妻を尋ねて幽界まで 22022年06月05日

(二)歓喜の絶頂から絶望の底へ

 オルフェウスは終(つい)に冥府の王ハーデスと女王ペルセフォネが列(なら)んだ玉座の前へ来た。その時ペルセフォネの心は、この不思議の楽(がく)の音色(ねいろ)に誘われて、あの藍を溶いたようなエーゲ海に浮んだ美しいシチリヤの花園で、楽しく送った遠い昔の日に返って行った。春の花の色と香りとが心に浮んだ。そして冷たいハーデスの手が、天にも地にも、ただ一人の母から、彼女(かれ)を奪って行ったあの時の悲しい思いが、昨日(きのう)の事のように、まざまざと胸に湧き上がった。彼女(かれ)は無言で、夫の側(そば)に坐っているうちに、目の底には、いつか涙がにじんで来た。
 顫(ふる)えを帯びた歎息の音色(ねいろ)を永く引いて、糸の音(ね)がぴったりと止(や)んだ。その時オルフェウスはハーデスに向って、その願いを訴えた。エウリディケを返して貰いたい、彼女(かれ)は自分の生命(いのち)である、彼女を伴って、再び日の光の照らす処へ帰ることを許して貰いたい――というのが彼の願いであった。
 ハーデスとペルセフォネとは、互いに顔を見合せる迄もなく、異口同音にその願いを許した。エウリディケは再び夫の手に戻されることになった。併しそれには一つの条件が付いていた。それは日光の中へ出る迄は、後(あと)を振返ってはならないということであった。オルフェウスは異議なくその条件に従った。そしてエウリディケを呼び出す声を聞いた時には、嬉しさに胸を躍らして、いそいそと元(もと)来た道を歩き出した。
 オルフェウスの後からは、その愛する妻の、軽い、小さな足音がついて来た。彼は歩きながら、折々立ち止まって、その足音を聞いた。その度に彼の胸は歓喜の波で脹(ふく)れ上がった。
「妻は後にいる――直ぐ後からついて来る。二人の幸福の日は終らなかった。地上にいた間に言い残した愛の言葉を、今度こそは残らず言ってしまおう。」
 こう思ってオルフェウスが進んで行く後(うしろ)からは、跛足(びっこ)を引き引き、小さな足音が絶えず続いて来た。彼は彼女(かれ)が直ぐ後にいるような気がした。――手を伸ばしたら触る位に、首を傾げたら息がかかる位に。
 そのうちに、何かのはずみで、ふと一つの恐ろしい疑いが起って来た。ハーデスが若(も)し自分を欺したのだったら、どうしよう? 後からついて来る足音が、若しかエウリディケではなくて、見ず知らずの幽霊だったら、どうしよう? やがて急な坂道へかかって、かすかに遠くの方に、地上の光が見えはじめた時に、この疑惑が、恐ろしい力を以て彼の胸を圧(あっ)して来た。後の足音が今にも止まりそうな気がした。そして地上へ出た時には、自分はまた寂寞(せきばく)の中へ取り残されるのではないか、というような気がしてならなかった。疑いは一歩毎(ひとあしごと)に彼の心に迫って来た。
 その時二人はもう地上への出口に近づいていた。二人を包んでいる闇は最早(もはや)夜の暗さではなくて、黄昏の色であった。そしてかすかに前の方からさし込んで来る地上の光は、二人の影を今来た道の方へ投げているようにさえ想像された。
 この時オルフェウスは最早どうしても待ち切れなくなった。此処まで来ればもう大丈夫だ、とさえ思った。そう思うと共に、彼は急に後(うしろ)を振り返った。そして後(あと)について来る妻の姿を見た。けれどもそれはほんのただ一目であった。二人は腕を伸ばして互いにかき抱(いだ)こうとしたが、その手はただ空(くう)をつかむばかりであった。その瞬間に、エウリディケは再び闇の中へ引き戻されて行った。彼女(かれ)は、自分を慕って、この怖ろしい下界の闇を辿って来た夫の切なる心を思うにつけても、今(いま)早まって後(うしろ)を振り返った夫の過失(あやまち)を、どうしても責める気にはなれなかった。
「さよなら!」
と言った彼女(かれ)の声は、絶望の響きにふるえていた。
 オルフェウスは狂気のように追い縋(すが)って、引き戻そうとしたが、最早どうすることも出来なかった。彼は闇の中を流れるアケロン河の岸まで行って、今丁度船を出そうとする渡し守のカロンに向って、その船へ乗せて呉れと哀願したが、カロンは一言(いちごん)の下(もと)にはねつけた。
「お前なぞを乗せる場所はない。この河を渡った者は、もう二度と帰ることはない。」
 こう言って、カロンはエウリディケを乗せたまま、アケロン河の黒い流れを横ぎって、漕いで行ってしまった。
 七日七夜(なぬかななよ)の間、オルフェウスは、若しやカロンの心が解けることもあろうかと思って、河の岸に立っていたが、終(つい)に絶望して、とぼとぼとトラキヤの森の奥へ帰って来た。
 トラキヤの国では、木も、岩も、鳥も、獣(けもの)も、悉くオルフェウスの友であった。彼が竪琴を取って弾き出した時、是等の旧友は一斉に身を震わして、その悲しい糸の音色(ねいろ)に感動した。それからは昼となく、夜となく、日の光も通らない森の茂みをさまよいながら、オルフェウスは心の悲しみを、琴の音色に洩らしていた。その間に猛獣は彼の足元へ忍び寄って、悲しそうな目付で、そっと彼の顔を見上げた。楽しそうに囀(さえず)っていたさまざまの鳥は、ぱったりと歌を止(や)めた。そして林の木(こ)の葉をそよがせながら、梢(こずえ)をかすめて吹いて通る風の声は、彼の曲に調子を合せて、「エウリディケ! エウリディケ!」とむせんで行った。