奈良の庭竈 井原西鶴 ― 2022年06月02日
『世間胸算用』より「奈良の庭竈(にはかまど)」 井原西鶴
昔から今に同じ顔を見るこそ可笑しき世の中、此(この)二十四五年も奈良通(がよ)ひする肴屋(さかなや)ありけるが、行く度に唯だ一色(ひといろ)に極(きは)めて、蛸(たこ)より外に売る事無し。後には人も蛸売(たこうり)の八助とて、見知らぬ人も無く、それぞれに商ひの道付きて、ゆるりと三人口(さんにんぐち)を過ぎける。されども大晦日(おほつごもり)に銭五百持つて、終(つひ)に年を取りたる事無し。口喰うて一盃に雑煮祝うた分なり。此の男常々世渡りに油断せず、一人ある母親の頼まれて、火桶買うて来るにも、早や間銭(あひせん)取りて唯は通さず。まして他人の事には、産婆呼んで来て遣る烈しき時も、茶漬飯を喰はずには行かぬ者なり。如何に欲の世に住めばとて、念仏講仲間の布に利を取るなどは、寔(まこと)に死ねがな目くじろの男なり。是程にしても彼(あ)のざまなれば、天の咎めの道理ぞかし。抑も奈良に通ふ時より、今に蛸の足は日本国が八本に極まりたるものを、一本づゝ切つて、足七本にして売れども、誰れか是れに気の附かぬ事にて売りける。其足ばかりを松原の煮売屋(にうりや)、定まつて買ふ者あり。さりとは恐ろしの人心(ひとごゝろ)ぞかし。
者には七十五度(たび)とて、必ず現はるゝ時節あり。過ぎつる年の暮に、足二本づゝ切つて、六本にして忙がし紛れに売りけるに、是れも穿鑿する人無く、売つて通りけるに、手貝(てがい)の町の中程に、表に菱垣したる内より呼び込み、蛸二盃(はい)売つて出る時、法躰(ほつたい)したる親仁(おやぢ)ぢろりと見て、碁を打ちさして立ち出で、何とやら裾(すそ)の枯れたる蛸と、足の足らぬを吟味し出し、是れは何処の海より揚がる蛸ぞ、足六本づゝは神代(じんだい)このかた何の書にも見えず、不便(ふびん)や今まで奈良中の者が、一盃喰うたで有らう、魚屋顔見知つたと云へば、此方(こなた)の様(やう)なる大晦日(おほつごもり)に、碁を打つてゐる所では売らぬと、云分してぞ帰りける。其後誰が沙汰するとも無く世間に知れて、さる程に狭い処は隅から隅まで、足切り八助と云ひ触らして、一生の身過(みすぎ)の止まる事、是れ己れが心からなり。(後略)
「羊頭狗肉」では無いが「産地偽装」よりタチが悪いと思う。
昨今、原料不足や価格高騰で、已むを得ず内容量を減らしたり価格を上げたりしなければならない事態になっているようだ。内容量は明記されている(筈)だから詐欺には当らないが、製造者は無念だろう。特に「1コイン商品」の場合。