妻を尋ねて幽界まで 32022年06月09日

(三)漂浪の旅

 アルゴー艦の勇士として名を歌われたヤソンが、オルフェウスの助力を得ようとして、遙々(はるばる)とトラキヤの森の中へ尋ねて来たのは、この時であった。彼は永久の悲しみに包まれた目を伏せて、金毛(きんもう)の羊皮(ようひ)の探検に燃え立っているヤソンの勇ましい言葉を聞いていた。
「私はもう充分苦労をした。放浪の旅にはもうあきあきした。」と言ってオルフェウスは、嘆息(ためいき)をついた。「母の女神から授かった声も、手練(しゅれん)も、何の役にも立たなかった。私は無益に歌いもし、苦労もした。冥府の国へ降(くだ)って、冥府の王を感動させ、妻のエウリディケを取り戻して来た骨折りも無駄であった。私は最愛の妻を一度は取り返したが、その日のうちにまた失ってしまった。それからは気が狂って当てもなく諸方をさまよって、エジプトへも行き、リビヤの砂漠へも踏み込み、大海の島々へも迷って行った。その間私の竪琴の音(ね)は、多くの人々の心をも、猛(たけ)しい野獣をも、草木をも、生命(いのち)のない石をも、感動させたけれども、その音楽も、私の心には何の平和をも与えなかった。併し終(つい)に母の愛の力に救われて、こうして再び平和な故郷へ帰って来た。その私をまた引き出して、世界の果てへ、見境もつかぬ闇の中へ、東の海の浪の果てまで、連れて行こうと言うのか?」
 こう言って、彼は親友のヤソンを眺めて、深い嘆息をついた。
「けれども運命ならば、それも遁(のが)れる訳にはゆかない。親友の頼みを拒む力はない。」
 オルフェウスは、重い心を抱(いだ)いて、アルゴー艦の一員に加わった。そして長い苦しい航海の間に、その船友(せんゆう)のために歌った歌と、この冒険の始終を歌った歌は、「オルフェウスの歌」と呼ばれて今日(こんにち)迄伝わっている。
 彼はその音楽の魅力によって、さまざまの災難を払いのけた。或る時はその音色(ねいろ)によって、恐ろしい怪物を眠りに落し、或る時は妖女シレノスと歌を戦わして、その同僚を妖女の魅力から救い出した。

河畔の悲劇 132022年06月09日

一三、借財整理

 その日、オルシバル町のソオブルジイの邸では、珍しく主人の帰りが遅いので、夫人のベルタは、焦々(いらいら)しながら待ちわびていた。
 結婚をしてから良人(おっと)は一度だって晩餐時(ばんさんどき)に帰らぬということはなかったのに、今日はどうしたのであろう。今に帰って来たら、何といって怨んでやろうかと等(など)と考えていると、夜の十時頃、客間の戸が唐突(だしぬけ)に開いて、閾際(しきいぎわ)に立ったのはソオブルジイであった。彼は快活な笑顔を夫人の方へ向けながら、
「ベルタや、今日はお前に幽霊をつれて来たよ。」
「えっ?」
「お前の知っている幽霊だ。そら、度々(たびたび)噂を聞かした僕の旧(ふる)い親友さ。」
と、廊下にもじもじしていた伯爵を、室内(なか)へ導き入れて、
「お前に御紹介しよう。この人がエクトル・ド・トレモレル伯爵。」
 ベルタは、ほんとうに幽霊でも見たように狼狽(どぎまぎ)して、心持ち顔を赧(あか)らめがら、起(た)ちあがった。彼女は顔を赧らめたのは、恐らくこの時が初めてだった。何だかわけのわからない恥かしさで、その澄んだ大きな碧眼をあげるのも極りが悪いような思いがした。
「よく入(い)らしって下さいました。」
 漸(やっ)と呟くように挨拶をした。
 トレモレルという名前は、良人から度々聞かされたばかりでなく、新聞でもときどき見かけたし、他(よそ)の客間で絶えず噂を聞いて、よく知っていた。
 その頃トレモレル伯爵といえば、社交界のドンキホオテといわれたほどの向う見ずで、因襲ぎらいで、些細なことから決闘沙汰に及ぶ癖があるので、お上品な連中からは排斥されたけれど、一種の快男児として、なかなかの人気者であったのだ。
 ソオブルジイは左(さ)も心地よげに、自分の肱掛椅子に坐りこんで、
「ベルタや、伯爵は都会生活にすっかり疲れてしまったので、医者に勧められて暫く静養するために、ここへ来たのだよ。」
「けれど、こんな処では、お困りでしょう。」
とベルタは答えた。
「そんなことがあるものか。」
「だって、このオルシバルは退屈なところですし、わたし達は気の利かない田舎者なんですから。」
といいながら、その美しい眼で、じっと伯爵の様子を眺めた。伯爵は、あらゆる経験を嘗めつくして、すべての物事に飽いてしまった人のように、気高く落ちついていて、ベルタの美貌にも一向気を止める風がなかった。そうであればあるほど、ベルタの方では、この人が偉く思えてならなかった。
「この人とソオブルジイと較べると、何という違いだろう。」と彼女は考えた。「ソオブルジイは平凡で、何を見てもすぐに感動する。それが顔に顕(あら)われるから、口を開かない前に云うことがわかる。」
 しかし、それはベルタの思い違いであった。伯爵のその時の無関心は、人格の偉さから来たのではなくて、実は疲れきっていて、何を考える余裕もなかったのだ。
「僕は草臥(くたび)れてしまった――お先に失礼します。」
 そういって、彼はさっさと寝室の方へ引退(ひきさが)った。
 その後でソオブルジイは、伯爵を邸へつれて来た事情を夫人に詳しく話したが、すべての親友の常として、彼もその際、あまり不体裁な部分だけは省略した。そして、
「何をいうにも、お坊ちゃんで、気が弱いんだからな。我々はせいぜい気をつけて、彼を癒(なお)してやらなければ可(い)けない。」
と附け加えた。ベルタは、良人(おっと)が他人(ひと)のことでそれほど親身に心配したのを見たことがなかった。
 伯爵は一晩ぐっすり眠ると、翌(あ)くる日は晴れ晴れした顔をして起きて来た。自殺を決心したことなどは昔の夢かのように忘れてしまって、例の貴族らしい落着きを見せながら、泰然として談笑しているのであった。
「ところで早速整理をはじめなければならんが、一体君の財産は、どれだけあるんだね?」
 ソオブルジイは卓子(テーブル)に紙をのべて、鉛筆で数字を書きとめようとすると、
「それは僕も知らない。」
 あっさりした返事だ。ソオブルジイは呆気にとられたが、
「そんなら、資産はX(エックス)としておいて、負債の方はどうだね。」
「それも実は、はっきり記憶(おぼ)えていないんだ。」
「概略(あらまし)でいいよ。」
「そうだな、ええと――クレール商会から六十万法(フラン)、デルボアから五十万法(フラン)、オルレアンのデュボアから、やはり五十万法(フラン)――」
「それから?」
「あとは忘れた。」
「だが、手控えがあるだろう。」
「ないんだよ。」
「でも、証文や手形は保存してあるだろう。」
「みんな焚(や)いてしまった。」
 ソオブルジイは驚いて、椅子から跳びあがった。こんな男の財産整理はとてもむずかしいと思った。その頃の大貴族は、たとえ没落するにしても、算盤を知らない鷹揚さということを、見栄(みえ)にしていたものなのである。
「だが、そんなことでは、整理が出来んじゃないか。」
「整理なんかしないで、債権者に任しておきたまえ。そんなことは彼等の方が巧(うま)いんだからね。僕の財産を売り払って、何とか形をつけるだろう。」
「そんなことをしたら、それこそ真実(ほんとう)に没落だ。」
「五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)さ。どっちみち僕は駄目だよ。」
と澄ましている。
 この人は、金銭を塵埃(ちりあくた)ほどにも思っていないらしい。俗人の苦労する些事はどうだって構わぬといった風だ。ソオブルジイにこの真似が出来るだろうか――と、ベルタはひそかに驚歎した。
 その日ソオブルジイは、早速伯爵の借財整理の用件で巴里(パリ)へ出かけた。伯爵も停車場まで送って行って、序(つい)でに公設質店へ置いて来た品物を受取ることと、ゼンニイの許(もと)へ無事を知らせてもらうことを頼んだ。
 夜になって、ソオブルジイは帰って来た。
「大成功だ!」と彼は上機嫌で伯爵に云った。「君を我利々々亡者(がりがりもうじゃ)の手から救い上げたよ。少くとも、財産の一部分は残りそうだ。」
「そして話はどうなりましたの?」
 ベルタが心配して問いかけた。
「債権者達が、エクトルの財産を競売に附して、自分達が安く落札して、それを高く売ろうと目論んでいる最中に、僕が飛びこんだのだ。」
「で、君はそれを差止めてくれたか。」
と伯爵も、そのとき初めて熱心になった。
「勿論さ。僕は債権者達のすべてを呼び集めて、伯爵家の財産を僕に売らせろ、それが厭なら、競売のときに、きっと僕が高札を入れて、お前等を蹴っとばしてやると嚇(おど)かしたら、彼等は驚いて、一切を僕に任してしまったよ。尤(もっと)も僕の公証人がその座にいて、僕の信用程度が二百万法(フラン)だと証明したので、彼等も安心したらしかった。」
 伯爵はそれを聞くとすっかり感激して、いきなりソオブルジイの手を握って、
「有難う。君は僕の生命(いのち)ばかりでなく、名誉も救ってくれた。この御恩をどうしてお返ししたらいいだろう。」
「これに懲りたら、今後は無茶な真似をしないことさ。」
 伯爵は極り悪そうに俯向いた。けれど財産のことは、まだ幾分か気掛りになっているらしかった。
「大丈夫だ。彼等も僕の信用程度を知って、安心しているんだ。それで君の行方を探す必要もなくなったのさ。僕は早速君の邸へ行って、執事と馬丁だけ残して、召使達に皆(みな)暇をくれたよ。明日でも厩(うまや)の馬を売ると、彼等に相当な金が与(や)れるわけだ。もっとも君の乗馬だけは、ここへつれて来ておくといいね。」
 ベルタは、そうした細かい話を聞くのが厭であった。良人(おっと)が自分の働きを誇張して、忠勤ぶりを見せているらしいのを見ると、この人は小まめに家扶家令(かふかれい)の仕事をやりたがる人だ――そう思って、いやな気がした。
「それから、君は着たっきりでは不自由だろうと思ってね、」ソオブルジイはつづけた。「旅行鞄(トランク)三つ四つに君の衣類を詰めさせて、直ぐこっちへ送るように云って来たよ。」
 伯爵も、友のそうした好意は有難いが、あまり子供扱いにされると、少し不平だった。
 殊(こと)にベルタの前でそんなことを云われると、何だか自分が平生(ふだん)から着物などに関心する男だと、彼女から思われるのも厭であった。
 そのとき、玄関にがやがや人声が起った。ソオブルジイが命じて来た旅行鞄(トランク)が早(は)や届いたのであった。ベルタはその指図をするために起(た)って行った。
 ソオブルジイは、夫人がいなくなると、衣嚢(かくし)から伯爵の指環と時計をとりだして、
「これを公設質店から持って来たが、初めはなかなか渡してくれないんだ。僕を泥坊の仲間のように云うので、閉口したよ。」
「それで、君は僕の名前を云いはしないか。」
「その必要はなかった。幸い公証人をつれて行ったので、案外早く話がわかったよ。あんなときは公証人に限る。それからゼンニイの許(とこ)へも寄ったが、彼女は君を死んだものときめてしまって、泣き沈んでいるところへ僕が行って、無事を知らせてやったものだから、狂気のように喜んだよ。何しろ美人だね。」
「うむ――悪くはない。」
「そればかりでなく、僕はすっかり感心してしまった。彼女は君の財産に目がくらんだのではなくて心から君を愛しているんだからね。」
 伯爵は、くすぐったいような得意さで、微笑(にやり)とした。
「ところが、彼女はぜひ君に逢って話したいことがあるから、一緒につれて行ってくれとせがむので僕は閉口したよ。肯(き)かなければ離さないっていうものだから、僕も已(や)むを得ず、明日コルベイユで会わしてやると、約束してしまったのさ。」
「さアそれは――」
「とにかく彼女は、明日の十二時にコルベイユの停車場へ降りることになっているから、迎えに行ってやりたまえ。僕は明日も巴里(パリ)行きの汽車に乗るが、君は彼女とコルベイユのベル・イマーヂ旅館で一緒に食事でもしたらよかろう。」
 伯爵はそれに反対を唱えようとしたとき、ソオブルジイは身振りで止めて、
「シッ、家内が来た。」