『文學評論』より 夏目漱石2022年05月30日

『文學評論』「第四編 スヰフト(Jonathan Swift, 1667-1745)と厭世文學」より。

(前略)
 もう一度御断りをするが、私は斯様に単純な区別で、当今の様な複雑な作物を律し去る積でも何でもない。たゞスヰフトを評論するに便宜な区別として一応承知して置いて頂くのである。で、前に申した楽天的な写実主義であるが、是は人々分に安んじて、太平を謳歌する様な国運の際、もしくは神経が麻痺して悲哀疼痛を感ぜざる様になつた人間が、現在の状態に溺れ喜んで、浮世を面白く暮して行くと云ふ様な不祥な時代に生れる文学である。是は大体から云つて満足を表はした文学であるけれども、時によると諷刺的不平の発現と間違へられる事がある。
 例へば徳川時代の滑稽物の様なもので、ある人は、あれを諷刺と解釈するが、私にはさうは思へない(作の善悪巧拙は無論問題ではないとして)。私が読んで見ると、あの『膝栗毛』の様なものは、自分が失敗をしたり、失策をして、其失敗や失策を、客観的に見返つて面白く打ち興じてゐる体がありありと見える。何処迄も陽気な文学である。当時の社会制度や、階級制度抔の抑圧に対して、反抗の声を裏から仄めかしたものとは思はれない。たゞ読者又は評家の着眼の仕様では諷刺とも皮肉とも解釈が出来る丈の事である。
 尤もさう解釈が出来ればそれで宜しい。争ふ必要も何もない。けれども斯う解釈をするのが深い解釈だ抔と勿体ぶるのは可笑しい。――個人の上でも、何か愉快な事でもあつて、嬉しくつて堪らない程陽気になると、随分妙な事をやる。それを人から見ると馬鹿にした所作の様に解釈が出来る。真昼間提灯を点けて往来を歩行くのは、世の中の暗黒な所を諷した皮肉な仕業と取れば、取れない事もあるまいが、一方から云へば、鬘をつけて花見をするのと同一の気楽さから出ないとも限らない。花見の趣向抔は現在に満足を表する程度の尤も甚しいもので、不平や諷刺の表現でない事は明かである。現に『ドンキホテ』抔でも、多数の評家は諷刺と見てゐる様だが、私には花見の鬘同様な感がある。
(中略)
 彼[註:スウィフト]は又『ドレーピアの消息』(Drapier's Letters)の作者である。之に就ては少し説明が要るから、可成簡略に其顛末を御話して見ると、斯うである。――一と頃、愛蘭土で銅貨が非常に払底になつた事がある。商人は釣り銭を客に出す事が出来ない。客は又商人から釣り銭を取る訳に行かない。豆腐一丁にも銀貨を放り出して、見す見す損をすると云ふ有様であつた。此機を利用してウード某と云ふ山師が、英国政府から銅貨鋳造の事業を受負つた。無論銅貨に欠乏を感じてゐる愛蘭土は是が為めに多大の便宜を感ずる訳ではあるが、英国政府とウードの遣口が悪るかつた。英国政府は愛蘭土政府へ一言の直談もしなかつた。愛蘭土の議院は無論何事をも知らなかつた。それすら反抗の源因となるのは明らかであるに、此ウードなるものが自己の利益を計つて価値以下の銅銭を作つて、無暗に押し付け様とした。丁度天保銭を当百と号したと一般の狡技である。そこでスヰフトはドレーピアと云ふ匿名で、第一消息、第二消息、第三消息と、しきりに英国政府攻撃の書翰を公けにした。第四消息に至つて、英国政府は遂にこらへ切れずに、懸賞迄してドレーピアの何人なるかを詮議し出した。スヰフトは無論知らぬ顔をしてゐる。誰もスヰフトがドレーピアと気が付く者はない。
(中略)
三。同時に彼は単に私利私欲に耽るやうな劣等な我儘者では無い。彼がキルルート(Kilroot)の寺院を預つて百磅の俸給を得て居た時、サー、ヰリヤム、テムプルから再応の招聘を受けた。このヰリヤム、テムプルは元自分の世話に成つた人ではあるが、或事情から疎遠に成つて、双方とも心持を悪くして居る際であるから、スヰフトの様な傲岸な負け嫌は随分我を通して折角の好意を謝絶しかねまじき所だが、彼は一寸した親切な動機からすぐ現職を抛つて仕舞つた。と云ふのは、一日彼が散歩をして居る際に不図老年の貧窮な牧師に出逢つたところが、其人を見ると突然同情の念に堪へなくなつて、直に此老人を自分の代りにキルルートの教会へ推挙して置いて、自らはテムプルの方へ出かけて行つた。(略)彼は幼少の時から人の金で修業をした程あつて、非常な節倹家であつたが、それにも関せず、自己の財産を三分して、三分の一は常に慈善の目的に使用して居た。又五百磅の金子を貧乏な商人に貸す資金として別に収つて置いた。商人は之を借りて無利息で一週毎に返済する習慣に成つて居つたさうである。個人として斯かる義侠心もあり又慈悲心もあつた彼が、公人として愛蘭土の為めに尽すに当つては、猶更私利私欲を離れた立派な愛国者であつた。(後略)



・スウィフトは英国系ではあるが、国籍は「アイルランド人」である。
なお、筆者は別にIRAに肩入れしている訳では無い。

河畔の悲劇 122022年05月30日

一二、死を求めて

 伯爵は女の家を出ると、デュフォ街に沿うて、河岸(かし)のほうへ歩いて行った。四月の柔らかい太陽の下(もと)に、束の間の生命(いのち)を意識しながら、何処(どこ)という当(あ)てもなくふらふらと歩いていた。
 折からの晴天で、大通りは祭日ででもあるように賑わっていた。橋角(はしかど)には、花売乙女が香り高い菫を籠に一杯入れて売っていた。伯爵は新橋(ポンヌフ)のたもとでその花束を一つ買って、上衣のボタン穴に挿して、釣銭も取らずにすたすた行き過ぎた。
 ブールドン遊歩街(どおり)の外れの広場には、種々(いろいろ)な見世物や手品師が人の足を止め、陽気な音楽が絶え間なくぶかぶかやっていたが、茫然(ぼんやり)歩いていた伯爵は、その騒々しい物音にはっとして、また自殺のことを考えだした。
 死を怖れるのではないが、人里離れた森の中なんかで寂しく死んでゆくことが、何だか厭な気がする。森の小川の縁に、鮮血(あけ)に染まって斃(たお)れている自分の姿を考えると堪(たま)らない。もしも乞食や泥坊が、屍体から持物をすっかり引っ攫(さら)った後で警官がやって来ると、証拠になるべきものもなく、身許(みもと)が判らぬので、屍体は屍体置場(モルグ)に曝(さら)される。それも厭なことだ。
「駄目々々、森じゃ死ねない。」
 そんなら、何処がいいのか、いろいろ考えた末に、一流のホテルは駄目だが、第二流以下の旅館(ホテル)なら顔を見知っている者もないから、そんなところが一等安全だろうと決心した。
 近所のカッフェに入って、葡萄酒を三本も飲んで、夜(よる)可成り遅くなってから、ルクサンブール・ホテルへ行って、最上等の室(へや)を取った。四月とはいえ、巴里(パリ)の夜(よ)は寒さでぞくぞくした。彼はすぐボーイに命じた。
「暖炉に火を入れてくれ。それから手紙道具を――」
 やがて伯爵は、暖炉のそばの卓子(テーブル)に向って、警察へ宛てた簡単な遺書をしたためた。

  余は事情の已みがたきものあり、ここに自殺致し候。この死に就(つい)ては、何人(なんぴと)も責任なきものに候。なお余の自殺により当ホテルの蒙(こうむ)れる損害に対しては、余の財産整理者に於て賠償せらるるよう希望いたし候。
        エクトル・ド・トレモレル

 書き終ったときは、恰度(ちょうど)十一時だった。伯爵は短銃(ピストル)を取りだして、暖炉棚(だんろだな)においた。
「十二時を相図(あいず)に決行しよう。後一時間の生命(いのち)だ。」
 気を落ちつけようとして椅子に坐りこんだ。
 時計の針は刻々に進んで、ついにその時刻が迫って来た。
 彼は起(た)ちあがった。けれど、床(ゆか)へは倒れたくないので、成るべく寝台に身を支えるようにしながら、額に銃口をあてて、時計の鳴るのを今か今かと待ちかまえた。
 やがて時計は十二時を打った。が、彼は引金をひかなかった。一分、二分と時は経ったが、やはり駄目だ。手がかすかにふるえた。
「これは可(い)かん。あまりに興奮しているんだ。」
 短銃(ピストル)を卓子(テーブル)において、暖炉の傍(そば)へかえった。自分ではそう考えたくはなかったけれど、どうも怖気(おじけ)がついているらしかった。
 そのうちにぐんぐん時が経(た)って、黎明が窓から忍びこんで来る頃、彼は疲れきって、椅子に埋(うず)まったまま、ぐっすりと眠(ね)こんだ。
 夜がすっかり明け離れてから、コツコツと室の戸を叩く者があった。ボーイが朝餉(あさげ)の註文を聞きに来たのだ。ボーイは客の物凄く蒼ざめた顔と、取乱した姿を見ると、ぎょっとして後退りをした。
「何も欲しくない。もう出懸けるんだ。」
 ふところには、やっと宿料だけの金しかないのだ。そこで彼は階下(した)へ降りて、帳場へ金を払って、残った小銭はチップとしてボーイに呉れてやった。
 全くの無一文になって、彼はぶらりとそのホテルを出た。
 どうせ自殺をするなら、興奮を鎮(しず)めて、もっと冷静な、落ちついた気持で死にたいものだ。それには、もう四五日生き延びる必要がある。けれど、その間の費用をどうしてこしらえたらいいだろう。
 それを考えたとき、ふと思いついたのは、公設質店のことだ。その辺にも支店があるべき筈だが、一度もそんなところへ足踏みをしたことのない彼は、勿論その場所を知らなかった。しかしそれを人に訊くのも、さすがに極りがわるいので、当てずっぽうに探し歩いているうち、コンデ街で漸(やっ)とその看板に出会(でっくわ)した。
 内へ入ると、狭っ苦しく、湿々(じめじめ)して薄汚い室だが、置主(おきぬし)はうようよ押しかけて来ていた。大部分は学生と女で、彼等は、何の屈託もなさそうに、無駄話をしながら、自分達の番が来るのを待っているのであった。
 伯爵は時計と、鎖と、ダイヤの指輪を持って、前へ出て行ったが、どんな風に商談(はなし)をはじめたらいいのか、勝手が分らぬので、まごまごしていると、一人の若い女が教えてくれた。
「貴方、品物をその青い窓布(カーテン)の垂(さが)っている窓口へお出しなさい。」
 その通りにすると、暫くして、次の室から、
「時計と指輪で千二百法(フラン)。」
という声がした。と、置主(おきぬし)達はびっくりして鳴りを鎮めた。そんなにも高価な品物をもって来た奴はいったい何者だろうかと、一斉に窓口の方へ好奇の眼をむけた。
「今のは貴方の番ですよ。」先刻(さっき)の女が注意した。「借りるとか、借りないとか、仰しゃらなければいけません。」
「借ります!」と伯爵は叫んだ。
 間もなく、窓口の蔭で何か書いていた事務員が、呼びだした。
「千二百法(フラン)、誰方(どなた)で?」
「私です。」伯爵は一歩前へ出た。
「御名前は?」
 一寸まごついた。こんな場所で本名を名乗ることは恥かしいので、出鱈目な名前をいってのけた。
「デュランと申します。」
「書付けをお出しなさい。」
「書付けっていいますと?」
「旅行券とか、家賃の請取(うけとり)とか、狩猟免状とか――身分証明になる書類なら、何でもよろしい。」
「そんなものは持ってまいりません。」
「それを持って来て下さい。でなければ、資格ある保証人を二人連れてお出でなさい。」
「それは困ります。」
「何も困ることはないでしょう。さア次の番――」
 伯爵は、その無愛想な仕方が癪にさわった。
「そんなら、品物を返して下さい。」
 すると事務員は、嘲けるような眼付をして、
「それは駄目です。一度記帳した品物は、その人の所有ということが証明されなければ、返さん規則ですからね。」
と突離(つっぱな)して、彼は仕事をつづけた。
「ショオルが一枚で三十五法(フラン)、さア誰方(どなた)?」
 伯爵は黙ってそこを立ち出でた。
 まったく予期しない結果に終ったので、落胆(がっかり)してしまった。今はふところに一文の金もない。難破船の水夫より貧しいのだ。
 こんなことと知ったら、ゼンニイに一万法(フラン)なんか与(く)れるんじゃなかった。彼家(あすこ)の召使達にやった二百法(フラン)も惜しい。胸に挿した菫の花は萎れてしまった。何だってこんな花を買う気になっただろう。買わねばよかった。と思うと、湯水のように使いすてた数百万の金よりも、その花代の一法(フラン)が惜しくて堪らなかった。
 その日も晴天で、人々は愉快そうに漫歩(そぞろある)きをしていた。河岸(かし)の木蔭には、遊山に浮かれだした職人達が、さも面白く酒を酌(く)んでいた。すべての人が春の行楽に酔うているようであった。
 伯爵はさんざんに歩き疲(くた)びれて、大通りから横に外(そ)れると、そこはもうセーブル大橋だった。彼は堤を降りて行って、河水(かわみず)を掌(て)に掬(すく)って飲んだが、急に疲れを覚えて、どっかと草原(くさはら)に腰をおろした。何ともいえない失望落胆が蔽いかぶさって来て、生きているということがつくづく厭になった。今こそ喜んで死ねると思った。
「そうだ。何処で死ぬるも同じことだ。いっそ此処で決行しよう。」
 覚悟をきめて短銃(ピストル)を取出した。が、その冷たい銃口を額に押しあてようとした瞬間、
「おうい、エクトル! エクトル!」
と自分の名を呼ぶ者があるので、びっくり跳びあがって短銃(ピストル)を隠した。
 そこへ手をひろげて駈けて来たのは、彼と同じ年輩の一人の紳士であった。それは伯爵とは大学時代からの親友だが、この二年ほど駈けちがって顔を見なかった男だ。
「おお、君はソオブルジイ!」
 伯爵はあまりの奇遇に、茫然として立ちすくんだ。
「そうだよ。」と青年紳士は呼吸(いき)せき切って、「一体君は、こんなところで何をしているんだ?」
「ナ、何でもない。」
「嘘を吐(つ)け。僕は今朝君の邸へ訪ねて行って、なにもかも聞いて来た。さては、風評(うわさ)が真実(ほんとう)だったんだな。」
「風評(うわさ)っていうと?」
「君は昨日(きのう)、自殺するといってゼンニイの許を出たっきり、行方が知れないものだから、てっきり死んだだろうというので、大変な騒ぎだ。新聞には、君の自殺した記事が詳しく出ているんだよ。」
 伯爵は、いよいよ死なねばならぬ気持になった。
「それ見たまえ。僕はどうしたって、生きちゃいられない。」
「馬鹿な。新聞に誤報を訂正させるのが気の毒だから、自殺するっていうのか。」
「けれど、死後(しにおく)れて卑怯者と笑われたくはない。」
「何をいうんだ。君の理屈にしたがえば、人は何でも新聞に書かれたとおりに行動しなければならんわけだが、そんな馬鹿なことがあるものか。一体、自殺の原因は何だい?」
「僕は没落したんだ。」
「ははア、そんなことで死ぬるなら、いよいよ以て君は馬鹿だよ。没落――それは不幸にちがいないが、人生は七転び八起きだ。君は文無しになっても、僕は十万法(フラン)の年収があるから、安心したまえ。」
「えっ、十万法(フラン)――」
「そうさ。僕の財産は主に土地なんだが、四分の利廻りになっているんだ。」
 伯爵は、ソオブルジイの裕福なことは元から聞いてはいたが、それほどの財産があろうとは知らなかった。
「僕も、それ以上の財産があったけれど、今はすってんてんさ。今日はまだ朝飯(あさめし)も食わないという為体(ていたらく)だ。」
「それは御気の毒な。大急ぎで僕と一緒に来たまえ。」
 伯爵は気のない顔をして、この生命(いのち)の恩人の後について、河岸(かし)の上の料理店(レストラン)につれこまれた。ひどく極(きま)りがわるかった。
 が、居心地のいい食卓に落ちつくと、もう親船(おやぶね)に乗ったような心持ちになって、再び気力が盛りかえして来た。そこで彼は、友人に洗いざらい身の上話をした。気前よく死んでやれという虚栄心から自殺を決心したことや、昨夜(ゆうべ)旅館で味わった最後の悲愴な気持や、公設質店で恥をかかされたことまで残らず話してから、
「ところが偶然にも、君のお蔭で、生命(いのち)びろいをしたのだ。君はたった一人の親友だ、兄弟だ。僕は他に頼る者がない。」
 二人は食事をしたためながら、こうして二時間以上も話し合った。
「さて、今後の方針をきめようじゃないか。」とソオブルジイがいいだした。「君は少しの間隠れているがよかろう。しかし今夜新聞社へ簡単な取消しを出したまえ。君の借財については、僕がいいように整理してあげるよ――幾らか財産が残るようにね。債権者だって、僕がついていれば安心して、そう没義道(もぎどう)なこともいうまい。」
「だが、身を隠すといっても、何処へ行ったらいいだろう?」
 伯爵は、独りぼっちになるのが恐ろしいのであった。
「僕の家へ来るさ。」ソオブルジイは親切にいった。「僕の家内は恋女房で、それは気のいい女だから、心配は要らんよ。さア馬車で出かけよう。」

第百四段2022年05月30日

・問題。
「失敗率が70%前後」で賞讃される職業とは?



・答。
プロ野球の打者。
……子供の頃、ちょいウケだったネタ。

・追記。
「座頭市の国では丹下左膳が王様」と言うフレーズも、ややウケだった。