは見ているうちに、この美しい、そして物凄いメデューサの様子が、可哀そうでたまらなくなった。
「ああ、メデューサが他の姉妹と代っていて呉れたら!」と彼は心の中(なか)で言った。「だが、こうして苦しませて置くよりは、一思(ひとおも)いに殺した方が功徳だ。」
 こう思って見ているうちに、メデューサは不意に虹のような黄銅の翼を翻(ひるがえ)すと、その下から恐ろしい黄銅の爪が現われた。すると頭の上では、無数の蛇が、むくむくと首を振り立てて、小さな、潤(うる)みのない眼を光らせながら、しゅっしゅっと声を立てる。これを見ると、ペルセウスの顔は急に引き緊(しま)った。「矢張(やっぱ)り他の二つと同じ怪物だ!」と思うと、剣(けん)を抜いて、じりじりと寄って行った。そして楯の面をきっと見つめながら、後向(うしろむ)きに剣を振って、一刀(いっとう)の下(もと)にメデューサの首を切り落した。その時メデューサの体は恐ろしい音を立てて、岩へ倒れかかったが、ペルセウスはその首を取って、顔をそむけたまま、手早く山羊の皮へ包んでしまった。
 二つのゴルゴンが、この響きに驚いて、目を醒(さま)した時には、ペルセウスはもう空へ翔(か)け上って、アルテミスの弓を離れた矢よりも早く、南をさして飛んで行った。
 ゴルゴンの姉妹は、メデューサの死骸を見ると、恐ろしい声を立てて、空中へ飛び上り、小鳥を覘(ねら)う鷲のように、翼を搏(う)ってペルセウスの後を追って来た。こうして幾百里ともなく追って来る間に、黄銅の翼は絶えず、風を切って、恐ろしい唸り声を立てた。ペルセウスは飛行沓(ひこうぐつ)を励ましながら、全速力を出して逃げて行く。そのうちに、ゴルゴンの翼の音が、次第に遠ざかって、終(つい)には全く聞えないようになった。
 ペルセウスはほっと安心して、南へ南へと青い海の上を翔(かけ)って行くうちに、その日の夕方には、見覚えのあるヘスペリデスの花園へ帰って来た。ペルセウスは岸へ下り立つや否や、砂の上へ坐って、メデューサの血で汚(けが)れた手を海の水で洗い浄(きよ)めた。今でも嵐の後なぞに、海辺へ吹き寄せられる海草に、血のような汚点(しみ)の見えるのは、この時のメデューサの血の名残だと言い伝えられている。
 神女(ニムフ)らはペルセウスの姿を見ると、駈け寄って来て、彼を迎えて、一処(いっしょ)にアトラスの処(ところ)へ連れて行った。アトラスは熱心な眼を、ペルセウスに注(そそ)いで、重い唇を動かした。
「お前は約束を忘れはしまいな。」
 ペルセウスは黙って山羊の皮をのけて、メデューサの首をアトラスの前へさし付けた。
 アトラスは、一度は春の花のように美しく、活々(いきいき)と、無邪気であったメデューサの顔に、深く刻まれた悔恨と、悲哀と、失望と、無情の色を見るや否や、心は急に氷のように冷たく、固くなって、その大きな、穏和な顔も、大木の幹のような手足も、山のような背骨も、そのままに石となって、巨神(チタン)アトラスはアトラス山と変ってしまった。その頭は白妙(しろたえ)の雪の冠(かんむり)を戴(いただ)き、大きな肩を雲の中へ突き入れて、今でも天と地の間に聳(そび)え立っている。

第百十二段2022年06月17日

複数の国が MLRS を提供するようだ。まだ現役だったのか。
HIMARS と言うのは MLRS の後継機種かと思っていたら違うようだ。
尤も、筆者の現代兵器に関する知識は、前世紀のウォー・シミュレーション・ゲーム迄で止まっているが。