河畔の悲劇 7 ― 2022年05月14日
七、屍体検案
ドクトク・ゼンドロンは、撞球室(どうきゅうしつ)で、たった今辛(つら)い仕事を済ましたところだ。
彼はシャツの袖を二の腕のところまで捲(まく)りあげたまま、今検案を終えたばかりの屍体に真白(まっしろ)な布をかけた。もう夜なので、大きなランプが一つ、この不気味な光景を照らしていた。
そこへプランタさんとルコック探偵が入って来た。
「やあ、プランタさん、ドミニ判事は何処(どこ)におられますか。」
「ドミニ氏はもう帰りました。」
「それは残念!」ドクトルは隠しきれない当惑の色をうかべて、「実は重大なことを発見したので、一刻も早く判事にお話ししたいんだが。」
見れば、ドクトルは顔さえ蒼ざめて、ひどく急(せ)きこんでいる風(ふう)だ。検案の結果、よほど変った発見があったのであろう。
ルコックは、つとドクトルの傍へよって、
「その発見というのは、伯爵夫人が一撃の下(もと)に殺されたもので、あとの沢山の傷は、屍体が冷たくなってからつけられたと言うのじゃありませんか。」
「えっ、君はどうしてそれが判りましたか?」
「私は、推理上からそうにちがいないと睨んでいたのです。」
「君の先見(せんけん)は偉い! とにかく最後の傷は、死後三時間も経過してから出来たものです。」
と言いながらドクトルは球台(たまだい)の白い布を静かにめくると、屍体の顔と胸の部分とが現われた。
「さあプランタさん、研究しようじゃありませんか。」
プランタさんはランプを持って、球台の向うへ廻ったが、そのちらちらする灯(あかり)が、三人の影を陰鬱に壁へ投げた。
屍体の顔は傷だらけだが、今は血や泥が丁寧に拭きとられているので、さすがにその美しい輪郭が偲(しの)ばれた。
「夫人は短刀で十八箇所の傷をうけています。肩の下の傷が致命傷で、殆(ほとん)ど垂直に突き刺したものです。ソレ御覧なさい。」
とドクトルは、屍体を持ちあげるようにして、その傷口を見せた。
と、思い做(なし)か、夫人の眼付(めつき)は一層物凄くなって、今にも「助けて助けて!」と叫びそうであった。物に動じないプランタさんも、それを見ると思わず顔を背(そむ)けた。
「賊の用いた刃物は、幅(はば)一吋(インチ)、長さ八吋(インチ)です。」ドクトルは説明をつづけた。「腕や、胸部や、肩の傷は比較的軽微で、死後少くとも二時間を経過してからうけたらしい。尤(もっと)もそれは私の推定に止(とど)まるので、決して断言するわけではありません。断言出来るのは、頭部の傷はたしかに死後に出来たということです。けれど只一つ、眼の上の傷だけは、生きているうちにうけたものです。」
「有難う。それを伺(うかが)ったので、夫人が何処で、どんなふうに殺されたかを断定出来るようになりました。」
ルコック探偵は、すっかり要領を得たといったふうであった。前(さき)に、蝋燭を立てて只一本のマッチを待っているといった、彼の謂(い)わゆる燭台(しょくだい)は、この屍体検案の結果によって、俄(にわ)かに明るくなったのであった。
それから三人は妙に黙りこんで、互いに顔を見合わせた。この殺人事件について、口では云えない或る考えを、互いの眼付から探り合おうとした。
「大体検(しら)べが出来たとすれば、今日(きょう)はこれだけにして、帰ろうじゃありませんか。」
ドクトルがいい出すと、
「ええ、帰りましょう。」ルコックは早速賛成した。「実は私は今朝から一口も物を食べないので、ひどく腹が減って来ました。」
「ルコック君は、これから巴里(パリ)へ帰りますか?」
突然(だしぬけ)に訊ねたのは、プランタさんだ。
「いや、今晩はどうせ徹夜だろうと思って、来がけに、この下の安宿(やすやど)に寝衣(ねまき)を託(あず)けておきましたから、彼館(あすこ)で泊りましょう。」
「ああ、『強兵館(きょうへいかん)』だね。あんな旅舎(やどや)へ行くよりは、拙宅(せったく)にお泊りなさい。私から種々(いろいろ)お話ししたいこともあるし、今宵は大いに談(かた)ろうじゃありませんか。」
「そんなら、御厄介になりましょうか。」
「ゼンドロンさん、貴方(あなた)も一緒にお泊りなさい。どうしてもコルベイユへお帰りになりたければ、晩餐が済んでからお送りするとして、とにかく拙宅までいらして下さい。」
プランタさんは、ついにドクトルをも説き伏せた。
そこで三人は、重要な室々(へやべや)に手早く封印をほどこし、外部から誰も入(はい)れないように堅(かた)めてから、うち連れて伯爵邸を退去(ひきあ)げた。
それは夜の十時頃であった。